どうせ俺から全部奪うなら、最初からそうしていればよかったのに。



 

 目の前には女がいた。ワンピースを着た痩身の女である。落ち着いた生来の色であろう黒いセミロングに、真面目そうな顔つきをした女。
「お願いだから光太郎と別れてくれないか」
ぞっとするほどに冷たい声が出たものだな、と思った。
 暗い路地だった。少し高いこの道は、細い階段を下りることで広い道へと出られる。
「別れません」
ぽつん、と立つ街灯の下、女の頬はやたらと青く光って見えた。肩に掛けた鞄を握り締めて、反対の手は腹を守るように添えられている。
「私、彼の子供を身ごもってるんです」
 吐き気がした。
「それが光太郎の子だと言う証拠は」
「私を疑うんですか!?」
疳高い声がきん、と耳に響く。其処から並べ立てられる言葉の数々。言い訳のような、自尊心の保護のような、どれとも取れない女の曖昧な言葉は堤の耳から入って、脳の表面をするする滑っていく。
「私は彼を愛しています。彼も私を愛しています。結婚なんて、それで充分じゃないんですか」
 愛している。
 その言葉の薄っぺらさに笑ってしまった。愛している、それで充分でそれがすべてなら、きっと堤は此処にはいなかったし、恐らく光太郎もこの世には存在しなかった。それを、それを。
 こんな小娘が、口にするなんて。
 笑った堤に怒りが更に燃え上がったのか、女は舌打ちをした。これが本性か、とも思った。きっと光太郎は知らないのだろう。真面目で奥手で、けれども芯のある女性。そんな幻想をきっと、抱いている。
「もう良いです。貴方には話が通じないと分かりました。貴方がこれ以上私たちにつきまとうなら、警察沙汰も考えます」
堤の方もまた、もう良いや、と思った。話が通じない、と。
 女はくるり、と振り返った。そうしてすたすたと階段の方へと歩いて行く。堤は足音を立てないようにその後を追った。階段手前で彼女が一瞬止まる。
 振り返ろうとしたのだろう。けれども、遅い。
 とん、と掌が彼女の背中を押した。
 悲鳴があとを引いていった。暗く静かな階段の下で、その身体が動かなくなるのをじっと見下ろしていた。



 確か、雨が降っていたと思う。
 雨が続いていて、じめじめしていて、せっかくのオフだったのに何処へ行く気にもならなくて。安いパイプベッドの上で何も着付けないで転がっている。そんな部下には言えないような休日を、今までと同じように過ごしていた。
「なぁ、」
横で上がった声に、首をぐりんと回して応える。
「堤、オレさ、ボーダー辞めようと思う」
 何を言われたのか、分からなかった。
 言葉だけががんがんと頭の中でリフレインされて、それでやっとのことで唇が開く。
「…諏訪さん、それ、どういう」
「トリオン器官の成長も止まったしさ、次の検診で三回目引っかかることになるし。そのまま事務につくことも考えたけどさ、オレそういうの向いてねえから。だから、いっそのこと思い切ってすっぱり辞めちまおうと思って」
 息が、止まったような気がした。
 ボーダーを辞める。それが意味することを諏訪が分かっていないはずがないのだ。機密性を第一に考えているこの組織を、辞めるということは。
 記憶を、失うということでもある。
 何よりもボーダーを第一にしてきたこの数年の記憶を、失うのだ。周りの仲間のことも、何もかも。
「で、お前との関係も此処で終わりにしようと思う」
「…は? なん、ですか。それ…」
「オレら、間違ってたんだよ」
重ねられる言葉に、堤は説得力のある反論をすることは出来なかった。
 多分、雨が降っていた。
 この唐突な諏訪の告白もすべて、雨の音に掻き消されてしまえば良かったのに。

 

 幸せな夫婦というのはこういうものを指すのだろうな、と堤は思った。
 喧嘩も少ない、息子は真っ直ぐに育ってくれた。堤が積極的に家事育児に参加する性分であったからなのか、それともただ単に妻との相性がこれ以上なく良かったのか、はたまた別の理由か。その辺りのことは堤にとってはどうでも良かったけれど。堤にとって大切なのは息子にとってこの家庭が居心地の好いものであること、それだけだったのだから。
 とは言っても、妻とも触れ合うことは怠らなかったし、妻の昔の話もよく聞いた。君のすべてを知りたいと言えば、妻は少女のような眉を少し下げてから、その話をしてくれた。ああ、まるで本当の少女の妄想のような物語。優しい、やさしいお話。
―――オレの残り少ない人生で良いなら、全部お前にやるよ。
そうして妻は一人目の夫と死別したらしい。
 その話を聞いた時、堤は激しい嫉妬に駆られた。その与えられた時間は最早彼女のものであって堤が奪うことなど出来はしないと分かっていることが、余計に堤の嫉妬心を燃え上がらせた。しかしながら堤はただ微笑んでそうですか、と言っただけだった。だから妻は堤の中に今も尚燻るその嫉妬心の存在を知らない。
 知らないままで良い、と思った。
 知ったところで妻に出来ることなど、何もないのだから。

 

 ボールが転がってきた。
 何でこんなところにボールが、と思って拾い上げると、落とし主であろう子供がとたたっと走ってくる。
「すみません! それ、ぼくの!」
「危ないよ」
ボールを渡しながら堤は言った。
「こっちは警戒区域だ。近界民が出る」
子供の親は何をしているのだろう。
「お父さんかお母さんは?」
「お父さんは死んじゃった。お母さんは仕事」
「………」
幼い子供がまるでなんでもないことのように言うものだから、堤の方が絶句してしまった。少し前までは大規模侵攻の傷痕も大きく、こんなことは珍しくもなんともなかったのだけれど。
 ボーダーにいると死というものが対近界民においてしか起こらないような気がしてくるが、そうではない。病気で亡くなる人もいるし、事故だって減らない。三門は近界民という死因になり兼ねない要素が増えただけで、その他は別の土地と何ら変わらないのだ。それを忘れそうになる。
「おじさんは? おじさんは警戒区域、入ってていいの」
そう言われて自分が年を取ったことを知った。幼い子供になって関わる機会がなかったものだから、忘れていた。
「いいんだよ」
「もしかして、ボーダーの人?」
「そうだよ」
「そうなんだ。ぼくのお父さんもボーダーだったんだって」
仕事やめるときに全部忘れちゃったから、詳しいことは話して貰えなかったけど、と子供が言うのを黙って聞いている。
「お父さんってかっこよかったのかなあ」
独り言のような子供の言葉にさあ、と返すことは簡単だった。
 でも、堤には、何故かそれが出来なかった。
「…かっこよかったと思うよ」
「ほんと?」
「ほんと。頑張って戦っている人たちは、みんなかっこいいから。きっと君のお父さんもかっこよかったんだと思うよ」
「そっかあ、それなら良かった」
子供は嬉しそうに笑う。
 堤の脳裏には、ヤニ臭い唇をつり上げる、独特の笑顔が浮かんでいた。

 

 彼女のことを少女のようだと評した人がいた。そのことを堤が知っているのは、彼女から聞いたからであったのだが。
 初めて会った時、彼女はひたすら堤に頭を下げていた。いつも息子がお世話になっております、というのはきっと彼から堤のことを聞いていたからだろう、と思う。堤は彼が堤の話をしてくれていることを嬉しく思った。彼の中で堤は最早ただの通り過ぎる人、ではない。
 そんなふうに自惚れていたからだろう。彼女の私的な領域に踏み込むような真似をしたのは。
「私が子供だったんです」
彼女の物語は簡素なものだった。
「だから、彼の子供を身ごもって…そうしたら、どうにかなると思っていたんですけれど。彼は、病気で。だから最初から遊びだって言ってくれていたのに、私はその好意を無下にして、本気になって…。でも、彼は笑ってくれました。余命が尽きるまでで良いなら一緒にいるって言ってくれて、結婚もしてくれた。でも、あの子が生まれる前に亡くなってしまって…。だから私はあの子に父親と同じ名前をつけたんです。あの人に、一緒にいてほしかったから…」
 すべてが、繋がってしまった。
「あの、その…」
彼女は少し俯いて呟く。その様子は確かに少女のようで、なるほど責任を取ってやりたいと思うようになるのも分かる、と思った。
「もしよろしければ、今度、お食事でも…どうですか? その、いつも息子がお世話になっていますし、お礼に…」
 堤にその申し出を断る理由はなかった。
 その後彼女から好意を告げられ、そのまま結婚することになることは予想にかたくないことなだったし、きっと彼女の話を聞いた時点で堤は何処か壊れていたのだろう。

 

 光太郎はすくすくと、という表現がぴったり当てはまる程に育っていった。堤も出来る限りの愛情を与えたし、妻もまた、光太郎のことを誇らしく思っているようだった。そうして好青年へと育った光太郎は一人暮らしをしてみたいと県外の大学を選び、そのまま県外で就職を決めてしまった。三門市の状況は依然変わりなく、光太郎の安全のためには県外に出ていた方が確かに良かったのだけれども。
 ぽっかりと胸に穴が空いたようだった。
 妻と二人きりになった家はまるで違う世界のようだった。堤は何度も光太郎に縋った。戻ってきてくれ、と。その度に光太郎は言うのだ。
「だって、母さんがほんとは父さんと二人きりで暮らしたがってたの、知ってるんだ」
愛し合う者同士は一緒にいなければならないのだと。家族の情も大切だが、恋慕の絡むそれもまた、大切にされるべきなのだとまるで大人のように諭すのだ。
「母さんはオレのこと愛してくれたけど、それでも母さんだって、女として幸せになりたかった訳だろ。それって、今からでも遅くないと思うんだ」
似ていない、一つも似ていないはずなのに。
 まるで、彼に裏切られたような気分で。
「ねえ、父さん。母さんを幸せに出来るのは父さんだけなんだよ」
真っ直ぐな目が、堤を見ていた。
「それに、オレにだって家族になりたい人がいる。この間、会ってもらったでしょう。彼女と結婚するんだ。あとは婚姻届を出すだけ。だから、オレはこの家には戻って来ないよ。母さんも父さんもオレの大事な家族だけど、オレはオレの家族を持つよ。安心して」
光太郎はにっこりと笑った。とてもよく出来た息子の顔だった。そんな顔を見たいのではなかったけれども、ああ、そういうことならば。
 やることは一つしかないじゃないか。
 どうやって家に帰ったのかは覚えていなかった。その記憶は必要なかったから気にならなかった。妻がおかえりなさい、と笑顔を向ける。それに堤はどんな表情を返したのだろう。ぬるり、と手が滑るのを感じた。信じられない、というような妻の顔に、最初からこうしていれば良かった、とぼんやり考えていた。

 

 その感情がまだ生きていたことに堤は驚いていた。あの雨の日にすべて彼に注ぎ込んで、だからこそ堤は今日まで生きてこられたのだとそう思っていたから。失恋したくらいで死ねない、それが一生ものの恋だったとしても。人間は強いのだから。堤はそんな偽善めいた言葉を繰り返しながら、それでも無気力になった自分を感じていた。
 それが、少年に会ってから変わった。
 雨と一緒に流されてしまったと思っていた感情は堤の心にしっかり残っていて、今までは蓋をしっかり閉めていただけなのだと、そう分かった。
―――好き。
―――好き。
―――大好き。
子供のように叫ぶ心を握り締めたまま、少年を見つめる。
 あれから都合のつく限り、少年が外で遊んでいる時は堤が見ているようにした。少年の家は警戒区域のすぐ傍で、その辺りの家賃が安いことが関係しているようだった。堤だって現役は引退したが戦闘用トリガーを持っている。少し前よりボーダーがトリガーを持てる数は増えたのだ、ベイルアウト機能だってちゃんとついている。と、そう言い訳しながらその実、堤はその少年を眺めていたいだけだったのだ。
―――愛してる。
―――愛してる。
―――愛してる。
もう、その言葉に答えてくれる人間は、堤の傍にはいないのに。
 どうしてこんな似ても似つかない少年に、あの人を重ねてしまうのか。
「…そういえば、君の名前を聞いていなかった」
「ぼくもおじさんの名前聞いてない」
「堤だよ。堤大地」
「だいちくん」
「おじさん呼びだったのに〝くん〟なんだ」
「なんとなく、そっちの方が良いかなって思った」
だいちくん、だいちくーん。間延びさせるところまで、現実と記憶がダブっていく。
「だいちくんに自己紹介」
少年はにっと笑って。
「ぼくの名前は光太郎だよ。諏訪光太郎」
―――おなじ、なまえ。
 涙を堪えたのはプライドだった。あの人を失って無気力に流れた数年の、それでも生き抜いてやったというプライドだった。

 

 なあつつみ、と似合わない甘えた声を出すところが好きだった。セックスをしたあとに猫のように布団の上をごろごろと転がり、子供のように笑うところが好きだった。唐突に大地、と人のことを名前呼びしてくるところだとか、本に熱中してしまってまったく返事してくれないところだとか、脱衣麻雀でパンツ一丁になっているところだとか。挙げ始めたらキリがないほどに堤は彼のことが好きだった。堤は彼のすべてだと思っていたし、彼もまた堤のすべてであったのだと思っていた。
 それが覆されたのは雨の日のことだった。別れ話に堤は異を唱えることは出来ず、もう決めてしまったその人に追い付くことは出来なかった。堤はボーダーに残り、諏訪はそのまま姿を消した。
「どうして」
震える声が聞こえた。その声は似ても似つかない、なのにどうしてか彼を思い出させるのだ。
「…こうたろう」
一応は年上なのだから最初はさんをつけようと思っていたのに、そんなの気味が悪いとまで言うものだから呼び捨てになったのだ。それをその人は嬉しそうに笑って、もう一回、なんて言うから。
 雨の降る夜に、堤は最後だと言われて彼を抱いた。だから彼のすべてを知っている気になっていた。隅々まで触れたことのない部分がないほどに愛して、それだけだった。
 雨の音が煩かった。
 叫ぶ声が聞こえた気がした。
「どうして」
「こうたろう」
伸ばした手は届かないまま、首が絞められる。その閃光の裏で浮かんできた顔も、もう、見えない。本当は首を絞めるのは堤の仕事だったはずなのに、最後の最後でしくじってしまった。いや、もしかしたら最初からすべてしくじっていたのかもしれない。見えない顔が何かを呻く。堤はもう、それに応えてやれない。
 ああ。

 本当は、誰が好きだったのだろう。



20161116