証明



諏佐はその日、学食へと来ていた。
今吉は出張でおらず、たまには学食でも良いだろう、と思った結果だった。
今吉がいれば交代制の料理当番に弁当も含まれているため、大体は持参になるのだが、
いなければ少なくはない金を出して手間を惜しみたいと思うのも可笑しいことではない。
それに、諏佐の勤める大学の食堂は、美味しくてリーズナブルだと学生に人気だ。
時折生徒に混じって食べたくなることだってある。

そういう訳で一人、諏佐は学食の隅できつねうどんをつついていた。
確かこれを絶賛していたのは、今吉のところに遊びに来ていた高尾だったか。
隣で緑間がたぬきそばの方が良いとか言っていた気がする。
今吉の方もたぬき推しのようで、
研究室は少し喧しくなって、帰ったら花宮が非常に拗ねていた。
「諏佐くん」
そんなことを思い出していたら、やわらかな声がかかった。
振り返ると、プレートを持った恩師が其処に立っている。
「武田教授」
「こんにちは。お隣、良いですか?」
「どうぞ」
ことり、と置かれたプレートの上にあったのは、たぬきそばだった。

ざわざわと学生たちの喧騒を聞きながら、静かな昼食が進んでいく。
器の中身が半分ほど減った辺りで武田は箸を置き、一緒に持ってきていた茶を啜った。
そして、諏佐くん、と呼び掛ける。
この呼び方は学生時代から、
同じ大学に教員として身を置くようになってからも変わらなかった。
「君は、不思議なことを信じますか」
「ふしぎなこと、ですか」
「君の友人の今吉くんは不思議なことがとても好きなようですが、君は。どうですか」

学生時代。

出会ったばかりの中学時代や、
機動力を得始めた高校時代と比べればまだましな大学時代だったとは思うが、
それでもパワフルだった今吉を、彼は知っている訳で。
それをただとても好き≠ニいう単語で言ってしまえるこの人を、
すごいと言っていたのは今吉本人だった。

好きか、嫌いか。
それを、諏佐はあまり考えない。
周りにいる人間に対しての評価も、そんなにしない。
それをきっと、武田は気付いているだろう。
今吉の言う嘘に乗っかってはくれるが、
この人の目は時折、此処でない何処かを見ている気がする。
「…嫌いでは、ないと思います」
そう吐くと、そうですか、と返って来た。
「では、少し、老人の話に、付き合ってはくれませんか」
きつねうどん、伸びてしまったらすみませんね。
武田は柔らかく笑った。



君たちが、この学校を卒業してからのことです、と武田は前置きをした。
「この学校では臨時講師を雇うことになりましてね」
「臨時講師、ですか」
「ええ、臨時講師です。とても優秀な方で大学としてもとても助かりましたし、
とても人のよい方で、すぐに生徒とも打ち解けました。
敢えて欠点をあげるとしたら…そうですね、
ヘビースモーカーで、流石に授業中は吸いませんでしたが、
その他の時はずっと煙草を手にしているところ、でしょうか」
「それは………また、」
「何処か子供のようなところのある方でして。
そういうところが生徒から共感されたのかもしれませんね」
その講師のことを思い出しているのだろう、武田は楽しそうに笑う。
そうしてもう一口茶を啜ると、ある日のことです、とまた話を続けた。
「ぼくはですね、一人の少年を見たんです」

不思議な―――不思議な少年だったそうだ。
「まるで水を纏ったように、視認しにくい子でしてね。
見た目は…そうですね、幼稚園児程度だったでしょうか。
何故こんなところにそんな小さな子が、とも思ったんですが、
話しかけようとしても逃げられてしまいましてね。
暫く心配で眺めていたのですが、
そのうちに、その臨時講師の方の知り合いということが分かりまして」
「はあ」
「先ほども言った通り、彼はとても良い人でした。
ですから、さして心配はありませんでした」
そうですか、と諏佐は武田のたぬきそばを見る。
諏佐の分はきつねうどんなので冷めて伸びるくらいだが、武田の方はたぬきそばだ。
揚げのさくさく部分がなくなってしまうが、良いのだろうか。
「そうして彼の任期は終わりまして、
その子供の姿も見ることがなくなった―――と、思っていました」
「見たんですか」
「ええ」
諏佐はたぬきはさくさくの方が好きなのだが、武田は違うのだろうか。
「別段ぼくの前に姿を現している訳ではなさそうでしたが、
そうですね、強いていうならきっと、この学校が気に入ったのでしょうか。
ぼくは一度も彼に話し掛けることが出来ないでいるので、本当のところは分かりませんが」
「そうなんですか」
「ええ。ですからぼくは、彼について空想するしか出来ないのですよ」

それからも、武田の話は続いた。
少年の姿が徐々に大きくなっていったこと、
人には見えないもののようであること―――人間ではないらしいということ。
それら一つひとつに頷きながら、冷めていくうどんを見つめていたのは、
一応諏佐にだって就職に際してこの人にお世話になったという自覚があるからだった。



武田がまた茶を啜るのと同時に、目の前にいた集団が席を立った。
そろそろ、午後の講義が始まる頃だ。
諏佐には次の時間の予定はなかったが、確か武田は違ったような気がする。
「長く付きあわせてしまいましたね」
そう、武田は笑った。
それは長い話が終わったという合図だった。
「今のは、………本当の話、ですか?」
「さぁ?」
ふふ、と笑ってみせた笑顔は、数十年前、学生の頃に見たものと何ら変わらないように思えた。
「何一つ証拠のない、ぼけ老人の与太話かもしれませんよ」

ぼけ老人なんて、ともしも此処に今吉がいたのなら言っただろう。
武田は賢い人だ、今吉と諏佐の紛れるための茶番にも付き合ってくれる、賢い人だ。
そうですね、と残りのそばを飲み込んだ武田が呟く。
「私の言ったことが嘘だと、誰が証明出来ましょう」
ごちそうさまです、と手を合わせる武田の横で、諏佐も残りのうどんを飲み込んだ。
最後までとっておいた油揚げはつゆをいっぱいに吸って美味しかった。
確かに、これはリピーターにならざるを得ない。
「嘘だと跳ね除けるのは簡単なことです。
自分だけを信じて生きていくのも、それなりに簡単なことです。
でも、それではあまりに寂しいではありませんか」
無料で付けられるお茶は少し苦かった。
「彼も―――」

すっと、遠くなる目線。
その先にはレンガの敷かれた道があった。
この大学構内に伸びる、生徒たちの道標。
「彼も、そうなのでしょうね」
その上を、走って行く生徒たち。
午後の講義に間に合うように、せかせかと移動している。
「何を信じたら良いのか、自分は何者なのか、まだ掴みきれていないのでしょう。
だからこそ、不規則だ」
その集団の中に見慣れた頭があることを、諏佐は言われなくても分かっていた。
「でも、友人が出来たようで、私は安心しています」
よく図書館の隅で、二人一緒にいるのを見ますよ、と武田は柔らかく笑んだ。
赤い髪の、とても真っ直ぐそうな青年です、
そう続けられた特徴に、諏佐は一人の名前を思い出す。
とても、嬉しそうに紡がれていたその名前を。

友人、と。
諏佐は彼らの関係をそうだと思っていた。
恐らく彼ら自身もそう思っているだろう。
特に、赤い髪をした真っ直ぐな青年の方は。
けれどもこうして話をして、そうは見えないと言う者もいるのだろう、と思い出した。
ままならない、と思う。
やりたいようにやったらやったで、
いろいろと言う輩のいるこの世界は、やはり、いきぐるしい。
「彼は留まるしか出来ない存在なのでしょう。
一人、そこでずっと見送る側であることが、どんなに寂しいものなのか、私には知れません」

武田が立ち上がる。
それに合わせて諏佐も立ち上がった。
「それでも、此処を彼が選んだことは、
決して無意味な選択ではなかったのだと、そう思うのですよ」
もう食堂から見える範囲に、あの頭はなかった。
「これは、教師としてのエゴでしょうかね」

笑った武田は、答えを求めていないように見えた。
見えたので、諏佐は片付けておきますよ、と武田のプレートに手を伸ばした。



  



20141225