失われた記憶。私が私で在ったという証。



アルカアクル
「どうしたの、いずみ」 買い物バックを持った涼水は聞いた。 丁度夕飯の買い出しに行こうと思って、庭にいたいずみに声を掛けた所だった。 突然、門の方を振り向いたいずみ。 「ンー…何か感じタ気がしたんだケド…」 「ふーん。買い物行ってくるね」 首を傾げるいずみに別段危険なことではなかったのだろうと思い、涼水は背を向ける。 ぶわっと、嫌な感じが身体中を走り抜けた。 「…え?」 一瞬で門の向こうが黒いもので埋め尽くされる。 さっきまでいつもの商店街が見えていたのに。 「な、に…あれ…」 「涼水!?」 いずみの慌てた声と揺れた視界で、涼水は自分が門へ向かっていることに気付いた。 止まれ、止まれと念じても止まらない。 「何で勝手に…!」 声が震える。掴んで引き戻すつもりだったのだろう、 涼水に触れようとしたいずみがばちり、と弾かれた。 「いずみ!!」 数メートルは吹っ飛ぶいずみ。 そうしている間にも門との距離は縮まる。 「いずみッやだッ」 「涼水、手を伸ばしテ!」 精一杯に伸ばした手も届かない。 どぷ、と音がして涼水が門に飲み込まれて、 それから何事もなかったようにいつもの風景を映し出した。舌打ち。 「狙いは涼水カ」 玄関に備えられている無線を少し弄ると、 「涼水が攫われタ、今から追ウ」 それだけ告げて門のダイヤルを黒にセットする。 「僕を舐めるナ…」 そうして足を踏み出すと、もうそこにいずみの姿はなかった。 「…ん?」 涼水は目を閉じたまま身動ぎをする。 上手く動けない。 「あれ?」 目を開けた涼水が見たのは見慣れた木造りの家ではなく、無機質なコンクリートの床だった。 「此処、何処…」 「アンタの家さ」 降ってきた声に涼水が顔を上げると、そこに居たのはにやにやと笑みを浮かべる男。 「私の家?」 動こうとした涼水の腕を何かが締め付ける。 視線を落とす。 縄、がっちり。 「そーだよ。 何でお前がそこでぐるぐる巻きにされてんのか良く考えてみろよ」 考えろと言われても、涼水に思い当たることなどない。 「どういうことですか?」 そう返すと男の表情は面白いように変わった。 呆けた顔、そんな表現が良いのだろうか。 「お前、皇涼水だろ?」 「はい」 同姓同名でもない限りそれは間違いない。 「皇家の長女だろ?」 「へ?」 涼水は素っ頓狂な声を上げた。 “皇家”。 まるで、それが特別な何かのような呼び方。 「えっと、皇家って…何ですか…?」 予想外の答えだったのか、男は目を丸くする。 普通こんな状況に放りこまれたら、怯えるくらいしてはいいものだろうが。 「お前、記憶喪失なの?」 「はい」 やっと見付けた記憶の一欠片。 これを逃すのは惜しい。 「お前、おもしれェな」 男は唐突に放った言葉に、涼水は眉を寄せた。 「普通は怖がるだろ。 縛られてて動けなくて、目の前には知らない男がいるんだぜ?」 「…それ以上に、私の過去に興味がありますから」 好奇心とは何物にも勝る。 「オレはスカル。スカル・サンハチ」 ニタリ、と笑って、 「お前のこと、オレが知ってる少しだけ、教えてやるよ」 獣のような瞳だと、涼水は思った。 空を舞う紅、揺れる銀色。 道しるべのように息絶えている人々を辿ってくれば、そこにいたのは羅刹か人か。 「…いず、み」 絶え間なく浮かべられていた笑みは、今は見られない。 「…アァ、草希に十六夜」 その声は低く地を這うようで、二人は背筋に冷たいものが走るのを感じた。 「いずみ、」 何か声を掛けようとした草希をイザヨイが制する。 「…涼水は、渡さなイ」 今のいずみには、どんな言葉も届かないように思えた。 「お前は皇家の長女として生まれた。 皇家ってのは、特殊な能力(チカラ)を持つ、特別な家系だ」 スカルが話し始める。 涼水は黙ってそれを聞いていた。 初めて触れる記憶の欠片。 「特殊な能力っつーのは、まぁ、簡単に言うと癒しの能力だ。 どんな怪我だって治しちまう。 死人だって―――材料さえ用意すれば生き還らせることが出来る」 息を飲んだ。 死人を、生き還らせる? そんなことが出来ていいものか。 「材料って言ってもそうだな、この場合代価の方が正しいか。 そんな安いもんじゃねぇからな、人の命ってのは。 死人を生き還らせる代価は、生きた人間だ。 数は十万以上だと言われてる」 目を見開く。 スカルは実際はどうだか知らねぇけど、と笑った。 「私に、その能力があると?」 「自分で確かめてみろよ」 スカルはポケットから小ぶりのナイフを取り出してくるりと手の中で回す。 そして、涼水の無防備な太ももに容赦なく突き立てた。 声にならない。 肉を切り裂く音と共にナイフが抜かれる。 痛い、その思いが涼水を支配していく。 「やってみろよ、皇家の生き残り。 お前が出来ないはずがないんだ。なんせ、」 痛い、いたい、いた、い。 「神子(こころこたり)なんだからな」 目の前が真っ白になった。 肩で息をする。 一瞬で倦怠感が身体の隅から隅まで行き渡ったようだった。 「綺麗になってんじゃねーか」 スカルの手がゆっくりと、涼水の太ももを撫ぜる。 その不快さに涼水は身動ぎした。 「逃げることねーだろ。 これでお前がオレらの探してる皇涼水だって分かったんだから、仲良くしよーぜ」 傷一つ残らない自分の太ももに、涼水は吐き気に似たものを感じた。 この力は良くない、死人を生き還らせるなんて以ての外だ。 自分を落ち着けるように息を吐いた涼水は、カツン、というヒールの音を聞いた。 「目が覚めたのね?」 暗がりから現れたのは金髪碧眼の女性。 綺麗な人だな、と思った。 でもきっと、良い人ではない。 「久しぶりね、皇涼水。 逃げるなんて酷いじゃない?」 ねっとりと甘い声が、嫌に鼓動を早めるのを感じた。 「逃げ、た?」 「ハンナ、コイツ記憶がないらしい」 「ふぅん、やっぱり。それくらいしてると思ったわ」 ハンナと呼ばれた女性はしゃがんで涼水と目を合わせる。 「大丈夫、無理矢理にでも思い出させてあげるから」 赤いマニュキュアが塗られた爪が、涼水の額に触れた。 「あぁああぁッ!!」 涼水は絶叫した。 いや、声が出ていたかも分からない。 流れ込んでくる映像、頭が痛い。 私が忘れていたこと。 …忘れたかった、こと。 いつハンナが手を離したのかも分からなかった。 ただ苦しくて息を吸う。 「何をすべきか思い出した?」 認めなくなかった。 「もう代価は用意できたの」 十万人の人間、皇家の能力。 「あとは貴方がやるだけ」 それらを使って涼水がやるのは、ハンナの姉を生き還らせること。 「…いや…」 掠れた声が出た。 「あの餓鬼だって、きっと同じことを考えてた」 誰のことを言っているのか、知りたくもない。 「知ってるでしょう?銀色の餓鬼」 銀色の餓鬼―――そう表現できる人物は、涼水の知っている中で一人しかいない。 「あいつのこと、私知ってるの。昔のことを少しだけ。 あいつは最愛の人間を目の前で亡くしている。 ねぇ、涼水? そんな傷心のあいつの前に運命のように現れた貴方。 あいつはそんな素敵なものを、放っておくかしら?」 震えが奔った。 いずみはそんなことしない、と叫びたい。 でも大切な人が死んでしまって、利用出来る人間がいて、 それを考えないなんてことあるのだろうか…? ばたん、と扉が蹴破られる。 風に靡く銀色、香る紅。 「悪いケド、僕はそんな悪趣味ナこと、考えてないヨ」 いずみ。 その名前を呼ぶことは、今の涼水には出来なかった。 「随分早かったのね」 「任務遂行時間も成功率もNo.1だからネ」 ゆっくりと近付いて来るいずみ。 紅い瞳に映るのは、冷たい冷たい光。 「それはいつの話かしら」 「今も昔もだヨ―――社長秘書」 金属のぶつかり合う嫌な音。 「記憶、消えてるって聞いてたんだけど」 ハンナがナイフを少しずらす。 「さっき思い出しタ。 ホラ、此処の造りってあの建物と似てるじゃないカ。おかげデ、記憶は大方戻ったヨ」 いずみもトンファーをずらした。 二人が距離を取る。 「それは良かった。思い出して欲しかったし」 ニヤリと笑ったハンナに、いずみは呟いた。 「…悪趣味」 ざく、と音がして涼水は自分を縛っていた縄が切られたことを知った。 「ほら、早く立て」 「スカル?」 「行くぞ」 手を引かれるままに走り出す。 直ぐに二人の姿は見えなくなって、いずみは首を傾げた。 「何すル気?」 「保護よ」 ふぅん、といずみは頷いて、 「あんまリ、意味なイと思うけどネ」 めしゃり、どさり。 何の音だったのか、次の瞬間にはその空間に生きているものはいなかった。 「何処行くの!?」 「アイツの来ない所だ。 アイツが来たら、オレはお前と逃げることになってたんだよ」 「あの人、置いて行って良いの…?」 敵の心配なんてしてる場合ではないだろうに。 振り向いたスカルは、牙を向いたような表情だった。 「オレだってハンナを置いていくなんてしたくなった。 でもハンナの言うことは絶対だ。 下手に動いてハンナの邪魔はしたくねぇ」 ぎり、と掴まれている手に力が込められる。 「こっから出たら車でとなり町の別宅まで行く。其処まで行けば―――」 「大丈夫ダとでも思っタ?」 ひんやりとした声に思わず足を止める。 「いずみ…」 見慣れた姿。 ただ、纏っている空気は知らないもの。 まるで、其処に立っている人間が涼水の知らない人であるようだ。 「敵前逃亡は確カ死刑だったよネ?覚えてル?ねェ、No.38」 スカルの目が大きく見開かれた。 「な、何でそれを…」 「酷いナァ。元同僚の顔、忘れちゃったノ?」 クスクスといずみは笑う。 …見たことのない笑み。 スカルはじっといずみを見つめ、まさか、と呟いた。 「な、だって…お前、小さく…ッ。死んだんじゃ、なかったのか…!?」 その声には明らかな怯えが含まれていた。 正解、とでも言うように笑ったいずみが場違いに見える。 「君コソ。全滅させタと思ってたのにナァ。社長秘書が逃がしテくれたノ?」 いずみの手にあるナイフを見て、スカルは硬い表情のままナイフを取り出す。 「ああ、そうだよ。情けないと笑うか?」 「まさカ。生きてルって良イことだと思うヨ」 「…お前の口からそんな言葉が出るなんてな」 「人を死にたがりみたいニ言わないでくれル?」 会話する二人の向こうに、新しい人影を見る。 「草希さん!イザヨイさん!」 二人は涼水の所に真っ直ぐ向かってくる。 草希が安心したように涼水を抱き締めた。 「…良かった、無事で」 「私は大丈夫です!いずみが!」 あんな危険な男と向かい合っているなんて危険すぎる。 さっきの話を聞いただけで分かる、スカルは要らない人間に死を与えるタイプだ。 横でイザヨイが答える。 「いずみなら心配ないよ」 「どうして!ナイフなんて向けられてるのに…ッ!」 「…それより、他に仲間はいなかった?」 「あ、さっき…」 其処ではた、と気付く。 ハンナはいずみと戦っていたはずだ。 けれど、此処にはいずみだけが現れた。 涼水の表情を見て、イザヨイは頷く。 「そっちも片付いてるみたいだね」 片付いている。 それが意味することを、涼水はきっと知っている。 でも信じたくない。 「い、いずみを止めなきゃ!」 「無理よ」 ぎゅう、と草希に再度抱き締められる。 「ああなってるいずみは止められない」 「私でもちょっと力不足だなぁ」 そんな。 自然と視線は未だ向き合う二人の方へと移って行った。 「ハンナをどうした?」 「分からないノ?」 低い声で問うスカルに返って来たのは笑み。 スカルが睨み付けても意に介さない様子。 「十万人の命が失われるノと、お前たち二人が死ぬノ、どちらが良いかくらイ分かるだロウ?」 いずみが刃先をスカルの胸に宛がう。 それはあまりに自然な動作で、スカルも抵抗一つしない。 「思い出させてくれテ、ありがト」 感謝などしていないであろう口調。 「おかげデ、胸くそ悪イ気分だヨ」 「なん、ば…」 スカルの瞳が恐怖一色に染まり、いずみの唇は更に弧を描く。 音も悲鳴も、涼水は聞かなかった。 鈍い痛みが首筋に走り、涼水は意識を失った。
20121117