夢路の蝶の愉悦



「諏佐教授」
生徒たちが諏佐に直接話しかけず、今吉を経由することが多い中で、
黒子テツヤは諏佐に直接話しかけて来る数少ない生徒の一人だ。
「…黒子か」
「少し、話を聞いてもらえませんか」
ある麗らかな午後の研究室、
組んだ手の上に顎を乗せた黒子は、諏佐の了承も待たずに話し始めた。

「夢を、見るんです」
その夢を見始めたのは一週間前のことだと言う。
夢の中で黒子は大学を終えて帰路についている。
半分程道を行ったところで、ふと後ろから人がついて来ているのに気付く。
普段人に注目されることのない黒子はこの時点で、何か可笑しいと思う。
が、距離はあるし、家に帰ってしまえば大丈夫だろうとそのまま歩き続ける。
するとどんどん後ろの人影が距離を縮めて来て、終いには、
「こう、グサッと」
淡々とした顔で黒子が言った。
「結構アレなんですよね、抉るように刺して来るんですよ」
「そうか」
「教授、本当にリアクション薄いですね。
火神くんなんかこの話した時、泣いて怖がってましたよ」
「悪いな、火神のようには出来そうにもない」
「…そういうところだけ素直なんですから」
はぁ、と黒子はため息を吐いて、まぁそれにももう慣れましたけどね、と続ける。
黒子も諏佐も短い付き合いではない。
この諏佐の薄い反応に慣れるくらいの時間は共にしている。
「そういうのは今吉の管轄じゃないか?」
今吉がそういった類の話が好きだというのは周知の事実だ。
あんなでも顔は良いから、それを餌にお近付きになろうという生徒も後を絶たないと聞く。
まぁ、そこは今吉なので、何事も起こらないのだが。
「そうは思ったんですが、僕、あの人少し苦手で」
どうしてなんでしょうね、理由なく苦手な人なんてたくさんいますが。
そう付け足してから黒子は話を戻す。
「僕は元々夢なんて見ないんです、あれは人間のものですからね。
そんな僕が夢を見たということは、何かしら意味があるものだと思ったんですよ。
それで伯父さんに頼んで此処のところ毎日送り迎えしてもらっていたんです。
こういう類のものはちょっとばかり手を加えてやれば良いと思ったので」
でも、と呟いて黒子は一旦言葉を切った。
その視線は諏佐との間にある机の上に注がれている。
勿論、其処には何もない。
「明日から、伯父さん出張なんですよ」
引きこもっている訳にもいきませんし、僕にも授業がありますから、と黒子は諏佐を見上げる。
「方向は殆ど一緒ですし、教授が一緒に帰ってくれれば僕も安心なんですけども」
じっと見つめてくるその瞳から逃れもせず、諏佐は困ったように笑った。
「…考えておく」
「お願いします」
ぺこり、と頭を下げる黒子。
話を聞いた時点で、巻き込まれることは確定したようなものだった。



「黒子のお願い、引き受けるんですか?」
がらがらとキャスターの音が響く夜道で花宮が問いかける。
「引き受けようと思っているが」
「珍しいですね」
「黒子のことは相田先生から頼まれているからな」
少しの間花宮はその人物について考えていたようだった。
しばらくしてああ、と続ける。
「相田非常勤講師ですか。
何か借りでもあるんですか?
武田教授みたいに就職の時に助けてくれた訳でもなさそうですし」
話した覚えはないが、今吉が喋ったのだろう。
今吉は暇さえあれば花宮に話しかけている。
「…そうだな、言うなれば個人的な恩だよ。
こういったことでは返しても返しきれない程の、な」
「それ、本当に恩だと思っているんですか?」
微かに空気が震えて、花宮は諏佐が笑ったのに気付く。
それ以上は言葉にすることなどないのだと、それも分かっていた。



「それってアレやろ?
そのうちそれが現実になって、夢と違う言われるやつ」
家に着いた諏佐は、先に帰って夕飯の支度をしていた今吉に黒子の話を聞かせた。
「夢と違う?」
「ああ、元の話は女子高生と不審者だったと思うんけどな。
言われるパターンは幾つかあるんやけど、
大体男がついて来てるんに気付いて迎えとか呼んで、
死を回避してほっとしたときに、男に夢と違う言われるんや。
黒子くん今は悉く回避しとるみたいやけど、
多分それ犯人と接触してそう言われるまで終わらんとちゃうかな」
ワシも詳しい話は知らんからなぁ、と今吉が眉を寄せながら鍋を開ける。
ふわり、と良い香りが諏佐の方にまで流れてきた。
「今日の晩御飯はアジの南蛮漬けと肉じゃがときんぴらやで」
「うまそうだ」
今吉が皿におかずを盛り付ける間に諏佐は箸などを用意していく。
二人食卓について、揃っていただきます、と唱える。
湯気の立つ白米を咀嚼して嚥下して、今吉はため息を吐いた。
「というか黒子くん、何でワシの前には現れんの…。
今日やってワシが帰ったあとやろ?諏佐ンとこ来たん…」
明日ワシ出張やし、まさか計算してるんちゃうか、と項垂れる今吉に、
お前のこと苦手らしいぞ、と追い討ちを掛ける諏佐。
ええ、と大仰に悲鳴を上げてから、
「ワシ別に黒子くんに何もしてへんのになぁ」
こてり、わざとらしく首を傾げた。
諏佐はそれを無視してきんぴらを口に運ぶ。
少し辛めのそれは諏佐の好みに合わせたものだ。
うまい、と言いながら食べ進める諏佐に、今吉も諦めて中断した食事を再開した。

「ああ、あと」
思い出したように今吉がまた食事を中断する。
「黒子くん、これからも同じ夢見るなら、出来るだけ死ぬのは避けた方が良えで」
「良くないのか」
「まぁな」
頷く。
「夢っちゅーのも一つの現実やからな。
例え夢ン中の出来事でも、
脳とか心とか言うんが現実だと認識したら死んでまう可能性もあるんやって」
「へぇ」
箸をぱかぱか開けたり閉めたりして遊ぶ今吉に行儀が悪いと形だけの注意をし、
諏佐はまた食事を再開させる。
それに倣うように今吉も再度箸をすすめる。
二人だけの食卓はそれからも他愛のない話で弾んだ。

食後はテレビを見たり風呂に入ったりとのんびり過ごし、
同じ布団に潜り込み諏佐家の電気が消えたのは、日付を越えたくらいだった。



とりあえず一度接触してみぃ、諏佐ならナイフ持ってようとも対抗できるやろ?
なんていう一見無茶ぶりな今吉の提案と、
この一件に類似した話を放課後研究室に来た黒子に諏佐は話した。
勿論、夢での死回避についても忘れずに伝える。
「あの人の提案を呑むのは癪ですけど、今はそれに縋るしかありませんね」
苦々しい表情でそういうと、
夢の件については今日どうにも出来なかったら頑張ってみますね、と続けた。
明晰夢を自由に見られる人間でない限り、それは難しいとは思うが。
話は済んだとばかりに黒子は研究室の端に陣取って読書を始める。
諏佐の帰るまでの時間をそうやって潰すつもりだろう。
何故黒子がそんな表情をするのか分かっている諏佐は、何も言わずに仕事に戻った。



どっぷりと日が暮れた頃。とんとん、と書類を纏めて諏佐は黒子に声を掛ける。
「終わったんですか?」
「ああ」
「じゃあ帰りましょう」
ひんやりとした空気の中、二人は大学を後にした。

蛍光灯だけが青く光る道を歩いて行く。
「青い街灯は犯罪を抑制させるらしいですね」
「ああ。イギリスの北部から広まったものだったか」
「ええ。
プルキエネ現象や鎮静効果が主だった理由だと言われていますし、
僕もそれが理由の大半だと思っています」
でも、と続けながらぼんやりと青い光を放つ街灯を見上げる。
光の届く範囲は照らされているはずなのに、不思議にぼやりとしているように感ぜられた。
暗闇との境界が曖昧になっているようだ。
「此処は日本ですから、それだけじゃあないんでしょうね」
諏佐を振り返った黒子は、妖艶な笑みを湛えていた。
月明かりと街灯の青に染まって、
「何か出そうじゃないですか?」
ひどく無邪気にそう言った。
「…そうだな」

諏佐の返答に満足したのか、黒子はまた諏佐の前を歩いて行く。
青い光の中を踊るように揺れるその水色の頭に、諏佐は人知れずため息を吐いた。

「現れましたね」
道程を半分ほど過ぎた所で黒子が呟く。
意識を後ろに向ければ、確かに物陰からこちらを見つめている男がいた。
「あいつで間違いないか?」
「ええ」
「もう少し歩くか」
「そうですね」
カーブミラーに何やら反射する光を見る。
手の中でぐるぐるかちゃかちゃと弄んでいるところを見ると、
男が持っているのはバタフライナイフのようだ。黒子も気付いたようで、
「本格的ですね」
とこっそり囁いてきた。
諏佐は自身の無関心さを自覚しているが、黒子も相当だと思う。

コンビニの近くで一旦諏佐が黒子から離れる素振りを見せることにした。
其処にしたのはそれなりに明かりがあり、いざと言う時に人を呼べるからだ。
「まぁ教授に限って万が一ということもないと思いますが。
油断は禁物ですからね」
「ああ」
短く答えて、小さく手を上げて黒子から離れた。
黒子の方は丁寧にこちらに手を振っている。
これで、男の方からは二人が別れたように見えただろう。

黒子が夢を見た回数と同じだけ男も夢を見ているとしたら、
なかなか夢の通りにならないこの一週間、非常に焦れたことだろう。
男がこういうことを好んでいる、という前提で考えるなら、だが。
黒子の話からも夢の中の行動は選択し辛いようだし
(だって出来るのなら黒子は一週間毎晩刺されることもないだろう)、
断言は出来ないが、今吉の言っていた話のようになるのなら、
男は黒子を殺したくて堪らないと考えるのが妥当だ。
やっと夢の通りになりそうな今、それを逃すとは考えにくい。

音が目立つキャスター付きのトランクは茂みに隠し、諏佐は物陰から黒子を伺っていた。
一人歩き出した黒子に、男は分かりやすく喜色を浮かべその手の中のナイフを弄ぶ。
どうやら諏佐の予想は当たったようだ。
出来る限り気配を消し、二人の後ろをつけて行く。
黒子が何度か振り返る度に男の肩が恐らく喜びで揺れていた。
ぶつぶつと何やら呟きながら男は黒子との距離を縮めていく。

「やっと…夢が、現実に…」
だっと男が走り出したのと同時に、諏佐も物陰を飛び出した。



男の持っていたバタフライナイフは諏佐によって弾かれ、少し離れた地面に落ちた。
驚きに声を上げる男の腕を後ろに捻り上げ、逃げられないようにする。
痛いと男が抗議の声を上げるが、諏佐は離さない。
「…捕まえたぞ」
「流石です、鮮やかですね」
ぱちぱち、とおざなりな拍手。
「怪我はないか?」
「ええ、大丈夫です」
取り押さえられた男は意味が分からないと言いたげな泣きそうな表情で黒子を見て、
諏佐を見て、また黒子を見た。
「…夢と違うじゃないか」
男が呻く。
「あんなに何回も、何回も殺せたのに。
絶望に歪むことのない君の顔を、本物の君を、この手で歪めたいのに」
ぎりぎりと諏佐に捻られ痛みに声をあげながら、それでも男は黒子を見つめる。
「君に正しく絶望を与えられるのは、僕だけなんだ。
そうだろう…?ねぇ、そうだろう?」
甘えたような声で縋るような目線を送ってくる男を、黒子は感情の籠もらない目で見ていた。
地に這い蹲る男の言葉は、黒子には届いていないだろうな、と諏佐は感じる。
ゆっくりと黒子は歩を進め、男の前に立った。
「貴方の夢は此処で終わりです」
そっと呟く。
「ゆ、め?」
「ええ」
その笑みは、例えるなら聖母のようだと諏佐は思う。
「夢ですよ、これは…いえ、これも、夢なんです。
だからほら、醒めないと…いけませんよね?」
恍惚とした表情で、男はうん、うん、と頷いた。
とろんとした瞳で黒子の方を見てはいるが、焦点が合っていない。
「一人で醒められますね?」
こくり、と振れる首。
「さようなら」
黒子の声に引き摺られるように、男は瞼を落とした。



「これで一件落着だと思います」
すっきりしたような笑顔で黒子は諏佐を見上げた。
「そうか」
「でももしまた夢を見たら、その時はお願いしますね」
「ないと良いな」
これ以上こういった事象に巻き込まれるというのなら、今吉が黙っていないだろう。
嬉々として巻き込まれに来る今吉が諏佐の瞼の裏に浮かんだ。
諏佐は構わないが、今吉を苦手だと公言している黒子は構うだろう。
話を逸らすように瞼を閉じてから崩れ落ちた男に目を向けた。
「この男どうするんだ?」
「僕はこのまま放置しようと思いますが」
どうします?と問うてくる黒子に、お前のしたいようにしろ、と返す。
今回被害を被ったのは黒子なのだ。
ならば、彼が処遇を決めるべきだと思う。
「じゃあ放置ですね」
眠ってしまった男を電柱に寄りかからせて、茂みに隠したトランクをとってくる。
また暗い夜道、二人が歩くのに合わせてがらがらと特徴的な音が響き始めた。

「前から気になっていたんですが、一つ良いですか?」
「なんだ?」
「そのトランク、何が入っているんですか?」
黒子の視線が真っ直ぐに諏佐に突き刺さる。
諏佐がいつ何処へ行くでも引きずっている可愛らしい小さなトランク。
諏佐はいつものようにやわらかく微笑んだ。
「大したものは入ってない。
ただ、持ち歩くのが癖になってるだけだ」
「そうですか」

ジジッと青い電灯が音を上げる。

ふとそちらを見やれば、一頭、ぶつかった季節外れの蝶が落ちていく所だった。
「寒いですし、早く帰りましょう」
「ああ」
こちらを見つめて来る視線が消えたのに気付かなかったふりをして、二人はまた歩き出す。

肌寒い夏の夜のことだった。



  



20130114