今まで、知らなかったもの。
第十ニ話
ぽう、と何か光るものがHの右目から出てきた。
「何、あれ…」
『対価。
いずみが願いを叶える代わりにあいつからもらうものだよ』
涼水の独り言にアルトが返す。
いつの間にか手は離れていた。
少しだけ残念だと思う。
この店がそういうシステムなのは知っていた。
けれども、こうして立ち会うのは初めてで。
「…きれい」
薄暗い廊下でいずみの小さな掌に落ちていくその光は、まるで蛍のようで美しかった。
いずみはその光をどこから取り出したのか小瓶に入れると、
何か囁いてから、ぱん、と手を打った。
途端、視界が開けたような心地になる。
「終わった、の?」
『ああ』
アルトの淀みない返答に、彼はこの場面を何度も見ているのだろうと思った。
涼水が触れることを許されていなかった、この店の本当。
護られていたからだと分かっている、けれど、悔しいような。
「これデ君は三年間、血筋に縛られなイ生活が出来ル。
勿論途中で契約を切っテ血筋に戻ルことは可能だけレド、差し引キ分の対価は戻らなイ。
そこは把握しテおいてネ」
「分かった」
重荷の降りたような顔だった。
一つしっかりと頷いて、Hは目の辺りに包帯を巻き始める。
「…君がこれカラどうするかは勝手だけレド、
きっト彼女は心配していルだろうカラ、一度会っていクことをおすすめするヨ」
一瞬、その手が止まったように見えた。
「そう、だな」
何でもなかったかのようにそう返すと、包帯を巻き終えたHは裏口へと歩き出す。
小さくじゃあまた、と言った背中に、いずみが小さな声で投げた肯定は、聞こえたのだろうか。
「いずみッ!!」
「アーごめン、怖がらセちゃったよネ」
Hの姿が見えなくなったところで、
今まで張り詰めていた全神経がぷちん、と切れるような音が聞こえた。
身体に残る全ての力を振り絞るように傍まで駆け寄り、小さな身体を抱き締める。
怖がらせたとか、そういうことじゃない。
いずみは、分かってない。
そう言いたいのに、言葉にならない。
暫くぎゅうぎゅうとしてから、涼水は震える唇を押し開いた。
「いずみ」
今にも消えそうな声だと思った。
それでも言いたかった。
馬鹿だと分かりながらも宣言した、あの決意をなかったことにはしたくない。
「私も関わらせてよ。いずみのためなら私、強くなるから…ねぇ…」
懇願するようなその言葉に、いずみは静かに首を振る。
「駄目」
「なんで、」
「涼水、君の手は綺麗な手ダ」
小さな手が涼水の手をとった。
決してなめらかとは言えないその白い手は、
いずみがそれだけの世界に生きているという証明なのだろう。
「汚れていなイ、綺麗な手ダ。
だカラ、駄目。
こっちに来たラ、二度と戻れなイ。
君が、そうなル必要はなイ」
いずみの言わんとしていることはなんとなく分かった。
峙つ幽体の二人も少しだけ悲しそうな顔をしたから、きっとそういうことだ。
「…それでも、護られっぱなしってのは、いやだよ…」
思わず握る手に力が篭ってしまっても、いずみは何も言わなかった。
痛くないのか、それともこんな痛みには慣れてしまっているのか。
後者だとしたら涼水は悲しかった。
だって慣れてしまっていたとしても、それは痛くない訳じゃないから。
はぁ、と溜息が聞こえた。
「まァ、店のあれやこれやくらイはそろそロ教えよウと思ってたシ。
護身術くらいナラ、教えてくれル人手配するケド」
それじゃ、だめ?と首を傾げるいずみに、涼水は飛び付く。
「ううん、充分!」
小さな変化かもしれない。
けれども、涼水にとってはそれさえ素晴らしく思えた。
今まで引かれていた一線の向こう側へ足を踏み入れたような。
その先はまた考えたら良い、今はこれだけで良い、そう思えた。
千里の道も一歩から、だ。
抱き締めた身体はやはり小さかった。
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20140109