失えない、失いたくない。



第五話



紫子は一度ゆっくりと目を閉じると、盛大にため息を吐いて見せた。
「…分かったわ」
「マスター！？」
涼水の動きを止めていた従業員の男が声を上げる。
「この子を行かせるつもりですか！？」
「ええ」
「なん…ッ。今の話を聞いてた僕でも分かりますよ！
この子を行かせるなんて自殺行為にも等しいじゃないですか！！それを…！」
「だって」
その蒼くて綺麗な瞳が開かれる。
「私が止めても、涼水は行くんでしょう？」
間髪入れずに頷いた。

待つことも大事だ、それは分かっている。
その方が良いことだって、賢いことだって、分かっているのだ。
それでも、涼水にはそうすることなんて出来ない。
今までいずみはきっと涼水の知らないところで、
同じような危険を乗り越えて来たのだろう、時には涼水を守って。
そうなんとなく分かっていても、そうだと気付くのはいつだってすべて終わったあとで。

こんなふうに涼水に悟られるなんてこと、今までになかったのに。
それは、それだけ切羽詰まっているとは言い換えられないだろうか。

そう考えてしまったら、じっとなんてしていられない。

「私たちの目を盗んで行かせるよりもそれなりの準備をさせた方がきっと良いわ」
「そうは言っても、」
「良いの、千尋。うちは客を選ぶ店なんだから。
上の倉庫の右の黒い棚の三段目に緑の小さい箱あるから、取ってきて」
「…分かりましたよ」
するり、と拘束が解けて、千尋と呼ばれた従業員は階段を上がっていった。

立ち上がった紫子が手を差し伸べて涼水を立たせる。
「涼水の気持ちは分かった。
でもね…いずみには伝わらないかもしれないわ」
「それは…」
「いずみは防衛意識はちゃんと備わっているみたいだけど、
そういった自分に向けられる想いに対しては鈍感よ。
あの子の場合、そういうものに触れる機会が少なかったのもあるのかもしれないわね」
絡んだ視線にはっとする。
「それでも、行く？」
揺れる瞳。
潤んだ蒼がよりいっそう涼水を捉える。
「私には出来なかった。
そしてきっと、貴方は私よりも力がないわ―――それでも、行く？」

答えなんて、最初から変わらなかった。



「持ってきましたよ」
「ありがとね、千尋」
緑色の箱の中にあったのは、緑の縁の眼鏡だった。
「これはあらゆる術を跳ね返す眼鏡よ。
これをかけていれば、少なくともＨに操られることはなくなる」
受け取って掛けてみる。
特に視界には変化は見られなかったが、紫子が言うのならば大丈夫だろう。
「でも彼だって弱くはないわ。
眼鏡を取られたら意味がないこと、分かってるわね」
「はい、大丈夫です。あの、対価は…」
「後払いで良いわ」
背中を押される。
「…行ってきます」
小さくそう呟いたのは、これが我が侭だという自覚があったからだ。
そのまま駆け出す。

扉の向こうは真っ暗だったけれど、
反対側にある微かな灯りに向かって走れば良いのだと分かっていた。



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