シアンの裏
「すさぁ」
昼から帰って来るとすぐさま浴びせられたその声を聞いて、諏佐はまたか、と思った。
「…今度は何だ」
今吉がこういった甘ったるい声を出す時など限られている。
その声に諦めたような音程を感じたのか、今吉は申し訳無さそうに眉尻を下げた。
意味のないことを良く繰り返す男だ、諏佐は思う。
「…これ」
今吉が差し出したのは小さな手鏡だった。
それには諏佐も見覚えがある。
今吉がいつも持ち歩いているものだ、確か高尾からのお土産だったと記憶している。
それが、今や無残に紫色に塗り潰されていた。
「一応聞くが、自分でやったのか?」
「ンな訳あるか」
「だよな」
今吉は物を大切にする。
それが“仲の良い”人間からの贈り物なら尚更だ。
「最近また引っ掻き傷増えたなー、可笑しいなーて所持品ひっくり返して探してみたらこれや」
ほーんま、勘弁して欲しいわ。
今吉は笑おうとしたようだったが、その口元は少しばかりひきつっただけだった。
引っ掻き傷と言われて、諏佐はああ、と頷く。
言われてみれば確かに、今吉の周りを彷徨く彼は、最近そわそわしている。
「…マルちゃん怒っとる?」
納得したような表情をしていたのだろう、今吉が不安そうに聞いてきた。
「怒ってはいないが、その鏡を割るだけの力がないことが悔しいらしいぞ」
「はは、マルちゃんらしいわ」
今度こそちゃんと口角が上がる。
上がったように、諏佐には見えた。
息を吐く。
「マルちゃんが無理ならオレにも無理だな」
そもそも割れば良いものなのか、と問うと、今吉は珍しく、んーと唸ってみせた。
「ムラサキカガミについてはな、よう分からんねん」
「むらさきかがみ」
そういう名前なのかと繰り返す。
「一番有名なのは、二十歳までにその言葉を忘れなければ呪われるっちゅーやつやと思う。
呪いの内容もはっきりせんことにはせんのやけど、
まぁ、鏡の世界へ引きずり込まれてまう、てのが良く見る話やろな」
「鏡の世界」
確かに、ぼんやりとした話だ。
今吉も諏佐も二十歳なんてとうの昔に過ぎているし、
その辺のことは今回は考えずとも良いだろう。
「お前の鏡は塗り潰されていたようだが?」
「ああ、そういう話もあることにはあるわ。ただ、ポピュラーではないだけやな」
誰かの創作だったのかもしれん、と今吉は一端そこで言葉を切った。
暫く言い難そうに唇を噛んでいたが、渋々と口を開く。
「人の鏡を塗りつぶすんはな、簡単に言えば、呪うためや」
呪い、と諏佐は静かにその言葉をなぞった。
「心当たりは」
「ありすぎる…って程でもないけど、腐っても教員っちゅー立場やしな。
それに、こういうご時世や。何処で恨み買うてても可笑しくはないわな」
原因の特定をするよりも、単純に呪いを解くとか返すだとかの方向で考えた方が良さそうだ。
「確か呪いを解く呪文もあったはずやけど」
効くかどうか、と今吉は首を傾げる。
「一応聞いておこう」
「…“助けて、ホワイトパワー”」
一拍開けて呟かれたそれに、流石の諏佐でも怪訝そうに眉を寄せざるを得なかった。
こういう場面だ、今吉がふざけているとも考えにくい。
「そない怪訝そうな顔せんといて…ワシやって今言って、ちょっと恥ずかしかったんやから」
「呪文というより台詞だな」
「せやな」
兎も角、とため息を吐く。
「分かっているとは思うが」
「おん、一人歩きはなるべく控えるわ」
でも、と立ち上がって今吉は一束、書類を手に取った。
「これ学長に出して来なあかんから。
それくらいは良えやろ。学校の敷地内やし、今は昼時や。人がおらんてこともないやろ」
「好きにしろ」
じゃあ行ってくるわ〜と明るく残して、見慣れた背中が視界から出て行く。
研究室の扉がゆっくりと閉まって、きゅう、と間の空気を押し出した。
「マルちゃんって何なんですか」
静かな問いかけに振り返る。
「見ての通りだ」
「そういうことを聞いているんじゃないって分かっているでしょう」
この遣り取りも面倒じゃないですか、と眉を顰めただろう花宮にいや別に、と返した。
「あの子は、今吉の生家の傍に住んでいたものだ」
「へぇ」
「今吉のことが気に入って、それから一緒にいるらしい」
「あの人も大概変なものに好かれますね」
いつものように笑ってみせる。
否定出来る要素など、今吉と共に過ごしてきた十数年で奇麗さっぱり消え失せていた。
学長に書類を提出した今吉は研究室への帰り道、止まらない悪寒に冷や汗をかいていた。
昼時だから人がいないことはない。
そう諏佐に言った言葉は偽りなく今吉の予想だった。
だからこそ馬鹿正直に今吉との約束を守ろうとしてくれている諏佐も、止めはしなかったのだ。
だが、こうして出てみればどうだろう。周りに人の気配がない。
否、行きはこうではなかったのだ。
誘い込まれた、と今吉は思う。
今までにこういう経験がなかった訳ではない。
なかった訳ではないが、今吉一人ではどうすることも出来ない。
ひたり、ひたり。
後ろで足音がする。
こういう場合は振り返ってはいけないのだよな、と今吉は他人事のようにそう思っていた。
走るべきか、それとも何か唱えるべきか。
一通りの祓魔系の呪文ならば趣味で覚えているが、そういうものは使うなと諏佐に言われている。
中途半端に力があると示す方が、かえって相手のものを刺激する結果になることも多いのだ、と。
ひたり、ひたり。
そうこう考えている間にも、その足音は近付いて来た。
足を速める。
すると、追い掛けるようにその足音も速まる。
逃げ切らなくては。
そうは思うものの、展開はお約束だ。
「…すさぁ、」
あかんわ、これ。
そう思った今吉の思考は、ぶつり、と其処で途切れた。
揺蕩う闇の中で、今吉はゆらゆらと揺らめいていた。
何処にでも自分がいるような、
けれども塗りつぶされてしまって分からないような、手を伸ばせど届かない、そんな気分。
このままではいけない、そう思っているのに、強い力で押し止められている。
この飽和する世界に無理にでも融け込むのを待っているように。
「…あかん、やろ」
融けたら仕舞いだ、そう思うが四肢に力は入らない。
このまま、と何処かで囁く声がしたような気がした。
このまま融けよう、それでも世界は変わらない、ただ今まであった通り、続いていくだけ。
耳元で、足の下で、頭の裏で、
瞼の上で、舌の奥で、腹の中で―――そんなものたちがまだ存在しているのか、
今吉には分からなかったが。
何処からしているのか分からない、
けれど何処からでもしているような、そんな声が聞こえた気がした。
「………諏佐!」
恐ろしくなって呼ぶ。
「花宮!武田教授!高尾クン!緑間クン!黒子クン!
相田センセ!笠松学長!若松!青峰!桜井!桃井!」
本当にそれが喉から出て行ったのかすら、今吉には分からなかった。
ただ一つ分かったのは、それに返す声がなかったこと。
誰も、いない。
分かりきった絶望が全身に広がっていく。
このまま、融けてしまうのか。
今吉翔一など最初からなかったようになってしまうのか。
「すさぁ」
たすけて。
「助けて!ホワイトパワー!!」
良く知る声が、その空間を切り裂いた。
はっと開かれた瞳を、まだ焦点の合っていないであろう瞳を覗き込む。
「おはよう」
「おはよう…?」
「今吉か」
「そうやけど…ってあれ。ワシ、戻って来たんか…」
ぼんやりとした光が眼鏡の向こうの瞳には宿っていた。
それを見て確かにこれは今吉だ、と諏佐はトランクに手をついて傾斜していた姿勢を元に戻す。
「ワシ…なんやめっちゃ嫌な空間にいたわ」
ぽつり、ぽつり。
冷や汗が落ちるような速度で、今吉は吐き出した。
色のない闇の中で、融けようとしていたこと。
誰にも声が届かず、頭が可笑しくなりそうだったこと。
自分というものの境界が失われていくような心地だったこと。
諏佐は黙って聞いていた。
そうして語り終えた今吉に、未だ余裕のなさそうな今吉に解えを落としてやる。
「…あの闇は、お前だ」
そういう、約束だから。
他でもない、今吉の願ったことだから。
「え、ワシ?」
ああ、と頷く。
「お前自身だ」
諏佐は今吉の横にしゃがみこんだ。
ばらばらに砕け散った鏡が、
紫に塗り潰されていた鏡が、今吉のポケットから落ちて転がっている。
「鏡は姿を映すもの、それに塗られた紫。
紫は力のある色だ、何かに使えば相応の効果が現れる」
すべてがひっくり返った鏡の世界。
それに力を与えれば、どうなるか。
その世界を実現させようとするのだろう。
呪いだとて願いだとて、そういうものに自我はない、心はない。
ただ一番近いもの、この場合は鏡の持ち主に対して働きかけるだけ。
「鏡に映る姿は所詮上澄みだ。仮面と言っても良いだろう」
人間は少なからずそういうものを身に付けて生きているのだろう?
そう問えば今吉は少しばかり顔を強ばらせて頷いた。
これも、今吉が教えたことだ。
会話の中で使う笑顔だとか、日常の挨拶だとか、相槌だとか。
人間はそういうもので武装するのが当たり前らしい。
だから、そういうものの一切を放棄しようとせん諏佐は、可笑しいのだと。
面と向かって言われた日のことは、忘れるなと何度も釘を刺されている。
すべてがひっくり返ってあべこべになるまじない。
本音が建前になり建前が本音になる。
それは、
そういう当たり前の中で暮らしている人間にとってはおそらく、とても恐ろしいことなのだろう。
そうか、と今吉は呟いた。
「手間掛けさせて悪かったなぁ」
「別に」
諏佐が立ち上がると、今吉も同じように立ち上がる。
「…はなみやぁ」
泣きそうな声で今吉は可愛らしいトランクを撫ぜた。
その顔は見えなかったが、恐らく声から想像のつくような表情をしているのだろう。
「ごめんなぁ」
諏佐の頭の中ははやくも、今日の夕飯の献立のことでいっぱいになっていた。
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20140417