白い指
「良いところですね」
諏佐の隣で声がした。
「無理を言ってついてきた甲斐がありました」
「無理を言ったという自覚はあったんだな」
「ええ、勿論」
にこり、と笑った黒子から諏佐は目を逸らす。
「でも気にする諏佐教授ではないでしょう?」
ただ目の前の雄大な景色に、あまり動かない頬がほころんだ。
黒子が諏佐の研究室へとやって来たのは、今吉が出張でいない日のことだった。
「次の出張、僕も連れて行ってくれませんか?」
疑問符こそついてはいるが、諏佐の返答がどうであろうと、どうせついてくるつもりなのだろう。黒子テツヤというのはそういう人間だ。
「今吉がまた煩いだろうな」
「今吉先生は大概いつでも五月蝿いでしょう」
特に、貴方に関連することには。そう黒子が笑うのに対して、器用に片眉を上げてみせる。
黒子に会ってみたいのに、と食卓に額を擦りつけて喚く今吉は簡単に想像出来る。
「会ってやれば良いのに」
「…貴方がそれを言いますか」
黒子も同じように、片眉を上げて返して来た。
諏佐は曖昧に笑っただけで、何も言わなかった。
そういう訳で諏佐が一人で行くことになっていた出張には、黒子という同行者が増えた。
案の定それを知った今吉はあれこれ喚き散らし、その日はそのまま不貞寝してしまった。
面倒でベッドを別々に買わなかった弊害で、
諏佐がソファで寝る羽目になってしまったのはまた別の話だ。
用も済んで、さて帰ろう、となった時、空に立ち込めた暗雲からぽつり、と雨粒が落ちてきた。
「ああ、降ってきましたね」
黒子が言う。
次第に降り注ぐ雨粒は大きくなっていって、何処か雨宿りの出来る場所、と辺りを見回した。
「あれ、貴方、なんだか調査に来るって言ってた大学の先生?」
その先で、一人の男と目が合う。
そうです、と答えて、
用は済んだんですが、雨が降り出してしまってどうしようかと思っていまして、と笑ってみせた。
すると、男はにこやかに、それならばうちで雨宿りすれば良い、と提案してくる。
「これでも、私、この村の村長でして」
家も大きい方ですし、ここは山ですから、雨の道を帰るのも心許ないでしょう。
男の提案は嬉しいものだった。
では、お言葉に甘えて、と諏佐は頭を下げる。
村の入り口辺りに止まっている愛車は、行きでもぎりぎり走行だった。
この雨の中、真面に進むとは考え難い。
「良かったですね」
隣で黒子が笑った。
案内された先は、嘘偽りなく大きな家だった。
屋敷、と言った方が近いかもしれない。
男が客だ、と言って二人を広間へと通すと、
勢揃いしていたらしい人々の目が一斉にこちらを向いた。
「桐皇大学教授の諏佐と申します。
この雨で困っていたところを、彼に助けてもらいまして」
素性を明かすと、人々は笑みを漏らす。
男がすみませんね、と頭を掻いた。
ちょっと親族で話し合いがありまして、
でも部屋はお貸ししますから、どうぞ泊まっていってください。
「いえ、こちらこそ。急に押しかけてしまってすみません」
「いえいえ、私の言ったことですから」
そういう一通りの会話をこなした後、二人は客間に通された。
小さな部屋だが綺麗に片付いている。
「こういうの、ミステリで良くありますよね」
黒子が呟いた。
「土砂降り、隔離された村、大きな家、集まっている親戚」
人でも死にそうですねえ、という口調はのんびりしたものだ。
諏佐はそれにため息を吐く。
そんなことを言うのは一人で充分なのに、
そして今回その人間はいないのに、どうして同じようなことを言うのだろうか。
ため息の理由を心配だと思ったのか、黒子は微笑みを寄越す。
「大丈夫ですよ、僕は勿論、教授だって死にません」
「随分きっぱり言い切るんだな」
「だって、」
こちらを向いた黒子は、とても見覚えのある笑みを湛えていた。
いつも、見ている笑い方。
いつも、隣にいる人間と、おなじ、笑い方。
「教授を配役するなら、探偵、ですから」
探偵が死んでしまったら事件は解決しませんよ、と囀る声は雨音に飲まれていった。
ばたばたと足音がして、諏佐と黒子は部屋から顔を出した。
「どうかしたんですか?」
「あ、先生」
ちょうど良く通りがかった先ほどの男が焦った顔をしている。
「実はですね、麓から村への道が土砂崩れで駄目になってしまったようで…」
うわあ、と横で黒子が吹き出した。
男は慌てたように、
勿論、麓への連絡は澄んでいますし、すぐに復旧するとは思いますが、と付け足す。
雨は強くなっていた。
男は七時に夕食が出来る予定ですので、出来たら持っていきますね、と笑った。
ありがとうございます、そう言ってから戸を閉める。
「…お前が物騒なことを言うからだぞ」
思わず出たのはそんな文句だった。
「僕の所為ですか?」
白々しく黒子が声を上げてみせる。
「言霊と言うのはすべての人間に等しく使える力ですよ。
勿論、言葉を知っていればの話ですが」
人間というのはそれだけで力を持つのですよ、と黒子は囀った。
その根幹は心だとか、魂とかそう言ったものにある。
望もうとも、望まざろうとも。
「僕は確かに他よりも少し影響を与えやすい位置にいるかもしれませんが、
それだって言葉が聞こえればこそ、という話です」
ましてや、そういうものが一番に乗りやすい、言霊など。
「敢えて責を問うならば、それは僕の言葉を否定しなかった貴方にあるのでは?」
少し、様子を見てきますね。
そう言ってうきうきと屋敷の中へと繰り出した黒子を放置して、
諏佐は携帯を取り出した。一応電波は立っている。
慣れた動作で履歴から番号を呼び出すと、
『はいはーい』
ワンコールでいつもの声が聞こえた。
土砂崩れで道が封鎖された旨を伝えると、電話の向こうでええ、と悲鳴が上がる。
『花宮もそっちやん…今夜ワシ一人?』
「一人で寝れるだろ?」
『ワシのこと何歳やと思うてんねん。…でも、やっぱ寂しいやん』
これは封鎖でもされていなければ、今すぐ帰って来いとか言われていたのだろうな、と思う。
諏佐なら大丈夫やて!と笑う今吉が脳裏の隅に出てきたので、全力で叩きのめした。
確かに、確かにどんな悪条件でも大丈夫ではあるだろうが、
それでも諏佐には面倒臭いという感情はあるのだ。
何が悲しくて悪条件の中へと飛び込まなければならないのだ。
他愛もない話をしてから、じゃあ、と締めくくって通話を切る。
「今吉先生ですか?」
いつの間にか帰って来ていた黒子が問うた。
「ああ」
それに対して驚きも示さず、諏佐は答える。
「あの人、ごねたでしょう。今すぐ帰って来い、とかって」
諏佐は半眼になって、胡乱に黒子を見つめた。
「お前と、良く似ている」
「…やめてくださいよ」
運ばれてきた夕食は美味しかった。
風呂を使っていいと言われたので、お言葉に甘えて用意をする。
トイレに行ってくる、と黒子が部屋から出て行ってから、
貸してもらった着替えを整えていると、諏佐さん、とトランクの中から声がした。
「黒子から離れたらいけませんよ」
それには、いつものように、そうか、と返すだけに留めた。
風呂から出て部屋へと戻ると、中にいた黒子の表情は歪んでいた。
こういういのはなんて言うのだったかな、と思っていると、すさきょうじゅ、と縋り付かれる。
「だめです、ここ」
絞り出されるように告げられた言葉に、一つだけ頷く。
ずん、と空気が重くなるのを感じた。
「…出ましょう」
例えるなら、水の入ったビニール袋が裂ける瞬間を見ているような。
黒子が諏佐の手を掴む。
「とんでもないものを閉じ込めていたみたいですね」
温度のない手だな、とそう思った。
確かに掴まれている感覚はあるのに、温度がないと、
その白い手をぼんやりと眺めながら、諏佐はそう思った。
ぼたり、ぼたりと音がする。
その音を背中で聞きながら、諏佐は別に逃げなくても良いのに、と呟いた。
「目の前のものを守れないというのは、わりとクるんですよ」
その呟きに、黒子は振り返らずに返す。
「正義であろうなんて言いませんが、せめて、手の届く範囲のことは」
黒子のことは、景虎から少し聞いたことがある程度だ。
黒子自身、そう自分の身の上話はしない。
まもれなかった、って思ってンだよ。
景虎はそう言っていた。
そういうものになったはずだったのに、力が及ばなかった、ってな。
禁煙の場所で煙草を吸いながら、難しい顔をする。
元々曖昧なモンなんだから、仕方ねーと思うんだけどな。
そのぼやきに、諏佐は何と返したのか憶えていない。
「…あまりに、人間らしいですかね、こういうのは」
その声に力がないのを感じ取って、こういう場合はどうすれば良いのだったかな、と思考する。
いつでも練習をするつもりでいろ、それは今吉から耳にタコが出来るほど言われていることだ。
「…そんなに違うものなのか」
けれども、結局良い考えは思い浮かばなくて、話を逸らすことにした。
この場合、逸らしたというより戻した、の方が近いのかもしれないが。
「そうですね、近いものではあると思います」
諏佐の手を引き歩いて行く黒子は、とても固い表情をしていた。
「のろいもまじないも同じ字を書くでしょう、本質は変わらないんですよ」
ぱた、とその脚が止まる。
長い廊下はまだ半分も行かないくらいで、
電球が古いのか、うすぼやけた光が木目を照らしきれずにいた、その先。
「やばいです、囲まれました」
うぞうぞと動きを止めないそれらに、わたあめのようだ、という場違いな印象を抱いた。
白いそれらはひどく柔らかそうで、ああ、そうだ、と思い付く。
黒子の指に、とても似ている。
「…来ませんね」
じっとその白いものたちを眺めていた黒子がぽつり、と呟く。
「仲間だと思われているんでしょうか」
なかま、と諏佐が繰り返すと、ええ、仲間です、と黒子が返した。
その目線は相変わらずその、わたあめみたいな塊に向けられていた。
「仲間だと思われてるならイチかバチか方法があります」
気が進まない、そんな声。
「あの人から貴方を奪うのは、あまりに寝覚めが悪い」
黒子が振り返る。
その手がすっと振り上げられた。
諏佐は動かなかった。
目が合う。
その向こうがすい、と透けて見えるような、そんな心地。
がり、と嫌な音がした。
「…ッ」
「…諏佐教授でも痛がりはするんですね」
「一応人間だからな」
「そうでしたね」
ぶっ刺さったな、と諏佐は思う。
黒子はその白い指を何でもないことのように引き抜いた。
思わず擦るが、諏佐の頬には傷一つない。
同じように、黒子の指にも特に血がついたりしてはいない。
「今、其処に呪を付けました。これは目印のようなものです。
別に守護等の効力はありませんが、この人だけは絶対に何があっても祟らない、
というマーキングだと思ってもらえると分かりやすいかと」
一歩、進んでみてください。
黒子の言葉に従って脚を踏み出すと、白いものたちは戸惑ったように見えた。
震えているみたいだ、と思う。
一歩、一歩。
ゆっくりと、確実に進むと、その分だけそれらは下がって行って、
最終的には壁の中へと消えていった。
ふう、と黒子が息を吐く。
「…今吉先生には言わない方が良いと思います、とだけは言っておきますね」
「…そう、だな」
痛みのない頬を気にするように撫ぜながら諏佐は同意した。
翌朝、起きてみると既に雨は止んでいた。
昨晩のことは夢か何かだったように、屋敷は静かで、
しかしそれでも廊下ですれ違った男の、顔の青さは増しているような気がした。
「この家もすぐ、傾くのでしょうね」
出された朝食にありついていると、黒子が零した。
「あれは人工的な福の神でしょう、それも人間の悪意を集めてつくったもの」
頷く。
「そういうものは大概が封印されているものですが…
昨日のあれは、封印が解けたってことなんでしょうね」
「そうだろうな」
「可笑しいですね」
それ美味しいですか、と黒子はたまご焼きを指し示した。
今吉の方がうまい、と返すと、本当に素直ですね、貴方は、と笑みが漏らされる。
「封印さえされていれば神として機能する、なんて」
もう道は復旧したそうですよ、と伝えに来た男に、諏佐は深々と礼をした。
部屋を使わせて貰ったこと、食事や風呂まで世話になったことに感謝を述べると、
こちらも助かりましたから、と男は疲弊した顔で笑った。
屋敷を出て、村の入り口まで戻る。
一晩雨に打たれて、若干綺麗になったようにも見える愛車に乗り込んだ。
「安全運転でお願いします」
黒子が笑う。
アクセルを踏む前に、諏佐は一度だけ振り返った。
美しい景色だった。
聳え立つ山の影が朝靄の中に紛れて、手招きをしているようにも見えた。
諏佐教授、と黒子が呼び戻すように言うのにおざなりな返事で振り返る。
シートベルト、ミラーを確認して、レバーを掴んだ。
るろろ、という音と共に車体が揺れ、のろのろと進み始める。
ルームミラーで名残惜しく後ろを見た。
そこには、ただ、清廉たる朝があるばかりである。
その家がどうなったのか、誰も知らない。
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20140522