どうか、×××してください。 私は弱いので、 そこは弱点です、触らないで下さい 出会いは多分、最悪だった。もっと前に会っていれば―――せめて顔を合わせるくらいしていれば。何か違ったかもしれないな、とは思うけれど。風間も林藤も互いに兄を通して相手の存在を知っていたくらいで、それは他人とも言えない何かだったのだと思う。たとえ、兄が風間を将来的にはボーダーに勧誘したかったのだとしても、それはそれ、これはこれ。初めましての挨拶が兄の形だけの葬式である方がまだマシだった。そんなことを思う。そうであればまだ、憎悪なりなんなり、そんなものをぶつけることが出来たのだと。今だってそう思う。 葬式に、あの人は来なかった。いや、来なかった、というと語弊があるのは分かっている。来ることが出来なかったのだ。あの頃ボーダーはひどく人手不足で、だから一般職員を代理で向かわせるのが精一杯で。両親はそれを理解していた、理解はしていたが納得していないのが風間だった。まだこどもだったと、誰かそう言ってくれれば諦めもついたのかもしれないが。林藤はその後、時間の出来た頃に風間家にやってきたらしい。そこで、両親と話をした、と。伝聞なのは風間にはそれが秘されていたからだった。兄の遺言だとかで、林藤から風間に会うことはやめて欲しいと頼まれたのだと。あれほどに話を聞いていたはずだったのに、何だそれは、と思った。 両親は納得していた。 納得していないのは風間だけだった。 もともとボーダーには入るつもりだったが、それが最後のひと押しになったのは間違いなかった。 遺言だからか、単に支部が違うからか、忙しいからか。林藤に会うことはなかった。遠目に姿を見かけることはあっても大抵走っていたりするから、呼び止めることはしてはいけないと思って。 そうやって、一応気を使っていたと言うのに。 これはないだろう、と思った。 ひと気のない廊下、この近くに仮眠室があることは知っていた。風間は初期に入隊したからか、それとも風間≠フ弟だからか、早くにその配置を教えてもらっていた。あの人を食ったような表情をする迅によると、残る人なんだからさっさと教えちゃっても良いでしょ、ということらしかったが。 「―――」 はく、というその動きを見て。 大人でもこんな仕草をするのか、と思った。連日テレビに引っ張られているボーダーの大人たちは決してこんな顔をしない、そんな顔をしてみせれば反ボーダー組織の格好の餌だ。ボーダーがなければもっと人間が拉致されることを分かっていても、市民というものは完璧を求める。そんなものは存在しないと本当は分かっているのに、甘言に耳を傾けたがるのだ。そういうところの詰めは、ボーダーはひどく、しっかりしていた。こどもを前線に立たせるという、この平和な時代に罵詈雑言を向けられても可笑しくはない事例を、そのまま市民に飲み込ませた。いや、そんな話がしたいのではない。 名前を、呼ぼうとして。 「………悪い、」 くるり、と踵を返そうとしたその腕を掴んだのは反射のようなものだった。 兄は、遺言で林藤から風間に会うことはやめて欲しい、と言った。 でも、それは裏返せば風間の方から会いに行くことは止めなかった、ということだ。事実、言われていないのだし。この人は、この大人は、あんな表情を晒しておきながらそれを忠実に守ろうとした。兄と林藤の関係が、どういうものだったのか、風間は知らない。良好だった、それくらいで。何も知らないのだ。 そう、何も。 ―――だから、 知りたいと思った。 この人が何を思ってこの組織に残り続けるのか、戦い続けるのか、知りたいと思った。兄の思い出を問うよりもまず、そんなふうに思った。 息を、整える。 「林藤支部長」 「―――何、かな。………蒼也」 その呼び方に、名前を知っていたんだな、と思った。まあ当然か、兄はきっと、話の中で風間を弟≠ニは呼ばなかっただろうから。蒼也≠ニ自然に呼ばれる会話が簡単に想像出来るのに、どうして自分はそれを聞くことが叶わなかったのだろう、と思ってしまう。人は声の記憶から消えていくと言うが、兄のそれは未だ鮮烈だった。まだ時間もそう経っていないからかもしれない。いつか、思い出せなくなってしまう日が来るのかもしれなかった。 「風間とは呼んでくれないんですか」 「………やだ」 「やだって。良い大人がやだって」 「だって、やだし」 「こっち、向いてくれないんですか」 「それもやだ」 「じゃあ、蒼也で良いんで、もう一度呼んでください」 「なんで」 「なんとなく」 顔は、見えないのに。 唇が震えるのが分かるような気がした。 「―――蒼也、」 「はい」 その日から、兄の遺言は効力を失った。 その暫くあとに風間も上層部と顔を合わせるようになったのを考えると、最悪な出会いだったけれども最高のタイミングだったのだろうな、と思った。 それから時折、用もないのに風間は林藤の仮眠室へと顔を出した。何をする訳でもない、そもそも林藤だって本当に仮眠の用途でこの部屋を使っている訳ではないのだから。支部に持ち帰るまでもない資料の整理だとか、そういう作業をしていることは風間だって分かる。それがどういうものかまでは見せてもらえなかったけれど。時折意見を求められるようなこともあるから、完全に無視されている訳でもないから良かった。 「林藤さん」 「ん」 「そろそろ何か飲んでください」 「あー…うん」 顔を上げた林藤がふにゃり、と相好を崩して、それから時が止まったみたいな表情をした。唇が動かなかったのはもう、彼の中で留める術を見つけたからなのだろう。 「…そんなに似てますか」 誰と間違えられたかなんて聞くまでもない。 「そこそこ」 「そうですか」 「何」 「いえ」 声、だろうか。林藤の中でも、兄の声はまだ生きているのだろうか。それなら嬉しい、と思う。風間の中でも未だ尚、兄の声は鮮明だった。でも自分の声はよく分からないから、その判断は林藤にしか出来ないのだろう。…他に聞けば良い話ではあったが、わざわざ聞くようなことでもあるまい。傷から立ち直っていないものだっているのだ、両親なんかは特に、覚悟をしていたとは言え、まだ少し、兄の話題には気をつけてしまう。 「まったく似ていないと言われていたので」 「………そーかもね」 間違える訳、ないのにね。 そう呟きを落とした林藤が、そのままキーボードから手を離す。 「蒼也、」 「なんですか」 「お前は多分、俺の中では一生蒼也だよ」 「…知ってます」 「お前を風間にはしてやれん」 「分かってます」 「なら、もう、良くない」 「何がですか」 「俺に構う理由なくない? ってことだよ」 構われている自覚はあったのか、と思った。冷蔵庫に入っていたペットボトルを押し付けたが、蓋を開けられる気配もない。 「………お前が、俺に何か………復讐とか、したいならそれでも良いけど」 「復讐?」 「筋は、通るだろ。風間を…殺したのは俺なんだし」 「まあ、林藤さんがそう思いたいならそれでも良いですが」 もう、分かっている。兄の死がどういう状況だったのか。それで林藤を責めることは出来ない。誰よりも―――林藤が、出来るものなら兄を連れて帰りたかった、それはこの数年で痛いほどに分かっていた。迅の予知を知らされていたという兄は、一体、知らされていなかった林藤にさいご、何を思ったのだろう。どうして、あんな遺言をのこしたのだろう。その本心は分からないけれど、この人を放っておいてはいけないと思った。 誰かに押し付けたって良かった、だって林藤は玉狛だ。あそこにいれば一人になることはない。 ―――でも、 でも。 風間はそれを自分でやりたかった。林藤を放っておかないことを、自分の選択で、自分で手を伸ばして、やろうと思った。それを林藤には言ったことはなかったけれど。 「お前、俺のこと嫌いだろ」 「ええ、まあ」 「なら無理しなくても良くね? 城戸さんに不満があるとかじゃねえんだろ?」 「不満はありませんが、別に復讐したい訳でもないですよ」 「じゃあ、」 なんで、と言いかけた唇が、なんだか煩わしくなって。 指で押すようにして封じたら思いの外そこはがさがさで、ビタミンとか摂った方が良いですよ、なんて言葉が転がり出た。 * 作業BGM「イナロック」初音ミク(保科製菓) *** 嘘の愛だけ頂戴 復讐、という言葉を頭の中でだけ繰り返す。そうやって初めて、どうして此処にいるのだろう、ということを思ったのだった。いや、放っておけないと思ったから、それはそうだけれど。それは別に風間がやらなくても良いことだった。それをどうしてかやりたいと思ってしまった、それだけ―――本当に、それだけ? この間、触れた唇の感触が思い出される。次に仮眠室に来たときにビタミン剤を置いておいたら、それが時折減っているのが分かったから、此処に来ている時には飲んでいるのだろう、と思う。意外と人の意見を聞くことはするんだよな、と思った。………というか、仮眠室だからと言って、重要機密は置いていないからと言って、合鍵を渡して良いものか、と本当に今更なことを思った。自分の仮眠室よりもこっちに来ている回数が多いくらいだ。だから風間は既に将来的な幹部入りが決まっているから、もう上の階に部屋をもらっている、なんていう噂がまことしやかに流れていることだって知っていた。別にそう思われて困ることもないから放っておいてはいるが。合鍵、とは言ったが部屋の鍵はトリオン認証だったし、それが風間でも通るようになっているということは開発室には話は通っているということで。…いや、林藤のことだ、鬼怒田辺りにしか話していないだとか、そういうことも考えられるだろうが。普段の会議などでは鬼怒田が林藤に丸め込まれている図は絶対に思い浮かばないのに、妙に真面目な顔で兄の話をちらつかせたらすんなり通る想像は難くなかった。それで困っている訳でもないし、これからもこうやって楽をしたいとは思っているが。 さて。 話を戻そう。復讐ではない、それは確実だ。そのあと林藤は何と言ったか、そうだ―――嫌いだろ、と言ったのだ。嫌い、なのだろうか。流れだけを見たらそうなっても可笑しくなかったかもしれない。兄を、どういう形であれ殺した人間、救えなかった人間、連れて帰って来れなかった人間、風間にとって林藤を責める要素は多くあった。それを嫌い≠ニいう感情に昇華してしまうのは、言われてみればそう、可笑しくはない。 「きらい」 「ん?」 言葉に出してみたらそれはちゃんと耳に届いたようで、林藤は手を止めた。どうせ作業が一段落しただけなのだろうが。 「林藤さん」 「何」 「今言ってみて思ったんですが」 「うん」 眼鏡の向こうの瞳は穏やかだった。風間が今から何を言おうとしているのか、まったくもって理解していないからこそ出来る瞳だった。それを崩してやることが出来るだろう、とその予想で口角がつり上がらないようにこらえるのが大変だ。 「俺は貴方のことが好きですよ」 いち、に、さん。きっかり三秒。瞬きはなかった。ただがらす玉のようにその瞳に妙な光が入っていくのが見えた。 「………は?」 「本気です」 それが林藤の傷付いた時の仕草なのだと、もう、分かっていたけれど。 潤むことのない瞳を潤ませたいとは思わないけれど、だからと言ってこのまま流してもらう訳にもいかない。 「今思いついた言葉ではありますが、本気です」 「いやいやいや今思いついたんなら熟考の余地を持った方が良いと」 「そんなことをしていたら貴方に逃げられます」 「逃げ………、いや」 「するでしょう」 「待って」 「待ちません」 ここで距離を詰めなかった風間は褒められるべきだと思う。林藤が椅子ごと下がろうとして、それからキャスターのついていない椅子だったと思い出したのか、ととっ、と自分だけでバランスを取る。 「林藤さん」 その明らかな動揺が落ち着くのを待つ理由など風間にはなかった。だから、重ねる。 「俺のことが嫌いですか」 林藤が詰まるだろう言葉を、何の惜しげもなくその舌に乗せる。 「………蒼也、」 「はい」 笑えてはいなかったと思う。そんな余裕はなかった、でも、断られはしないだろうという確信じみたものがあった。 「それは、狡い、だろ」 「はい」 与えられた椅子からは動かない、立ち上がることは愚か、手を伸ばすこともしない。ここは口だけで丸め込む方が良いと思った。その方が林藤は責任≠セとかを勝手に背負ってくれるから。ゆっくりそれを隣で下ろしてやりながら、関係を進めていくのが良いだろう、と思った。この思考が言葉が落ちてからの短時間で構築されているのだから、ボーダーという組織に入って良かった、と思う。ボーダーに入っていなければこんな局地的な思考構築は出来なかっただろうから。 「逃げられたくないので貴方が断りにくい言葉を選びました」 「誰に似たんだか」 「兄ではないことは確かですね」 「あー、くっそ、何、どうしたら良いの」 「とりあえず付き合ってください」 「どういう」 「恋人です」 「そういうこと聞いてんじゃねえんだよ」 けれども、まさかこんなにトントン拍子に話を進めてもらえるとは思っていなかった。好き、という言葉にだっていろいろな意味がある。だからまずはその説明から、と思っていたのだけれど。林藤から見て、風間とはそういうことを言い出しても可笑しくない存在だったのだろうか。それとも、さっき風間がしてみせたように、思考の構築をしてこの意味だろう、と断定したのだろうか。 「…そう、大きく変えなくても良いですよ」 何にしても、最初から意識してもらえるのは悪い成果ではない。 「此処に俺が来ることに、意味が一つ加わったと思ってくれれば」 「ええ………そんなもん?」 「とりあえず今は」 「………なんか、考えてはおくな…?」 「そうですね」 やっと、笑えたような気がした。気が抜けたからかもしれない。 「林藤さんが俺に何かしてやりたいと思うのなら、それは俺にとって嬉しいことになりましたから」 「………」 だと言うのに林藤は、何とも言えない顔をして、それから困ったように首ごと逸らした。 「お前のそういう顔、心臓に悪い………」 「どういうふうに?」 「どきっとした」 「どういう感じですか?」 「うるせえ、みなまで言わせんな」 「それは良かった」 片思いで済ませるつもりはなかったので望みがあると知れて安心しました。 そう言ったら流石にあー! と叫ばれた。それから頭をぐしゃぐしゃとして、丸まられた。眼鏡が机にぶつかる音がしたがその反応が今は面白かったので、何も言わないことにした。 * 作業BGM「ヴァンパイア」結城(DECO*27) *** 壊してくれない? 私の世界を 簡易ベッドに音を立てて転がったその背中を見て、どうしてこんなものを見せてくれるのだろうな、と思った。晴れて恋人となったからだろうか。いや、林藤が今更そんな一つ付け足したような関係で劇的に何かを変えてくれるようなことはないだろう。考える、とは言っていたけれどもそれは恋人≠ニして世間様がするようなことを何処までするのが良いのか、とか、何処まで出来るのか、とか。そういうものであって。 ―――だから、 これはもっと前から風間に許された光景であったのだな、と思った。それに今まで気付いていなかった、と言われるのが嫌で言葉にはしなかったけれど。 「貴方は、」 それは小さく呟くようなものになった。確認ですらないのだから当然だと言われればそれまでだったけれど。 「別に、強い訳ではないんですね」 顔面から倒れ込んだ背中は、少しだけ動いて、それからのろのろと唾液を掻き集めるような気配がした。身体を起こす気力もないらしい。ベッドなのだから、簡易とは言えそんなに狭くはないのだから、隣に座っても良かっただろうけれど。 「強い方がお前にとっては良かったんじゃないの」 「まあ、そういう考え方もありますが」 今はただ、近付くだけに留める。座ってしまえば今はまだ余地を残している思考が煮詰まってしまいそうだった。…そういうことを、したい訳でなないのだ。そういうことをしたいのであれば、林藤でなくても良かった。 「良いですよ」 思考を振り払うように足の裏に力を入れる。 「でも、これからは、そんな情けない姿見せるのは俺の前だけにしてくださいね」 「………」 からからに乾いた喉では何を喋るにも覚束ないだろう。冷蔵庫を開けたらゼリー飲料が入っていた。スポーツドリンクの会社が作っているようだし、こっちの方が良いだろう。そう思って枕と顔の間に差し込むと、つめてっ! と悲鳴が上がった。 「………ったくよお」 それでも、ちゃんと受け取ってくれたらしい。まだ顔は上げられないけれど。 「お前のことは天使だって聞いてたんだぜ」 「何に見えますか」 「悪魔」 「それはそれは」 「………なんで、」 顔を上げたくないついでに、聞きにくいことを聞いてしまうつもりらしかった。ゼリー飲料が潤したらしい喉が、真面に言葉を吐き出す。 「なんで俺に優しくすんだよ」 こんなことを、林藤が優しいと受け取る、それこそ優しいと思うのに。 「好きに恨めば良いのに」 風間には、未だ、それを伝える言葉がないまま。 「そうですね、」 からからに乾いているのは今度は風間の喉だった。それを察したのか、冷蔵庫のやつ飲んで良いよ、と言われる。今までは何を言うこともしなかったくせに、勝手に飲んでも補充するなら何も言わなかったくせに。 風間に。 風間蒼也に。 林藤匠は言い訳を与えようとする。 「その方が貴方が苦しんでくれるから、と言ったら納得してくれますか」 「………無理」 「そうですよね」 ボーダーの背広を通しても、その肩甲骨の場所が分かる、分かってしまう。それをどうやって思いたいのか、今はまだ思考に蓋をして。 「林藤さん」 空っぽになったゼリー飲料を取り上げる。それをゴミ箱へと放って、何でもないことのように、そうやって聞こえるように、呟く。 「キスがしたいです」 それを聞いた林藤は予想でもしていたのか、肩を揺らすことすらしなかった。代わりに、のそ、とその頭が持ち上げられる。ベッドに勢いよく倒れ込んだからか、眼鏡はずれていた。それを直すために手を伸ばすと、自分で出来る、と言われる。 眼鏡の歪みが、整って。 「蒼也」 真っ直ぐに、見上げられる。座らなくて良かったな、と思う。 「目、瞑れ」 「させてくれないんですか」 「ちったあこっちの面目立てろよ若造」 「もう成人してますよ」 「してても若造には変わらねえだろ」 ほら黙らないならしない、と言われれば口を噤むしかない訳で。 触れるだけのそれは、いつか指で触れた時よりやわらかくなめらかになっていて、言ったとおりにビタミンを摂ったんだな、と思った。 * 作業BGM「人工呼吸」ame(傘村トータ) *** 白昼夢は終わらない 事故だった。 それだけは言い訳をさせて欲しい。本当に事故だった。そういうことを考えていなかった訳ではないがそれでもこれは確かに事故であり、風間の思惑など何処にもなくて、けれどもこんな事故が起こってしまえばそれは不意打ちというもので。 「………」 「……………」 沈黙が、耳に痛い。じ、っと見上げられている、と言うにはその視線には力はなく、許されることならば泳がせてしまいたいというのが手に取るように伝わってくる。それを見ていたらする、と手の場所が動いてしまっても仕方のないことだと思った。仕方のないことだと思わせて欲しかった。当然、林藤の手首に風間の指が回り切るかというと微妙なところがあるので、単に重力で押しているだけのものにはなったが。掴んでいる、ようにはならないように必死で押し留めたから、多分そうはなっていないはずだった。真面な判断が出来ない。 「そ、蒼也く〜ん…」 そんな状態をどうにか出来るとしたら、どうしたって林藤にしかならない訳で。 困ったような声に、努めて平静を装って返す。 「はい」 まあ、まったくもって平静ではないのだけれど。 「ええと…」 「すみません」 「俺の上から退いてくれると助かるかな〜…まだやらないといけないやつ、あるし…」 「………ですよね」 「ですよね、って言うわりには動かないじゃん!」 「分かっていますが、その、もう少し」 「ええ………」 本当に嫌なのであれば跳ね除けられるであろう、とは思っているが。林藤が今まで周囲とどういった―――というか、恋愛という場において同性に感情を向けられたことがあるのか、恋愛でなくともそういう欲を向けられたことがあるのか―――そういったことは分からなかったし、どういう経緯であれ状態であれ、押し倒されているのは嫌…とまではいかずとも、据わりが悪いだろう、ことは分かる。だから出来ることならばさっさと退いてやりたかったのだけれど。 「………林藤さん」 「………なに」 「すみません、キスだけさせてくれませんか」 「う」 「………嫌ならしません」 「だ、っから…お前、その言い方狡い、マジで狡い」 「怖いですか」 「そ…ういうのとは、違えけどよ、普通にびっくりするっていうか、お前あんまり表情に出ないしそういうこと考えてねえのかと思ってたしいやキスはしたけどさ、したけどさあ!? あれから何もなかったじゃん、だから、だからえっと、えっと、何だっけ?」 「とりあえず、俺が今キスしたいってことですかね」 「あー…うー…」 「嫌ならしません」 「ああ、クソ、分かったよしていーよ! そんな顔すんな! 悪いことしてるみたいだろ!」 「ではお言葉に甘えて」 もうどうせなら舌でも何でも入れてしまえば、と思ったけれどもこれだけ混乱しているのだ、そこは慮るべきだろう。触れるだけに留めて、でも我慢した分、と数回はさせてもらった。されるがままの林藤はどういう顔をしたら良いものか、とでも言いたげな表情で風間を見ている。 「あー…と、」 「流石に、これ以上はしません」 「…いや、もう、別に良いけど…。ただ宣言だけはして…心の準備する…」 「だからしませんって」 「したいから乗っかってんじゃねえの」 「事故です。結果的に乗っかってはいますが事故ですから」 「そーね、事故ね………っていうか一応聞くけどどっちが良いとか」 「上が良いです」 「即答…」 「ドン引きじゃないですか。流石に俺だってそんな反応されたら萎えますよ」 うん…と頷く林藤には、緩やかな熱が伝わっていたのだろうな、と思う。まあ、言葉どおりもう落ち着いているのではあるが。 「聞いておきたいんだけど」 「どうぞ」 「いつから?」 「………」 「えっ何、黙らないで」 そんな前からなの!? と悲鳴じみた声を上げる林藤に、いやそういう訳ではないです、とだけ訂正を入れる。しかし、それが自分に欲を向けられていることに対してではなく、風間の嗜好やら何やらを捻じ曲げたかのように感じているからでありそうなのがまた、何というか、そういうところなのだろう、と思ってしまう。 「…難しい質問をしますね」 「ごめん、どういう意味?」 「自覚したのは今ですがあまりに思考がスムーズだったので前々から思っていたんだと思うんですが、そうするとなると自己分析が必要になるので…」 「分かった、聞いた俺が悪かった」 今は聞きたくない、無理、処理出来ない、と呻く林藤には先程の言葉どおりまだやらないといけないものがあって、だから風間がこのまま上に乗ったままでいる訳にはいかなくて。 「…林藤さん」 「なに」 「もう一回だけキスさせてください」 「あーもう、好きにしろよ」 恋人なんだから。 そう言った林藤の耳は仄かに紅く染まっているのを見たら、この事故も決して悪いだけのものではなかったな、と思えた。 でも、次からは絶対に気をつけよう、とかたく心に誓った。 * 作業BGM「アイロニズム」初音ミク(メドミア) *** 私の生命と貴方の気持ちを交換しませんか あんな事故があったからと言ってそう関係が進むようなことはなかった。それは風間が気を付けているというのもあったが、単に林藤が忙しい、というのもあった。まあ、自分の部下がやらかしたことなのだから始末が回ってきても仕方ないとは思うが。これまでだって迅を抱えていたのだから、それなりに慣れているだろう、とは思っている。そういう心配はしていなかった。時折食事を忘れたようにはなるから、そこだけ注意しておいてよ、と迅に言われた時には妙に腹が立って肩パンをしておいたが。 「蒼也」 「休憩ですか」 「うん」 「どうします」 「肩」 「椅子で良いですか」 「うん」 ―――でも、 思う。 事故以前よりかは接触が増えた、と思う。接触、と言うのはどうかと思うからスキンシップと言い換えようか。林藤の方でも何か思うことがあったのか、呼んで、触れて。…もしかしたら、それは。林藤はずっとやりたかったことで、こんな関係になってしまったから意味を違えてしまったものなのかもしれないと不安にも思ったけれど。一度それを言葉にしたら、俺そんな不器用に見えるわけ? と口を尖らされたのでそれ以上は何も言わなかった。 不器用だとは、思っている。 でも、その時に林藤が言った不器用さとは違うものだと、ちゃんと分かっていたから。 「林藤さん」 「なに」 「肩、大丈夫ですか」 「うん。ちょうどいい。かたい」 「褒められてるんですか、それは」 「褒めてる」 「そうですか。なら、喜んでおきますね」 その言葉に答えはなく、代わりに手がするり、と伸びてくる。隣に並ぶような状態で肩を貸してしまったら、顔なんて見えないけれど。 「林藤さん」 「うん」 行き場を失った指が、それでも何かを求めて風間の指を辿っていく。 「俺のこと殺して良いですから」 それを捕まえるようなことはしない。そんなことをしたって、何が変わることもないことを風間はよく分かっていた。捕まえようとして捕まってくれるような人であれば―――きっと兄だって、あんな遺言をのこさなかった。 「何処にも行かないでください」 沈黙、だった。そうだろうと予想していたから何も驚かない。言葉を待つつもりもなかった、だからと言ってその沈黙を壊すつもりもなかった。林藤が今、こうして甘えにもならない甘えを押し付ける相手に風間を選んだことを、ただ味わっておこうと思っていたから。 「…お前には、」 暫くして、喉が掠れるような声がした。 「俺が、お前を殺したいように見えてるの」 「いいえ」 もしそんなふうに見えている人間がいるのなら、それはきっと、頭の可笑しい人間だ。ボーダーの医務室でも何にでも預けた方が良いだろう、と思う。 「貴方は死んでもそんなこと、思えないでしょう」 こんなに―――何一つだって。 失うことを恐れている人間に、一体何を見ているんだと。 「だから、こうやって言うんです」 指が止まったのを確認して、今度は風間がゆるり、と指を動かす。決して捕まえるようなものにならないように、ただ辿るだけになるように集中して。指の先まで、まるで人を殺す瞬間のように意識を傾ける。 「貴方は傷付いた分だけ、俺のことを考えてくれるから」 「―――、」 喉からした微かな音は、首肯きのようにも聞こえた。 「貴方が言われて傷付くのとは少し違って、俺にそんなことを言わせたって、そうやって傷付いてくれるから」 肩への重さは変わらない。林藤が今更この程度の言葉で動揺などしてはくれないと、風間の性格をちゃんと掴んでくれているのだと、分かっているから驚くことはしなかった。 「………蒼也、」 「はい」 「俺はお前に嘘は吐きたくねえんだよ」 「…そうですか」 遠征の日程が迫っていた。風間の名前は当然そのリストにある。林藤はそのことには触れない。ずっと、触れない。今までも、きっと、これからも。 「蒼也」 「はい」 「お前は何処にだって行って良いんだよ」 風間は、その言葉に対する答えを、もうとっくの昔から持っていたような気がした。 「知ってます」 * 作業BGM「ハロウ」可不(Nekono Tokiwa) *** 風が消し去った残り香を追い掛けて 帰ってきてしまうとあっという間だったな、と思う。いつものように林藤の仮眠室へと向かって、誰もいないその部屋の灯りをつけて。もう節電をしなくて良いのは良いなあ、と林藤がこぼしていたのを聞いていると、やっぱり組織が大きいということは良いことなのだろう、と思う。勿論その分面倒事も増えるが、それはそれ、これはこれ。メリットオンリーのものなんて何処にもないのだろう、メリットの裏にはデメリットが必ずと言って良いほど存在するのだから。 そんなどうでも良いことを考えているうちに、扉の開く音がした。もう林藤に帰還の話は入っているだろう。そういう通達はしっかりしていることを風間は知っている。だから、外での仕事が終われば真っ先に此処へ来てくれると、そんな傲慢なことを考えて来た、というのもあった。 「蒼也」 「林藤さん」 最初に、何を言おうか―――ただいま、と言っておかえり、と返してもらえるだろうか―――今までそんなことを言ったことがなかったから、そうやって考えていたのに。 「う、わっ」 「………」 背中に、ベッドの感触があって。 押し倒されたのだと思考よりも先に気付く。 迷うようながらす越しの瞳がそれでも風間を真っ直ぐに見下ろして、それから、きゅ、と唇を引き結んでゆっくり下りてきた。これは―――何の幻だろう、と思う。これでご褒美、とでも思えるような頭があれば良かったのかもしれないけれど。残念なことにご褒美だなんて言えるような結果ではなかった、それを思い出して、ああ、だから、と思う。数度落とされた唇が、躊躇うように緩められて、それから小さく出された舌が唇に押し当てられた。このまま―――一度くらい、と思う下心がない、訳ではなかったけれど。 「………っと、」 「え、」 「林藤さん」 うまいこと転がって身体の位置を入れ替える。この間と同じような構図になったな、とぼんやり思った。まあ、あの時は床だったけれど。 「形勢逆転ですが」 「え、いや、」 「まあ林藤さんの方が防御には長けているので、俺がまたひっくり返されることはあるんでしょうけど」 「あー…うん、」 「あのままだとちょっと沽券に関わるのでもう暫く大人しくしていてくれると助かります」 「ええ、なんで」 林藤が。 どうしてこんな行動に出たのか、理解出来ないほどこどもではなかった。 恋人だから、それもあるだろう。考えておく、そういう会話だってした。でも、これはそうじゃない。風間が―――遠征先で緊急脱出をしたから。 ボーダーにおいて。 緊急脱出は死と同等だ。………同等で、在らなくてはいけない。だから今回の遠征で風間は死んだことになっている、当然、言葉遊びのようなものだけれど。死体として生身の身体に落書きをされたりするのは懲り懲りだと分かっていたのに、ここ暫くはなかったから油断でもしていたのか。否、単に敵が強いだけだった。風間には遺してはいけない相手がいるのに、どうしてそんな油断をすることが出来るだろう。 「林藤さん」 「………なに」 「無理しなくて良いですよ」 「無理じゃない」 「いや、無理じゃないですか。そういうの下手なんですから」 「下手ってお前…。一応俺大先輩よ? そういうこと言う?」 「言いますけど。逆に言われないと思ってたんですか?」 「………本当、風間はこれの何処が天使にみえてたの? マジで」 「………兄の…それは…ええ、はい。少し他人の価値観とはズレていたようですから」 「うそだ、お前に関してだけ壊れてたんだ、あいつ」 他人の話が出たということは、とりあえずは諦めた、ということになるだろう。だから、手首を離す。身体を起こして、ベッドに隣り合って座る。 それで、話は出来るはずだから。 「林藤さん」 「…話なんも聞かなくて悪かったよ」 「ああ、はい。次からは予告をください」 「俺の気持ち分かってくれた?」 「はい。どきっとしますね」 「嫌などきっ、だろ」 「はい」 指に触れて良いのか、そんなふうに迷っていると林藤の指が攫っていった。こういうところはやっぱり、林藤の方がなんというか、上手い。 「したいです」 「うん」 「だから、正直無理してでも投げやりでも、こうやってくれて嬉しいです」 「…そう」 「でも、やっぱり違うと思います」 このままなあなあにもつれ込むことだって出来た。それはきっと簡単だった。林藤だって何も考えずにこんなことをした訳ではないだろうし、準備だって出来ているのかもしれなかった。 きっかけは、何処にだってある。 だから何を理由にしたって良い。 「全部、欲しいんです」 でも、これだけはだめだと思った。 「兄を忘れて欲しいだなんて言いません、いつか思い出を聞かせてもらえたら、と思っています」 「うん」 「俺の知らない兄も、貴方の知らない兄も、どうせいるでしょうし、俺だって忘れたくないですし」 「俺だって風間のこと忘れたくねえよ」 「分かっています、だから、だめなんです」 出会いが最悪だったのだから、初めては最高とまでは行かずとも、最悪にはしたくなかった。 「俺を一瞬でも兄と重ねた、貴方とは、出来ない」 「………意固地じゃん」 「逆になんで断られないと思ったんですか」 「若者のこう…なんか…。ていうか、俺がお前くらいの頃って模擬戦なんてなかったから発散させるのにも苦労してたし、今は模擬戦もあるけどさ、相手がいるのにそれって…なんか、不健康、っていうか。あと密室だっただろうし。溜まってんのかとか俺なりにいろいろ考えてたわけよ」 「なんでそういう方向に行くんですか? 俺が貴方を大事にしたいとか考えてはくれないんですか?」 「………だ、いじ…とこれは、違くない」 「違うでしょう、っていうか違うって分かってて言いましたよね、今の」 「意固地じゃん」 「それで乗り切ろうとしないでください」 というか、とため息を吐く。 「意固地にもなりますよ」 「なんで」 「だって、今の貴方は、俺の………」 「………お前の?」 「俺の、………」 言おうとしてから、こんな難しい言葉がかつてあっただろうか、と思ってしまった。どうしたら良い、けれどももう始まってしまった言葉は止められない。息を吸って、吐いて。 「すきなひと、です」 やっと形にしたそれはすべてがひらがなのような、こどもじみた音をしていた。 それに、く、と喉が鳴るのが聞こえる。 「………蒼也、」 「………なんですか」 「そこは恋人って言っていーんだよ」 お前そういう変なところで遠慮するよな、と言われたけれど、林藤だけには死んでも言われたくなかった。 * 作業BGM「グッドラッカーズ」KK *** 何故かな、君を見ていると泣きそうになるんだ 出会いは最悪だった、でもそこからの諸々はそんなに悪くはなかったな、と思う。作業を続ける後ろ姿がの影だけで、随分把握出来るようになってきたな、と思う。基本的に静かだからかもしれない。だから自然、影を見るようになった。一段落したらしいから風間は転がっていたベッドから起き上がって、それから飲み物でも、と冷蔵庫に足を向けて。 「蒼也」 呼び止められるように立ち止まった。 林藤が椅子の背に手をかけて、何でもないことのように、いつものことであるかのように、風間を見ている。 「あのさあ」 やわらかな表情で、でも何処か、緊張を滲ませたような様子で。画面の灯りは未だついていて、他の灯りを落とされたこの部屋で唯一林藤を浮き上がらせている。 「すきだよ」 その、言葉が。 脳に辿りつくよりも先に、きっと身体は動いていた。 「林藤さん」 「うん」 「苦しくないですか」 「苦しいけど、まあ、いーよ。我慢出来るし」 「じゃあお言葉に甘えます」 背もたれを巻き込んだ抱擁は生身には痛かったけれど、だからと言って力を緩めることも出来ない。場所取りだって真面に出来なかった。林藤が落ち着けるように、慈しむように、背中に腕を回してくる。 「蒼也」 「はい」 「そんなに嬉しかった?」 「はい」 「嘘じゃないって分かった?」 「はい」 「良かった、疑われたらどうしようかと思ってた」 「………貴方でも、」 自分の声がどんなものになっているのか分からない。涙で濡れていてももう、どうでも良いと思った。あれだけ情けない姿を見てきたのだ、風間のそういう姿だって見ても、林藤は何も言わないと思った。だって、言えるはずがない。自分の弱みを公開するような下手は打たない人間なのだから。 「そんなくだらないことで悩むんですね」 「くだらなくないだろ」 「くだらないですよ」 本当に、くだらないことだった。 「俺は、」 でも、きっと本当にくだらないのは、そんなことすら口にしていなかった風間だった。聞いて来なかった林藤も同罪だ、と言えばそうだったかもしれないけれど。このいっぱいいっぱいの人に、これ以上を求めてしまうのはやっぱり無理なのだと分かっていた。だから、言葉にすれば良い。言葉にすればちゃんと言葉は返ってくる。 「貴方の言葉を疑ったことはないです」 林藤は、 「信じたこともないけれど、」 生きているから。 「俺は、貴方の言葉を疑いません」 会話が出来るのだ。ちゃんと、風間の言葉を一つひとつ考えて、答えを返してくれる。風間だけを見て、誰とも重ねないで、言葉をくれる。 「だから、貴方は俺に嘘を吐かないんでしょう」 なにもかも、を。 「そういう―――ところが、」 くれる。 「どうしようもなく、すきになってしまったんです」 「うん」 「趣味が悪いと笑いますか」 「悪魔なんだろ、趣味悪くて当然だろ」 「それは林藤さんが勝手に言ってることですから」 俺は天使なんでしょう、と言ってみせたらそんなこと思ってるのは風間だけだよ、と返された。 出会いは最悪だった、でも、それで良かったのだと今なら思える。あの最悪さがなければきっと風間はその腕を掴まなかったし、こんなふうに心を傾けることもしなかった。 こんなことをする相手が林藤で、本当に良かった。 「…蒼也、」 「なんですか、………匠さん」 「………それ、なんか、」 「恥ずかしいですか」 「なんかこそばゆい」 「時々にしますから」 「うん」 「他では呼びませんから」 「それは当たり前」 キスがしたいです、と口にする。そうしたら俺にはさせてくんないの、なんて言うから、とりあえず俺に先を譲ってください、とだけなんとか絞り出した。 随分やわらかくなった唇がきっと風間のためなのだろうと思うと、胸がひどく苦しくなって、譲ってもらったのに後をくれてやることが出来るかどうか、よく、分からなくなった。 * 作業BGM「たられば」amazarashi 愛してください。 May @Mayodaisousaku *** |