苦辛のあとに天使 

 べっ、と最後の唾を吐き出して顔を上げて初めて、その目が生理的な涙で歪んでいることに気付いた。服も少しだが汚れてしまったらしい。まぁ体型にそんなに差はないから、服は貸せば良いだろう。
 そんなふうに考えながら落ち着いた? とその背中をさすってやると、ときえだ、と掠れた声が届いた。
「何、菊地原」
顔を覗き込むようにしてやると、その表情は先ほどまで嘔吐していた人間のものとは思えないくらい緩んでいた。あ、と思うよりもはやく、そのまま引き寄せられて唇が重なる。まずい。
「…まずいんだけど」
「だろうね」
 けれども何処か照れたように笑う菊地原に、それ以上言うことなど出来ないのだ。



照れる、服、生理的な
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固形物の心 

*嵐←時前提

 頑なだな、と思った。何がそんなに良いんだろう、そんな失礼なことも思った。初恋、だと言っていた。でもそれだけだろう、たかが初恋だ、流石に言うことはしなかったけれど。
 初恋に殉じるのが、美しいとでも思っているのだろうか。
 肩を掴む。じっと違うものを見ていた瞳が、菊地原を映す。
「凝り固まったおまえの心をぼくが解いてあげる」
驚きと、少しの期待。見開かれたその平坦な瞳に乗ったその色を、菊地原は見逃さない。
 だって、紛れもないすきなひとの変化なのだ。時枝がみんなの人気者を見つめていた期間、ずっと菊地原は時枝を見ていた。時枝には馬鹿にしたつもりはないだろうけれど、菊地原にしてみれば馬鹿にされたも同然だ。
「そしたらおまえの心は、ぼくのものだから」
「きく、」
「時枝」
呼ぶ。
 一切の反論を許さないと、そんな強さで。大きな声を出す必要はない。目を、真っ直ぐ。
「これは賭けだよ」
そして、しっかりと。言葉の隅々まで、輪郭を際立たせるように。
「勝負しよ、ときえだ」



宵闇の祷り http://yym.boy.jp/

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クロネコヨコギリ曜日 

 ああ、今日はついていない。防衛任務からの帰り道、菊地原は呪詛を吐いていた。
 今日は本当に散々だった。近界民は出現しなかったものの、僅かな段差に躓いて階段から転がり落ちたり、誰かの捨てたビニール袋が飛んできて顔面に直撃したり、万が一の時のために常備していたはずのヘアゴムを失くしたり。その前の学校生活まで遡れば、小テストでは解答欄がずれていたし、移動教室の変更のことを一人だけ知らなくて、誰も来ない教室で待つ羽目になったし、出掛けにひっつかんできた財布は空だったし(勿論、歌川に奢らせたので食いっぱぐれてはいない)。
 はぁ、とため息を吐いて立ち止まった菊地原の前を、だめ押しのように黒猫が過って行った。普段はジンクスなど信じないが、こうも重なるとすべての責任を押し付けたくもなる。黒猫は一度立ち止まって、振り返った。苛々している菊地原には、それが小馬鹿にしているように見えた。
 おまえのせいだ、と足元に都合よく転がっていた石を拾い上げる。それを、ふりかぶって、
「だめ」
石を掴んだ掌ごと、上から掴まれた。
「…ときえだ」
 振り返った先にいた友人は、大して強くも握られていなかった菊地原の拳を解き、その中の石を取り上げてしまう。
「なんで邪魔すんの」
「あたったら痛いでしょ」
「別に時枝は痛くないじゃん」
「オレ猫すきだから痛いよ」
その意味不明な言い分に盛大に舌打ちをしてみせても、何処か眠そうな表情が変わることはなかった。
 沈黙が下りる。また石を拾うのを防ぐためか、未だ掴まれたままの手を振り払うのも億劫だった。
 暫く菊地原を眺めていた時枝は、はぁ、とため息を吐く。ため息を吐きたいのはこちらだ、と口を開いた菊地原を遮るように、時枝は呟いた。
「オレが代わりになったげる」
そうして、繋いだ手を引いて歩き出す。
「代わり? はァ? おまえが僕のために殴られてくれるとでも言うの」
抵抗を微塵も示さないままついてくのはただの気まぐれだ。
「生身は無理だけど、トリオン体なら好きなだけどうぞ」
歩みを止めぬまま振り向いた、時枝の目にうっすらと浮かんだ色には見覚えがあった。
「ま、黙って殴られるつもりもないけど」
 最早それはただの模擬戦と変わらないのではないか、そう思ったけれども、妙に胸の辺りが浮き立っていたので言葉にはしなかった。



(まァ、相殺、ってことにしてやってもいいかな)

***

 

 すきだよ。
 言葉を落とし込むように、菊地原は囁いた。唇が耳殻に触れるくらいの近さ。離れるのが勿体ないと感じない訳ではなかったけれども、すいっと身を引く。
 こちらを見つめる目は大きく見開かれていた。予想通りだ、と口角が上がる。これを見ないでいる方が余程損をする。
「ねぇ、ときえだ」
喉が灼けるほどのあまったるい声。
「そんなに、おどろくこと、だった?」
気付いてたくせに、と付け足せば動揺で肩が小さく揺れた。
 にぃ、と笑って距離を詰める。離れようとするのを腕を引いて引き止める。力なんて入れてない、本当に触れるのと同じくらいの動作。でもそれで充分だと分かっている。
「ねぇ、」
事実、時枝は凍ってしまったように動かない。
 そういう反応をもっと見たかった。
「どうして逃げるの?」
うろうろと定まらない視線に割り込むように首を傾げる。いつだって崩れないポーカーフェイスがこうして自分の手で崩されていることが、菊地原にとってはこの上なく快感だった。爽快というにはひどくうすぐらい、どんよりとした支配欲に近い感情だった。
「ねぇ、」
ときえだ、ともう一度名前を呼ぶ。
「へんじは?」
ああ、でも。
 こくり、と上下した喉に頷く。どれだけこの胸の奥がずっとくらいもので満たされていても、そこから否定の言葉が吐かれないことに湧き上がるのは、そんなものとは裏腹な、ひどくきらきらしたものなのだ。



「囁く」「快感」「大きく」
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責任転嫁と週末 

*過去嵐時前提

 目が痒い、と言ってみたらどしたの、と覗き込まれた。ちょっと赤くなってるね、こすったんでしょ、と言われて頷くと、もう、と頬を膨らませる。その様子が可愛らしくて笑うと、何笑ってんの、と額を突かれた。
「おまえの話なんだからね」
ぶうぶうと始まるその言葉すべてが、自分のためだと知っている時枝は、ありがとね、と笑う。
 こうして近付くまで、菊地原にも相応の優しさが宿っているだなんて思ってはいなかった。失礼な話ではあるが、別にそれが彼を取り巻く噂からくるものではなかったのだから、勘弁して欲しい、なんて誰に言うでもなく胸の中で弁明する。時枝がそう思っていたのは、そのサイドエフェクトのことを聞いたからだった。自分に聞こえない音が聞こえている、それがどういう世界なのか時枝には想像がつかなかったが、つかないからこそ大変なのではないかと、そう思っていたから。
 どういたしまして、と緩んだ目元に、あ、と思う。
―――おんなじ、眸(め)をしている。
じわり、と視界が歪んだ気がした。
 目の前の菊地原と、似ても似つかないはずのその人が、だぶってみえる。
 ふいに、頬を掴まれた。画像が乱れる。だぶった線が整えられて、菊地原の表情が帰って来る。
「たいらだ」
すっと、その親指が涙袋の辺りをなぞっていった。
「またあのひとのこと、思い出してたでしょ」
「…ごめん」
「謝って欲しい訳じゃない」
「分かってる。でも、ごめん」
繰り返せば、もういいよ、と額が肩まで降りて来る。
 この不器用な優しさに甘えている自分はひどいやつだなあ、と、そう思うのにやめられないのはあまりにそれが心地好いからなのだ。



眼科医にあのひとの影重ねたら「すごく平らな目をしてる、君」 / 森まとり

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噛みつくようにキスをして 


 ぐい、とその優しい腕を退ける。どうしたの、と訝しげに見てくる彼を、きっと睨む。
「菊地原はいつもやさしいよね」
これは、ただの八つ当たりだ。分かっていながらも、言葉を止めるつもりは毛頭なかった。
「嫌なの、優しいの」
「嫌じゃないけど」
「けど?」
 偶然見た光景。別に、珍しくもなんともない、菊地原による一方的な口撃の様子。それを見ていたら、無性に。
 傷付けられる彼らが、羨ましくなった。
「オレは、菊地原が思っているよりも、貪欲だよ」
「…わかってた、つもりなんだけどな」
すい、と同じくらいの大きさの手が、髪を梳いていく。
「自制心ってのがぼくにも、あるから」
「それ、とっぱらってよ」
 至近距離、目が合う。
「煽り方、へたくそ」
 すべてがほしいなんて、ああ。



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言葉じゃ言えない 

 帰って来たのは知っていた。ついてすぐ、貰ったメールにも返信したし、短い時間だったけれども電話だってした。
 けれども。
 生身の身体でしか感じられない温度を追う。ぎゅう、と渾身の力で抱きつく時枝を、菊地原は好きにさせていた。
 死ぬかもしれない。帰って来ないかもしれない。そういうことを、分かっていたから。
「…おかえり」
分かっているからこそ、この瞬間がこんなにも安堵をもたらすのだ。



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とじこめられたい 

 宝石のような瞳だと言ったらきっと、ポエミーにも程がある、なんてあの冷静な声で言われるのだろう。
 もう少しでお別れになる渡り廊下を歩きながら、菊地原はそんなことを思った。視界に瞳は映っていない、代わりに、ミルクティーのようなやわらかな色をした後頭部。
「…きくちはら」
「何」
「穴、あきそうなんだけど」
「その時は責任とってあげるよ」
振り返らない彼に、苛立ちはしない。
「………なにそれ」
 今、どんな目をしているのか。
「菊地原って、ばかだよね」
振り返らない彼の表情を、感情を湛える瞳の色を、菊地原は知ることは出来ないけれど。
 きっとうつくしいのだろうと、そう思った。



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好きなのにね 

 手が触れた。てのひらじゃない、手の甲が。それだけで、その一瞬だけで、満足しろと言い聞かせる。体面なんて馬鹿らしいと思っていたけれども、今は守りたいものがあるから。そのためならば、この唇の閉ざし方、くらい。



(わけないはず、なのに)
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朝五時半 

 今何時だろう、と思ってからすぐ隣の、同じくらいの身体を抱き締めてああ、と思った。
「…なに、ひとの頭の上で笑わないでよ」
もぞ、とふるえる瞼の音だって、耳をすまさなくたって聞こえる。それはきっとサイドエフェクトの所為じゃない。
「おまえがいるのが、うれしくて」
「…そ」
「もっかいねる?」
「うん、今日午後からだから」
「宿題は?」
「おわってるよ」
佐鳥じゃあるまいし、と言われて頬を膨らます。
「他の男の名前を出すのは、」
「はいはいルール違反ね」
でも今はおまえしかいないから、とそのまま眠りに落ちる音がした。
 眠っている相手に何をいうのはあまりに意味がない気がして、はぁ、とため息をついて目を閉じた。



ask
今朝起きた時まず何を真っ先に考えた?

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20211129 改定