目を覚ますと見慣れた天井が目に入った。
「…帰って来たんだ」
涙が溢れた。
攫われたことの恐怖、戻ってしまった記憶、初めて見るあんな空気を纏った彼、
直面してしまった死―――いろいろなものが一気に込み上げて来てぐちゃぐちゃだった。
吐き出すように、平静を取り戻すかのように泣いて、泣きじゃくった。
どうして、何で、
疑問は尽きなかったけれど、涙にすることで少しずつ落ち着いていった。

やっと涙が止まった頃、見計らったようにイザヨイが部屋に入ってきた。
「落ち着いた?」
頷く。
「…いずみは、説明しないと思うよ。涼水は分かってるでしょ?」
その言葉にどきりとする。
いずみは嘘は吐かなかった。
言えないことは誤魔化したり堂々と秘密だと言い張ったりしたけれど、嘘を吐いたことはない。
だけど、同時に聞かれないことは言わなかった。
知ることは少ない方が良いとでも言うように、いつもそう。
少しだけ、壁を作っているかのように。
「私が聞けば、答えてくれるでしょうか」
「分からない」
イザヨイは首を振った。
「でも行くんでしょ?」
立ち上がる。
知りたい。
何故私は彼処から此処へやって来たのか、何故記憶が消えていたのか、
そして、いずみの気持ち。
彼は本当は何を思っているのか。
考えてみれば彼について知っていることは驚く程少ない。
二年も一緒にいるのに知らないことばかりだ。
知りたい。
涼水は部屋を出た。

「いずみ」
仕事場の扉をノックして入る。
「聞きたいことがあるの」
「全部には答えられなイと思うヨ」
いずみは顔すらあげない。
何語なのかも分からない書類を淡々と片付けていく。
「私はどうして此処に来たの?」
「君が望んだカラなんじゃないノ。
そうじゃないト此処には来れなイんだシ」
即答。
白狐の黎明堂は強く叶えたいと願うことのある人間が扉を開けると、
それが何処の扉でも門を潜れるという仕組みになっている。
そういう仕組に則って此処に来たというのなら。
「私も何か依頼をしに来たの?」
「ウン」
「それは何?」
「秘密」
終わった書類の山が宙を飛んで勝手に棚に片付けられて行く。
それは黎明堂従業員の仕業なのだから気にしない。
「同じ人間だとしてモ記憶がないナラ守秘義務は発生するんダ。だカラ秘密」
「記憶を消すっていう依頼じゃないの?」
「それモ秘密」
いずみの顔にはこれといった表情が見受けられない。
「…代価についても秘密?」
「ウン」
「最後に…一つだけ」
涼水はまだ一度もこちらを向かない顔を見て言葉を紡ぐ。
「いずみが私の依頼を受けたのは、好きな人を蘇らせるため?」
否定してくれれば、楽になれるのに。

ぴしり、と空気が凍った。
「僕ソレ、悪趣味って言ったよネ?」
やっと涼水を見たいずみは笑っていた。
「僕の前デその話は二度としないデ」
たん、と書類に手をついて立ち上がる。
「質問は終わリ。出てっテ」
扉を指し示される。
其処で、涼水は書類に紅いものがついているのを見た。
彼処はさっきいずみが手をついたところで、
あの紅いものは―――意味するところが分かって、涼水は視線に気圧されるままに外へ出た。
涙が頬を伝うのを感じた。
強い人だと思っていた。
ずっと強くて強くて、欠点なんかないんだと思ってて。
今日あんな風に闘う姿を見たから余計に。
紅いものが脳裏を奔る。
そうでもしなければ、耐えることの出来ない感情。

傷付けた。
「…私…ッ、いずみを、傷付けた…!」



いつの間に部屋に帰ったのか、気付いたら朝だった。
起き上がって昨日のことを思い返す。
きっといずみは何事もなかったように振る舞うのだろう。
涼水が攫われたことも、記憶を取り戻してしまったことも、
あの話のことも、それでいずみが傷付いたことも。
それで良いのだろうか。
「良くない」
言葉が漏れる。
「そんなの、絶対良くない」

顔を洗って朝ごはんの準備をして、仕事場にいるであろういずみの元へ行く。
言葉なんか決まってない。
でも、今行かなければ逃げたことになる。
「いずみ、入るよ」
「アレ、オハヨウ、涼水」
いつもの表情。
「朝ごはん?」
「え、あ、そうなんだけどね」
「わーイ、お腹減ってたんダー」
完全に流そうとしている。
仕事場を駆け出して行こうとするいずみを、
「いずみ!!」
思わず大声で呼び止めてしまった。
「いずみ、聞いて」
いずみは背中を向けたままだ。
「昨日のこと、ごめんね。
助けてくれてありがとう。
言い訳にならないけど、いろいろあって不安で不安で仕方なかったの。
いずみに否定して欲しかった。
そしたら楽になれると思ったから」
何も返って来ない。
「朝起きてね、自己中だなぁって思った。
私、いずみのこと何も考えずに聞いたから。
だから…ごめんなさい。
許して欲しいなんて言わないけど…いずみはなんとなく、
なかったことにしそうだと思ったから、それはだめだなって思って…」
まとまらない。
徐々に消えていく声に、いずみがはぁと溜息を吐いた。
「涼水は、その能力をどう思っタ?」
「…怖い、と思ったよ…」
自分の傷が跡形もなく消えたのを目の当たりにして、吐き気を覚えた。
「多分ね、私じゃない他の人が持ってたら便利だなぁとか思ったのかもしれないけど、
私は自分の傷が綺麗さっぱりなくなった時、怖かった。
こんな能力は存在していちゃだめだって思ったよ…」
「僕も同ジ」
いずみが振り返る。
「そんな能力を持つ人たちがいテ、その内の一人の君に会っテ、
駄目ダと分かっていてモ焦がれていたはずなノニ、突然恐怖を感じたんダ。
君が能力のことも忘れテ、僕は心底ほっとしていタ」
「思い出して、ごめんね…」
「それは涼水の所為じゃないデショ」
「…うん」
ぱん、といずみが手を叩く。
「サ、朝ごはん何?」
「塩鮭とお味噌汁だよ」
「お味噌汁の具ハ?」
「油揚げ」
「わーイ!」
廊下を駆けて行くいずみの背中を追う。



振り返れば無数の死体、思い出は闇に紛れるばかり。
それでも―――触れ合った指先の温度、肌から感じる心臓の鼓動。
生きている、証。

私もいずみも、生きて、此処に存在している。



20121117