赤い夢



今吉翔一の朝はそこまで早くない。
基本的に朝七時にかけた目覚ましで目を覚まし、
その後およそ三十分をかけて大きく伸びをし、やっとのことで起き上がる。
朝特有の冷たい空気が肺になだれ込んで来るのを感じた。
見回す。
窓から差し込む朝日が眩しい。
照らされた薄暗い部屋に人影はなかった。
本棚で影になるように置かれた低い棚の上は空っぽだった。
特に違和感はない。
狭いシングルベッドの上、就寝時には隣にいた同居人の姿はない。
いつものことだ。
同じ部屋に住み、同じ職場で働いている所謂くされ縁の諏佐佳典は、
意味もないのに朝五時前に起きて活動を始める。
しかも、目覚ましもなしである。
そんな早朝にやたら動きまわるなんて、高血圧か何かではないかと心配したこともあったが、
毎年受けている健康診断では何の異常も言われていないようだ。
意味が分からない。

「おはようさん」
「おはよう、今吉」
だぼだぼのスウェットの裾を引きずりながら居間へ行くと、
やはり既に起きていた諏佐が朝食の用意をしていた。
「甘い」
すん、と鼻孔に入り込む甘ったるい香り。
「フレンチトーストにしてみた。好きだろ?」
「おん」
「早く顔洗って来い」
「おん」
言われるままに洗面所へと向かう。

きゅ、と捻った水道から勢い良く水が流れ出す。
その音をぼんやりと聞きながら今吉は流れる水に顔を突っ込んだ。
ぬるい。
諏佐がお湯でも使っていたのだろうか。
疑問を持ちつつもまだ寝惚けたままの頭では解えを出すことも出来ない。
だがぬるま湯であろうと本来の目的は果たしたので、顔を拭く。
いつもの柔軟剤の香りがした。

フレンチトーストと温野菜。
恐らくこのドレッシングも諏佐の手作りなのだろう。
そう思いながら今吉は席についた。
何かに手を掛けることはそこまで嫌いではないらしい諏佐は、
こうして良く手の込んだ料理を作る。
今吉が好きなとろふわオムライス・ビーフシチューがけのように。
それがまたどれも美味しいのだから羨ましい。
今吉とて料理が下手な訳ではないが、それは和食のみに限った話であり、
洋食も苦手な訳ではないが、やはり諏佐には敵わない。

手を合わせ、声を合わせていただきます。
いつからか諏佐と食事をするときは決まりになったこと。
小中学校の給食じゃあるまいし、とは思うものの、
いただきますを言うことはどちらかと言えば良いことなので、
今吉も何も言わずに此処まで来ている。
ふわふわに焼きあげられたフレンチトーストに、
諏佐セレクトのメープルシロップをかけて、かぷり。
程よい甘さの卵の香りが鼻を突き抜け、メープルが後を追うように染み渡る。

はずだった。

今吉の食べたフレンチトーストは、ダンボールのような味がした。
手に持っているそれはふわふわとしているし、温かいし、紛れもなくフレンチトーストだ。
亜鉛不足だろうか、諏佐が調理法を間違えたのだろうか。
例え不味かろうが諏佐が作ってくれた料理には違いないので、
得意のポーカーフェイスを駆使して顔には出さないでおく。
ちらり、と諏佐を見やると彼は至って普通に朝食を摂っていた。
どうやら可笑しいのは自分の方らしい。
結構長い時間を共に過ごしてきているが、
諏佐の味覚が可笑しいと思ったことは一度としてないのだから。
やはり亜鉛不足だろうか、仕事帰りにそのままドラッグストアにでも寄ろう。
そう思いながら、今吉はそのダンボール味のフレンチトーストを飲み込んだ。



「今日はワシ、学長帰って来るまで待たんとあかんから、遅くなるで」
やから夕食の用意は諏佐がやってぇな。
鞄の中身を確認しながら言う。
返事はない。
「…諏佐?」
諏佐は台所で皿を洗っていたはずだ。
台所の水音は止まっている。
聞こえなかったということはないだろう。
不審に思って振り向くと、
「おわっ」
すぐ後ろに諏佐は立っていた。
「なんや、驚かさんといてぇ…な…」
へらり、とした笑みが諏佐の手の中に注がれる。
泡だらけの包丁。
さっきまで洗っていたものだろう。

泡流して拭くくらいせぇや。
場違いなツッコミが、今吉の頭を横切る。

音もなく、その切っ先は今吉の腹に吸い込まれるように刺さった。
つう、と口の端から血が溢れていくのを感じる。
痛みはない。
分からない。
「諏佐…何で?」
顔を上げる。
諏佐はいつもと同じように笑っていた。

「お前が嫌いだからだ」
ああ、と思う。
何だ、そういうことか。
腹から生える包丁の柄を、諏佐の手の上から優しく包み込む。
泡が潰れて手がぬるつく。
もしかしたら、泡ではなくて今吉の血だったかもしれないが。
「諏佐はそんなこと言わへんよ」
自分でも驚く程、穏やかな笑みが漏れた。

この身体を、もしかしたら心まで照らし出す、絶対唯一の道標。
あまりに心地好く、手放せはしない砦。
「諏佐はなぁ、奇麗なんや。
人間に興味は持てへんし、それは長いこと一緒にいるワシでも同じや」
笑う。
絡まった視線のその先、黒い瞳。
それは、今吉と同じ色をしていた。
「諏佐はそないな目、せぇへんよ」
鏡、携帯の真っ暗になった画面、窓の反射。
日常の至る所で今吉を貫く、見慣れた瞳。
「お前の目は、ワシの目や。お前は、ワシやろ」
解えを突きつけると、その諏佐はにやり、と笑った。



ぱちり、と目を開ける。
「おはよう」
柔らかな声が降って来ると同時に、鼻腔を擽る良い香りに気付いた。
「今日はシチューか?」
「惜しい、グラタンだ。食べれるか?」
「おん…顔洗って来るわ」

ばしゃり、蛇口から流れ出る冷水に顔を突っ込む。
鏡の中の自分と目があった。
電気もつけていない洗面所、確かなものなど何もない。
確認した時計は夜の八時を指していた。
はぁ、と小さく息を吐く。

水は、ちゃんと冷たかった。



「目、覚めたか」
「ばっちりやで」
「そうか」
食卓について二人揃っていただきます。
手を合わせる際にちらり、と諏佐の隣の席が目に入る。
花宮が当たり前のように其処に鎮座していて、何故かやたらと安心した。

熱々のグラタンにスプーンを差し入れ、ふーふーと冷ましてから口に入れる。
ホワイトソースの甘さが口中に広がった。
出来立ての熱さがまた美味しさを加速させているように今吉には思えた。
顔を上げる。
「美味いわぁ。
諏佐はほんま、料理上手やな」
じっと見つめ料理の感想を言う。
諏佐がふわりと笑って返事をするために口を開いた。

その形の良い唇が何と吐くか、今吉は獲物を待つ蛇の表情で今日も見つめていた。



  



20130125