無垢なる異形



「暗い地獄の案内(あない)を頼む…金の羊に…鶯に…」
夕陽の差し込む薄暗い研究室に、諏佐の涼やかな声が唄を紡ぐ。
小さく、耳に馴染むような優しい速度で、唄は続いていく。
「啼けば反響(こだま)が地獄に響き…狐牡丹の花が咲く…」
「すさぁ、それ、何?」
それを遮ったのは同じ部屋で作業をしていた今吉だった。

此処はとある大学の研究室。
教授である諏佐とその助手の今吉は、赤く染まるこの部屋でそれぞれの仕事をこなしている。
「悪い、煩かったか」
「いや、諏佐の読む声好きやから、別に良えんやけど」
諏佐がこうして歌やら詩やらを小さく唄うのは今に始まったことではないし、
付き合いの長い今吉は既に慣れてしまっていた。
言葉通り今吉が諏佐のその癖を好んでいるのも事実だ。
それに、今は研究室に諏佐と今吉の二人しかいないのだから、文句を言う人間もいない。
「何かちょっと、今日のはおどろおどろしい内容やな、と思て」
「トミノの地獄って詩だよ。
地獄を旅する詩だから、確かにおどろおどろしいかもな」
でもテンポが良いからつい口ずさみたくなるんだ、と笑った諏佐に、
今吉は何やら思い当たったようにああ、と零した。
「声に出したら呪われるいう」
「そうなのか?」
「都市伝説や」
独特の雰囲気のある映画に使われたらしいから、それが尾を引いたんちゃう、と今吉が言う。
へぇ、と諏佐は漏らした。
それは知らなかった。

全文を読んだことがない、という今吉のために諏佐は覚えていたそれを書き出し、渡した。
癖のない流れるような文字の上を、今吉の瞳が味わうように滑っていく。
諏佐はこの詩が結構好きだった。
テンポが良いのはもちろん、言葉一つひとつが美しいからだ。
舞台は地獄という場所の中で一番に恐ろしい無間地獄であり、
そんな場所を一人旅することになった少年が、理由はともあれ哀れに思えるはずなのに、
時折それを忘れてしまえるほどに。
「諏佐はこの詩、どう解釈したん?」
読み終わったのか、今吉が顔を上げた。

今吉はこうして時折諏佐に投げ掛ける。
別段嫌だとも面倒だとも思いはしないが、以前気になって聞いたことがあった。
何故問うのかと。
何故自分なのかと。
諏佐は自分でも頭が良い分類だとは思っているが、
だからと言って間違いを犯さない訳ではない。
しかし、今吉がほかの人間に同じように問うているのは見たことがなかったし、
諏佐に聞いたあともひどくすっきりしたような顔をしているのが常だった。
「だって、諏佐は正しいやんか」
まるで当たり前だとでも言いたげな表情で、今吉は答えた。
「ああ、言葉足りんかったな。
諏佐にはそういう運もあるんや、謎の核心に遭遇する運が。
やから頭の良い諏佐は必ず正しい結論に辿り着く…ワシはそう思うてる」
まるで探偵やな、今吉が笑うのに、諏佐ははぁ、と他人事のように頷いていた。
「別に本当に正しくなくても良えんよ。
諏佐が絶対に正しくあろうとせんでも、ワシは構わん。
諏佐がワシの正義、それだけや」
危ういな、そう思ったことは口にしなかった。
その日から、今吉に対してのみ、諏佐は探偵役を演じることにしている。

「…そうだな。
無垢であるが故に異形とされ、全ての罪を背負わされた…と言ったところだろうか」
「ほう」
「けれどそれは一人の少年に限ったことではなく、人間全てが…同じことをしていると。
無垢であるが故に異形なのは魂で、人間は生きる上で、
内在する悪によってそれを穢し、傷付けている…オレはそういう風に解釈した」
諏佐の言葉を、今吉はふんふんと頷きながら聞いていた。
「…諏佐はきっと、魂と一緒なんやろな」
「オレ?」
「そうや」
対面の席から、すっと今吉が手を伸ばしてくる。
「悪を内在するのは人間やろ?
そんなものに興味持てへん諏佐は、悪すら内在していない無垢なんちゃう?」
ひたり、と心臓の上に添えられる冷たい指先。
其処から今吉には、諏佐の心音が聴こえている。
「オレは人間ではないと?」
「まぁそうとも取れるな。
無垢すぎる人間は人間から脱して、何か別のモンになってまうんやろな」
眼鏡の奥の今吉の瞳はいつも通りに細まったままだった。
「…オレには、お前の方がそうだと思えるけどな」
「リップサービスはいらんよ。
そんなことあらへんて、ワシでも分かるわ。
ワシきったない人間、大好きやもん」

寒い部屋の中、慈しむような視線でずっとそれを愛でていた彼を思い出す。
ひたすらに、ただ愛だけを注ぐようなその姿こそ、無垢と言えるのだと思った。
感覚というのは総じて相対的だ。
逆を知らなければ正しくその価値を知ることなど出来ない。
だからこそ。
汚い、汚いとたった今罵ったその中から、美しいものを見つけて愛せる今吉こそ、
無垢なる異形と呼べるのだ。

「汚い人間共の罪を背負わされて、一人地獄を旅する羽目になる、可哀想な諏佐教授。
…なぁ、お前もそう思うやろ?花宮」
今吉の呼びかけに応えはない。

「さて、と。ワシは学長のとこ行って来るわ」
言いたいことは言ったと言わんばかりに、
ひらひらと書類を諏佐に見えるように振り、今吉は立ち上がった。
使用教室や講演会の日程など、その他諸々の仕事は今吉に一任してあるので、
学長に会いに行くのはその一環だろうと簡単に予想がつく。
ぱたり、と扉が閉まると、諏佐は力を抜いて椅子の背にもたれかかった。
「地獄ござらばもて来てたもれ…」
「針の御山の留針を」
後を続ける凛とした声に、諏佐はそちらに目をやる。
声の主は分かっている。
「…知ってるのか」
「オレはあんまり好きじゃないですけどね」
その言葉に諏佐はやわらかく微笑んだ。
彼が素直でないことは、一緒に暮らした期間で充分過ぎるほど分かっている。
「…もし、今吉が阿鼻に堕ちることになったら、ついていってやろうな」
「何でオレが。嫌ですよ。
オレは諏佐さんと天国行くんですから」
「そうは言ってもお前、今吉のこと嫌いじゃないだろ?」
可愛らしいトランクの中から、もう声は返って来なかった。

「赤い留針…だてにはささぬ…可愛いトミノのめじるしに…」

手探りでしか進めないこの世界で、正しく道標であるように。



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引用「トミノの地獄」西条八十
20121228