ブーゲンビリア偏執症
「ただいまぁ」
「おかえり」
付け合せの野菜を刻む手を一旦止めて、諏佐は顔を上げた。
「今日の夕飯は何や?」
「ハンバーグとサラダだよ。
もう出来るから手洗ってうがいして来い」
はーい、と素直に返事をして洗面所に向かおうとする今吉は、
あ、と思い出したように何やら食卓に置く。
「すさぁ、何か入っとったで」
ずっしりと重たそうな封筒。
諏佐佳典様。
宛名のところには綺麗な字でそう書いてあった。
「何かの書類か?」
「覚えはないが…夕食のあとに見ておくよ」
「ん、そやな」
こんな分厚い封筒、夕食前に開けることもない。
時間はちゃんとあるのだから、ちゃんと食べられる時は落ち着いて食べたい。
移動も多い仕事柄、そう願うことは前よりも多くなった。
手洗い場へ向かう。
爪の間までしっかり洗って、暖かい食卓につこう。
そしてその後は風呂に入るのだ。
そんなありふれた近い未来を想像しなながら、今吉は蛇口を捻った。
今吉が風呂から上がると、机の上の封筒は封が切られていた。
「あの手紙、何やったの?」
「…ラブレター?」
「は?」
ラブレター。
その文字が今吉の頭の中を左から右へと流れていく。
それは、自分の恋心を綴った手紙ではなかったか。
「あのぶあっついんがラブレター?」
「読むか?」
はい、と手渡される茶封筒。
今吉の手にずっしりとした重みが移る。
こうしてお手紙を書くのは初めてになります、
その一文から始まったそれは確かにラブレターだった。
読み進めて行くにつれてどんどん今吉の眉間に皺が寄っていく。
そして一応最後まで読みきった後、顔を上げて諏佐を見た。
「諏佐、言い難いんやけどな、これ、多分ストーカーやで」
「ああ、そうだろうな」
まるで知っていたとでも言いたげな諏佐に、今吉は眉を顰める。
その意味を正しく理解した諏佐は、やはり何でもないことのように言った。
「最近やたらと視線を感じるからな」
背後で足音とかも良くある、そう続けた諏佐に今吉ははく、と息を吐く。
すぐには言葉が出て来ない。
「何で黙ってたん」
そうしてやっと出て来た言葉は少なからず批判の色をしていた。
「言った方が良かったか?」
「当たり前やろ」
諏佐がこういったことに疎いのは分かっていたはずだ。
しかし、まさか巻き込まれるなんて思わないだろう。
大体、いつも厄介事に巻き込まれるのは自分の方なのだ、不本意ながら。
「青峰に相談するか?」
「その辺の判断はお前に任せる」
お前の方が慣れてるだろ?そう続けられた諏佐の言葉も、暗にそれを示していた。
「…明日の昼、空いてるからちょっと行ってくるわ」
「そうか。気をつけてな」
翌日、外から戻ってきた今吉は浮かない顔をしていた。
「青峰に相談してきたんやけど、やっぱりストーカー言うても、
被害が出るまでは対処するのは難しいんやと」
パトロール増やすくらいしか出来ん言われたわぁ、とため息。
まぁそんなものだろうな、と諏佐は言う。
こういった小さなこと全てにかまっていたら、いざという時に人手が足りなくなる。
被害者が男なら尚更だ。
女が相手ならば、と考える人間は多い。
確かに、凶器を持ちだされたところで諏佐ならば対抗できるだろう。
「諏佐」
今吉が真剣な顔でこちらを見やった。
「必要ないて思うかもしれんけど、これから一人になるのは避けて」
じっと揺れる瞳を、諏佐は見たことがあった。
「約束、憶えてるやろ」
夕暮れの教室、あまりに必死だった今吉。
それが一番最初、忘れることなどきっとない。
「ああ」
頷く。
「なら良えわ」
部屋の前に鉢植えが置かれていたのは、それから一週間後のことだった。
「諏佐、なんか鉢植えあったんやけど」
遅くに仕事から帰って来た今吉が手にしていたのは薄桃色をした花が連なる鉢。
もしかして諏佐が置いたん?と尋ねる今吉に首を振る。
「えー?大家さんなら知っとるかなぁ」
その鉢を見ていた諏佐は、ふいに手を伸ばした。
「諏佐?」
諏佐佳典様。
花の中に仕込まれた小さな宛名。
今吉に渡す。
「…これ、あの手紙の筆跡と同じやん」
途端に怖い顔になる今吉に、諏佐はそうだな、とだけ返した。
その次の日も、そのまた次の日も、玄関には花が置かれていた。
そしてそれが続いた四日目。
玄関に落ちていた花束を拾い上げ、部屋に入る。
「それ、意味があるの、分かっているんでしょう」
トランクから声が上がる。
今吉は今日は県外に出張だから遅くなると言っていた。
「意味か」
「知らないのなら調べることだって出来るでしょう。
だって貴方は気付いているんですから。
それとも、自分に向けられる気持ちにも興味がないんですか」
薄い笑みを浮かべながらトランクを開ける。
そして花宮を椅子に乗せた。
諦めたように吐かれる息。
「一日目の鉢植えがリナリアです。
花言葉は私の恋を知って下さい。
二日目の花束は言うまでもありませんがチューリップ。
赤でしたから花言葉は愛の告白。
三日目の花かごはブーゲンビリア、貴方しか見えない。
そして今日の花束がハナミズキ、私の想いを受け止めて」
ぽんぽんと出て来る言葉に諏佐はほう、と声を漏らした。
「危ないですよ」
「そうか」
笑う。
花宮がこうやって諏佐に忠告するのは非常に珍しい。
そこまで、今回のことは彼らにとって重大なのだろう。
それは諏佐も分かっている。
「花言葉は、友人のところで手伝いしたことがあるのでその時に覚えたんです」
こんなふうに役に立って欲しくなかったんですけどね、花宮の視線は鋭いままだ。
「このままだと本当に危ないんですよ」
「それは困るな」
「…それが困るって言う人の顔ですか」
まるで、泣く寸前のような声だと思った。
「毎日花送ってくるとか、メルヘンチックなストーカーさんやの」
「それなんだが」
帰って来て机の上の花を見て、開口一番そう言った今吉に、
花宮に聞いた花言葉をそのまま伝える。
すると、今吉は驚いたようにその糸目を見開いた。
「…花宮、友達いたんか…」
そこか。
「そりゃあいるだろ」
諏佐の記憶が正しければ彼を発見したのは彼の友人だったはずだ。
暫く大学に出てこない彼を心配して、部屋を訪れるくらいには仲の良い友人。
「…すさぁ」
甘えたような声。
「…分かってるよ」
「なら良えんやけどな」
諏佐が個人的な用事を終えて帰って来ると、家にはもう今吉がいた。
とても、不機嫌そうな顔。
花宮もこの日は今吉が連れ帰っていたから、もっと楽しそうにしていると予想していたのだが。
「今日のはあれや」
今吉が指差したのは鉢植え。
「スノードロップか」
「そうや」
白く俯いた小さな可愛らしい花を眺め諏佐はその名を言う。
卒業シーズンになると良くみるようになるその花には諏佐も覚えがあった。
「諏佐が帰って来る前に花宮に聞いたんやけど、
ただのスノードロップなら花言葉は初恋のため息とか、可愛らしいやつなんやって」
でもな、と今吉は続けた。
その表情を見るまでもなく、良くない意味なのだろうと言うことは分かる。
「贈り物になるとな、花言葉は貴方の死を見たい、なんやと」
「物騒だな」
「…本当にそう思ってるん?」
今吉の問いに諏佐はやはり薄い笑みを返すだけだった。
今吉がその答えを知っていることも、諏佐はとても良く知っていた。
「今日の花はなんです?」
問いに答える代わりに、食卓の上に花宮と小さな花束を並べてやる。
「…アメリカイヌホオズキですか」
「また良くないのか」
「そうですね。
幾つかありますが、この場合は男へ死の贈り物、辺りでしょう」
どんどん直球になってくるな、と諏佐は思わず笑ってしまった。
「笑い事じゃありませんよ」
花宮の視線は違いもなく怒りを含んでいた。
「死にたいんですか?」
「どうだろうな」
死も生も、全ては人間の延長線だ。
「今日も花、おいてあるんかなぁ」
「どうだろうな」
がらがら、とトランクを引きずる。
花が置かれるようになってから今日で七日目。
久々に諏佐と今吉は同じ時間に帰っていた。
七日目というのはキリが良い。
この日、何か起こる可能性は低くはない。
そう思ったのは今吉もだったらしい。
そして、階段を登った先、見えた玄関には。
「パセリやな」
「パセリだな」
「パセリの花束って…シュールやな」
「そうだな」
拾い上げる。
「今吉、鍵」
「おん、ちょお待ち」
かちゃり、と鍵の回る音で、いつも通りにその扉は開いた。
拍子抜けだった。
先に手、洗ってくるわ、と今吉は洗面台へ向かっていった。
諏佐はトランクに手を掛ける。
怒ったような表情をしている花宮を椅子に乗せるべく持ち上げた。
「パセリの花言葉は死の前兆、ですよ」
腕の中で花宮が言う。
「もう猶予はありませんよ」
しっかりしてください、花宮は尚も重ねた。
硝子の切っ先のようなその視線は、諏佐には刺さらない。
そう分かっているのにやらずにはいられないようだった。
「お願い、しますから」
花宮が目を閉じる。
飴色の瞳が完全に見えなくなってから、
「諏佐、洗面所開いたで」
「…ああ、今行く」
パセリの花束以降、家の前に花が置かれることはなくなった。
「あれからストーカーさん来んのぉ」
諦めてくれたんかな、と今吉が笑う。
居間には台所からの良い香りが漂っていた。
今日の夕飯当番は今吉だ、メニューはあさりの酒蒸しだと聞いた。
「あ」
「どうした?」
新聞から顔を上げて諏佐が問う。
台所の今吉は冷蔵庫を覗いていた。
「ネギ切らしとったの忘れててなー」
「それくらいなら今から買ってくるか?」
「んー…諏佐一人で行かすのも心配やからなぁ」
そうは言っても今吉がこういった小さなことに拘りたがるのを、諏佐は覚えている。
「でも欲しいんだろ?」
「そうやけど…うん、ワシも行くわ。
ちょっとやから花宮には留守番してもらって、な?」
エプロンを外す今吉を横目に諏佐は立ち上がった。
「一番近いところで良いか」
「そうやな、早く夕飯食べたいしな」
花宮、ちょっと待っててなーと言いながら今吉が財布を取りに行く。
がちゃり、扉を開けて吐いた息が冷たく感じた。
無事にネギを購入し、部屋へと戻る。
他愛のない話はいつものように生徒のこと、花宮のこと、今吉が面白いと感じたことで、
パセリを最後に来なくなった花については何も触れられなかった。
「…ん、何か入っとるで」
部屋に備え付けられているそのポストから、はみ出す茶封筒。
諏佐佳典様。
もう見慣れてしまったその筆跡に、今吉は露骨に顔を顰めた。
「噂をすれば影って訳かいな」
べりべり、と開封される封筒。
中身はビデオテープだった。
「ウチにビデオデッキなかったらどうするつもりやったんやろ」
文句を言いながら今吉がテープをデッキに入れる。
それから少し操作して、じぃ、とテープが回り始める音がした。
「…これ、ウチやないか」
「そうだな」
ず、とお茶を飲みながら何でもないように言う諏佐。
「…諏佐、興味がないのは分かるがな、流石にこれには慌てて欲しかったわ…」
「すまん」
悪いなどと思っていないのは一目瞭然だった。
不法侵入は犯罪やで、という言葉は飲み込んで、はぁ、と今吉はため息を吐く。
「しっかしまぁ、この短時間でようやるわ…」
諏佐と今吉が買い出しに出ていたのは約三十分程。
その間に部屋に忍び込んでビデオを撮影し、それをテープに焼いてポストに投函。
手際が良すぎる。
「声しか聞こえへんてのもまた不気味やんな」
今吉の言葉に、諏佐がゆっくりと瞬いた。
「まぁ、花宮に何もされなくて良かったじゃないか」
「そうやけど。そうやない」
ああ、もう、とでも言いたげに今吉が首を振る。
まだ尚続くそのテープは、怨嗟のような愛の言葉を囁き続けていた。
「ワシの身が持たんわ。諏佐、撃退するで」
どうせどうしたら追い払えるんか、分かっとるんやろ?
今吉がじっと諏佐を見つめる。
仕方ないな、と腰を上げた諏佐は、そのまま部屋のベランダの窓を開け放った。
「諏佐?」
「撃退するんだろ?」
「そうやけど。何でベランダ行くん」
「ずっと向かいのベランダから見てるから。ビデオの人」
何か言いたそうに今吉が顔を歪めた。
「…諏佐、目ぇ良えもんな」
「ああ」
何か飲み込んだようにそう続けた今吉に、諏佐はおざなりな返事をする。
「ええと…確か…あ、あった」
「何やそれ」
諏佐が背広のポケットから取り出したのは、小さなガラス玉のようだった。
「緑間がくれた。水晶だって。
オレの今日のラッキーアイテムなんだと」
どうやら例の一件以来諏佐に懐いたらしい緑間は、
彼の信奉する占い番組で諏佐の星座が最下位の時にだけだが、
ラッキーアイテムを渡すようになっていた。
彼にもラッキーアイテムが邪魔になるという感覚は備わっていたらしい。
「何でも霊験あらたかな湧き水で禊いだ水晶なんだとか」
自他共に認める人付き合いの苦手な緑間が、
諏佐のピンチのために一生懸命話している様を思い浮かべると、
教職についているものとして些かの感動を覚えないでもないが。
「それをどうするん?」
「投げる」
投げる、今吉は口の中でだけ繰り返す。
今度緑間にはおしるこでも奢ってやろう、そう思って。
向かいのアパート。
そのベランダに、諏佐の放った水晶が吸い込まれるように落ちていく。
悲鳴は、聞こえなかった。
しかし今吉の元にもびりびりと空気が震えたのが届く。
ぶわ、と一陣の風、まるで守るように諏佐に引き寄せられた。
「…す、さ?」
「いや、何でもない」
にこり、と笑いを作った諏佐に、何も言えなかった。
部屋に戻り、停止ボタンを押す。
力任せに引き出されたテープには、何処かに突っかかったのか傷が出来ていた。
それで良い、今吉は思う。
もう二度と見ることなどないのだから。
「こんなもんにまでモッテモテとか笑えへんわ」
吐き捨てる。
超常現象は好ましいが、この安全地帯に危害を与えようとするものは、
とてもじゃないが好きになれそうにはなかった。
「いーまよしセンセ!」
「なんや、高尾」
手を止めず、顔も上げずに呼びかけに答えた。
「あれ、お忙しいですか?」
「んーそうでもないけどな、今晩ちょっと予定あるから早めに片付けたいんねん」
「お、もしかしてデートですか?」
「仮にそうやとしても高尾には言わんわー」
笑いながら最後の読点を打ち終える。
「で」
顔を上げた。
にまにまと楽しそうな高尾が目に入る、何よりだ。
「何か話あるんやろ?」
「えーもう、そうやって話逸らしてー」
ぶーぶー言いながら高尾が携帯を取り出した。
「自殺した女の霊!って今吉先生好きそうじゃないですか〜」
じゃーん!と示されたウェブサイトには小奇麗なアパート。
げ、と思わず口から零れかけたのを危うく飲み込む。
「…好きやけどな、ちょっと今は良えわ…」
「えっ。どうしたんですか、何か変なものでも食べたんですか」
何かすごい失礼なことを言われた気がするが、自分でもそう言われることに納得してしまう。
この今吉翔一が不思議現象に食いつかないなんて!
笑える、笑えてしまう、笑い事ではないが。
「ちょっと、な」
折角教えてに来てくれたんにすまんのぉ、と笑って高尾の携帯画面から目を逸らす。
見知った薄いクリーム色のアパートのことは、少しの間忘れていたかった。
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20130301