たったら 

 みんみんみん、と蝉の声が重なり合って、その隙間がやたら目立って見えた。夏だ。諏訪洸太郎は思う。きらきらと眩しい日差しが容赦なくこの目を貫いていく。
 ふと、眼窩のその奥に影を見た気がした。自分と同じ形をしたそれに嘲笑が漏れる。一人、一人だ。どうしようもなく一人。蝉時雨のベールをくぐって走り出す。この掌に温度はない、汗はない、煙草の煙くさくない、自分と似た顔はいない。
「…はは」
乾いた笑みに、膝をつく。
 それでも夏はすべてを溶かしてしまうから、何を思考しようと愚鈍にも赦されたつもりでいられるのだ。



残像のあなたと踊り合いながらあらゆる夏は言葉が許す / 堂園昌彦

***

ゆめ

 弟というものがこんなに可愛い存在になるとは思っていなかった。どう見ても可愛いという言葉とは遠くかけ離れた不良然とした面立ちを見て、そんなことを思う。ついでに言えば、兄として機能できなかったことを考えればこの感情も本物なのかどうか怪しかったが。
「洸太郎」
それでも可愛いと、彼の頭を撫ぜるこの手は、やはり触れることなど出来ないけれど。

***

くろいはこ 

 ぶわり、とした黒い液状のものがその身体へと襲いかかる。この部屋の中では安心と分かっているはずなのにどうしても、ぼとぼとと落ちていく身体のパーツには心臓が痛んだ。痛覚も限りなくゼロに近い、そういう設定になっていると分かっているし、何度もこうして見ているはずなのに、いつまで経っても慣れはしない。腕、脚、首、胴体、何処が落ちても訓練室はすぐに再生を掛けるので、正直はたから見てしまえばギャグにすら見えるのだが。
 そんなことを繰り返しつつ、軽薄とさえとれる笑みを浮かべてその唇は紡ぐ。相手を煽る言葉を一つひとつ、慎重に選んで。けれどもそれを悟られないように。そういうところは本当真面目だな、なんて思う。恐らく美徳なんだろうが、
こちらとしては捨て駒扱いも同等と思える戦況に物申したい、なんてことも思っていた。
「諏訪さん、なんだか今日イキイキしてますね」
そう通信で囁いたのは笹森だ。
「いつも戦闘はめんどくさいとか言ってませんでしたっけ」
その言葉にうんうんと頷く。
 いつも近界民来ンな来ンなオレの担当時間に来ンなと喚いて煩い隊長を持って、この部下も大変だろうと正直思う。しかしそれでも隊長らしく彼らを引っ張ることはするのだから、あれは一種のスタイルなのだろうな、と思うが。だってそもそも根が真面目な人間なのだ。
「だって、敗けらんねーだろ」
その言葉に、そういえばこうしてあからさまに敵のいる戦闘は初めてだったな、と思う。第一次侵攻のあとにボーダーへと入隊した隊員が殆どで、その例に漏れず力を欲した少年。
 そういう覚悟なのだと思っていた。だから次の言葉には驚きのあまり言葉を失った。
「オレに期待してくれちゃってる馬鹿な兄貴がいるからさ」
白い、箱の中で。この年にもなって叱ってくれた兄貴がいるから。
 楽しげに彼は言う。けれども平坦な、おそろしいほど静かな声で、彼は笑う。
「諏訪さんお兄さんいたんですか?」
「あー、いるけどいねー」
「何ですかそれ」
「いねーけどいる」
「だから何ですかそれ」
また黒いぶにぶにが鋭利な刃物になって、その腕を落とす。落とす。何回死んだだろう、と数えるのは億劫になってきた。
「イイトコ見せろって言われちゃあさ、希望通りとまではいかねーでもかっこわりぃとこは見せらんねーだろ」
 じゃきん、と構えた銃口から吐き出されたものが標的へと突き刺さって、そのお返しとばかりにまたばっくり割れる腹。
「なー日佐人」
その修復が済んだところで、落ちた煙草を拾って事も無げに部下を呼ぶ。
「ちょっとオレの名前呼んでみてくんね?」
「諏訪さん?」
「それ苗字だろ、名前の方」
知らねーとか寂しいこと言わねーよな、と笑った顔に、知ってますよ、と子供らしい返答。
「こうたろうさん」
 その名が呼ばれた瞬間、一度も合ったことのないはずの視線が絡まり合う音がした。
 ような気がした。
「さあ、ゲーム開始だぜ」
次の瞬間にはそれは標的へと戻っていて、それでこそ我が弟だと誇らしささえ感じた。

***

しろいはこ 

 そこは狭い場所だった。むりくりに詰め込まれましたという感じが満載で、ひどく窮屈だった。恐らく一人だったならばもう少し真面に脚を伸ばせたり首を回せたりしたのだろう。だけれどもその狭い場所にはもう一人がいて、どうにも動くことは不可能らしかった。
 もう一人は男だった。諏訪と同じくらいの、男。少しばかり男の方が年上なのかもしれないと、そう思ったのはただの直感だった。一応はボーダーのトレーニングルームで生身の方も鍛えている諏訪の方が、若干がっちりしているように感じるが、それでも男からは抗えぬ年上オーラみたいなものを感じた。
「おまえさあ」
唐突に男が喋った。
「おまえさあ、ほんと、馬鹿真面目なのもほどほどにしろよ。部下助けに行って食われるとかマジ笑えねーっていうか、ちょっとかっこいいとか思ってんのかもしんねーけど、ぶっちゃけめっちゃかっこわりぃからな。早々に退場とか。しかもこんな白い立方体なんかになりやがって。立方体だぞ立方体。意味わかんねーし。算数の授業にでも出張する気かアホ」
どうやら諏訪に話しかけている訳ではなさそうだ。話しかける形をとってはいるが、どうにも其処に返答を期待する空気がない。独り言なのか、そう思いながら回らない首で男を見遣る。首が回らないとは勿論物理的なことであって、別段借金どうのの慣用句ではない。こちとらB級でもボーダー正隊員だ、それなりの給料は貰っている。
 なんていう一種の現実逃避を諏訪が続けている間にも、男は罵詈雑言を並べ立てていた。しかし語尾のようにつけられる悪口のバリエーションが妙に子供じみているのはどうしてだろう。こんなにも直感で年上だろうと感じるくらいなのに。ぐりりと嫌な音をさせながら更に首を捻る。もし今此処でこの狭い場所から解放されるようなことが、例えばこの壁がパカーンと外側へ弾けるようなことがあったら、確実に首がバキッと言うだろう体勢である。
 もうちょっと、もうちょっとで見える。ぎりり、と骨の軋む音が聞こえそうだ。
「オレの名前殆どぜんぶ持っていったんだからその分くらいシッカリ働いて来いよバーカ」
やっとのことで、目に映った顔は。
 まるで鏡を見たように、諏訪とおなじつくりをしていた。
 それを認識した瞬間恐れていたようにこの狭い場所の壁は、外側にパカーンと弾けて、諏訪の首筋からはゴキッという嫌な音が聞こえてきた。痛みに一度目をつぶって、そして開けるともう其処は狭い場所ではなく、本部研究室の机の上だった。

***

肩甲骨の上にそれぞれひとつずつ。 

 諏訪洸太郎には兄がいたらしい。らしい、というのはその生命は彼が生まれる前に失われてしまっているからだ。その原因が一体どういったものなのか分からない。けれども、彼の写真が一切見つからないことを考えると、そもそも生まれることが出来なかったのではないか、と思っていた。幼い頃は父や祖母にこっそり聞いたことはあったが、どの答えも濁されてしまっていた。
 流石に、母に直接聞くことは出来なかった。
 幼いながらに、母にとって兄は唯一だったのだろうと、それが分かっていた。
 彼の名前は光太郎といったらしい。それを教えてくれたのは寡黙であまり喋ることのなかった祖父だったが、その時ばかりはひどく感情に揺られた声をしていたのを今も良く、覚えている。
「こうたろう、」
そんな声で彼が呼んだのが、どちらの子供だったのか、今となっては分からないけれど。
「あの子も、酷なことをする…」
そう言って小さな頭を撫ぜた手からは、ほのかに煙の香りがした。いつも黙って一人、煙草を吸っているような人がこんな小さな子供に感情を震わせている、それがなんだかひどく不思議で、ただ見上げることしか出来なかった。
 小学校にあがると、授業の一環で自分の名前の由来を調べることになった。もう既に由来など分かりきってはいたため、両親に尋ねることはしなかった。調べた結果を発表する日は授業参観になっていたけれど、そのおたよりは必死で隠した。
 けれどもその由来をそのまま言うことなど出来ないことは分かっていた。だから、自分で辞書を引くことにした。漢字の意味をそれらしく書けば切り抜けられると思ったのだ。だってクラスには三十人以上がいて、担任も一人ひとりをじっくり見る訳にはいかないと、妙に大人びた視点が教えていた。
 そうして開いた紙の辞書で、何を思ったか先に引いたのは『光』の頁だった。あかり、かがやき、栄える、誉れ、恵み、照らす、大きな、満ちる。つらつらと並んでいるその美しい意味たちを横目で流して、それから今度は『洸』の頁をめくる。
 水が沸き立ち光るさま、怒るさま、水が深く広いさま、ほのか、かすか、明らかでないさま。
 それを見て、思わず笑いが零れた。自嘲だったのだろうと、そう思った。
 生まれなかった子供のことを水子と呼ぶのは知っていた。母にとって、そこからわいて出てきたのが自分なのだ、と思った。自分の後ろには兄がいる、少なくとも母には、彼が見えているのだ。兄を踏み台にしてわいて出た自分というのは、どうしても後ろで光り輝く兄で霞んでいるのだろう。
 自分は顔も知らない兄のことも一緒に背負っているのだ。そう思ったら、なんだかとても割りに合わない気がした。
 気がしたけれども、誰に怒れば良いのかも分からず、一筋流れる涙を黙って拭うしか出来なかった。

***

たったその五文字が貴方を幸せにするなら 

 諏訪洸太郎には兄がいた。兄はいつだって隣に寄り添って、あれはこうだ、それはどうだと優しく教えてくれていた。過保護だな、と幼心に思ったのを覚えている。勿論、幼子が過保護なんて単語を知るはずもないので、当時はもっとやわい表現だったはずだが。
 数年分先輩なのだと言いたげに、兄は良く自分のすきなものをすすめてきた。お菓子や食べ物、家族で旅行へ行った際の友だちへのお土産に至るまで、殆どが兄の影響だ。しかしそれが嫌な訳ではなかった。一つひとつ丁寧に何処がすきなのかと語る兄は、ぽつりぽつりと押し付けがましくはなく、また、すきなものをすすめるということが愛されている証拠のようで、くすぐったいとも感じた。
 兄はいつでも静かだった。騒ぎ立てることはしなかった。そうすると誰が困ることになるのかちゃんと把握している、賢い子供だった。
 それでも、そんな兄でもふざける場面というのはあった。図書館で読書感想文の本を探している時なんかがそうだった。やたら小難しそうな本を指差して、それに苦い顔をして首を振ると大げさに嘘泣きをしてみたり。そんなこんなで手に取らされたのはモルグ街の殺人であり、後に推理小説を好んで読むようになる切欠ではあったのだが、それを誰かに話したことはない。それは兄のことがというよりは、モルグ街の殺人を推理小説に分類して良いのかという葛藤が自分の中にあるからだったのだが、どっちにしろ人に話さない時点でどうでも良いことだった。
「こうたろう」
なまぬるい声がした。
 読んでいた本から顔を上げると、母がこちらを見て微笑んでいる。特別うつくしいと思ったことはないがそこは贔屓目か、その名を口にする瞬間は天女のような笑みを浮かべるひとだと思っていた。
 そんな母と、そんな母を愛する父と、お転婆な妹と大人しい弟、穏やかな祖母に無愛想だがこちらを愛しているのが良く分かる祖父。何一つ欠けているところのない家族。
 だから。
 そんなふうに思うのだからこそ余計に、思うのだ。
「こうたろう」
その名前の特別さを。秘匿されるべき意味を。
 彼の名を直接聞いたことはなかった。けれどもきっと同じ音をしているのだろうと思ったのは、自分が呼ばれる度に彼も嬉しそうに笑うからだった。母があまく、発音の怪しい唇で囁くそれが、彼にとっての幸福であることを知っていた。
 どういった意図で、と問うたことはない。
 そんな問いは無駄だと思った。兄のことを詳しく話さない両親のその態度が、
兄という存在に対しての答えなのだと分かっていた。
「こうたろう」
だからせめて、と。
 その名の負うべき生命のことを、自分だけは憶えていようと、そう思うのだ。

***

ゆいいつむに 堤諏訪

 ぷかり。輪になって霧散する白い煙を見ていたら、無性に口を開きたくなった。
「なんかさっき、」
「あ?」
「諏訪さんみたいな人を、みたんですけど」
さっき、とは言ったがそれは一週間前の話である。
 本部で、訓練室から待機部屋へ行くまでの道のり。前から歩いてくる男。すれ違った瞬間に強烈な既視感と違和感を抱いて、けれども振り返ったらもういなくて。ざわざわと、胸の辺りを掻き乱されているような気持ちになった。
 諏訪の方ははぁ、と返事をしたっきりそれ以上何も返すつもりがないようだった。煙草をくわえ直した唇は薄くて、よくもそうすぱすぱと吸ってられるな、と思う。やぶれそうだ、なんて。繊細なんて言葉は似合わないけれど、くだらない理由で壊れてしまいそうだとは思う。
「でも諏訪さんよりがっちりしてなくて、煙草の匂いもしなくて、でもちょっと年上みたいな」
その言葉にああ、と諏訪は頷いた。心当たりがあるらしい。
「なんなんですか、あれ。その、ちがうでしょう」
「ちがうけど」
「ねぇ、」
何で、放っておいてるんですか。そう糾弾しようと思ったはずなのに、それは遮られた。
「別に、悪いもんじゃねーし」
「…そういう問題ですか」
「そういう問題なんじゃねぇ?」
「でも、」
「…名前」
また、遮られる。
「名前、呼んでやると喜ぶからさ」
「はぁ?」
名前、名前なんて。そんなもの、知る訳ないのに。
 そんな思いを読み取ったかのように、その口がまた開く。
「オレと同じだから。あいつ。喜ぶんだよ」
「なんです、か。それ」
息が止まるような心地がした。同じ、同じって。そんな、ことが。
「親が同じのつけたから仕方ないんじゃね? 漢字は違うみたいだけどよ」
「そういう…。………もう、いいです」
煙草はもう短くなってしまっていて、もう口には運べないようだった。ぐりぐりと押し付けられたそれを眺めながら息を吐く。
「何拗ねてンだ」
「拗ねてませんて」
「拗ねてンじゃねーか」
お前良くわかんねえな、と新しい一本を取り出そうとする手を掴んで止めた。
 ああ、とその口角がつり上がる。
「そういう顔は、わかりやしいな」
 望んだ通り口の中に広がった苦味に、思いっきり眉を顰めるしか、出来なかった。



(俺にとってそれで表される人間は貴方一人なのに、貴方がそう思ってないのが腹立つんですよ)

***

君とアナタと平行線 堤諏訪 R18

 ねぇ、と話し掛けられたことに気付いたのは、がつん、と衝撃が与えられてだらしなく口から唾液が零れ落ちたあとだった。
「諏訪さん」
「な…ンだよ」
あすこ、と指差されて視線をそちらへとやる。曖昧にぼやけた焦点が定まるまで、あと三、二、一。
「…う、ぇ」
 部屋の暗がり、すみっこ。こちらを見つめるこどものかげ。
「子供、ですね」
無邪気にゆさゆさとこちらを揺らし続ける堤に、何を言うことも出来ない。知っている、知っている。はじめて、その姿を見たけれど。
「あれって、」
ぼうっとしていても感覚は拾うらしい。口から掠れた声が、意味もなく落ちていく。
「俺たちの、こども、ですかね」
 はぁ? と言うことをしなかったのはまたぐりりとえぐられるような感覚がしたからだ。人の身体だと思って、と睨み付けてもこういう時の威嚇なんか大して役に立たないのは既に分かっている訳で。
「だってほら、これだけやったてたら一人くらい、いそうじゃないですか」
たのしそうな堤を見上げるだけになる。
「…いた方が嬉しいのかよ」
片隅の存在から目を逸らすべく、視線を真っ直ぐに正した。見えないものはいない、それがひとにとっての当たり前。
「そうですね」
同じような視線が降ってくる。
「子供が出来るくらいやって、でもそれが生まれないなんて」
 すてきなこなとじゃあありませんか。
 正直、もうその時点で堤の言葉を理解するのはやめていた。やめていたけれどもどうやら片隅の存在の所為で、堤が楽しそうなのは分かって、役に立つこともあるんだな、とは思った。
 あ、とまた上であがる嬉しそうな声。
「諏訪さん、しまった」
貴方も同じなんですね、と微笑まれたそれを訂正する気力などもうなかったし、誤解させたままでおくのも一種の愛なんだと思った。



はなつか家の諏訪兄イメージ

***

朝焼けが綺麗だった。 堤諏訪

 夢を見た。
 眠りから覚めて瞬間的に思ったのはそれだった。嫌な夢だった、そう思ったのは自分を守るためだったのかもしれない。
「…諏訪さん」
隣で涎を垂らして寝ているその人の名を呼ぶ。同じ顔で同じ声で同じ目で見てくる夢の中で出会ったそれは、恐らくこういうだらしのない眠り方はしないんだろう。自分の限界も分からないで酒に溺れて、こうしてひどく無防備に自分の隣で爆睡するような。
 『こいつでいいなら僕でもいいんだろ』
煙草の代わりに嘲るような笑みを口元に添えて。
『だってほら―――僕だって、こうたろう≠セ』
 「そんな訳あるか」
思い返した言葉を声を出して否定する。
「そんなこと、あってたまるか…」
呑気に眠っている顔にキス一つ落とすことは出来ないけれど。
 それでも堤大地の中の諏訪洸太郎はたった一人で、間違ってもこうたろう≠ネんかではないのだ。



(今日は雨かな)

***

七号ケーキなんて一人で食いきれる訳ねーだろ! 

 ケーキの上のろうそくが増える度、思い出す存在がある。
 別に、その時だけ、という訳でもないが。良い本を読んだとき、夕日が綺麗だったとき、プールに行ったとき、雨が降ったとき。いつだって、その影は諏訪の視界の端でぼんやり笑っていた。
「おめでとう」
「おめでとう」
「おめでとう」
恨む声は聞こえない。ふわふわとした笑みを浮かべた同じ顔のそれを、恐らく自分だけが知っている。
 こうたろう。
 母の呼ぶ声は幻想だ、そう分かっているのにふとした瞬間、その声を思い出すのは。
「…こうたろう」
声に出したら、誰かが笑った気がした。声をあげて、けけけ、と。まるで、勝手にセンチメンタルになっている諏訪を嘲るように。
 舌打ちをしてケーキに向き直る。クーラーのがんがんにきいた薄暗い部屋で一人きり、こんなごっこ遊びみたいなことをするのは別に自分のためじゃない。
 けれどもきっと、視界の端でちらちら踊る、その存在のためでもないのだ。
 放置していたろうそくを一思いに吹き消すと、その残骸を抜きもしないでフォークを突き刺す。紛れ込んだ蝋がやわらかいスポンジに紛れてざりざりと、口の中を回っていった。ケーキは美味かったが、その所為で台無しになっていた。
それでも良いと思った。
―――おめでとう。
 耳元で、声がした気がした。それが幻想の続きなのか、それとも先ほど笑ったことに対する謝罪なのか、そこまでは流石に分からなかった。



諏訪誕

***

20140709
20140716
20140802