混淆の影
「佳典」
研究室から出て来た諏佐を、誰かが呼び止めた。
「景虎さん」
ふう、と煙を吐いた相田に、諏佐は表情も変えずに言う。
「此処、禁煙ですよ」
「気にもしていないお前さんに言われても痛くも痒くもねーよ」
相田はケタケタと笑いながら返した。
諏佐もそれ以上重ねることはしない。
二人の間に沈黙が流れる。
「こういう時は何か御用ですか?くらい言えって今吉くんに言われなかったか?」
「言われましたね、二十年以上前の話ですが」
「今吉くんも諦めてんのかよ」
スーツの内ポケットから携帯灰皿を取り出すと、短くなった煙草をぽい、と入れて蓋を閉めた。
「探して欲しい奴がいるんだ」
諏佐を見上げた瞳はあまり見られない真剣な色をしていた。
「オレのところで預かってる奴でな、
お前は会ったことないと思うが、黒子テツヤって言うんだ。
そいつとまぁ、数日前に喧嘩してな。
つまるところ家出されたんだよ。
もう大学生と言えども未成年だしよ、やっぱ心配になってな」
相田が子供を預っているなどという話は諏佐にとって初耳ではあったが、
さしてそういうことに興味を持たない諏佐は、ぞんざいな相槌を打つだけに留めた。
それを見ながら相槌はそれなりに打てるようになったんだな、
と相田が少しばかり感心したように呟く。
「お前の授業受けてるし、それとなく家に帰るように伝えてくれねぇか」
諏佐は小さく首を傾げた。
どう考えても頼む人間を間違えているように感じる。
諏佐は他人の顔と名前を一致させるのが苦手だ。
それを相田も知っているはずなのに。
そういうのは今吉の方が良いのではないか、そう言う前に、相田は続ける。
「お前のことだ、今吉くんの方が生徒の顔覚えてるだろ。
時間ある時で良いから聞いておいてくれよ」
それ以上は受け付けない、とばかりに煙草を取り出す。
「アイツ、お前の授業は絶対にサボらねぇから」
にか、と悪戯っ子のような笑みを浮かべた相田に、諏佐はそうですか、とだけ返した。
「ああ、その子、確かに諏佐の授業受けに来とるわ」
家に帰り、隣の部屋の今吉を訪ねた諏佐は先程の話を伝えた。
一回も休んだことない子っても、そう珍しい訳やないんけどな、
と続ける今吉に、諏佐は先程相田にやったのと同じようにぞんざいな相槌を返す。
「でもな、ワシ、その子見た記憶ないんよ」
今吉の言葉に、諏佐は首を傾げた。
諏佐の授業に限らずこの大学の出席確認は、
学生証を機械で読み取ることによってなされている。
ものぐさな教授はそれだけで済ませるものの、
諏佐の授業は変なところで几帳面な今吉が助手ということもあって、
パソコン画面に表示された写真と本人を見比べて確認しながら取っている。
勿論、今吉が、だ。
今吉も記憶力は良い方だ。
諏佐と違って人間に興味を持たない、なんてこともない。
その今吉が生徒のことを見た記憶がないなんて、ひどく、珍しい。
「ワシが代返防止しとんの知っとるやろ?」
頷く。
「どの生徒がその日来たかとか、ちゃあんと覚えてんねん、ワシ。
ちょっとした会話したりもするしな。
けど、その黒子くんだけは、いつも記憶に残ってへんのや」
「記憶に、残らない」
「ああ」
不思議な子やろ?と言いながら今吉はパソコンを開いた。
暫くすると部屋のプリンタが動き出す。
「ほれ、これが黒子くんや」
ほい、と渡されたのは一人の青年の顔写真だった。
水色をした髪が特徴的で、正直何故これで今吉の記憶に残らないのか不思議である。
「他でもない相田さんの頼みやしな、頑張ろな、諏佐」
今吉がにこり、と笑った。
結果から言うと、惨敗だった。
相田に黒子探しを頼まれた次の日から、
諏佐の講義がある度に今吉も諏佐も写真の青年を探していた。
が、なかなか黒子は見つからない。
講義後に出席記録を確認すると必ずいるのにも関わらず、だ。
「すさー…」
今吉が諏佐を呼ぶ声にも力がない。
「もう今日見つからんかったら、相田さんに謝り行こ?」
「それが良いだろうな」
何も連絡が来ないということは黒子は見つかってはいないのだろう。
既にあれから一ヶ月が経っていた。
黒子が出席したらしい講義は片手では数えられないほどあったというのに、
諏佐も今吉も一度として黒子を見つけることはなかったのである。
仮にも親という立場である人間が、
一ヶ月もの間帰ってこない子供を心配しないことはないだろう、と今吉は言っていた。
一ヶ月という期間にもなると、ただの家出では済まないかもしれない、とも。
確かに事件や事故に巻き込まれているという考え方も出来なくはない。
「…だめ、やったな」
二限目の講義を終えて、盛大なため息を吐いたのは今吉だった。
「ああ」
「一応この時間の出席記録も確認しとくわー」
研究室へ駆けていく今吉の背中を見ながら、諏佐は携帯を取り出した。
出席記録の中に黒子の名前があったとしても、
彼を見つけて家に帰るように言うことは出来なかったのだから。
電話帳を開き、上の方にある相田の名前を選択し―――
「僕を探しているんですか?」
その声に動きを止めた。
しかし、発言者の方を見ることはしない。
というのも、その声が何処からしているのか諏佐には分からなかったからだ。
ぶわん、と辺りに響くようで、
前からしているような気もするし、後ろからしているような気もする。
「三限目、講義ありませんよね。僕、中庭でご飯食べてますから」
ふわり、と横を後ろを何かが通り抜けていくような気がした。
はぁ、とため息を吐く。
相田が今吉に直接黒子探しを頼まなかった理由を諏佐は正しく理解していた。
「こんにちは」
自販機で購入した温かいココアで手を暖めながら中庭を歩いていた諏佐は、
先ほどと同じ声に振り向いた。
古びたベンチにぽつり、と座る水色の髪をした青年。
ここ一ヶ月、そして先ほどの二限目の講義の時、あれだけ探した顔だからすぐに分かる。
「黒子は僕です」
髪と同じような色をした不思議な瞳が、諏佐を見上げていた。
「…相田先生が心配していたぞ」
「そうですか」
黒子は小さく息を吐くと、手に持っていた飲み物に口をつける。
ず、という重そうな音からして、シェイクなのだろう。
「幼い子供のようでしょう?」
「そうか?」
「そうですよ、些細なことで喧嘩して何日も家出するなんて」
ベンチの上においてあるのは他にはポテトだけで、少食なのだろうことが伺えた。
「喧嘩の理由は聞かないんですか?」
「興味がない」
「そう言わずに聞いてくださいよ」
その言葉に諏佐は瞬きをするだけに留める。
残念ながらこれはこちらの意志関係なしに話を聞かされる流れだ。
「僕はバニラシェイクが好きなんですけどね、それはもう、三度の飯より」
一文目を聞いた瞬間に、諏佐は真面目に帰ろうかと考えた。
どうやら喧嘩の内容はこちらが考えていたものよりも馬鹿馬鹿しそうだ。
「ちょっとちゃんと聞いてくださいってば」
トントン、と黒子は自身の座るベンチの隣を叩く。
座れと言うことらしい。
「喧嘩の理由、どうせ今吉先生が聞きたがるでしょう?
その時に答えられなければ、諏佐教授、困るでしょう?」
「…別に、困らないが」
「そこは嘘でも確かに困るな、って言ってくださいよ」
一緒に暮らしていれば言い回しも似てくるものなのか。
尚も自分の隣をトントン、と示す黒子に、諏佐は諦めて腰を下ろしたのだった。
研究室に戻ると今吉が伸びていた。
パソコンの画面に映っているのは出席記録だ。
「ううう、やっぱり黒子くん授業出とるやないかあ…」
確かに、黒子テツヤの欄は出席になっている。
「黒子くん、見つからへん…本当に諏佐の授業受けてるん?
誰かがカード間違えてるだけ違うん?」
寧ろそうであって欲しい、と嘘泣きを始めた今吉を諏佐は見下ろした。
そして、言う。
「黒子はもう探さなくて良い」
「もう探しはせぇへんけどな、疲れたし。
でもちょおその言い方は冷たない?聞いてるのワシやから良えけど。
黒子くん、見つかった訳やないんやろ?」
「見つかった」
「ほらな。…って、え?」
今吉がばっと飛び起きた。
「みつ、かった?」
「ああ」
景虎さんからの伝言も伝えておいた、と続ける諏佐に今吉が目を丸くする。
当たり前だ、一ヶ月もの間全く見つけることが出来なかったその人間を、
諦めたと思ったその瞬間に、見つけたなどと言ったのだから。
今吉の唇が何か言いたそうに、
でも言葉が纏まらなそうに動くのを視界の端で捉えながら諏佐は自分の席に座る。
丁度この時間が空いてるのだ。
腹もすいているし、弁当にありつきたい。
「すさぁ」
今吉が甘えた声で呼んだ。
「これだけ教えてや。
…黒子くんは、人間なん?」
その問いに、諏佐はゆっくりと顔を上げる。
その顔には微かな笑みが浮かべられており、今吉は正確に解えを知った。
「…それだけで充分やわ」
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20130628