スルー・スルー・アンバー
諏佐佳典は花宮真の眸を見たことがない。
それは諏佐が花宮を花宮として認識したのが、彼がこの姿になった後だったからだ。
今吉の用意した特殊な容れ物の中の彼の眸の色を、確認することなど出来やしない。
今吉が毎日話しかけるそれは直射日光の当たらない背の低い棚の上にいる。
二人が出かける時はトランクの中に入れて一緒に行動する。
そうして生活の一部に含まれていたとしても、諏佐にとっては今吉の持ってきたもの、
それ以上にもそれ以下にも成り得なかった。
「すさぁ、ちょっと寝るわぁ」
出張から帰って来るなり今吉はそう言った。
「夕飯に起こせば良いか?」
「おん、頼む」
そう言ってごろん、とソファに横たわる。
「ベッドで寝ないのか」
「ガチ寝しそうやし、こっちにしとくわぁ」
疲れたように微笑んで、眼鏡を外して置いてあったタオルケットを被る。
おやすみぃ、と遺言のような言葉を残して、ぱたり、と今吉は眠りに落ちた。
二日連続の場所の違う出張で、移動三昧だったのもあるのだろう。
今は寝かしてやるのが良さそうだ。
ソファの空いている部分に腰掛け、諏佐は本を取り出した。
ふと、違和感のようなものを感じたのは、それを半分ほど読み進んだところだった。
顔を上げて部屋を見回す。
今吉は未だ眠ったままだった。
そのままぐるりと部屋を彷徨った視線が止まったのはいつもの棚の上。
まるで、何かが始まろうと言うような感覚が、ぞくぞくと背中を駆け上がっていった。
数秒経っただろうか。
その瞼が震え、ゆっくりと持ち上がるのを諏佐は頁をめくる手を止めて見つめていた。
琥珀色の眸が緩やかにたわむ。
そして、気は済んだ、とでも言うようにまた閉じた。
「ん、ぐ…」
今吉が寝苦しいと言うように狭いソファで寝返りをうつ。
諏佐はしっかりと二回、瞬きをしてから、また読んでいた本に目を戻した。
今吉の勧めて来た京都の不思議スポット百景というのは、なかなかに面白いと思った。
それからまた数日後、家で書類を書いている時のことだった。
「あー…ちょっとワシ、コンビニ行ってくるわ」
こんなおんなじ文面何枚も見とるの疲れるわ、と今吉が立ち上がる。
「諏佐、何か食べたいもんある?」
「ん、アイス」
「チョコの奴か?」
「ああ」
最近出たばかりのチョコレートアイスが今、諏佐の中ではブームだ。
それを今吉も良く分かっている。
なかったらすまんな、とだけ残して今吉は出て行った。
ぱたり、と扉の閉まる音がする。
何やら視線を感じてふと見やれば、また花宮の瞳は開いていた。
そして、まるで息を吸うかのように口を少しだけあけると、
「お久しぶりですね、諏佐教授。
いえ、初めまして、諏佐さん、というべきでしょうか」
既に震えることのなかったであろう声帯を震わせて、にっこりと微笑んだ。
嘘臭い笑みだな、と諏佐はぼんやり思う。
「まぁ、気分としては初めまして、だな」
その諏佐の答えに花宮はふはっと笑うと、その瞳を細めてこちらを見た。
「オレの我が侭で今吉さんまで此処に住むことになってしまって、すみません」
「いや、別に。
今までと対して変わらないから気にしてない」
「…貴方なら、そう言うと思いました」
それが、諏佐と花宮の、初めての会話だった。
それからも花宮は幾度か喋ったが、それはいずれも今吉のいない時だった。
と言っても、今吉は今吉で花宮と喋っているふうなことを言うのだが。
どうであれ、諏佐には関係のない話だ。
「それ、かけるのやめません?」
リビングで本を読んでいると、不機嫌を装ったその声が言う。
今流れているのはしっとりとした曲だった。
呪いのピアノ曲として今吉によって再発掘されたあのカセットを、
現代技術の恩恵にてCDとして生まれ変わらせたもの。
専らそれは諏佐家のBGMとなっている。
「嫌か?」
「嫌じゃ、ありませんけど」
涙の行方。
五曲目に収録されていたそれは、諏佐のお気に入りだ。
身に馴染むようなそれが、自分のための一つであることを諏佐は知っている。
「…好きなんですか」
「ああ」
短く答えるだけで花宮が嬉しそうな表情をするのは、やはり少しだけ不思議だった。
そういうものの一通りは今吉によって叩きこまれたが、それで疑問が消えた訳ではない。
じっと見つめる諏佐に、花宮は少しだけ笑って、
「こんなことすら、嬉しいんですよ」
その顔には、何処か影があるように見えた。
花宮の声は周りに誰もいない時に限って聞こえた。
その透き通るような声は、どちらかと言えば好ましい分類だと言えるだろう。
「諏佐さん、次の角を右ですよ」
「おう」
トランクの中にいても、花宮は全てが見えるように話をする。
「それで次のコンビニの手前の細い道を入っていくんですけど、
見えづらいので気を付けていてください」
「分かった」
赤いコンビニが見えて、その手前でスピードを落とした。
花宮の言った細い道を見つけて入っていく。
「諏佐さんはオレが喋ることに何の感想も抱かないんですか?」
「何か、抱いた方が良かったか」
「良い悪いじゃありませんけど、普通は抱くんでしょうね。
まぁそれが諏佐さんなんですから、それで良いと思います」
目的の建物を見つけた。
駐車場に入り、バックで車を止める。
そして、エンジンを止めて、一息。
「普通、か」
それはある意味自分たちには無縁で、一番近いものなのだろう。
ええ、と花宮は呟く。
「普通は、人間でないものが喋ったら、可笑しいと思うんですよ」
その言葉に、諏佐は少しだけ眉を寄せた。
「…お前は、人間だろう」
ふは、と特徴的な笑い声。
「こんなオレを人間だと言いますか」
それは嘲るような色をしていたが、
諏佐にはその矛先が自分に向いてないと気付くのは容易かった。
これが幻なのか現実なのかは分からない。
ただ、花宮の眸はとても美しいと思った。
飴玉のような色をしたそれが、とても美しいと、じんわりと思った。
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20130411