プロローグ 風間蒼也には秘密があった。その秘密のことを風間が知ったのはもう五年以上前のこと。それはほんとうに偶然で、小学六年生だった風間はその秘密を知らずのうちにともだちに対して行使した。 そのともだちは、太刀川慶と言った。 彼と出会ったのはまだ名もなかった組織に入った時のことだった。 「同じくらいの歳の子もいるから」 そう言っていた林藤に紹介された、一つ下の背の高い子供。 何処か曖昧な視線を風間に向ける少年に、少しだけ距離を掴みにくいな、と思った。 「風間蒼也だ。よろしく」 けれども簡素にそれだけを言って差し出した手は、 「…太刀川慶です、よろしく」 思った以上にあたたかい手に包まれたから。 それが、はじまりだった。 第一章 (一) あ、風間さん。そう声を掛けられて振り返ったのは学校でのことだった。 「…太刀川」 見慣れた一つ下の少年の名を読んでやると、太刀川はにぱっと笑ってみせた。 年下で家の方向も違う。性格もほぼ正反対。そんな風間と太刀川が知り合いであることに驚く友人は少なくなかった。太刀川と知り合ったのはトリオン兵という化け物に襲われて、そういうものと戦ったり交流をはかったりする小さな組織に所属するようになったからだったが、正直風間も、それがなければ太刀川と友人になることはなかったと思っている。 太刀川との友人関係について、周りにどうして、と問われれば習い事が一緒なのだと答えていた。何を習っているのかという質問には、総合格闘技、と。とは言え本当のことではないので、毎度毎度風間の答えには疑問符がついてしまい、そこを突っ込まれては説明し辛いんだ、と笑うことが繰り返されていた。 とてとて、と太刀川が近付いて来る。風間よりも大きななりをしているくせに、その動きは何処か軽い。手には竹ぼうきが握られていた。この辺りの掃除当番だったのだろう。 「風間さん、どしたの? 今日って稽古あるよね?」 放課後だと言うのに風間がランドセルを背負っていないことを指摘したいらしかった。ああ、と風間は答える。 「飼育委員会だから」 「へえ。じゃあ、今から裏庭のうさぎのとこ行くの?」 「ああ」 「ねえ、おれも行って良い?」 いいぞ、と答えればやったあ、とその頬が喜色に染まる。ほうき置いてくるから先行ってて、との言葉に、風間は頷いた。 小学校の裏庭には、うさぎ小屋が一つある。結構大きめの小屋の中には、今は十羽ほどのうさぎがいて、飼育委員会が当番を決めてその世話をしていた。 「うさぎ、かわいいねえ」 「そうだな」 小さめのほうきで小屋の外を掃きながら、太刀川の手がうさぎを撫でるのを眺める。うさぎは気持ちよさそうだった。太刀川の手はとてもあたたかいから、それもあるのかもしれない。 かわいい、と思って眺めていると、きゅい、と細い声が聞こえた。風間と太刀川は揃って振り返る。 小屋の中には他の委員が掃除をしに入っていて、それに驚いたうさぎの声のようだった。 「びっくりした」 「オレもだ」 風間と太刀川は顔を見合わせる。 そして、その顔がするすると曇っていくのに、風間は気付いた。 「本当かどうか分からないんだけどね」 「何だ」 「うさぎって、本当は鳴かないんだって」 「そうなのか?」 首を傾げてから思い出す。そういえば、今までうさぎが鳴くのを聞いた覚えはない。これが初めてだ。 太刀川はこくり、と頷いた。神妙な表情の似合わないやつだな、なんて失礼なことを思う。 「うん。だからそれなのに鳴くうさぎは、不幸なうさぎなんだって。本当なら鳴かないですむのに、そうじゃなかったってことだから」 太刀川の胸にかかえられたうさぎが、ふごふごと鼻を動かした。 「本か何かで読んだのか?」 「ううん、忍田さんが言ってた」 だから、本当かどうか怪しいんだ。 笑う太刀川が言った名前に、なるほど、と頷かざるを得なかった。太刀川の師匠である忍田はとても強かったが、その他では少し抜けていて、時折妙なことを信じ込んでいたりする。象の鼻は生まれた時は短いが、他の仲間が大人になるまでに引っ張って伸ばすのだとか、月が光るのは表面に蛍光塗料が塗ってあるからだとか、サンタクロースの存在だとか。だから、そんな忍田の戦闘技術はまだしも、日常雑学を鵜呑みにするのは危険なのだと、まだ幼い風間も太刀川も良く分かっていた。 委員会の仕事を終えて、教室へとランドセルを取りに行く。五年の太刀川の教室に寄って荷物を取ってから、六年の風間の教室へと階段を上がった。 よいしょ、とランドセルを背負う。 「あれ、風間さん。それ、なに?」 「ん? ああ、これか」 林藤さんがくれた、と言えばそれは答えるようにかちゃり、と揺れて見せた。 「お守りなんだと」 「お守り?」 真っ黒な色をしたそれは、小さなトリガーにも見えた。師匠である林藤が、風間にお守りだから持っとけ、と言ったもの。どういうお守りかは分からないが、無駄なことはしない人だというのは分かっていたので、風間は素直にそれを身につけていた。首にさげられるようにしてあるそれは、登下校と学校にいる間はランドセルにつけられている。 いいなぁ、と太刀川は呟いた。お守りなんてものを欲しがる質には見えなかったが、忍田と太刀川はとても仲が良い。師匠から与えられたもの、というのが羨ましいのだろうか。 そんな風間の予想は外れていた。 「おれもなんか風間さんにあげたいー…」 ぱちり、と目を瞬く。 「オレ、に?」 「うん。風間さんに」 そう言いながら太刀川は何かあげられるものがないかと、あれこれ探しているらしかった。そして、自分のランドセルへと首をひねると、 「あ、これ!」 見つけた、といそいそとランドセルを下ろす。 床におろしたランドセルの横に座り込んで、暫く太刀川は何やらかちゃかちゃと音を立てていた。ランドセルに何かついていただろうか、風間は何も言わずにそれを眺める。風間のところからでは、太刀川が邪魔で何がついているのかは見えなかった。 かちゃん、と音がして、とれた! と太刀川が何かを掲げる。 「はい、風間さん」 差し出されたのはスプーンのようだった。端に穴が開いていて、キーホルダーのようになっている。 「これね、忍田さんと出掛けた時に買ったやつ。めじゃーすぷーんって言うんだって。なんか、料理のときに使うやつらしいんだけど、すっごくきれいだったから」 確かに、きれだ。うさぎの模様にきらきら光る石が嵌めこんである。 「三本あるから。風間さんには、この赤をあげるね!」 風間さんの目みたいで、とってもきれいでしょう。 嬉しそうな太刀川に、ありがとう、と言ってそれを受け取る。ふわふわとした子供だと、そういう感想が風間の中に落ちていった。自分も子供なのに、と思わない訳でもなかったが、そういう表現がしっくりくるのだから仕方ない。 曖昧で、不器用で、けれども素直で優しい子供。それが、太刀川慶だった。 (二) 風間が初めて自分の秘密を知ったのは、その小学校六年生の時だった。太刀川の剣道の試合を見に行った時のことだ。 太刀川は元々地元の剣道教室に通っていた。組織に属するようになってからはすぐにでもやめて忍田の稽古を受ける時間を増やしたかったようだが、きりのいいところまで―――せめて小学校を卒業するまでは、ちゃんと続けろという忍田の言葉で続けているらしい。 「風間くん、次の日曜日、予定はあるかい?」 忍田にそう問われたのは、生身での稽古が終わったあとのことだった。 「その日も林藤さんと稽古の予定ですが…」 「そうか。………風間くん」 声が、潜まる。 「その日、一日、稽古は休みにしないか」 「どうして、です?」 「その日は、慶の剣道の試合があるんだ」 林藤に言ったらな、風間くんが行くと言えば休みにして良いと言うものだから。忍田の眦がふわりと下がった。優しい顔だ、と思う。 「最近慶、元気がなくてな。風間くんが応援に来てくれたら、元気が出るかもしれないと、そう思ったんだが」 元気が、ない。 風間もそれは思っていた。しかしながら忍田と稽古する時も、風間と喋っている時も無理をしているようには見えなかったので放っておいたのだ。 「分かりました」 林藤さんに言って来ます、と頭を下げる。 ありがとう、と忍田は言った。お礼を言われることじゃあありません、と風間は返した。 そういう訳で応援にやって来た体育館で見た太刀川は、今までにい見たことがないくらい硬い表情をしていた。そんなに緊張するな、と忍田が撫ぜても、太刀川は反応しなかった。 「慶?」 いつもなら元気良く返事をするというのに、じっと何かを堪えるみたいに押し黙っている。まるで、そうだ、俯く一歩手前、みたいな。 「忍田さん」 少しして、小声が発された。 「おれ、ちょっとトイレ行ってくるよ」 「今か? さっき行っておけと言ったじゃないか」 腕時計をちらり、と見た忍田が頷く。 「まだ時間は大丈夫だな。一人で行けるか?」 「うん、平気」 顔を上げた太刀川は今までにないくらい、覚悟を決めたような顔をしていた。そんなにトイレに行きたかったのだろうか。ぴん、と背筋を伸ばして、隣にいた忍田とも太刀川の母親とも、風間とも目を合わせないで、すたすたと歩いて行く。 「あの子、あんなに緊張しいだったかしら…」 太刀川の母親が呟いた言葉が、妙に心に残っていた。 十分経っても、太刀川は戻ってこなかった。十五分、流石に太刀川の母親がそわそわし始めた。 「トイレ、混んでるのかしら…」 「…どうなんでしょうね、見てきますよ」 忍田が立ち上がる。太刀川の出番まではまだ時間はあったが、準備をする時間を考えればもうそろそろ始めなければならないらしい。すみません、お願いします、と太刀川の母親が言って、忍田が人混みに紛れていく。 林藤の携帯が光ったのは、そのすぐあとだった。 『慶がいない』 焦りのない、静かな声。 「控え室にもいないのか?」 『ああ、聞いてきた』 横で聞いていた太刀川の母親が、さっと青褪める。 「まさか、………」 彼女も近界民のことを知っているのだと、その反応を見て思った。それに気付いたのだろう、林藤は一度携帯から耳を離すと大丈夫ですよ、と笑った。あの子は強い子です。それからまた電話へと戻る。 「探すか。忍田、お前はそのままトイレと控え室の方。俺と蒼也で手分けして探すから、ああ、お母さんには此処で待っててもらう。ひょいっと帰って来るかもしれねえからな」 青い顔をした彼女に、一緒に探せというのが酷なのは風間にも分かった。 「って訳だ、蒼也。俺は二階の応援席見てくる。お前は一階の、トイレとかとは反対の方見てきてくれるか」 「分かりました」 頷いて立ち上がる。 近界民、ということは考えなかった。 ただ、顔を上げる前の太刀川の、何かを耐えるような表情だけがひどく心にひっかかっていた。 (三) 太刀川は、思っていたよりも簡単に見つかった。市民体育館の一階の奥は今日は使われていないらしく、人が多い会場と比べて寒く感じた。こんなところに太刀川がいるのだとしたら、嫌だなと思った。 一つひとつの扉を、確かめていく。鍵がかかっている部屋の方が多かった。当たり前だ。使わない部屋に鍵をかける、そうしないと誰かが迷いこんで来た時に困ってしまうし、悪い考えの人間に使われてしまうかもしれない。 そんなふうに考えながら手を掛けたうちの一つの扉が、ギィ、と開いた。この部屋だけ鍵がかかっていなかった。そっと覗くと、何やらダンボールやら木の板やらがたくさん置いてあって、もしかしたら近いうちに使われるのかもしれなかった。その一見物置のような部屋の奥に、見慣れた頭が見えた。 「たちかわ」 そっと近付いて行ってその名前を呼ぶ。 太刀川は顔を上げなかった。ダンボールと木の板の間に出来るだけ小さくなるように体育座りをした、ともだち。 「太刀川」 目の前にしゃがみ込んで、風間はもう一度強くその名を呼んだ。 「おばさんも忍田さんも、心配してたぞ」 首が振られる。これは、行きたくないという意思表示だろうか。まだ、風間は何も言っていないのに。 「具合が悪い訳じゃあ、ないんだな」 こくり、今度は頷かれる。 ふう、と息が漏れた。心配していたのだ。何処かで具合が悪くなって倒れているのかもしれないと。それが本人によって否定されて、風間はやっと息がつけた。 「…行かないのか」 「行かない」 強い、声が返って来た。 掠れた声なのに、どうしてこんなに強いんだろうと思った。 「もう、やだ。なんで忍田さん、風間さんを呼んだの」 「オレがいるのが嫌なのか」 「ううん、応援しに来てくれて嬉しかった。でも、なんで今日だったの。もっと、おれ、違う日が良かった」 「何で今日じゃだめなんだ」 ばっと、太刀川が顔を上げた。 風間に合わされた目は、うるりと歪んでいた。涙を堪えている。もしかしたら、風間が来るまでに一度泣いたのかもしれなかった。ううう、と太刀川が唸る。 こんな顔を、風間は見たことがなかった。太刀川というのは稽古が、戦うことが何よりも好きで、その時こそまるでけもののような顔をしてみせるけれども、それ以外ではふわふわとした子供で、激しい感情など、戦場でしか持たない、そんなイメージだったのだから。それが、今は抱えきれない感情をどうにかしたいと、身体を丸めて唸っている。 「だって、だって。風間さん、おれ、今日、敗けるんだ!!」 ―――敗ける。 その言葉も、太刀川から初めて聞いたような気がした。 敗けなしだった、そういう訳ではないだろう。けれども太刀川にとって勝敗は其処までまだ重要ではないのかもしれない。手合わせをする度に、そんなことを思っていた。風間は負けたら悔しくてたまらなくて、次に何か生かせないかと何度も反省をするけれど、太刀川がそんなことをしているようには見えなかったから。 見えないだけで、していたのだろうか。ぱちり、瞬く。 叫んでしまった太刀川は、また顔を膝へとうずめてしまった。 「やだ、もうやだ。絶対やだ」 やだやだ、かえる、と太刀川はそれでも続ける。 「今日の相手、すっごく強いんだ。一個上だけど、身体も大きくて。おれも大きい方だと思ってたけど、もっとで。おれなんか、勝てない。いつも、もっと先で当たるのに。今日は、最初だし。もう、やだ」 練習も、稽古も、ちゃんとどっちも頑張ったのに。ぐずぐずと、鼻を啜る音がする。 「それでも、見たら分かっちゃう。おれ、あいつに敵わない。勝てない。あんなに練習したのに、してたのに。きっとあいつも練習したんだろうけど。それでも、追いつけない。それどころか、きっと、前よりもっと敗ける。そんなの、やだ」 逃げるのか、とけしかけるのはきっと楽だっただろう。風間さんなんかに分からないよ、ああ分からないさ、そう言って喧嘩してそのまま太刀川を引きずっていくことだって、きっと出来た。風間はそういう予想を立てるのが得意だった。 でも、そうはしたくない。 太刀川に対して、そんな計算みたいなもので、向き合いたくない。 「…たち、かわ」 痛いほど、太刀川の言いたいことは分かっていた。風間だって、体格差が不利という場面は嫌というほど味わっている。絶望と呼んでいいようなどうしようもない差も、知っている、と言って良いと思っていた。 でも。 でも、太刀川に、逃げて欲しくない。 それは、自分が逃げずに頑張ってきたからだったのかもしれなかった。此処で太刀川が、風間の目の前で逃げるのを黙認してしまったら、今までの自分の頑張りが否定されるような気がした。わがままだ、そう分かっていた。それでも、言わずにはいれなかった。 「だけど、行かないといけないだろう」 びくり、と肩が揺れる。うさぎみたいだ、と思った。うっかり小屋に入る時に、足を踏み鳴らしてしまったような心地悪さ。 「オレは、お前が頑張っていたのを知っている」 見てきた。 学年も違うし、家も近くはなくて、接点はあの組織だけだけれど。それでも楽しさというものが根源でも、太刀川が頑張っていたのを、風間は知っている。掌の皮が分厚くなるくらい、太刀川が頑張っていたのを、知っている。 それを、敵わないからと言ってすべて否定した気になって欲しくなかった。 「オレはお前にいつも堂々としていて欲しい。あの組織にいるからとか、そういう意味じゃない。こういった場面で堂々と出来るようなともだちが、お前しかいないからだ。オレは、そんなお前と仲が良いことが自慢なんだ」 それを聞いた太刀川がはっとしたように顔を上げた。今まで怒りだとか悲しみだとかが綯い交ぜになっていた瞳に、新たに不思議な光が割り込む。ずっとずっと宙だけを睨んでいた視線が、やっと風間の方を向く。 どうして、こっちのが泣きそうになっているんだ。頭の奥がぐらぐらした。頬が熱いような気がした。もしかしたら、キャラじゃないことを言っている照れなのかもしれなかった。 「なぁ、太刀川」 でも、今はそんなこと、気にしていられない。 喉の奥がぶわりと熱くなった。堰き止められるような熱さでふるふると震えだす。手を繋ぐ、なんて。子供っぽくて嫌で、師匠である林藤の手さえ跳ね除けて来たのに。とても自然に、さもそうすることが当たり前であるように、風間の手は太刀川の膝の上の手に触れた。 風間の熱くなった手とは反対に、びっくりするほど冷たい手だった。これから竹刀を握るのに、これじゃあすっぽ抜けてしまうかもしれない。 息を吸う音がこんなにはっきり聞こえたことはない。埃っぽい空気が肺を隅々まで満たして行って、それから。 「戻って、皆の前できちんと戦おう。そうじゃないとこの先一生、お前はいつまでも思い出して嫌な思いをする」 言葉が唇から落ちきった。その時。 風間は肩から力が抜けていくのを感じた。緊張していたのか。ふらふらと、しゃがみ込んだ状態から床に直に座る。なんだか、とても疲れていた。 (四) 太刀川はとても静かった。其処だけ音が切り取られてしまったかのようだった。黙りこくって風間を見つめている。まだ泣きそうだ、と思った。あれは、風間の渾身の言葉だった。これが響かないなら、もう、諦めるしかない。 「………ほん、とう?」 掠れた声に、風間はえ、と問い返す。 真っ直ぐな瞳が風間を映す。ああ、そうだ、と思った。これは、驚いている時の顔だ。 「風間さん、おれと仲が良いことが自慢、だって」 「本当だ」 強く、頷く。 一つも、嘘はなかった。いつもは照れくさくて、胸の奥に隠している本音。 その応えに太刀川は唇をぎゅっと引き結んだ。のろのろと、太刀川が立ち上がる。 「太刀川?」 「風間さん」 目をこすった太刀川は、ぱあっと笑った。 「ありがとう」 ぱたぱたと、軽い足音を立てて太刀川が走って行く。逃げないことに決めたのだ、その後ろ姿を見つめながらほっと息を吐く。嬉しかった。それでこそ太刀川だと、少し上から目線で思った。 追い掛けなければ。妙にだるい身体を引きずって、太刀川を追って部屋を一歩出る。 「待て、蒼也」 思いがけない強い声に、勝手に足が止まった。知っている声だった。風間に近界民や戦いのことを教えてくれる、師匠のもの。 「林藤さん…?」 その、聞いたこともないような静かな声に、風間は恐る恐るその名を呼んだ。 元々、風間は大人しくて真面目、飲み込みもはやい怒られにくい子供だった。だから、こんな空気を醸し出す大人と、真っ向から向き合ったことはない。 こつこつと、林藤が近付いて来るのを、風間はただ凍りついたように待っていた。怒られるのだろうか、何をしてしまったのだろう。その顔は妙に青く見えた。 そうだ。 先ほどの、太刀川の母親の表情に少し、似ている。 しゃがみ込んで目線を合わせた林藤は、風間の腕をぐいと引く。 「今、何したんだ」 怒っている声ではなかった。けれども混乱を隠せない、そんな声で。聞かれている意味が分からなくて、風間は林藤を見上げた。何か、してしまったのか。目を白黒させる。 「答えてくれ、蒼也。太刀川に何を言ったんだ」 こんなに必死な林藤を、見たことがあっただろうか。 「太刀川に、試合に出なきゃだめだって。会場に戻れって話してただけです」 「その言葉を、そのまま言ってくれ」 真っ直ぐに林藤の目が風間を見つめる。眼鏡の向こうの瞳が、不自然に揺らめいていた。どうか、どうか。何かを、願うような。 「太刀川に、堂々として欲しい、と」 「それから?」 「こういう時に堂々としてられるともだちは太刀川しかいなくて、オレはそれが、とても自慢なんだと」 先ほどは照れくさい気持ちがあったのに、今はただ何かに押されるようにその言葉をするすると言うことが出来た。怖い。そう思ったからかもしれない。 「…それ、から?」 それから。 ああ、そうだ。 「戻って…戦おうと。そうでないと、一生今日のことを思い出して、嫌な思いをする、って…」 ありきたりな言葉だろう。一生後悔する≠ネんて小学生が覚えて使いたがるフレーズだ。太刀川のために、それを少しやわらげただけで。 聞いた林藤は大きく息を吸った。それからそうか、と呟く。 「それを聞いて、太刀川はすぐに戻ったのか」 「すぐ、というか…お礼を言われました、けど…」 すぐ、ではなかったと思う。風間が本心をさらけ出してから、太刀川が立ち上がるまでにタイムラグがあった。だから伝えはしたが、恐らくそれは大した問題ではないのだと、賢い風間にはもう分かっていた。 太刀川に風間がそう言ってしまった。どうしてか分からないけれど、それがきっと何かまずかったのだ。 「…お前に、それを持たせたのは間違いだったかな」 それは独り言のようだった。 林藤の手が、風間の首から下がるお守りに触れる。 「俺はこれをお前にお守りと言って渡したな。それは嘘じゃない、嘘じゃあないんだが、言わなかったこともある。これは、本当は黒トリガーなんだ」 「黒トリガー?」 黒トリガー。その名を、風間は聞いたことがある。人間が、その全トリオンをつぎ込んで作る特殊なトリガー。そんなものを、どうして風間に。 「それは、昔俺が近界で拾ってきたものでさ。もう解析とか全部済んでんだけど、あまりにも使い勝手が悪いし適合出来る人間も少ないからって、俺のとこで埃被ってた」 だから、お守りとしてお前に渡しといた。もし近界民に襲われたとしても、それを奪われるだけで済むかもしれないからな。そう続ける林藤は、目の前にいるのに別の世界にでも行ってしまったように思えた。 「その黒トリガーにはな、他の、俺らが使っているようなトリガーのように、目に見えて分かる起動ってモンがない。ただ、適合した人間の言葉に反応して、相手を縛る能力を発揮する。能力、って言うと分かりにくいなら、言葉とか声、でも良い」 「声、ですか」 「―――もしも何か≠しなければ、ひどいこと≠ェ起きる」 何か≠させるために、条件をつけるんだ。脅す、って言っても良い。囁いた声は御伽話でも語るようなものだった。 「魔法をかけるトリガーだって、そう思ってくれて良い」 魔法。風間はその言葉を口の中でだけ転がした。トリオン文化も似たようなものだったが、それを風間に教える林藤は、今までその言葉を一度も使わなかった。だから余計、その異様さが際立って聞こえた。 「相手の力をめいっぱいまで引き出すために言葉に魔法をかけるトリガーだって、開発室連中はそう言ってたぜ。けど、俺はこれがそんな魔法なんていいものじゃないって、そう思ってる」 「林藤さんにも、これが使えるんですか」 「ああ」 林藤の手が、そっと風間の手を包む。あたたかいな、と思った。太刀川の手もいつもならこれくらいあたたかいのに、今は、もう、あたたまっただろうか。 「約束してくれ」 切実な声。 「もう二度と、そのトリガーを使わない、誰かに対してそんなふうに言わないって。鍵になるのは言い方だ、だからお前が約束してくれればそれだけで、良い」 「…返せとは、言わないんですか」 「やっぱり、俺はお前が可愛いよ。弟子だしな。だから、お前を守るためなら出来るだけの力を尽くしたいと思ってる。いつかお前にもしもの危機が訪れた時、お守りが何もないのは、やっぱり…心配だ」 絞り出すような声に、深く考えるよりも先に分かりました、と答えていた。 「約束します」 包まれるだけだった手を動かして、今度はこちらからぎゅっと握る。 「もう、絶対に、あの言い方はしません。このトリガーも、今まで通りただのお守りにします。オレは―――そうやって強くなりたい訳じゃ、ないですから」 それを聞いて、林藤はありがとう、と言った。礼を言われるようなことはしていないのに、なんだかひどく胸が傷んだ。 翌日の放課後、うさぎ小屋に来た太刀川は風間を見つけるとぱあっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。 「昨日ありがとう、風間さん」 その笑顔に、風間は決めた。 「風間さんが言ってくれたこと、すごく嬉しかった。おかげで頑張れた」 林藤に、このお守りを返そう、と。 そうして、お守りのことも、その能力のことも、風間の心の奥底へと沈み込んでいった。 第二章 (五) あの試合からもう数年が経っていた。風間は二十一歳で、太刀川はこの夏で二十一歳になる。 「もうすぐ同い年期間が来るね〜」 「…それ、毎年言ってるだろう。そろそろ飽きないのか」 「ん、多分一生飽きないよ」 毎年毎年七月に入ると繰り返されるそんな会話に、風間はため息を吐いた。 「あ、そうだ、聞いた? また迅がなんかやらかしたって」 「なんかってなんだ。もっと詳しく言え」 「それがなんか、ってことしか分かってないんだって〜。アイツも、まぁ、よくやるよね」 ボーダー本部のカフェテリア。そんな人が多くいるところで支部所属の人間の動向を、こうもおおっぴらに話して良いものか。しかも迅だ。S級から降りてもう半年経つが、まだ周りの扱いは支部所属のS級である。それもやっと最近、ランク戦を行っているおかげか減ってきたように思えるが、それでもまだ迅と他の隊員の間には溝が見える時がある。 「アイツは…自分勝手だ」 絞り出すように文句を言うと、太刀川があはは、と笑う。 「でも、人間ってそんなもんじゃない? もともと自分のことしか考えられない生き物だって、こないだ授業でちらっと先生が言ってた」 「お前が授業を真面に聞いているとは思わなかった」 「風間さんまでそんなこと言うの!?」 ひどい! と悲鳴を上げる太刀川に、それで、と先を促す。 「ん、確かね。人間って、絶対に他人のために泣いたり出来ないんだって。誰かが死んで、それで悲しくなって泣いてても、それは結局その人を失った自分のことが可哀想なだけなんだって。自分のための涙しか出ないんだって、そう言ってた」 「それじゃあうさぎの方がマシだな」 ころり、転がった言葉に太刀川は目を丸くする。 「うさぎは滅多に鳴かないんだろ?」 「…風間さん、そんな昔の会話覚えてたんだ」 「お前との話だからな」 ふふ、と太刀川が笑みを漏らす。そういうの、嬉しいね、と小さい声でささやかれた。風間さんに覚えていてもらえるの、うれしいね。 そんなことにいちいち喜ばなくても、こんな会話はきっとこれからもずっとしていくし、その一つ一つを、全部、というのは無理でも忘れることなんてないだろう。そう思って、顔を上げる。 「今週はお前と話したことを振り返る習慣にするか」 「えっなにそれ。おれ忘れてることいっぱいありそう。こわい」 「おまえは馬鹿だからな。期待はしていない」 「あ、ひっど! うさぎのは覚えてたのに」 「ほんとかどうか分からないがな」 「…忍田さんだしね」 「忍田本部長だしな」 笑い合う。 けれども結局、その約束は果たされなかった。 (六) 昼間は暑くても、夜は涼しい。その温度差に身体がついていけなかったのか、風間は風邪を引いた。喉の様子が可笑しくて声が上手く出ない。這うようにして行った洗面所で覗いた鏡には、笑えるくらい真っ赤になった喉が写っていた。 風間隊には昼から任務が入っている。しかし、トリオン体になれるとは言え、これは流石に一人でどうこう出来るレベルを越している、と思った。 『そこでおれに電話くれるの、風間さんらしいよね』 電話の向こうで、太刀川は笑った。やさしい笑い方だった。 「だって、電話しなければ、困るだろう」 『それはそうなんだけどさあ』 メールでも良かったのに、と言われて確かにそうだが、と口ごもった。 ボーダーは仕事である以上半端な用事で休むことは許されてはいないが、体調の良し悪しに対応するだけの余裕はいつだって残してスケジュールを組んでくれていた。その対象の多くが子供だからかもしれなかった。だから緊急時でもない限り、隊長が出られないとなれば、その隊ごとスケジュールを組み直す、なんてことも出来る。 それを、風間も分かっていたけれど。 声が、聞きたかった、なんて。 『分かった、上に話通して風間隊の任務と変わってもらえるようにするよ。それより声がすごいことになってるけど、大丈夫?』 「喉がめちゃくちゃ痛い」 『病院、ちゃんと行ってね』 「分かってる」 そんなふうにして、電話は終わった。 布団にくるまってうつらうつらしていると、玄関の鍵の回る音がした。一人暮らしのこの部屋の合鍵を持っている人間なんて限られている。 「…たちかわ」 「うん、風間さん。大丈夫?」 「かぜ…」 「マスクして来たし、すぐ行くから」 任務交代の申請も通ったよ、と大きな手が頬を撫ぜていった。安心、する。 「あと、これ。喉痛いって言ってたから」 唇に押し当てられたそれが何の味なのかは良く分からなかった。ただ、甘いな、とだけ思う。 「のど飴だからちゃんと舐めてね。あとさっきも言ったけど、病院ちゃんと行ってね」 「少し、寝たら」 「うん、約束」 じゃあ、おれはもう行くから。 その声に風間は目を閉じた。かちゃり、今度は鍵の閉められる音がして、足音が遠ざかっていく。それを聞き遂げたあと、いつの間にか眠りにおちていた。舌に触れる丸い小さな飴と、その甘ったるい味と香りを感じながら、あたたかい部屋で平和に丸まっていた。 (七) 次に目が覚めた時、飴はまだ口の中にあった。甘ったるい感覚に支配される。よくも溶けずに残っていたな、と時計を見遣る。短い針は十二の少し手前にあった。身体の怠さは朝よりもましだ。これなら病院にも行ける。 口の中は飴の所為で、しわしわになってしまっていた。くどいほどの甘さが、詰まってぼうっとする鼻へと響いている。 ヴヴヴ、と何処かで何かが鳴った。まだ夢現の風間は暫くそれが何の音なのか分からなかった。揺れる、揺れる、振動。ぼんやりした頭がやっと、携帯という答えにたどり着く。 朝よりも少し熱が下がったように思えるだけで、恐らくそんなに下がってはいないのだろう。当たり前だ、市販の、いつ買ったかも分からない薬を飲んだだけで、真面な食事も摂っていないのだ。冷却ジェルシートもなかったから、もしもの時のために取っておいた小さな保冷剤を袋に詰めて作った即席氷枕しかない。それで体調が全快していたら医者なんていらないだろう。 上手く動かない右手が、やっとのことで携帯を掴む。良く切らなかったな、とその相手に感心した。 表示されている名前は菊地原だった。今更確認するまでもない、部下の名前である。菊地原がどうしたのだろう。今日の昼の防衛任務は既に交代申請が通っているはずで、その旨をメールで全員に通達したはずなのに。 ざわり、胸が嫌なふうに鳴った。 通話の緑のマークに、触れる。 『あっ風間さん出た!』 電話口で声がする。菊地原の、声。いつもは絶対聞けないような、慌てた声。あっ歌川なんで取り上げるの、お前が落ち着いてないからだろう、そんなやりとりのあと、電話口には歌川が出た。 『風間さん、落ち着いて聞いてください。太刀川隊が、人型近界民と出くわしました』 ひゅうひゅうと、喉の後ろから音がするのを聞いていた。耳に押し当てた携帯が痛いはずなのに、その痛さも良く分からない。 『近界民は捕獲されましたが、相対した太刀川さんが攻撃を受けて、医務室に運ばれました』 口の中がすごく、ものすごく甘かった。太刀川のくれた、飴の味。 その味を、風間はきっと、一生忘れない。 (八) その日、現場にいなかった風間に事件のすべては分からない。 あの電話を受けてすぐ、風間は本部へと走っていた。熱があったはずの身体は恐ろしいくらい軽くて、喉の痛みだけがちぐはぐだった。人間は驚くと熱が引く、そういうことがあるということは知識として知っていはいても、まさか自分が体験する羽目になるなんて思っていなかった。 転がり込むようにして現れた風間に、周りの人間はひどく驚いたようだった。 「風間さん、こっちです」 いち早く我に返った歌川が案内するのについていく。 医務室は水を打ったように静かだった。安静にする場所なのだから当たり前だ。何度か世話になったことのある職員が風間を認めるなり、こくり、と頷いた。そして、近付いてくる。 「太刀川くんだね」 それは確認というよりは断定だった。年老いた男は難しい顔をして先を続ける。 「開発室に太刀川くん、解析してもらったんだけどね、どうも、精神干渉を受けたみたいなんだ」 「精神干渉、ですか」 返した言葉はざらざらとしていた。君は風邪を引いていたんだったね、聞いてるだけで相槌はいいよ、との言葉に甘えて、頷くだけに留める。 「うん、悪夢…って言った方が近いかな。瞬間的に、連続的に、同じ場面を何回も、って感じ。それで今、太刀川くんは疲れてしまって休んでいる。…回りくどく言ったけど、君にはその意味が分かるね?」 頷くことが、出来なかった。疲れて、休んでいる。それは可愛らしい良い方だ。幼稚園児に言うような。現実はそんな可愛いものではない。 「捕らえた近界民の証言から、一番大切な人が死ぬ様を繰り返し見せるものだと分かっている」 太刀川の、 「それから出水くんから、攻撃を受けた瞬間に君の名前を呼んだことも聞いている」 太刀川の心は。 「これは推測でしかないが、太刀川くんは君が死ぬ夢を見せられたのではないかなと思っている。そして、今のこの状況を、君を失ったことを信じたくない自分が見ている、幸福な夢だと思っているんじゃないかな」 壊れて、しまった。 心配そうな顔で、男は風間の肩を撫ぜる。 「近道は、君が根気よく話し掛けることだ。そうすれば、太刀川くんもどちらが現実なのか分かると思うから」 あと、と渡されたのは見覚えのある銀色のものだった。 「これは、太刀川くんのかな」 二本の、スプーン。太刀川がそのうちの一本を風間にくれた、メジャースプーン。こくり、と頷く。風間があのお守りを返したそのあと、今度はこれがお守りだと言って、首から下げられるようにした、新しいお守り。いつだって外したことのなかった、お守り。 「そうか。検査の時に落としてしまったみたいでね。君から返してもらえるかい」 受け取ったその銀色の冷たさが、ひどく残酷に感じた。 (九) 太刀川は、その瞳をいつもよりもずっとぼんやりとさせていた。 ああ、壊れている。それが一目で分かってしまう。気をきかせてくれたのか、病室には太刀川一人だった。お見舞いの品の山から、何人もやって来ているのは分かったが。 「太刀川」 目を開けたまま眠っている、そんな感じだった。名前を呼ばれても反応を示さない。 分かっていたことだった。覚悟して来たはずだった。なのに、どうして、と喉がきりきりと痛む。 熱は、太刀川が襲撃を受けた知らせで驚いて下がってしまい、そのうちに風邪も気付いたら治っていた。人体とはすごいな、なんてまるで他人事のように思った。 「たちかわ」 手に触れる。息がかかるほどに近かった。いつもなら太刀川は近いよ、とだけ言って、でも嫌ではなさそうに笑う。それが風間と太刀川の距離だった。 でも、太刀川は何も反応を示さない。 「太刀川、これは夢じゃない」 ふと、昔の会話を思い出した。風間さんは、A級一位って、どういうことだと思う?模擬戦の、終わったあとだっただろうか。その日も風間は敗けていて、たった今負かした相手に良くそんなことが聞けるなと少し呆れた。どういうこと、とは?うん、忍田さんが言うんだよ、自覚を持て、って。おれにはよく分からなくて。頬を掻いて見せる太刀川は歳相応で、馬鹿でなくてもきっとその答えは分からなかった。 責任、じゃないか。責任? 静かな風間の声に、太刀川は繰り返す。そう、責任。一位として、市民に名が知れ渡るだろう。それは、一位さえいれば大丈夫、そう市民に印象を与える。お前は、そういう覚悟をして戦わなくてはいけない。 なるほど、と太刀川は頷いた。責任、責任ね。本当に分かっているのかどうか怪しいその言い方に、風間は顔を顰める。それを見て、太刀川は笑った。だいじょうぶだよ、そんなふうに、やわらかい声で。 「たちかわ…」 おれが全部、倒せば良いんでしょ。三門市をまもる、最強であれば良いんだ。 あの時。 あの時、風間は自分が太刀川の特別≠ナないことを知った。知ってしまった。太刀川はあんな馬鹿ではあるけれどもやさしくて、そのやさしさは皆に平等であって。流石にきらいなひとには優しくできないよ、きっと彼はそういうのだろうけれども。 風間が、特別でないからいけなかった。 「太刀川…!!」 だから、彼は返事を、しない。 (十) その時だった。耳の奥に林藤の声がよみがえる。 ―――魔法をかけるトリガーだって、そう思ってくれて良い。 それだ、と思った。使わないと約束して、あのお守りは林藤に返してしまったけれども、風間はあの黒トリガーのことを忘れたことはなかった。ただ、心の奥底にしまいこんでいただけで。もしも何か≠しなければ、ひどいこと≠ェ起きる。その言葉を鍵にして発動する、使い勝手の悪い、適合者も少ない、あのトリガー。 自分にはどうにか出来るんじゃないか。こちらを向かない太刀川に、そう思った。 思った、けれども。 「何か話せ、太刀川。戻って来い、元気になれ。さもないと………」 考えていた言葉はそこで止まってしまった。さもないと?息が詰まる。一体、何を言えば良いのだろう。 ―――脅すんだ。 何を、何を言えば。太刀川は脅されてくれるのか。 太刀川、此処へ帰って来い。オレを見ろ。さもないと―――さもないと、何だ?風間は途方に暮れた。真っ白い顔をして、誰のことも受け入れることを拒んでいる今の太刀川に、これ以上何を言ったら。 黙ったままの唇、揺さぶってもされるがままの腕。でも触れた掌はちゃんと暖かくて太刀川が生きていることが感じられた。このままなんて嫌だ、そう思う。太刀川と、話がしたい。くだらないことを言い合って、単位を心配して、勉強の面倒を見て。これから先をぼんやりと話し合うような、そんな日常を返して欲しい。 ばらばらばら、と何かの壊れる音がしていた。ざらざらざら、何かが流れ出て行く音もしていた。口の中は依然として甘いままで、嫌になるくらいだった。 「さもないと…」 トリガーを持っている訳でもないのに、その言葉を繰り返すことはやめられなかった。それと同時に、それ以上続くこともなかった。 何を言ったら良いのか本当に分からなかった。何か言って、それでも太刀川が戻ってこなかった場合、どうしたら良いのかわからなくなる。そうしたら、太刀川は一生このままだ。今よりもっとひどいかもしれない。風間の声が、呪いのようにそのままかかってしまう。 帰り道で、ひくり、喉が震えるのが分かった。ただ、叫びたかった。それをしなかったのは風間がもう子供ではなく、世間体というものを理解しているからだった。 泣きたくて泣きたくてたまらなかったはずなのに、涙の出る気配すらなかった。涙腺が乾き切ってしまったようだった。頬がひきつれて、喉が震えるだけ。 じくり、とした痛みが場違いでなんだか笑えた。 第三章 (十一) 三日経っても太刀川の様子は変わらなかった。たった三日なのに、自分の堪え性のなさに笑いが漏れるほどだった。精神干渉を受けたのだ、一ヶ月や二ヶ月、時間が掛かるだろうということは分かっていた。分かっていたはずなのに、理解はしていなかったのだろう。 笑わない太刀川は、まるで人形のようだった。百八十センチの人形なんて、笑えてしまうけれど。あのふにゃりとした笑みも浮かべない、模擬戦をする時の獰猛そうな笑みも、課題に追われて手助けを頼もうとする時の情けない笑みも、師匠である忍田と話す時の楽しそうな笑みも。 なにも、ない。 なくなった訳ではないのだと、分かっている。すべては太刀川の中に、とてもとても奥に引っ込んでしまっているだけなのだと。それでも、見えなかったらないのと同じだ、そんな子供じみた思考になるのは。 「太刀川」 呼んでも、その瞬きが規則正しく太刀川が生きていることを、人形ではないことを、伝えるだけで。苦しかった、息を吐いても吐き出せないほど、胸がいっぱいだった。 目線の先に立っても、その瞳を覗き込んでも、太刀川は風間を映さない。どうして、と言えば良かったのだろうか。どうして、お前は強いんだろう、オレが死んだくらいでは動じないんだろう―――気が緩めば、そんな言葉さえ零してしまいそうだった。 太刀川を襲った近界民は捕縛されたと聞いたのに、風間にはそれ以上の情報は入ってこなかった。意図的に情報を止められている、そう思った。 だから、風間は直談判をすることにした。 失礼します、と入ると、忍田は難しい顔をした。沢村に目配せをすると、本部長室の中には風間と忍田、二人だけになる。 「忍田さんは、知っていますよね」 「…何について、だ」 とぼけるつもりらしい。風間は忍田から目を逸らさずに続ける。 「林藤支部長の持っている、黒トリガーのことについて」 知らない訳がないのだ。上層部すべてとは言わなくとも、旧ボーダーの設立に関わったこの人が、本部長を勤め、林藤と気のおけない仲であるこの人が。 それを、知らないふりをするのは。その影響範囲について知っているからか、それとも一度太刀川に使ってしまったことを、知っているからだろうか。 「…あれを、使うつもりか」 「いけませんか」 目の前に、使えるものがある。それを使える能力もある。それをみすみす逃すなんて、少なくとも今の風間には出来ない。 「自分が適合していることも、忍田本部長ならご存知でしょう」 「…知っては、いるが」 じっと、くろぐろとした瞳が風間を見つめていた。 「何を言うか、決めてあるのか」 「………いいえ。自分はまだ、あの黒トリガーについて詳しいことは知りませんので」 しかし、この場面に有効であるとは、思いました。 平坦な瞳の前に、目を逸らさないでいることは意外と力のいることだった。震えそうになる喉を飲んで、拳を握る。 「諦めるつもりは、ないのか」 「ええ、ありません」 ため息。 そして忍田は携帯を取り出すと、断りもなく電話をかけ始めた。 「林藤か。忍田だ」 三コールほどで繋がった相手は林藤らしい。 「残念ながらお前の予想通りだ。風間くんが今、来ている。………ああ、分かった。連絡を入れておく。…無茶は、させるなよ」 用件のみで切られた電話に、思わず声を上げた。 「許可をくださるんですか」 「…今回のことを断っても、この先きっと何回もこれと同じようなことが起きるだろう。君はもう、あのトリガーの能力について知ってしまっているし、適合もしている。私たちは兵隊だ、こういった状況は特殊でもなんでもない。死ななかっただけ、儲けものだと思っている。でも、君はそうは思わないんだろう。だったら今、このことを切欠に君はあの能力について勉強しておく必要があるんじゃないかと、そう思っただけだ。―――君は、」 くろぐろとした瞳が風間を射抜く。 「慶のことが、本当に好きなんだろう?」 慶。 太刀川、慶。 その名前を聞くと、どうしようもなく鼻の奥が痛くなるのを感じた。甘い香りがよみがえる。風間は頷いた。やりきれなくて、苦しくて、本当に嫌だと思ったから頷いた。 (十二) そういう訳でその日の午後、風間は玉狛を訪れていた。 「えっ風間さん!? どうしたの、玉狛くんだりまで」 くんだりとは。元部下の言い方に風間は思わず眉を潜めた。確かに本部の人間が玉狛へとやって来るのは珍しいが、元々本部と玉狛は徒歩三十分も離れていない。 「林藤支部長に用があってな」 「そうなの!? ボスなら執務室にいますよ。あとでお茶、持っていきますね!」 「…ああ」 機密事項だろうが、他の人間に聞かれるような迂闊な真似はしないだろう。そう思って風間は頷くだけに留めた。密談をしていると、他に知らしめることはあまり良いことではない。 宇佐美に言われた部屋の扉をノックすると、中からどうぞ、と声がした。 「よぉ、蒼也。顔色悪いな」 「お久しぶりです。余計なお世話です」 この三日、深く眠れていない自覚はあった。睡眠も食事も、しなければいけないと思っているからしている、という感覚で。浅い眠りを揺蕩い、味のしない食事をし、この身を生かすためだけの作業をする。 太刀川が、あんなことになっているのに。 まぁ座れよ、と促され結構ふかふかとしているソファに座ったところで、扉が控えめにノックされた。 「お茶ですよー」 「どうぞー」 宇佐美が入ってくる。 「風間さんが来るなんてホント、珍しいですね。なんかあったんですか?」 ことり、ことり。お茶と茶菓子を丁寧にローテーブルに並べながら、宇佐美はにこにことそう尋ねた。気になるよな、と風間は思う。風間が答えあぐねていると、お茶を受け取った林藤が同じようににこにこしながら答えた。 「んー秘密の話ー。蒼也が来たことも内緒にしてくれると嬉しいかな」 「えー良いですけど、迅さんにはバレちゃいますよ」 「迅は仕方ねえや。でもそれだけな」 「了解です!」 びしっ! と敬礼のポーズをして、宇佐美は部屋を出ていこうとする。 扉を閉める前に、あ、と彼女が声を上げた。 「口止め料に、お菓子の味見、付き合ってくださいね!」 それからぱたり、と扉を閉める。 「…お菓子?」 「最近宇佐美、菓子作りにはまってんだ。木崎が教えてるけど…なんつーか…向き不向きってあんだろ。何でレシピ通りにやんないんだろうな…」 最後の方はもごもごとしていてうまく聞き取れなかった。どうやらあの才女も菓子作りは難航しているらしい。 さて、と林藤が指を組んだ。 「何処まで話すかも、俺に一任されたよ」 すとん、と空気が落ちたような気がした。以前林藤の表情は変わらない。いつも通り、眼鏡に隔てられた表情は風間にすべてを見せることはしない。 「俺、説明するの得意じゃねーから。お前が聞きたいこと聞いて。答えて良いって俺が判断したとこだけ答えるから」 どうぞ、とその唇が弛んだ。 こういうところは本当に苦手だな、と思った。 (十三) 息を、吸い込む。 「…あの近界民がこっちの人間を攻撃した理由について、聞きたいです」 まずは止められている情報を、手に入れることが先決だと思った。 情報が止められていたのは、被害を受けたのがA級一位であることもあるだろうが、風間のことを考えての部分もあったのだろう、と思う。旧ボーダーに限らず、風間と太刀川が良く一緒にいるのを知っている人間が多い。 それが、その任務の交代中に起こったものともなれば。 風間は自分のことを冷静な方だと自負はしていたが、情報を漏らされていればそれに怒り、殴り込みをしていた可能性もある。今だって、こうして大人しく座ってはいるが、本部長に直談判しにいくくらいにはいろいろなものに耐えられないでいるのだから。 「ああ、先に聞いとくんだった。お前さ、」 執務机の上に置かれた菓子の、その拗じられた部分をいじりながら林藤は呟く。 「絶望に立ち向かう勇気はあるか?」 何を、と思った。何を、言うのだと。 「どんな理不尽さが目の前に降ってきても、その絶望に飲まれない、自信はあるか?」 「…これ以上の、」 喉が震えた。 「これ以上の…ッ、絶望なんてあるんですか」 「蒼也」 「太刀川がッ…、たちかわが、あんな、ふうに。なっていること以上の…絶望、が」 「蒼也。質問に答えてくれ。それに答えられないなら、俺はこれ以上、お前に何を教えることもしない。このままあの近界民の取り調べ及び処分を決まるまで、お前が何もしないように軟禁することも厭わない」 それじゃあ困るんだろ、と窘める声に、荒げた声を落ち着ける。 「…はい、大丈夫です。どんな理不尽な事実も、事実として受け止めます」 暫く、林藤は風間を見つめていた。本当に大丈夫かどうか、確かめているようにも感じられた。その間にぼんやりと、今日は煙草を吸わないんだな、と思った。執務室の上の灰皿はからっぽ。禁煙でもはじめたのだろうか。 「分かった」 林藤が呟く。 「話そう」 組み替えられた指が、なんだかやけに深刻そうに見えた。 (十四) 目を見ることが出来なかったのは、師弟という関係にあったからか。忍田には通じた虚勢も、林藤には見破られると思ったからか。風間はその組まれた指の先をじっと見つめていた。 「あの近界民な、こっちの人間を襲ったことに特に理由なんかないんだと」 ぱちり、自分の瞬きの音すらも聞こえそうだと思った。 「太刀川であったことにも、だ。何でも最初は木虎を狙うつもりだったらしい。結構前からこっちに潜伏してて、テレビで知ったんだと。木虎可愛いだろ、ついでに広報部隊だから影響力もあんだろ。そういう人間が壊れたらどうなるのか、周りがどうなるかとか。そういうこと考えてたらしい」 つらりつらり、まるで御伽話でも語るような口調で並べ立てられていく真実。 「でもまぁ頭は良いんだけど杜撰な計画を立てる奴だったみたいでさ。思い立ったが吉日って感じで警戒区域をふらふらしてて、それで一番最初に会った太刀川を標的にしたんだと。俺も出水から事情聞いたけどさ、アイツ、第一声が『髭面野郎かよ、残念』だったらしいぜ。『可愛い女の子が良かったのになー』って。そうやって喚きながらトリガー起動して、あとは聞いた通りだ」 息を飲む。 そんな風間を見ないふりで、へらへらした奴だけど、腕は確かだ、と林藤は続けた。あの太刀川が苦戦するくらいだからな、と言われて、風間は膝の上で拳を握る。 「なんですか、それ」 やっと外に出た言葉はがたがただった。 「人を、なんだと思ってるんです」 「それも、聞いたよ」 城戸さんがな、と林藤が茶を啜る。 「しずーかな声でな。『君にとって、自分以外の人間とは何なんだ』ってさ。そしたら、アイツは笑って答えたよ。『どうでも良いものです』って」 どうでも、良いもの。 瞼の裏に浮かんだのは太刀川だった。ボーダーの医務室、その一番奥の個室で、ぼんやりとしているだけの太刀川。何の反応も示さない、人形のような太刀川。心を、壊されてしまった、太刀川。 それが、どうでも、良いもの? 「『あんまり、どういうものか考えたことはありません。きっと考えるまでもない炉端の石みたいなものだったんでしょう。そうなるとそれは、すごく哲学的な問いですね。俺にとって、炉端の石とは何か、でしょう。ううん、難しいですね』」 声を少し甲高くしてみせたのはその近界民の真似だったのだろうか。どっちにせよ、彼に会ったこともなければ彼を見たこともない風間には、知ることが出来ない。 「アイツは今と同じようにいろんな世界を回って来たらしい。本国からトリガーかっぱらって逃げて来たんだと。好きに生きたいから」 「そんなの…」 ひどいニュースというものは何処にだってある。三門では近界民による襲撃の方が取り沙汰されるため、そういった凶悪事件はあまり聞かないが。遠く離れた、でも確かに同じ国で、ひどい事件が起こったりすることを、風間はテレビを通して知っていた。 実の子供を殺す。学校のうさぎを殺す。友達を殺す、行きずりの何も知らない人間を、むしゃくしゃしたからという理由で。そんなニュースを見ながら、太刀川とひどい話だと言い合ったこともそんなに古い話ではない。 でも、それは所詮テレビの中だった。風間たちにとってはテレビの中のような近界民の襲撃の方が現実で、現実らしいむごたらしい悪意に塗れた事件の方がテレビだった。 「…お前は、三門生まれだもんな」 ぽつりと、林藤が呟いた。 「それに、旧ボーダーからいるしな」 「それが、何です」 「お前らは、こういう悪意に不慣れだろう」 見透かされたような気がした。 「だから太刀川も、ああなっている。むごたらしいやり方で、いちばんに大切なお前を目の前で殺される幻を見たんだ。何度も、何度も、太刀川がそれを現実だと信じてしまうまでに。太刀川は…」 途切れる言葉。 「…あいつは、やさしいですから」 「…そうだな」 林藤が茶を啜る音がした。風間もそれに倣う。 カップを手にとって見るまで気付かなかったが、中身は紅茶のようだった。一口啜ってみると、ひどく甘ったるい香りが鼻に抜けていった。 第四章 (十五) 紅茶を飲んで一息吐いてから、林藤はどうしたい? と問うてきた。どうしたいか、それは既に、風間の中で決まっている。 「この力で、人を助けることは出来ますか」 林藤は、そう切り出されることを予想していたらしかった。 「単刀直入に聞くぞ、蒼也。お前、どういうことをしようと思って此処へ来た?」 「…オレ、は」 分かっているはずなのに、林藤がこうして質問を重ねるのは、どうしてだろう。ぼんやり思う。唇の震えがまるで他の人のことのようだった。 「オレは…」 太刀川。静かな病室で一人、此処ではない何処かを見つめていた太刀川。情報漏洩防止のため、家には戻せないのだと言う。一緒に暮らしている母親が毎日面会に来ていることを風間は知っていた。幼い頃から、何度か顔を合わせている。知らない人ではなかった。けれども、話しかけることは出来なかった。風間は、太刀川があんなことになった遠因だ。 「オレは、太刀川を助けたいです」 どの面を下げて顔を合わせようと言うのだろう。 その答えもまた、林藤の予想範囲内だったのだろう。けれども林藤は返答に時間を掛けた。じっと風間を見つめて、まるで品定めされているみたいだ、と思う。勿論林藤にそういった能力が備わっていることは知っていたが(だって近界に進んで出て行くような人なのだ)、こうして風間にも分かるようにされたことは初めてだった。それくらい、今の状況というのは切羽詰まっているのかもしれない。ぼんやり思う。 「それは無理だ」 暫く黙った割には、返ってきた言葉簡潔なものだった。 「何を言っても恐らく効果はねえ。このトリガーは一度掛けてしまった相手には二度と使えないんだよ」 それは想定外だった。 「そん、な…」 そのトリガーの使用許可を貰って、太刀川をこちらの世界に引き戻す。それが風間の当初の計画だった。どう言葉を掛けたら太刀川がこちらに戻ってくるか、そのアドバイスが貰えれば、と思っていた。なのに、 「じゃあ、オレは、………」 何のために、来たんだと。最後まで言うより先にはっと閃く。 「林藤さん、貴方は、」 「…それも、すすめない」 「何故です!」 林藤があまりそのトリガーを好いていないことは何となく分かっていたが、太刀川の心が懸かっているのだ。渋る理由としては弱い。そう並べようとする風間に、林藤はまあ話を聞けよ、と茶を啜った。 「ずっと俺だけしか適合者がいなかったんだ、だから重ねがけってモンをやったことないって言うのがひとつ。もう一つは、元々相手に心理的負担を強いるゲームだ。普通の奴や、敵ならまだしも、あんなふうになってる太刀川にそれをかけるのは正直躊躇われる」 「そんなこと、忍田本部長は言いませんでした」 「忍田は詳しいことを知らないからな。これを知ってるのは適合した人間くらいなモンだろ。つまり、ボーダーでは俺だけって訳」 必死で出した嘘だろう、という言葉もやんわり抑えられる。 なら、どうして林藤は風間を玉狛へと招き入れたのだろう。もしも忍田にそのトリガーの能力を詳しく伝えたくないのだとしても、もっと他に方法があったはずなのだ。そう、本部でも良かった。場を玉狛にしたのは、きっと、密談をするのに本部よりも向いている、そう思ったからで。 「…一人につき一回しか使えないのなら」 顔を上げる。 「オレがその近界民に、あのトリガーを使うことは可能、ですね?」 相手に心理的負担がかかるというのがネックであるのなら、かからないようにと考えるのではない。かかってもいいような相手を選ぶべきだ。風間や太刀川が教わってきたのはそういうことだった。 「だよなぁ…お前、思いつくよなあ」 頭良かったもんな、と林藤は菓子を口に放り込む。それからでもさ、と続ける。 「蒼也、お前さ、アイツに会って何をするつもりだ?」 「分かりません」 今度は即答出来た。だって、風間はまだ何も知らないに等しいのだ。 「何も浮かびません。でも、何もしないでいるのも嫌です。オレに何か出来ることがあるのなら、オレはなにかしたいと思います」 「………だから、アイツに会う、と」 「はい」 林藤がこういった情に弱いのに知っていた。林藤だけではない、今の上層部は殆どそうだ。それを外に見せるようなことはしないから、知っているのは古くからいるメンバーくらいだったが。 林藤がうん、分かった、と言うまでの時間がひどく長く感じられた。 「俺から城戸さんに直談判してやんよ」 「…良いんですか」 「いーよ。ってか蒼也はそのつもりで来たんだろ?」 引く気ないくせに、と言われればそうではあるが。 「俺がお前に教えられるのはこのトリガーの使い方だけだ。法則性や規則性、そんなものだけ。俺はお前に協力は出来ない」 きょうりょく、と繰り返す。使い方を教えるのは協力のうちに入らないのだろうか。疑問に思ったのが顔に出たのだろう、ただの意地だよ、と付け足された。 「まあ、口約束なんだがな。忍田と昔、あれは使わないって決めちまったもんだから。それを裏切るのも…な。能力を知っているのにアイツは必死で黙ってるんだから、俺が勝手にどうこうするのはだめだろ」 「…仲が、良いんですね」 「そんなもんじゃないさ」 くっとつり上がった口角。 「俺たちは共犯者なんだよ」 共犯者。 それはよく聞く言葉だった。一つの言い回しとして、大人たちがよく好んでいたもの。 「お前と太刀川は、そうはなるなよ」 太刀川にトリガーを使うことは許さない、教えるのは使い方だけ、林藤は協力はしない。それでも良いか、と林藤は尋ねた。大丈夫です、と風間は言った。何も知らなければ、何も出来ない。教えてもらえるだけでもありがたい。 「よろしく、お願いします」 「こちらこそ」 (十六) この黒トリガーには名前がないらしい。 「つけようかどうか、みたいな話はあったんだけどな。俺しか使えない上に戦闘用じゃねえし、能力が能力だからな、使うとしてもおおっぴらには使えない。だから自然とアレ、とかで言うようになって、結局名前はつかなかった」 だから話もアレとかで通すな、と言われて頷く。 「まあお前も気付いてるとは思うが、アレの能力はゲームみたいなもんだ。条件を提示して、相手にゲームを持ちかける能力。相手の潜在能力を引き出すための呪い、でもまぁ通じるかな」 「火事場の馬鹿力を出させるための能力、ってことですか?」 「わりと近いと思う。俺たちは火事場を作り出す≠チて言ってたな」 「作り出す?」 「だって、脅すだろ」 だから引き出す、んじゃなくて作り出す、なんだ、と林藤は言った。その違いは風間にも勿論分かったが、今は些事だった。 「まぁ、アレの基本は言葉だ。Aという条件をクリア出来なければ、Bという結果が起こる≠チていう言葉」 「もし何か≠しなければ、ひどいこと≠ェ起きる………」 そ、と林藤は頷く。 「言われたやつはその結果―――ひどいこと≠ェ嫌だから必死になって言われた条件、何か≠こなそうとする。それに伴うのは恐れだとか怯えって言ったものだ」 「…恐れや怯えがなかったら?」 「ゲームが不成立になる」 その場合は妙なことを言われたな、って思うだけだ。一回にもカウントされないから、改めてやり直すことも出来る。 「もしかして、ゲームが成立したら、言われた言葉は記憶に残らないんですか」 「そうなるな」 「…だから、林藤さんは小さかったオレに、詳しくは説明しなかったんですね」 今も、昨日のことのように思い出せる。 寒い部屋で蹲っていた太刀川。今の太刀川は、あんなふうに意思表示はしない。胸がぎゅっと詰まったような気がした。何が嫌だとか、何が好きだとか。そんな、当たり前のことすら、言わない。 「そりゃあ、自分が必死になって掛けた言葉が、結果的にともだちを脅したなんて分かったら、嫌だろ」 「………あの時、太刀川にとってはずっと後悔することが嫌だった」 「だろうな」 「だから、あいつは戻って試合をすることに、必死になって取り組んだ」 「ああ」 風間はあの時ああ言ったことを後悔したことはない。ないけれど、記憶がなくなるのだと聞いて初めて後悔らしきものが生まれた。 「…ちなみに、そのゲームを取りやめることは」 「出来ない。相手がゲームに乗ってきた時点で行き着く先は条件か結果だ。基本的には」 「基本的には」 「例えば、そうだな。俺がほら、城戸さんに向かって『玉狛支部増築計画案を承認しろ。そうしないと貴方は忍田の大事にしているマグカップを叩き割る』って言うとする」 「………本部長の大事にしているマグカップは、太刀川が贈ったものでしたよね」 「だから例えだってば! 俺も知ってるしそんなことは言わないよ。で、だ。これを止めたかったらどうすれば良いと思う?」 「林藤さんがそんな計画案を出さなければ良いと思います」 「まあそれも一つだ」 「でもそれだけだと結果の方が起こりますよね。…先回りして林藤さんがマグカップを割れば…或いは? 本部長にまた新しく大事にしているマグカップが出来たら、また城戸さんはそれを割りに行くことになるんですか?」 「いや、ならないよ。俺が忍田の大事にしてるマグカップを割った時点でゲームは終わりになる」 「ゲームが成立するための条件が崩れて、ゲーム自体がなかったことになるんですか」 「そうだな」 ゲームの白紙化。重要なことだ。でも、今はまだ聞かなくてはならないことがたくさんある。 「言い方は決まっているんですか? 条件を先にしなければいけないんですか?」 「それはどっちでも問題ねえ」 ちっさいお前には詳しいことは言わない方が良いと思って言わなかったけど、と付け足される。 「今は、必要な情報、だもんな」 お前がそれで何をしようと、とは言葉にされなかったけれども風間にもちゃんと伝わっていた。 風間はこの力を、風間と林藤にしか使えないひどい力を使って、あの近界民に復讐をしようとしている。すべてを分かって止めてくれる師匠がいるのに、風間はそれさえも押し切って、彼の人間味につけ込んで、自分の我が侭を通そうとしている。それがどんなものになるのか、風間にだって分からなかったけれど、これは間違いなく我が侭だった。太刀川を失いそうになっている風間が、半分自棄を起こしているだけの、癇癪。 でも、人間の歴史なんてそんなものだろう。主語を大きくして自分を正当化しようとする。 「オレはあの時、能力を知りませんでした」 「そうだな」 「でも使えたということは…そういう、言い方だけが鍵なんですか」 そういえばあのトリガーを返してから、風間はそういう言葉を避けてきたように思う。トリガーを持ってはいないのに、またああいう言い方をしたら誰かに影響を及ぼしてしまうようにな気がして。 「いや、一番重要なのは本気であること≠セ」 「本気であること?」 そうだ、と林藤は頷く。 「ゲームを開始するには、それだけ使う人間が本気でなけりゃいけない。普通にへらっと言ったような言葉じゃアレは起動しないんだよ」 どう判断してんのかはしらねーけど、まぁくさっても黒トリガーだし。そう言われて初めて、風間はそれが元々人間だったことに気付いた。勿論黒トリガーは黒トリガーであって、元々どんな人間だったかなど関係ないのだが。 「あの時は、知らなかったとは言えお前は本気だっただろ? 本気で、太刀川に逃げないで欲しかった」 「…はい」 本気。 口の中で繰り返す。 「誤って能力を使う、ってのがないとは言い切れねえけどさ。本気さが必要だから、そうそう後悔するような事態にはならねーよ」 特にお前みたいな生真面目な奴はな、と林藤は笑う。 「林藤さんは、」 「なに」 「あのトリガーを使って、間違えたり後悔したりしたことは、ないんですか」 「ねえよ」 それは予め用意された言葉のようだった。 「今までで一度も、な」 (十七) さて、と林藤が話を戻す。 「ここまでで何か思い付いたこととかはあるか?」 「…近界民に、」 一番最初に考えつくことは比較的緩やかなものだった。 「償いをさせることは、可能ですか」 「…俺の、推測にはなるが。それは大分難しいと思う。言ったろ、ゲームだって。アイツが何を恐れるのか、それをよく考えないとアイツは乗ってこない。結果に対しての恐れが強ければ強いほど、必死になって条件を飲もうとする。そういうゲームなんだ」 それは分かっている。 「お前に、アイツが理解出来るか?」 太刀川の心を壊した奴を。 理解。 一瞬何を言われたのか分からなかった。深く、息を吐く。そんな風間を見て林藤はその方が良い、と言った。俺たちは犯罪者を育てた訳じゃないんだ、と。 「じゃあとりあえず応用編行くか。そうだな…『何か≠しなければ、貴方は自殺する』。これは条件になり得る」 「自殺をするのが嫌だから、何か≠必死になってクリアする」 「そうだ。じゃあ、殺される≠セったら?」 「無理、でしょうね」 「正解だ」 このゲームはかける方とかけられる方、二人だけのゲームなのだ。参加が二人だけではなくなった時点で白紙に戻る。 「あとはー…そうだな。結果の部分を使うことも可能なんだよ。できっこねーことを言うんだ。それを条件にして、結果の部分にはこうなれば良いと思う状況を置いてやる。例えば、そうだな―――『空を飛んでみろ、そうしなければお前は高層ビルの屋上から飛び降りる』」 「………悪趣味ですね」 「やっと分かってくれたか」 そうなんだよ悪趣味なんだよ、と続ける。 「お前があのトリガーに夢を見るのも分からなくねえよ。でもそれじゃあだめだ。だから、俺はまずお前のその夢を壊さないといけなかった」 「…別に、夢を見ている訳ではありません」 どうかな、と林藤は言わなかった。それが優しさと呼ばれるものであることを、風間は無視することにした。 「どうしても、条件の方が良かった場合は、どうなりますか」 「条件と結果を逆にしたらってこと?」 「はい。高層ビルの例のようになるんですか」 「そうなるな。例え空を飛べる人間だったとしても、空を飛ぶくらいなら高層ビルから飛び降りる方がマシ、って思ってるんだったら飛び降りるだろうな」 それから林藤はあ、と言った。付け足すことを思い出したらしい。 「さっき妨害の話したけど、高層ビルから飛び降りるのを止められたら、それはそれでゲームがご破算になる。だから、もし行動を指示するんだったら今すぐ≠ニかそういう制限はつけない方が良いだろうな」 「…そういえば、もし、結果が妨害出来ないものだったらどうなるんでしょう」 「妨害出来ないっていうと、心因系?」 「そうですね。オレが昔太刀川に言った、一生後悔する≠ニか」 あれは本当に妨害の出来ないことだったのだろうか。林藤がもし、分かっていて見逃したのだとしたら―――したら? 「人間の内側から働きかけるもの―――そうだな、心ってやつには基本的に妨害がきかないと思っておいた方が良いだろう。例えば『何々をしないと、目が見えなくなる』とか。これは条件をクリアしなければ思い込みで目が見えなくなる。何処も悪くないのに、思い込みで、だ。心因性に近いんだろうが、原因がゲームに敗けたことだから病院でも治らない」 「そう、ですか」 「だからお前が昔言ったのを、俺が妨害する術はなかった」 「………いえ、別に。そういう訳では」 林藤はそれ以上いは追求せず、紅茶の残りを飲み干した。風間も同じようにした。 そろそろ木崎たちが戻ってくるはずだ、と林藤は言う。 「だから今日はこの辺でお開きにするか」 「…はい」 「そんな顔すんな、明日また来れば良い。蒼也、明日の予定は?」 「明日は午前に訓練があって、昼はその反省会の予定です」 「じゃあそれ終わってから玉狛来い。今日と同じくらいには来れそうか?」 「大丈夫です」 「じゃあそれまでに人払いしておくわ」 林藤がメモ帳に何やら書き込むのを見ていた。恐らく分かるようには書かれていないのだろうが、メモに残してしまうのは大丈夫だろうかと思ってしまう。 「被害者ってのは、簡単に加害者になるってのを忘れるなよ」 「………それは、仇討ちをするなということですか」 「そうじゃねえよ。ただやったことがあるから言ってる。俺はその時、加害者になりかねない人間を見てた。でも相手に何か危害を加えた時点で、それはそいつの敗けだ。俺は…そうなるのが嫌だった。だから、俺がやったからそれで良いと教えておきたかったんだよ。だから、人目のあるところで、トリガーを使ったことがある」 其処にいた全員がトリガーのことを知ってた、それでも俺は、使った。林藤の言葉には色がない。報告書を読み上げている時のようだ。 「なぁ、蒼也」 そのままの音で林藤は風間を呼ぶ。 「お前、まだあの近界民に会うつもりか?」 「はい」 「あのトリガーを使うつもりか」 「はい」 「本当はさ、忍田から出来たらあのトリガーに頼ることはしないように頼まれてたんだ。ついでに言うと、近界民に会わせろと言っても却下しろって」 俺がバラしたことは内緒な、と林藤は笑った。もう報告書のような音程ではなかった。 「一つ、聞いていいですか」 「一つと言わず何個でもドーゾ」 「いえ、一つで良いです。………オレが、本気だって分かってもらえたら、林藤さんは太刀川を助けてくれますか」 「今だって、本気だって分かってるよ。でも、俺が出ることは基本ないと思え」 忍田との約束がそんなに大事なのだろうか、と思った。きっと風間には理解して欲しくないだろう、共犯者≠フ関係。 いいな、と思ったのは本当だった。 だって風間と太刀川は、絶対にそうはなれないから。 (十八) 防衛任務のために本部へと戻れば、廊下で忍田とばったり会った。向こうは、医務室がある方だ。太刀川の見舞いへ行った帰りなのだと分かって、風間は思わず俯く。大事な弟子を風間の所為であんな状態に陥らせた負い目も、止められたのに林藤にあのトリガーのことを教わっている罪悪感も、綯い交ぜになって忍田の顔を見ることは出来なかった。 「慶には会っていかないのか?」 会釈をして踵を返した風間に、忍田は言った。 「…用事を思い出したので」 風間は絞り出すようにしてそう返した。 翌日、玉狛支部へ昨日と同じ時間に行くと、既に紅茶と茶菓子が用意されていた。マドレーヌだ。少し不格好なのはもしかして、と思って林藤を見上げると、ああ宇佐美が作った、と頷かれる。 「昨日さ、具体的なことはぼやかして玉狛の連中に聞いてみたんだよ。参考までに、な。まぁぼやかした意味なんて多分ねえと思うけど、その辺は悪いな」 でも詳しいことはホントに言ってないから、それで勘弁してくれ、と林藤は言った。 推測するまでもなかったが、林藤はこういったことにそのトリガーを使ったことがないのだろう。そして、使おうと思ったことも。だからどうしたら風間の望むように出来るのか、アイディアを出すのに苦しんでいる。 「マドレーヌうまいか」 「すごく甘くてうまいです」 「そうか、それは良かった」 林藤はまるで風間が手を付けるまで待っていたようだった。人を毒味に使うな、と思う。 「宇佐美も喜ぶだろうよ。今度は作り方を間違えなかったんだな」 「前は間違えたんですか」 「前っていうか昨日な。作り方間違えたっていうか…さじ加減を間違えたらしくてな。全然膨らまなかったんだ。あと中身は生だったし。だからお前にも出さなかったんだけど…。昨日の夜からずっとどうやったら膨らむのか試行錯誤してたよ。そんな試行錯誤しなくても、レイジのレシピ通りに作れば良いと思うんだけどなあ…。正しい器具で正しい分量をはかることの何がそんなに難しいのか…。メジャースプーンもちゃんとあるのに、他の料理ではちゃんと使うのに、なんでマドレーヌの時だけカレースプーンを使うんだよ…」 多分食べたんだろうな、ということが分かって先程の毒味の件は保留にすることにした。もしかしたらここ最近真面な洋菓子を食べていないのかもしれない。 「宇佐美の失敗談は良いですから。聞いてみてどうだったんですか」 「これがまたバラバラでな」 ちなみに宇佐美はマドレーヌと格闘してたからいなかったんだが、と前置きして林藤は続けた。 「仮定は自分がどうしようもない暴力に巻き込まれて、そこで大事なものが奪われた場合犯人に対して自分はどういう動きをするか、だな。特に制限はなく考えてもらった。で、一番最初にレイジが、『犯人と友人にならなければならない』って言った」 「友人ですか。それは、相手のことを理解するために?」 「それもある。レイジは復讐推奨派だったんだが、それでも復讐には結構な覚悟が必要だ、って言ってな。復讐ってのは相手の人生に影響を与えるものだから、相手の人生に対して責任を負える覚悟がないと駄目だって。自分がしたことの責任を負って、犯人の隣で友人として結果を見守る必要があるって」 「…随分、全力なんですんね」 「俺もびっくりした」 レイジは復讐なんてしない方が良い、って言うと思ったからな。風間も同意見だった。ほぼ自己犠牲のような方法でも、木崎が復讐を推奨するとは思わなかった。 けれど。 「相手に対して責任を負う、ですか」 「ちなみに一応俺はこの考え反対派だからな」 「分かってます。無関係である方が出来ることも多いと、そう言いたいんでしょう。でも、相手に対して責任を負わないで生きてきたのがアイツでしょうから、良い視点だな、と思ったんです」 「はあ、なるほど」 人間の本質は変わらないものだ。今までアイツがどんな責任からものらりくらりと逃げてきたように。 「で、それを聞いてた京介が『俺なら何もしないですけどね』って言った」 「何もしない」 「ああ。『何もしないで忘れるように努力する』って。京介曰く、復讐しても奪われたって事実は変わらないし、いろいろ感情が残るけど、それに縛られること自体犯人に対する敗北なんだってさ。相手にしないのが一番効率が良いんだって。もし大事な人が巻き込まれて傷付いてるのなら、一緒にいて忘れられるように努力する、って言ってた」 「………人間らしい、ですね」 「泣き寝入りってことにならないか、って聞いてはみたさ。でも何処まで復讐しても多分傷付けられた側は満足しないんだと。言われて見ればそうだよな。例え自分の手で殺したからって、それでスッキリするかって言うとそうでもないし」 まるでそうしたことがあるかのような物言いだったが、風間は何も言わないことに決めた。 「………こなみは、何か言っていたんですか」 「こなみはな、ちょっと驚くぞ」 「はあ」 「ずっと黙って聞いてたんだけど、京介が話し終わったくらいに台所からヘルプ申請が来てな。レイジと京介に行ってもらったんだよ。こなみはそんな料理上手いって訳でもなかったし。その合間に、小さい声で『太刀川のことでしょ』って言われたんだよ」 「小南が、ですか」 「そ、こなみが。俺は別にさあ、って誤魔化したけどな。こなみもまあ察したのかそのまま続けてさ、『サイドエフェクトの共有って出来るでしょう。カゲのでも借りてとりあえず針のむしろにでも座らせてみたら?』って」 「影浦、ですか?」 「そ。ちょっと驚いた俺に、こなみは続けたよ。『もし私ならどうするかって話でしょ、ボス。私なら、犯人を同じ目に合わせるわ』」 「でも、」 それは殆ど不可能だ。あの近界民が持っていたようなトリガーはこちらの世界にはない。 近界民のトリガーだって、今まであちらこちらを放浪して取り上げられていないということは本人から切り離せないものであるのだろう。それをこちらの人間が使うようなことは出来ないと予測出来る。 「それからこうも続けた。『どうしても無理なら自分が同等と思う程度に痛めつけてやる。殺されたのだったら殺してやって、手足を落とされたのなら同じようにちょん切ってやるわ。だって自分の好きな人がそんなひどい目に遭わされたのよ、そうしなきゃ』だって。あんまり当然のことみたいに言うから、俺も目をぱちくりしちまってな。正々堂々と正面から仕返しをしに行く。小細工もなし、警察のお世話になっても、いやうちの話だと根付さんとか城戸さんのお世話か…兎に角誰かに迷惑をかける羽目になって、その結果自分の人生がめちゃくちゃになっても後悔なんてしないって、こなみは言い切った。『ま、今回はアタシの好きな人じゃないから、動かないけどね』だってさ」 「…もしかしなくともその甲高い声はこなみの真似ですか」 「似てないか?」 「全く」 それから深く息を吸って、 「危うい、ですね」 「そう、思うか」 正直な感想を漏らした。 「あまりにはっきりくっきり言うからさ、それでいて勢いもあったし、正直面食らったよ。それで一生をふいにするのに? 馬鹿馬鹿しいとか思わないのか? いつか回復する見込みがある場合は? ってオッサンらしくなく矢継ぎ早に聞いちまった。したらさ、アイツ、きょとんとした顔で言うんだよ。『だって、その人は嬉しいでしょ』って。自分のために犯人がひどい暴力とか、そういうものを受けることを、その人は望まないかもしれない。優しい人だったら、胸を痛めたりもするかもしれない。でも、絶対にやらなきゃいけないんだって、拳を握って宣言してたよ。自分のために怒り狂って、誰かが大声を上げて泣いてくれる。必死になって間違ったことでも、やってのけてくれる誰かがいるってことを、その人に知って欲しいんだそうだ。その気持ちは、必ず届くとも言ってたな」 息が詰まりそうだった。もしも風間がこの事件の当事者ではなくても、そこまでのことが言えたかどうか分からない。 「アイツによれば、どうしょもなく最低な犯人に馬鹿にされた事実は、自分のために一生懸命になった人間がいること、自分がそれくらい誰かにとってのかけがえのない存在であることを思い出すことでしか消せねえんだと。感じた悔しさと、そのために犯人が痛めつけられたことに対する自責の念だったら、後者のが自分に自信を持てる分、ずっと気持ちに余裕がもてるんだと」 「………真っ直ぐ、ですね」 「ああ、真っ直ぐすぎて怖い」 林藤は頷いた。 「あんまり俺はおすすめはしねえよ。今はこっちが被害者なんだ、取引におけるその優位性を無駄にすることはねえ。ああいう手合いに隙を作ってやるのも馬鹿らしいだろ」 「隙」 「ああ。相手に仕返しとは言え何か危害を加えた時点で、それはそいつの敗けだ。勿論、立場とかそういうのを鑑みないモンではあるけどさ」 言い終わってから林藤は宇佐美のマドレーヌをかじる。そして、止まる。 「蒼也、質問なんだが」 「はい」 「お前、このマドレーヌ甘いって言ってたよな」 「はい」 その質問の意図が掴めないまま、風間は頷いた。 「甘くてうまいと思いましたが」 「………俺のはしょっぱい」 もう一口マドレーヌをかじりながら風間は言う。 「日頃の行いじゃありませんか」 (十九) 紅茶でマドレーヌを流し込むようにして飲み込む林藤に、風間は尋ねた。 「林藤さんは、アイツが一番何を怖がっているんだと思いますか」 「そんなこと、分かりきってるじゃねえか」 林藤は肩をすくめて見せた。 「死ぬことだろ」 聞いていた話から、そんなことを思うような人種には思えなかった。怪訝な顔をした風間に、いや、と林藤が付け足す。 「言葉が足りなかったな。自分の失敗で死ぬことだ」 「自分の失敗で…?」 「オレは尋問には参加してねえから外からしか見てねえけど、ありゃ捕まったのも初めてじゃねーな。どうしたら解放されるか分かってる。だから余裕こいてるんだよ」 「すべて、計算の上、だと?」 「ああ。被害者選びは杜撰だが、こっちのことをよく調べてる。頭は良いと思うぜ。嫌な方向に、だけどな」 プライドが高いにも程がある、と思った。自分が失敗することなんて微塵も考えていないのだろう。そんな奴に失敗をさせて、それが原因で死ぬほど後悔させることが出来たら。 そんな、都合の良い遣り方が、あるのだろうか。 「…でも、オレはアレを使ってアイツを殺そうとは思いません」 「何故?」 「オレが声を使ってアイツに死ねと命じたところで、気が晴れないのが分かっているからです」 「そらそうだろうな」 林藤はマドレーヌをまた一つ取っていた。紅茶はもう空っぽだが食べるらしい。 「出来るなら、太刀川を巻き込んだことを後悔させてやりたい。とんでもなくひどいことをしたんだと、永遠に苦しんで欲しい。でも、きっとアイツはそんなことをしない。反省なんて、後悔なんて、しない」 「ああ」 「だからオレは、アプローチを変えなくてはいけない。太刀川を巻き込んで起こった連鎖の一つを切欠で良い、アイツが心底辛く思う瞬間を、作ってやりたい」 例えそれが、アイツを理解することになっても。 「…お前は、怖くねえのか」 その声は何処までも透明だった。心配も、警告もない。感情のこもらない、ただの声だった。 「相手は人間のことなんかどうとも思ってない奴なんだぞ。今までの敵とは違う、トリオン資源として見ているのでもない、こちらを見下している訳でもない。ただ同じ人間として見ていて、なのに、平気で人を傷付けるような奴で、それを楽しむような奴だぞ。そんな奴を理解するってことが、怖くねえのか」 だからだろう、風間の口からはするっと言葉が出て行った。 「怖いです」 こうして風間が林藤の前で偽りなく弱音を吐くのは初めてだったように思う。 師弟関係にあった頃は今よりもっと会話があったはずだけれど、こうして弱音を吐いたのは初めてだったと思う。初めて戦場に出た時も風間は嘘っぱちで怖いと呟いてみただけで、林藤にもそれは見抜かれて可愛くないやつ、と笑われた。 「怖いです。でも、太刀川はもっと…」 怖かった、のだろうか。 怖かったから、風間が死ぬのが怖かったから、太刀川はああなったのだろうか。何も見ないで聞かないで、今が全部優しい夢だと思って。起きたくない、そんなことを思わせるほど。 風間は此処でこんなにものうのうとしているのに。いつもと同じだ、訓練をして防衛任務に出て学校に行って。 何も、変わらない。 代われないのは分かっていた、防衛任務の交代なんかとは訳が違う。過去には戻れない、起こったことは変えられない。風間は大人だからそんな当たり前のことを蒸し返すつもりはなかった。トリオン文化は不思議なものだったけれど、魔法ではないのを風間はよく知っていたから。 「………お前が、太刀川のため、って言うなら俺は止められたのにな」 でもお前はそうは言わない。林藤はやるせなさそうな顔をした。 「お前はお前のやろうとしていることが、太刀川のされたことの復讐ではあるけれど、太刀川は何の関係もないことを知っている」 「はい」 「この復讐は、お前が勝手にやる、お前自身のものだ」 「はい」 「どうしようもない悪っていうのはずっと悪のまんまだ。お前がそれだけは割り切れてることに、俺は安心してるよ」 でも歓迎はしていないことは明らかだった。きっと風間が割り切れていなかったら、覚悟が出来ていないと止めに入ることは可能だっただろうから。 「これ、渡しとくな」 差し出されたそれを風間は知っていた。 「………面会は、まだ先でしょう」 「でもお前は不安だろ? 本当にこのトリガーを使わせて貰えるのかって」 それは最後に見た時と同じ形をしていた。風間が首から下げれられるように鎖を通してある、お守り=B 「一応言うけど、使うことはするなよ」 「はい」 「安定剤みたいなもんだからな。―――そう、お守りだ」 その言葉に、まだ太刀川に返せていないメジャースプーンのことを思い出した。 今渡しても太刀川は何も思わないだろうことが、悲しかった。 (二十) 玉狛支部からの帰り道、風間は太刀川のメジャースプーンを取り出して眺めていた。昔は太刀川のランドセルについていたもの。風間にお守りとしてくれたものは中くらいのものだった。大きいもの、中くらいのもの、小さいもの、それが三つセットになっていたメジャースプーン。うさぎの模様にきらきら光る石。今も時々磨かれているらしい残り二つを、いつだって太刀川は身につけていた。 何故メジャースプーンを選んだのか、聞いたことがある。確かにうさぎの彫刻はかわいいとは思うし、はめ込まれた石も綺麗だったけれど。太刀川がそういうものを特に好むようには思えなかった。 「風間さん鋭いなあ」 聞かれた太刀川は少し笑って言った。 「うさぎもかわいいと思ったし、石も綺麗だと思ったよ。うん、でも、それだけじゃない」 「他に理由があるんだな」 「あるよ。でもね、」 内緒、と太刀川は笑った。 その時は教えてもらえなかった理由を知ったのは、その年の冬のことだった。 サンタクロースの有無について。子供なら一度は通る論争かもしれない。当時組織にいた子供の間でも、一度言い争いになったことがあった。風間はもうその時は信じていなかったが、太刀川の師匠である忍田が信じていることを知っていた。風間の師匠である林藤が、信じさせといてやってくれよ、と笑ったことも。 だから、いる、と主張した。 そこですぐにいないことを認めたら、誰かが忍田に言うに決まっているからだ。それは避けたいな、と思っていた。勿論、子供がサンタクロースがいないと主張したところで、あの忍田が飲み込むはずがないとは思っていたが。 最初はただ風間は横からいる≠ニ口を挟んでいるだけだったが、劣勢になってきたいる#hが風間をトップに祭り上げてからが地獄だった。その場に太刀川も迅もいなかったのが加速する原因だったのかもしれない。ちなみに二人はその時道場にいた。稽古をやっていたはずだった。いる#hは風間がいると言うのだからいるのだという論法を展開し始め、いない#hは風間さえ折れればいる#hを撲滅出来ると踏んだ。それは正しい判断だ。正しい判断だったが、風間が見誤った部分があったとしたら相手が子供であり、目の前にある手段しか選べなかったことだ。 まずいない#hの子供たちは風間が可笑しいのだと主張した。サンタクロースなんて信じているのは可笑しいと。いる#hの子供たちは口々にサンタクロースは来たのだからいる、と主張した。風間が援護するでもなくただ聞いていると、いない#hはサンタクロースが本当は親なのだと言った。そんな馬鹿なといる#hが揺れる中で、風間は一人静かに宿題をやっていた。 風間の目標はこの問題を今日中に片付けることだった。家に帰って親に聞けば、素直にサンタクロースの正体をバラす親もいるだろう。別にそれが悪いこととは思わないが、いる・いないの問題を此処で終わらせなければ大人も巻き込む事態となる。そういうことを、風間はよしとしなかった。子供の諍いは子供で片を付けるべきだと思っていた。 遣り方は、分かっているつもりだった。 そういう交渉の場に、風間は既に同席したことがあったから。 「サンタクロースなんていないんだよ!」 「いるってば!」 「親なんだって」 「親が嘘吐いてるんじゃないの?」 「―――あ、俺、分かっちゃったかも」 「なになに?」 「風間のにーちゃんって死んでんだろ? それがかわいそうだから、サンタクロースが特別に来てんじゃねーの?」 息を吸って。 吐いて。 「ああ、悪い。そうだな」 最初からそう言っていたら良かったのかもしれない。でも、風間には最初に否定する以外の道は思い浮かばなかった。 「サンタクロースがいないことは知っていたんだが…。うちにはサンタクロースが来たことがないから、悔しかったんだ」 え…と誰かが言うのが聞こえた。 間違っていたとは思わない。にっこりと笑う。にっこり≠ニ笑うなんてことを、風間はそうする人間でないと自分でも分かっていたし、周りの子供たちだってそれは分かっているはずだった。 「嘘を吐いて悪かったな。…宿題で分からないことがあったから聞いてくる」 立ち上がって宿題を抱えると、誰もついてこなかった。 資料室に使われている部屋へ入って、大きくもう一度深呼吸をする。ぺたん、と座り込んだのは身体が震えていたからだった。上手く、出来ただろうか。風間はあの諍いを止められただろうか。 「風間さーん…いる?」 資料室の扉が控えめにノックされて、太刀川が顔を出す。 「太刀川か。どうした」 「えっと、さっきの聞いちゃって」 「ああ。上手く収まっていたか」 「うん。迅が仕上げに『そんなのどっちでも良くない? プレゼントもらえたら嬉しいし、それがサンタでも親でも』ってシラけさせてた。………風間さんが此処にいるのも、迅に教えてもらったんだ。ちょっと悔しい」 入ってきた太刀川は風間の隣に、同じようにぺたん、と座った。 「風間さんはえらいね。敗けたよって言ってあげたし、でも風間さんがそう言ったことで信じてる子たちが裏切られた! って思わないようにしたし。おれはああいうふうには言えないし、もっと喧嘩になってたと思う」 忍田さんのためだったんでしょ、と太刀川は笑う。彼もまた、忍田がサンタクロースを信じていることを知っていたのだ。 「おれだったら、多分、忍田さんが信じてる、って言っちゃって、もっとひどいことになってた」 「…だろうな」 想像は容易だった。太刀川が風間の立ち位置だった場合、手が出ていたかもしれない。太刀川は意外と手が出るから。 「えらいね、風間さん。すっごくえらい」 手が、ぎこちなく伸びてきた。太刀川の手が風間の頭を撫でていく。張り詰めていたものが、ほろほろと解けていく。 必要のない戦いだと言えばそうだった。風間が、風間のためだけにやった、ただの我が侭。自分勝手。なのに、どうして太刀川はこんな自分を褒めてくれるのだろう。 「なんで泣くの、風間さん。正しいことをしてるのに」 「………正しいか?」 「うん、正しいよ」 こすっちゃだめだよ、と太刀川が風間の手を取る。太刀川の手は熱かった。さっきまで稽古をしていたのだから当たり前だ。 「風間さんにさ、うさぎの、あげたじゃん」 「メジャースプーン」 「そう、それ。あれね、分量をはかるものだって」 「知ってる」 「うん。でね、おれも風間さんも、あれがお守りじゃん。だからあれがあったから、正しい≠はかれたんだと思うよ」 「正しい≠はかる?」 「うん」 そこではっと思い出す。 「もしかして、それでメジャースプーンを選んだのか」 「あ、ばれちゃった? 内緒ね」 「何故。良い話だろう」 「風間さんがそう思ってくれただけで良いよ。だってほら…ちょっと照れくさいし」 頬を掻く太刀川がなんだかとてもすばらしいものに思えたので、風間はうん、と頷いた。この話は内緒にしよう、誰にも言わない二人だけの秘密だ。 でも、これはサンタクロースの問題とは違う。正しいとか正しくないとか、はかれる問題じゃない。メジャースプーンはもうお守りにはなれない。はかり切れないものがこの世界にはあるのだ。風間も太刀川も、それを知らなかった。だからどうしたら良いのか、風間には分からない。どうしたら、復讐が出来るのか。 どうしたら、あのプライドをへし折ってやれるのか。 覚悟が。 覚悟が、まだ風間にはないと言うのか。ぐるぐる、いろんな言葉が回っていく。どうしたら良い、どうすれば良い、お守りは風間も太刀川も守ってくれない。正しい分量は人間を守らない。 その時、だった。 記憶がぐるぐると耳の中を満たしていく中、ふっと一つ、とんでもないアイディアが浮かんできた。がん、と殴られたような心地がして、それでいてこれ以上のアイディアはない、とまで一瞬で思った。 ああ、そうだ。 気付いたら駆け出していた。はあっ、と息が漏れる。目がカッと開く。 「オレでなければ、出来ないこと…」 歯を食いしばって空を見上げる。夜がベタ塗りされたような空は何処か嘘っぽくて、でも其処にきらめく星々はどこまでも綺麗で。 風間は、条件と結果を決めた。 第五章 (二十一) お守りを持ってから、焦燥は少しだけだが収まった。太刀川のくれたお守りと林藤のくれたお守り。まったく違う効果を期待したそれら二つが風間の首から並んで下がっているのだと思うと、なんだかちぐはぐな心地にもなったが。 防衛任務を終え、自主練を終えたあと風間は自分のところの隊員である歌川と菊地原を家まで送っていた。三上はオペレーターの会合(と言うと堅苦しいが、まあ所謂女子会である)に呼ばれていたらしく、風間を心配そうに見ながら先に帰った。歌川も菊地原も、事あるごとに風間の傍にいようとする。心配を掛けているとは思ったが、それに言葉を尽くせるほど風間にも余裕がある訳ではなかった。 お守りが下がっている辺りに触れる。昔はこんなこと、しなかったのに。 「あ、風間さん。あそこ、警戒区域内なのに人います」 「一般人ですけど、どうします?」 足音で判断したのだろう、菊地原が面倒くさいというのを隠しもせずに付け足した。 「出て行ってもらうしかないだろう」 「えー説得? 頭悪そうですよ」 「菊地原。見つけたんだから処理するのは当然だろ…」 此処で無視して大事にでもなったら困る、という歌川が正しいが、そもそも此処は一般人立入禁止区域のはずである。 「…とりあえず、行くぞ」 「はい」 「はあい」 そうして、三人で近付いて行く。 距離を詰めて行っても私服だからか、相手からこちらが見えても向こうは動かなかった。たむろするならコンビニの前でやれば良いものの(それはそれで困るのだろうが)、わざわざ警戒区域まで来る危険を犯す意味が分からない。注意だけで戻るだろうか、確かに面倒だな、と思った時、彼らの会話が聞こえた。 「A級一位最近出てねえみたいだし。あの噂、ホントなんじゃねえ?」 「噂ってアレか。近界民にしてやられたってやつ」 「そーそー。A級一位も大したことねえんだなー」 足が止まる。サーッと、頭から足元へと何かが下がっていく音を聞いた。耳の奥で会話が再現される。A級一位も。 どっと、心臓の鼓動が聞こえていた。耳の後ろがきりきりと痛んで、それから。 ―――A級一位も、大したことない。 身体が芯から冷えていく。呼吸が浅くなる。 「風間さんッ!!」 声が後ろからした。菊地原のものだ。珍しく泣きそうになっているその声が後ろから聞こえるなんて、自分が飛び出しているからにほかならない。心音の変化を聞き取ったのだろう。歌川の手が伸びてくる気配。でも、遅い。 叫びたかった。でも声はあがらなかった。もう身体が熱いのか冷たいのかも分からないで、ただがむしゃらに走った。生身でも変わらないのか、なんて冷静な部分が考えている。 向かってくる風間に男はびっくりしたような顔をして、一瞬後にはそれは風間に殴り飛ばされていた。何も供えをしていなかった身体は面白いように吹っ飛び、横にいた友人であろう男があんぐりと口を開けるのが見えた。 「何…ッ」 こちらを睨み上げた男は、風間の顔に見覚えがあるようだった。ひっと、喉が引き攣れる音がする。 ―――相手に何か危害を加えた時点で、 林藤の声がよみがえる。 ―――それはそいつの敗けだ。 かまうもんか。 それが、風間の脳内で反響する林藤の声に対する、答えだった。 (二十二) ほぼ一方的だった。後ろにいた菊地原も歌川も、初めて見る風間のそんな状態に呆然としているようだった。 「謝れ」 静かな声が出るものだな、と思った。まるで、今この瞬間、ひどく冷静でいるみたいじゃないか。こんなに、こんなに、胸の底から沸騰するように苦しいのに。 「な…ん、」 「太刀川に、謝れ」 「うる、っせえ、よ」 「謝れ」 殴られている方は殴り返そうとはするが、それを素直に受けてやれるほど風間の経験は浅くない。もう一人は突然襲い掛かってきた風間に腰を抜かしているようだった。三位の、と震えた声で紡がれた言葉に、そっちは風間の正体に気付いたのだと知る。だから何だと言うのだろう。風間のことを知っていたからと言って、太刀川に言ったことが消える訳がない。 太刀川がどんな覚悟で一位にいるのか、誰も知らない。それは分かっていた。これは風間の我が侭なのだ、自分勝手なのだ。それも分かっていた。それでも苦しくて悔しくて、手が出た。 「謝れ」 機械のように繰り返す風間に、なんで三位が、と腰を抜かしている方がまた言って、今度のそれは殴られている方にも聞こえたらしい。 「てめー何なんだよッ」 「なんだって良いだろう」 「くそっ。何なんだよ、ホモかよ。そんなにA級一位が好きかよ!」 「そんなん、じゃ」 その時初めて声が震えたような気がした。自分の手の下で無様に足掻く男が、何を言ったか。震える息を飲んで、言葉を吐き出す。 「そんなんじゃない! 好きなんかじゃ、ない!!」 好き、という言葉が風間の喉をぎりぎりと締めあげた。胸も何かつめ込まれたようで、潰れそうで。あの事件からずっと、誰に言われてもいつだってそうだった。いつか、太刀川が言っていた言葉が思い浮かぶ。 人間は、絶対に誰か他人のために泣いたり出来ない。自分のためにしか、涙は出ない。 それと歌川と菊地原が風間に飛びつくのは同時だった。 「風間さんっ」 「そろそろやめないとそいつ、死んじゃいます」 今だ、唐突に思った。今しかない、風間は大人しく引き剥がされながら男を睨みつける。タイミング、相手、内容。これはきっと、神様なんてものがいるなら、そいつがくれたチャンスだ。 「もう」 震えは、二人にも伝わっていたかもしれない。ただ、気分が悪かった。吐きそうだ。 「もう二度と、三門市に足を踏み入れるな」 男が目を見開く。震える声のまま、風間は続けた。そんなこと、出来るはずがない。三門市には外部からの来訪者が少ない、この男とて、市内に住んでいるのだろう。そうでなくても、近くにいるはずだ。三門市に入らないなんて、出来る訳がない。 「そうしなければ、お前はもう二度と、ボーダー関係者と口がきけない」 二度と、太刀川のことを馬鹿にしたり、するな。 (二十三) 歌川が急いで根付に連絡を取り、彼らの記憶を消去するという少々汚い方法でこの事件は幕を閉じた。風間の方は少し根付に小言をもらっただけで、それ以上のお咎めはなかった。生身で殴ったのが良かったのかもしれない。目撃者がいなかったのも良かったのだろう。警戒区域内だったのだから当たり前だ、彼らは立入禁止の場所に足を踏み入れて、それで怪我をした。自業自得だ。あとは、情報が何処からか漏れていたことへの口止めもあるのかもしれない。噂は噂と言うのは簡単ではあるが、三門市民にとってボーダーA級一位という存在がどういうものなのか、分からない広報室ではない。 正直、焦点が戻ってきてからというもの、こちらを見まいとするかのようにおどおどしてみせる男は少々見ものだった。それと同じくらいにきりきりと心臓が痛んだ。これは、風間の招いた結果なのだ。 この男はもう、ボーダー関係者と口をきかない。彼は、条件ではなく結果を選んだのだ。もう此処まで来てしまえば結果じゃない。それは、罰だった。死んでしまえ、そうしなければ転んで骨を折る。それと、同じだ。普通ならば条件のクリアに必死になるのに、ボーダー関係者と口をきくこと、それは彼にとったら軽い。きっと罰を受けることになると、そう分かっててこの言葉にした。分かっていて、そうしたんだ、胸の中でだけ繰り返す。 大したことがないはずだった。ボーダーにいるのなら、交渉事なんて何度もこなしている。相手が何を望むのか、何を求めているのか。そのギリギリのラインを見極めるのが、こちらの世界を守る術だった。純粋な戦闘だけが戦いではない、風間はそれを知っている。けれども、今までやってきたのはそれでも戦いだった。先程のものは、戦いでもなんでもない。 ただの、―――だった。 風間の気まぐれで、誰かの人生を狂わせたのだと同じだった。殆ど知らない人間の、人生を。あの近界民と同じように。 吐きそうだった。実際に吐いた。小言が少なかったのは単純に風間の顔色が悪いのを心配したからかもしれなかった。一通り吐いて胃の中が空になって、トイレから出て来た風間に、根付はスポーツ飲料をくれた。本来ならば風間にかまっている時間も惜しいだろうに。 「先程林藤支部長が顔を出しましてね。何処から聞きつけたのやら…顔を見たがっていました」 「林藤さんが、ですか」 「ええ。あれはからかう気でしょうね。嫌だったら私が何かしら適当に謹慎を言いつけたことにしますが」 「…いえ、行きます」 行かなければならないと思った。 「何処にいると言っていましたか」 「資料室に行くと言っていました。まだ其処にいるでしょうね」 頷いて、スポーツ飲料と処置の礼を言う。根付はただ、次はありませんからね、と言っただけだった。 資料室に行くと『重要案件 関係者以外立入禁止』の札が掛かっていた。気にせずにノックをすると、林藤の声で入れ、と返って来る。 「もう良いのか。根付さんから吐いてるって聞いてたんだが」 「吐いたらすっきりしました」 「そうか」 林藤は珍しいな、とは言わなかった。風間が暴力に訴えたことなんかそうそうないはずなのに(隊員同士で模擬戦をして発散させるのは別だ)、林藤はその指摘をしない。 「太刀川が馬鹿にされたのが、嫌だったんだってな」 その言葉には奥歯を噛みしめるだけに留めた。黙りこくる。怒られるのも褒められるのも、同情されるのはなおのこと、嫌だった。 好きかよ、男に言われた言葉。そんなんじゃない、風間の答え。 それがすべてだった。頭がくらくらするほどに、胃の中をすっからかんにするほどに、それが風間のすべてだった。 「こういうことが起こるかもしれないって、思ってはいたのにお前にこのトリガーを渡していた。だから、これは俺の非でもある」 「…相変わらず、要らない責任を負うのがお好きで」 「趣味みたいなモンだからな」 近界民も所属する玉狛支部のことを遠回しに皮肉ったつもりだったが、上手くいかなかった。 口の中はスポーツ飲料の味しかしない。血の味はしない。殴り返すことも、風間は許さなかった。ただ一方的にと思った訳ではなく、風間にはそれだけの力があった。 「…加害者になるって、こういうことなんですね」 「そうだな」 「記憶処理をしましたから、向こうはオレが加害者だってことも知りません」 「ああ」 「…あのトリガーと、同じです」 トリガーを使ったことには触れないでいようと思った。林藤は分かっている。風間がこのトリガーを使ったことを、分かっている。でも聞かないのだ。何を言ったのか、何をしようとしたのか。 それは、風間自身の問題だから。 出来る限りで、林藤は手を出さないようにしてくれている。そうでなければきっと、風間は納得しないことを分かっているのだ。 「林藤さんに、お願いがあります」 「何だ」 出来るだけ真剣な声が出れば良いと、そう願った。 「アイツとオレが会う日。その場所に、同席してくださいませんか」 「お前を一人でアイツに会わせる訳ないだろう。誰か同席するさ」 「本部の方で見繕えば、恐らく城戸司令か忍田本部長になります。でも、オレは二人のどっちにも同席して欲しくない。傍にいて欲しくないんです」 ぎゅっと、胸の辺りを掴む。 「けれど、オレがこの力を使ったということを、誰かに見届けて欲しいんです。そのことを知っている誰かに、その結果を見届けて欲しいんです。それなら、林藤さんしかいない」 お守りはまだ其処にあった。林藤はそれを返せ、と言わない。面会のための直談判をやめる、とも言わない。恐らくだが、林藤が直談判すればその要望は通る。林藤ならば直談判するのに相手が断れるような遣り方をするはずがない。だから、林藤が風間の味方である限り、この計画は遂行される。 別に、良いけど、と林藤は頭を掻いた。 「でもなんで、城戸さんや忍田だとだめなんだよ?」 「…城戸司令には、こんなみっともない部分、見せたくないんです。どう言い換えても、今回の件はただの個人的な復讐ですから。忍田本部長は…オレに、この力を使ってほしくないよう、ですから」 「まあ、どうせオレも同席しろって言われるんだけど…。オレだけが良いのか」 「はい。林藤さんだけが良いです」 こんなことに巻き込めるのは林藤しかいなかった。 風間が正面切って『共犯者≠ノなってくれ』と言えるのは、現状林藤しかいなかった。 「分かった。城戸さんの説得はしとくよ」 それを聞いて、やっと風間はありがとうございます、と言えた。 (二十四) 風間が落ち着いたのを見計らって、林藤は口を開いた。 「こんなことがあったあとにだけどな、さっき、城戸さんの許可が取れた」 ほんのついさっきだ、と林藤は言う。 「日曜日に、アイツと面会が出来る」 息を飲んだ。 本当は。 もっと先に言うべき言葉があったはずなのだ。ありがとうございますとか、頑張ります、とか。そういう。 「林藤さん」 「何だ」 でも、出て来たのは違った。その声があまりにか細くて、本当に自分の声なのかと疑ってしまう。 「怖いです」 言葉にしたらもうだめだった。ぼろぼろと涙が溢れる。太刀川があんなふうになってから、風間は一度も泣かなかった。悲しくて、苦しくて、見舞いにすら真面に行けないのに、それでも泣くことが出来なかった。なのに、今は泣いている。 太刀川のためじゃない、自分のための涙。自分が怖い、それだけの感情でこんなにも気持ちが弱くなって泣き叫べるのか。 人間は、自分のためにしか泣けない。 そればかりが、頭の中を駆け巡る。 「ああ」 林藤は小さい子供にするように風間を抱き締めた。これも初めてのことだった。そもそも林藤はスキンシップをする方ではないのだ。スキンシップを拒絶はしないし(昔で言うと小南など)、へらへらとスキンシップを求めるようなことを言うから、そのように見えるだけで。 「やめておくか」 林藤は静かに尋ねた。 「そのトリガーを使うのも、面会も、全部、やめるか」 穏やかで優しい、風のない日の海はきっとこんななのだろう、と思った。風間は海に行ったことはなかったけれど。風間が先走って暴力なんてものに頼ったことを、自制出来なかったことを、林藤は責めない。 でも、風間は夢中で首を横に振った。それだけは、と思った。 「やります。オレはそれをやらなければならないんです」 「…そうか」 「面会が、決まったということは、本部での打ち合わせがあるんでしょう。それは、いつですか。今からですか」 今日は木曜日だった。日曜日まで、時間がない。 「出来るなら明日、だってさ。いけるか?」 「いけます」 こくこくと頷く。 「分かった。じゃあ今日中に城戸さんの説得しとくよ」 「お願いします」 「蒼也」 眼鏡が光を反射して、その奥の目がどんな色をしているのか風間からは見えない。 「なんて言うか、決めたか」 「…はい」 あとは覚悟だけだった。条件と罰、風間はもう既に決めていた。これ以上ないものだった、そして風間にしか出来ないものだった。 「アイツはきっと反省なんてしません。もし林藤さんがオレに嘘を吐いて、そう思うように仕向けているのだとしても、オレはアイツが反省することを望んでいません」 「そうか」 「だから、こう言いたいと思います。―――『今から十年後、お前が死んでいなければ、お前はその時一番大事に思える存在を、必ず、自分自身の手で壊す』」 「それは、」 「オレが考えました」 林藤が何を疑うのか分かっていた。だから風間は先に用意しておいた言葉を言う。 「これを言えば、オレは太刀川に顔向けが出来なくなるかもしれない。でも、それでも良いんです。これは元々オレの自己満足だから。オレが何を言っても太刀川は戻ってこない。時間に任せるしかない。でも、オレは何かしたかったから。何もしないでいる自分が許せなかったから。太刀川が戻ってきて、オレのしたことを知ったら軽蔑するでしょう、それでも良かった。オレは、太刀川がどう思おうと、オレの、」 「蒼也」 「十年、と付けました。それは猶予です。でも、本当は猶予じゃない。アイツはきっと十年ギリギリまで粘る。自分に大事なものが出来なければ自分は死ぬけれど、聞いた話では大事なものが出来るタイプではないでしょう。もしかしたら、一番大事なのは今生きている自分なのかもしれない。そうだったら、アイツは結局自殺することになる。それでも良いと思いました。オレは、」 大きく息を吸う。 「十年後まできっと、アイツには関わらない。関わりたくない。でも、責任をすべて放棄するのも、違うと思ったんです。オレは、アイツが死ぬと思ってゲームを仕掛けようと思います。でも、少しだけ、アイツが大事な何かを、誰かを、殺すかもしれない未来も、想像しているんです。これが、どれだけ残酷なことかも、分かって言います。オレは、そうまでしてでも、アイツを許したくない」 「苦しんで欲しいと」 「はい」 暫く、林藤は黙っていた。もしかして否定されるのではないかと、風間は自分が恐れているのを知った。どきどきと胸がうるさい。 「………いつだったっけかな。それと同じような内容の声を囁いたことがある」 それは唐突な告白だった。風間は息を飲んで林藤を見つめる。 「別にその人は悪人じゃあなかったけれど、心にすごく欠陥のある人だった。だからなのか、時折ひどく人を傷付けることがあってな。俺はそれが我慢ならなかった。傷付けられた人の中には俺の大切な人もいたからな。人の存在は平等ではない、それがその人の口癖だった」 静かに、静かに紡がれていく言葉。林藤の口からたいせつ、などとそんな甘ったるい表現が飛び出るなんて思いもしなかった。 「だから俺は、その考えに賛同した。傲慢な怠惰にそれ以上の傲慢さで応えることにしたんだ。人は平等でないんだから、それを甘んじて受けてもらおうと」 林藤が自分のしたことについて触れるのはこれが初めてだった。喉の辺りから下がずっと凍ったようで、口の中からは水分が消えていく。 「自分探しの旅に出てもらうことにしたんだ。…っていうとそれだけか、って思うだろ? 俺はこう言った。『自分の生命を投げ出せるくらい愛せる存在を、三年以内に作りなさい。そうしなければ貴方は此処から消える』」 ひどく簡単なように見えて、その重さが風間には良く分かった。 「林藤さんは、その人がそれが出来ないと思っていたんですね」 「ああ。でも、それが出来るなら許してやっても良いって、そうも思ってたのは事実だ」 傲慢だろ、と言った林藤の頬には表情らしい表情がなかった。 出来る見込みのない条件の提示、それはただ単に罰を与えるためだけのゲームだ。 ―――空を飛んでみろ、そうしなければお前は高層ビルの屋上から飛び降りる。 今までになく優しい顔と声だったと、記憶している。 人間は、空を飛ぶことは出来ない。 「自分の生命を他人のために投げ出すなんて、そんなこと出来る人間のが少ねえよ。自分の所為で誰かが死ぬことに耐えられなくて死を選ぶ…ってパターンならなきにしもあらずだが。でもそれだって大変なことだ。ましてや、その人みたいな人間なら尚更」 だから結果にそれを持ってきた。絶対に、そんなことが出来ないと思って。 それを言われた人がどうなったのか、林藤は言わなかった。 「忍田が、このトリガーの力を使って欲しくなさそうに見える、って言っただろ」 それ、あたりな。目が伏せられる。 「アイツは知ってるんだよ。俺がこのトリガーを使ったことを。っていうか、目の前でやったしな。だから俺らは共犯者なんだ。それが私怨だったことも、アイツは知ってる。でもアイツにはそれを間違っているとは言うことは出来なかった。それも含めて、お前に使わせたくないんだろうよ」 巻き込んじまって悪いけど、と言葉は続く。 「アイツは、真っ直ぐな奴だから」 誰かが目の前で道を踏み外すのに、耐えられないんだ。 そう笑った林藤は、道を踏み外したと思っているのだろうか。 (二十五) 打ち合わせは数時間で済んだ。何を言うかも決まっている。一日、空いてしまった。何をしよう、と思っていると、打ち合わせにも同席していた林藤が、明日暇? と聞いてきた。 「特に予定はありませんが」 「じゃあ動物園行こうぜ」 「は?」 素で反応した風間は悪くないと思う。 「だってお前、動物園行ったことある?」 「ありますよ。幼稚園の遠足で」 「何年前だよそれ…。お前の世代ってそんなもんなの?」 「違うでしょう。ただ、オレがこっちと関わるのが早かっただけで」 「あーそうか。じゃあ太刀川も呼ぶか」 「太刀川を?」 太刀川が来るなら忍田も来たがるかな、と林藤が携帯を取り出した。ぽちぽち、と何やら操作を始める。忍田にメールでもしているのだろう。 「医務室長の話だと、別に外出は大丈夫だってさ」 寧ろ、外界の刺激がこっちが現実だって気付かせるとっかかりになるかもって。その言葉になるほど、と思うが素直に頷くことは出来ない。 「でも、市内は…」 風間は先日暴行騒動を起こしたばかりだ。目撃者はいなかったし記憶も消去済みではあるけれど、一応暫く市内は出歩くなとの口頭で言い渡された束縛力のない処分はある。風間もそれを破ろうとは思っていなかった。学校も自主休講だ。それに、太刀川のこともある。あんなぼんやりとした状態の太刀川が外に出れば、何を言われるか。 「市内に動物園はねえだろ。遠出だ」 「でも、太刀川があんなになっている今、オレが…本部長も、林藤支部長も、席を外す、なんて」 「そこは迅に視てもらった。大丈夫だってよ」 迅連れてけないのが残念だなー。林藤の携帯が光る。メールの返事らしい。 「あいつもあいつなりに心配してんだよ。蚊帳の外にしてんのにな。何か出来ることがあったら何でもするから、なんていう子供の戯言に甘えちまった」 忍田来るって、と林藤は笑った。 「迅を、責めないでやってくれよ」 「そんな、」 「あいつ、あれでも凹んでたから。こんな大変なことになってるのに、何で視逃したんだろう、って」 「あいつの所為じゃないのに」 「うん。でも、あいつはそれで凹むし、それで責められるのも当たり前だと思ってるから」 土産でも買っていこうぜ、と言われて緩慢に頷く。 「じゃあ明日九時に迎え行くから。家の前出てろよ」 「迎えって」 「遠出なんだ、車で行くに決まってるだろ」 「…林藤さん、免許証持ってるんです?」 「持ってるよ。運転も時々してる。お前玉狛じゃないから知らねーだろうけどな。忍田も一応持ってるから、お望みなら忍田運転にするけど?」 「いえ、運転お願いします」 風間も免許証だけは持っているが完全なるペーパーであり、きっとそれは忍田も同じだろうと思われたので丁重に断った。 第六章 (二十六) 約束の九時。 林藤の運転する車には既に忍田と太刀川が乗っていた。忍田のくたびれ具合に、もしかしたら本部からそのまま来たのかもしれない、と思った。流石にボーダーの礼服ではなかったが、よく忍田は本部に泊まり込むから。 太刀川がこんな様子であるのだから、無理にでも仕事を作って顔を見に行っているのかもしれなかった。忍田は、太刀川のことをとても可愛がっていたから。 太刀川はと言うと、髭を綺麗に剃られていた。 「良い変装だろ」 林藤が言う。どうやら犯人は林藤らしい。こざっぱりした彩度の高いポロシャツは、太刀川の私服とは思えなかった。誰の趣味ですか、と問うとコンセプトだけ伝えたらこなみと宇佐美が買ってきた、と返される。どんなコンセプトを伝えたんだと聞きたくなったが、それは何となく止めておいた方が良いと思って風間は黙った。 助手席の忍田が悪いけど着いたら起こしてくれ、と言って寝息を立て始めると、車内はラジオの音ばかりになった。林藤は真剣に前を見つめている。やはり林藤も市外に車で出るのは久しぶりなのかもしれない。 後部座席の風間と太刀川は、完全に放って置かれる形になった。太刀川はぼんやり窓の外を眺めていて、少しずつだけれどこちらを現実と認識してきているのだろうか、と淡い期待が胸に宿った。そっと静かに、運転席にいる林藤に気付かれないように太刀川の手に触れる。 あたたかかった。 とても、あたたかかった。生きている、そう思う。それと同時に、風間の周りの人間は皆一様にあたたかい手をしていることを思い出した。太刀川、林藤、忍田、部下たちだって。しみじみと思い出したら、それがなんだかとても特別なことのように思えた。 動物園に行くまでの間、太刀川は風間を一度も見なかった。 動物園について一番にはしゃいでいたのは忍田だった。言葉の端々に色が灯ったような、そんな明るさ。 「パンダ焼きって何なんだろうな。パンダを焼いてあるんだろうか」 「…パンダは一匹しかいないって書いてあったから、それは多分だめだろ」 「ならあのパンダは偽物…」 確かめてやる、と忍田は意気込んで人だかりの方へ向かっていった。パンダはやはり動物園一番の人気らしい。 「蒼也は動物何が好き?」 「動物園にいるものだと、キリンですかね」 「餌やり出来るっていうけど、あとで行く?」 「………忍田さんが、それで良いなら」 「多分アイツ、今なら何でも楽しむからあんま気にすんな」 ぼんやりとした顔の、髭を剃って好青年のような格好をした太刀川は、まるで太刀川ではないようだった。何の恥ずかしげもなく太刀川の手を引いて先を行く忍田は、いつもより太刀川が幼く見える所為で親子のようだった。夏に相応しい、よく晴れた天気だった。きらめくような光が太刀川を照らして、眩しい。 風間はそれから視線を逸らすように、言葉を探した。 「一昨日、どうして何を言ったのか聞かなかったんですか」 風間が問題を起こした日。林藤は風間がトリガーを使ったことを分かっていた。でも、聞かなかった。それがどうしてなのか、風間には理解出来ないでいる。聞かれないのならそれで良いはずだった。けれど、構えていたところに何のリアクションもないとなると、それはそれで不安になる。 「お前が言うなら、自分で決めて言ったんだと思ったからだよ」 「そうでなかったと言ったら、聞いてくれますか」 「聞くよ」 息を吸う。 「『もう二度と、三門市に足を踏み入れるな。そうしなければ、お前はもう二度と、ボーダー関係者と口がきけない』」 「…それは、」 「夢中でした。ただ、頭に血がのぼっていて、一晩経って、気付いて。どうしたら良いのか分からずに、もう一日経っていました」 言わない方が良い、そんなことは分かっていた。それでも風間は、一人で黙っておけるほど強くはなかったのだ。そういうことで、良い。 「どうしたら、なんて。意味がないのに」 ゲームは始まったら止まらない。妨害をしない限り。 あの男は罰の方を選んだ。ボーダー関係者と口をきかない、それを男は頑なに守ろうとするだろう。三門の生まれなのかもしれない。市外に出ることも考えずに、暮らしてきたのかもしれない。どうして男が罰の方を選んだのか、風間には本当のところ何も分からなかった。ボーダー関係者と無理にでも口をきかせたら良いのだろうか。そして、男が市外に出て行くのをどうにか止める? どうやって? 関わりがないから出来ることだった。けれども、関わりがないからこそ、その後の責任を取れないということでもあった。 「…そうか」 林藤はうん、と頷いた。 「苦しかったか」 「はい」 「俺に何かして欲しいこと、ある?」 相変わらず鋭いな、と思った。 だから風間は首を振る。 「いいえ」 (二十七) キリンの餌やりは結局、時間が合わなくて出来なかった。てくてくと狭苦しい場所をぐるぐる回るキリンを眺めながら、今自分は同じ顔をしているのかもしれない、と思う。 「風間くん、申し訳ない…」 先程林藤に少し叱られた忍田は眉を八の字にして謝ってきた。 「いえ、大丈夫です。眺めているだけでも楽しいですから」 それは本心だった。 動物園にはふれあいひろば、というものもあった。小動物を柵の中で放して、好きに触れ合ってくださいというものだ。うさぎなんか触ったことがない、という忍田が率先して入っていって、風間たちもそれに続いた。ちなみに忍田がうさぎに触ったことがなかった理由は、やんちゃだった子供時代、『忍田くんが触ったらうさぎが死んじゃう!』とクラスメイトの女の子に泣かれたからだと言う。今なら死なないはずだ! と言った忍田に林藤はうさぎの触り方をレクチャーすべくついていった。 太刀川はうさぎを抱き上げはしなかったが、その背を優しく撫でていた。覚えているんだ、と胸を熱くする風間の腕の中に、林藤がうさぎを放り込んでいく。 「………あ」 うさぎに触れるのなんて久しぶりだった。小学校を卒業して飼育委員会でなくなれば、学校のうさぎ小屋に行くこともなくなった。 「こんなに小さかったんですね」 そんな当たり前のことを呟くと、お前らが大きくなったんだよ、と言われた。 「慶なんかこんなに小さかったのに」 「忍田、それじゃあ豆粒だ」 モルモットを撫でながら林藤は俺はこいつらが小さく感じるけどなあ、と不思議そうに呟いた。毎日カピバラを見ていたら当たり前だろうと思ったけれども、誰もそれを指摘してやることはしなかった。 「気分転換になったか?」 ふれあいひろばから出て、食べ物を買いに行くと言って走っていった忍田と太刀川を見送ってから、林藤は問う。 太刀川が今楽しいのか、分からなかった。だって太刀川の心は此処にはいないから。それでも太刀川を連れて来て良かったと思った。髭のことは、あとであれこれ言われるかもしれないけれど。 息抜きの日。 それは確かに風間には必要だった。明日の決戦のために、どうしても必要だった。明日が来る、そんな当たり前のことが信じられなくなる日が来るなんて。ぎゅっと握り締めた手のひらに爪が食い込んだ。今日と明日は繋がっている。繋ぎ目なんて何処にもない、するっとまるい林檎かなにかのように、繋がっている。おんなじような日が来てもおんなじ日は一度としてなくて、明日には何が起こるか分からないのに風間たちは生きている。 それが、とても、不思議だ。 とても、奇跡に思えた。 「林藤さん、聞いて良いでしょうか」 「ドーゾ?」 「これは独り言だと思ってくれて構いません、元より頷いて貰えるなんて思っていません。でも、オレがそう思っているのだと、望んでいるのだと、林藤さんには知っていて欲しい。だから言うことです。知って、忘れないで欲しい。覚えていて欲しい。ふとした瞬間に思い出して、それで、林藤さんの一部にして欲しい」 「なんだよ。まるで告白でもするみたいだな」 茶化すような声は無視してそのまま大きく息を吸う。それがポーズであることを風間は知っているから。林藤は、風間の言葉の一言一句をしっかり聞いてくれる。 それが、風間蒼也の知っている林藤匠という人だった。 「もしも明日オレが囁いた声の結果が、林藤さんの心に響くものだったら。林藤さん、もう一度太刀川を助けることを考えてくれますか」 「かんがえません」 用意されていたものだった。あっさりと、笑って。そうだと思っていた、だから何も言わない。 「俺はお前の出した答え、いいと思うよ。俺なりにまあ、納得もしてる。どうなるのか、お前がこれからそれに対してどう向き合っていくのか、まあ心配もあるけど、お前がちゃんと自分で決めたんだ。心変わりする必要がない」 「必要があればすると?」 「そんなにして欲しいのか?」 困ったような顔だった。 「お前だってもう知ってるだろ。太刀川に必要なのは時間だ」 「はい」 「時間をかけてゆっくり治すべきところに、負荷をかけたら余計に時間がかかることになるかもしれない」 「はい」 それは分かっている。でも、 「でも、聞いておいて欲しかったんです」 「独り言だから?」 「はい」 「まるで戦場に行くみたいだな」 「ある意味では、そうでしょう」 もうミスは許されなかった。 「もう一つ、質問しても良いですか」 「いーよいーよ。好きなだけしろ」 「一昨日林藤さんが言っていた、昔の話。林藤さんは相手が罰を選ぶと知っていたし、相手は罰を選んだんでしょう。………でも、それだけじゃあ、ないですよね」 「ん? 何で?」 「勘です。何となく、そうだと思いました」 だから妄想のようなものです、と風間は前置きをする。 「三年、と林藤さんは言いました」 「言ったな」 「オレは十年にしますからそれと比べたら三年は短く感じますが、それでも三年というのは時間として充分に思えます」 「愛する存在くらい作れる、ってか? なら、蒼也はアイツが罰を選ぶって思ってんの?」 「それはそれです、実のところあまり期待はしていません。…いえ、期待なんて言ったらいけないんでしょうね。話を戻しますけど林藤さんはその人のことを悪人ではなかったと言いました。なら、三年は充分な期間になり得ると思います」 「アイツは悪人だから無理だって?」 「はい。少なくともオレにとっては」 続けます、と胸の中に沈ませていた言葉を引き寄せた。 「悪人でなかったその人は、三年以内に愛せる存在を作った」 「生命を投げ出せるほどの?」 「ええ」 短く頷く。 「でも、その存在のためにその人は此処から消えることになり、罰の方を選んだ。………ように、見えた。そして林藤さんもいつまでかは知りませんが、罰の方を選んだのだと思っていた。だから、オレに話してくれたんだと思っています」 そこで風間は初めて微笑んだ。 「どうして分かったんですか、とは聞きませんよ」 「そもそもお前の妄想だし」 「はい」 忍田と太刀川が戻ってくる。両手にカステラ焼きとたこ焼きと焼きそばを持った忍田と、飲み物を抱えている太刀川。 「パンダ焼きというのはパンダを焼いたものではないらしい…」 少ししょぼくれてしまった忍田を、どう元気づけるかが今の課題だった。 (二十八) 三門市に戻って、太刀川を医務室へと送り届ける役目は風間に託された。誰とも会わないと教えられたルートで、風間は太刀川の手を引く。引かれるままについてくる太刀川の心はやはり此処にはないのだった。 「太刀川」 静かな廊下に声が響く。 「今日、楽しかったか?」 太刀川は動物園に行ったことがあるだろうか、パンダを見たことがあっただろうか。うさぎに久しぶりに触れて、どう思ったのだろう。返事はない。予想していた。ショックを受けることはしない。ゆるゆると歩く太刀川の前に割り込んで目を見つめる。これも反応はない。予想通り。 太刀川は風間を映さない。 予想通りだった。 風間は首から下げた鎖を手繰ってメジャースプーンを取り出した。いつか太刀川が風間にくれた中くらいのそれと、太刀川がお守りとしてずっと持っていた大きいのと小さいの。金属同士がぶつかり合ってシャラシャラと音がする。風の音のようだ。真ん中に挟まれた風間の分だけが少し曇っていた。最近手入れをしていなかったから。 「これなんだが、もう少し貸していて欲しい」 太刀川は答えない。だから風間はそれを勝手に了承と取る。 「本当はすぐに返すべきだったんだが…明後日には、返すと約束するから」 意味はないのかもしれなかった。一体今、何が太刀川の中で動いているのか、太刀川が何を情報として受け取っているのか、本当の本当にすべてを拒絶してしまっているのか、風間には分からない。今までは分かっていたのに。だって太刀川はとても素直だったから、作戦以外では全部、分かっていたのに。 「太刀川」 呼びかけて、これじゃないと思った。あたたかな手を握って、呼び直す。 「慶」 目を閉じて、風間は続きを吐き出した。本当はずっとずっと、言いたかった言葉。 「悪かった」 喉から熱いものが溢れ出しそうになった。 何に対して、それはもう言わない。きっと太刀川なら分かっていると思ったから。 「本当は、分かっているんだ。お前が殺されないで今此処にいる、それだけで充分幸福なんだって。上の人たちが情報だけを、って思うのも分かるんだ。そっちの方がボーダーの未来のためには良いに決まってる。その見返りに釈放、それだって戦い方としては悪くない。でも、きっと、オレはだめだ。オレは、それを飲み込めない」 触れた指先が何か反応を示したら―――そんなくだらない願掛けをして、手を握り続ける。もし、もしそうなったら。 こたえて、慶。 「だから、謝らせて欲しい。つらい思いを、ひどい思いを、お前にさせたから。オレは明日、アイツに罰を下してくる」 こたえて、慶。 胸の中で何度も何度もその名前を呼んだ。帰って来てくれたら、今度こそ間違えないという自信があった。明日の面会だって全部取りやめるだろう。 今、此処で。 帰って来て、くれるなら。 指がふわりと動くなら、目に光が戻るなら、唇を動かしてくれるなら、馬鹿な風間を許さずに罵ってくれるなら。 太刀川の心が、此処にあるなら。 太刀川の温度が風間の手にも移ってきていた。太刀川は何の反応も示さない。当たり前だ、今此処に、彼の心はないのだから。壊れてしまった、壊されてしまった。名前も知らない侵略者に、残酷な愉快犯に。 「慶」 もう一度、呼びかける。これでだめだったらもう諦めようと思った。諦めることは、怖かった。今にも涙が出そうで、太刀川を抱きしめてしまいそうで。 本当に、本当に怖かった。次でだめだったら、明日、風間は声を使う。 「本当に…ごめん。オレを、許してくれ」 目を開ける。 太刀川は黙ったまま。 その目は風間を映してはいなかった。 第七章 (二十九) 面会の日の朝はいつも通りにやってきた。風間隊は今日は防衛任務からは外されている。隊での訓練もない。表向き―――というか風間隊の面々には、風間は一般市民を殴ったため謹慎処分と通達してあるらしかった。それより外への通達は恐らくしていないのだろう。一部隊が防衛任務を外れる、そのためにスケジュールを組み直す。これくらいはいつだって対応出来なければ学生を主体にした組織なんて運営出来ないのだろうし、事実太刀川隊はよく太刀川の所為で防衛任務を外れることがあったと思い出す。成績の振るわない隊員のために学校側と折り合いをつけるのは、親からボーダーを辞めさせるという言葉が出ないようにするためでもある。 とは言え部下たちが自主練をしている可能性はゼロではないので、風間は一応家を出てすぐにトリガーを起動した。カメレオンを入れ、そのまま裏道を走る。トリオン体で走れば本部までそう遠くはない。カメレオンを入れっぱなしにしていてもそこまで消費はしない。 誰にも見られないように指定された部屋に行くと、既に林藤が待っていた。換装を解く。此処までたどり着いてしまえば、もう人に見られる危険性はなかった。人払いは既に林藤が根回しをしているだろうし、今回全くと言って良いほど顔を合わせなかった迅も加担しているに違いない。 風間は最後にもう一度だけ、太刀川から借りたままのメジャースプーンを撫でた。指でなぞるだけだとうさぎはでこぼことしているのが分かるだけで、何なのかまでは分からなかった。でもそれでいい、と思う。本当ならば風間にこのお守りを持つ権利などないのだから。 「向かいの会議室に、いる」 拘束は特にしていない、と林藤は言った。それは風間が頼んだことでもあった。ゲームを仕掛けるだけ、言葉を発するだけ、聞かせるだけ。だから拘束は要らない、と風間は言った。事前に林藤から出来得る限りの無力化を行ったと聞いていたからだ。トリガーは一体化しているため取り上げることは出来なかったが、解析が済んでいるので特定の周波数を出す首環を装着させ、トリオン体になることを阻害させている状況なのだと。 だから、風間は頼んだ。 せめて、対等な立場のように感じさせるために、拘束は要らないと。 意地だった。意地に見せる必要があった。すべて、風間には必要だった。これは風間個人の自己満足の復讐なのだから。兄を失ってボーダーに入って、三門を襲う近界民を殺して(壊して)回るのとは全く違う。 いつも使っているトリガーを林藤に預けて、黒トリガーのみになる。換装も出来ないこのトリガーで出来るのはゲームを仕掛けることだけだ。攻撃は、出来ない。風間が近界民を殺すことはない。 「大丈夫か」 林藤の声はやはり静かだった。こういう場面を知っていたのかもしれない。風間だって、近界に出て交渉や他の戦争を見てきたはずなのに、それでもこの人には経験で敵わない。 三門に生まれたことを後悔したことなんか一度もない。 旧ボーダーに育てられたことを、後悔したことなんか、一度も。 「大丈夫です」 風間は強く頷く。首でトリガーが、お守りのように揺れた。 最後の確認に、林藤が机と椅子の配置を言う。近界民が座っている真ん前に、風間のための椅子が用意されている。けれども風間はそれには座らないだろうと分かっていた。 「俺は部屋に入ったら、お前のすぐ後ろに座るから」 いつでもシールドを展開出来るように、という言葉が隠れているのを風間は気付かないふりをした。林藤が換装して此処にいることを誰もが黙認しているのだった。 ―――彼なら捕虜を殺したりはしないから。 そう、積み上げてきた信用が林藤にはあって、風間にはなかった。 (三十) 会議室の扉は思ったよりもすんなり開いた。こういう時は大抵重く感じるものだと思ったのだが、そうでもないらしい。 中には人型近界民がいた。若い、最初に思ったのはそれだった。トリオン器官の成長のことを考えれば、そして何しろ風間たちがそうであるので若い兵というのは珍しくも何ともないはずだったのだが、それでも風間はその若さに驚いた。 普通の、人間に見えた。 林藤から聞いていたような、他の人間すべてを炉端の石と考えているような、その炉端の石が壊れていく様を好んで眺めるような質には見えなかった。それが読み取れないのが風間の弱点なのかもしれなかったが。林藤が椅子に座る音が聞こえる。しん、と澄んだ空気が耳に痛い。風間は椅子には座らなかった。そのまま、近界民の前に進み出る。 「アンタがオレに会いたいって人?」 近界民の名前は聞かなかった。風間には不必要な情報だった。今回関わった人間はすべてこのトリガーの性能を知っている。 「オレに、何を聞きたいの?」 聞きたいことなどなかった。身体中が震えていないか不安になる。メジャースプーンを持った手が汗ばんでいた。これでは太刀川に返す時に、べたべたになっているだろう。せっかく、あの太刀川が丁寧に磨いて大切にしているお守りなのに。 一度振り返って林藤に頭を下げる。 「ありがとうございます、林藤さん、いつか、太刀川がまだ良くならなかったら、林藤さんが救ってくれるってオレは信じています」 座っていた林藤が怪訝そうに眉根を顰めた。風間は急いで近界民に向き直った。林藤は敏い人間だ、一秒だって無駄には出来ない。 ごめんなさい、心の中でだけ謝る。 ごめんなさい、林藤さん。オレは今から、貴方を裏切る。 木崎の意見を思い出す。相手の人生に身体ごと飛び込む決意が出来ないなら、巻き込まれる決意が出来ないなら。罰なんて、復讐なんて、考えるものじゃあないと。本当だ、と思う。浮かんだのは自嘲だ。風間も、本当にそう思う。 だから、言った。 「今すぐ此処でオレの首を絞めろ」 条件。太刀川の心でだめなら、その責任を与えられないなら。 ―――オレの生命を使って、お前の生命を奪ってやる。 自分の手で打ち取ることも考えた。けれども上層部だって馬鹿じゃあない。風間を遠ざけ、今回の面会だって携帯を許されたのはこの黒トリガーのみで。だから、この手段しか、ない。 「さもないと、お前はもう二度と、自分以外の人間に好き勝手出来ない」 それが、怖いんだろう。 息を飲む音が聞こえた。パイプ椅子の倒れる音、きっと林藤が立ち上がった。そしてそのまま風間に駆け寄る。足が地面を蹴る音。 けれど、近界民と風間の距離の方が、断然近い。 声を受けたそいつは目を見開いて、それからしっかりと、力強く頷いた。 伸びてくる二本の腕。ああ、と思った。林藤の言う通りだった、本当にこいつは、自分のことしか考えていない。指が風間の首をとらえた瞬間、あ、と声が漏れ出たのに気付いた。 その手は、あたたかかった。あたたかい、人間の手をしていた。林藤や、忍田、歌川や菊地原、そして、太刀川と同じように。風間の大切な人たちと、同じように。 圧迫感に手の力が緩む。ずっと握り締めていたスプーンが指を離れて、かしゃん、と軽い音を立てた。窓から入る光を反射しながら転がっていくのが、綺麗だなんて思った。 悲鳴は上げなかった。あとから思い返してみると上がらなかったの方が正しいのかもしれない。ひっ、と短い呼吸音が漏れて、それだけだ。生身の感覚はあまりに切実で、もうそれが何なのかすら危うい。抵抗、しなければならない。そう思った。風間の死体を見た誰もが、これを遠回りな自殺などと思わないように。 だけれど、それは叶わない。どんどん力が抜けていく。視界がかすれていって、きらきらと端で輝くものばかりが目に入って。赤、青、白。 息が、出来ない。 (三十一) 背後から声が飛んだのはその時だった。 「今すぐその手を離せ」 そんな声は聞いたことはないと、そう思った。身体の奥底から凍りつくような、そんな、声。だから、それが林藤のものと気付くまで一拍を要した。 怒り、だろうか。微かに振り返った先で、その唇が震えるように動く。 息、が。 目を開けているのも億劫だった。今はすべての感覚を、呼吸へと回していたかった。 「でなければお前は―――」 罰の部分は、聞こえなかった。ただ息を吸うのに必死で、意識がちかちかとしていた。躊躇いの一切ない声、凄まじい怒りに震える声。風間の喉にかかった手を林藤が掴み、強い力で引き剥がす。 手が、外れた。 その代わりと言うように、風間の身体は後ろにいた林藤の腕の中に沈み込む。喉は既に解放されていると言うのに、息が上手く出来ない。浅い呼吸がひっひっと続くだけで、幾ら吸っても酸素が入ってこない。あちこち痛いような気がした。目を閉じる。瞼の裏で長く尾を引く光の影が、太刀川のスプーンの反射だと、今更ながら気がついた。 「なんつう、ことを」 悲痛な声。これも、初めて聞いたな、なんて、震える腕の中でそう思う。思ったら、意識が何処か遠くへ行くような心地になった。 「誰か! 誰か来い!」 林藤が大声で叫ぶ、それがどんどん遠くなっていく。 風間さんは、えらいね。 ふいに、そう言った太刀川が浮かんできた。まるで走馬灯のようだ。風間の背中を叩いて、そう褒めてくれた太刀川は、もう二度とお守りを、メジャースプーンをくれることなんてない。 『なんで泣くの。風間さんは正しいことをしてるのに』 きちんと、言えばよかった。くるくる、後悔が回り出す。伝えたいことは、まだもっともっと、たくさんあったのに。 「慶」 沈む、沈む。 「オレはちっとも、正しくなんか、ない」 第八章 (三十二) 目を覚ましたら知らない天井だった。自分が死んでいないことを風間は知っていた。意識が途切れるまできらきらと見えていた光は、眠っている間にもまぶたの裏でちらついていたように感じた。 ベイルアウトとは違うんだな、と思う。生身での気絶なんてしたことがなかったし、そもそもトリオン体に気絶という機能はない。薬の匂いで、此処が医務室だろうとあたりをつけた。あんなことになったのだ、あんなことにさせたのだ。医務室に運び込まれるのは不思議じゃない。情報遮断をどうやったかは知らないが、太刀川があんな状態になっていることも秘匿してきた組織だ。やりようは幾らでもあるのだろう。 動き辛い首を回して辺りを見遣ると、風間の寝ているベッドのすぐ横に誰かがいるのが見えた。佇んでいる。ぼやけた視界で最初はそれが林藤なのだろうと思ったが、暫くして違うと気付いた。 「城戸司令…」 声を絞り出すと、目が合う。 「…目が覚めたか」 遣り取りはそれだけだった。看護師を呼ぼう、と城戸の手が風間のベッドのナースコールを押して、すぐに看護師が駆け付けた。視界を少しでもよくしようと瞬きを繰り返す風間を見て、看護師は先生を呼んできます、と頷いて病室を出て行った。看護師の動きを見ていて気付いたが、どうやら此処は個室らしい。太刀川と同じところだろうか、とぼんやり思った。 それから年老いた男がやってきた。あの日、太刀化の状態を風間に説明してくれた男だった。 「何をされたのか、記憶にあるかな」 風間が一週間も眠ったままだったのだと伝えた男は、風間にそう問うた。口にするのもおぞましいというように。風間は頷きながら、その言い方に引っかかりを覚える。何をされたか=Bあのトリガーのことなど何も知らない彼がそういう言い回しをするのは当然かもしれなかったが、それでも。 「今だから言いますが、ぼくは反対だったんです」 「…面会に、ですか」 「はい。ぼくはガラス越しですが、彼を見ていましたから」 男が尋問に携わっていたことも今知った。本当に風間は、最低限のことしか伝えられていなかった。 「でも司令や林藤支部長が許可したことに、一介の医療スタッフであるぼくが口を出せる訳がないでしょう」 林藤支部長が君を抱えて来た時は、どれだけ肝が冷えたか。 その言葉で決意する。 「オレを、運んで来たのは林藤支部長なんですか」 「そうですよ」 「林藤支部長は、今…」 「今日は会議があると聞いています。そのあとに寄ると言っていたので、そのうち来るでしょう」 話は大体推測出来た。だから、破門にされてでも風間は答え合わせをしなくてはならない。 (三十三) そもそも林藤と風間の師弟関係が未だ現役かと言うとそうでもない。昔教わっていたのは事実だが、忍田と太刀川のようにお手本のような師弟関係があった訳でもなく、周りにあそこには師弟関係があるから、と言われるようなものでもなかった。同級生の、特に諏訪辺りはお前と林藤支部長ってよく話してるけどなんか弱みでも握られてんの? と聞いてきたし、外から見てあまり相性が良くないのだろうということは自覚している。 それでも風間は林藤をそれなりに尊敬していたし、好いてもいた。林藤が風間を可愛く思っていることも分かっていた。普段は少し嫌だったそれを、今回はフル活用した結果がこれだ。 ―――風間は、林藤を裏切った。 なあなあの、あるのかないのか分からない関係でも、口に出してはっきり破門と言われれば本当になかったことになるだろう。風間は林藤がそういうことの出来る人間だと知っていた。何も変わらないとは言えなかった。今後、林藤から風間に対するこっそりした便宜(つまるところの貸しだが)は全くなくなるだろう。元より自分の力でどうにかすると決めている風間はそれでも良かったし、何を言うか決めた時点でその先のことはすっぱり捨てたも同然だった。 でも、風間は生き残ってしまった。 林藤に同席してもらったのは自分の言ったことを正確に理解してもらうためだと思っていた。でも違ったのだ。風間は無意識のうちに、自分が生き残れる可能性を残しておいた。 結局、風間は林藤に甘えていたのだ。 病室に顔を出した林藤はいつも通りの顔をしていた。風間の担当である男がくれぐれも無理させませんように、と釘を差してから去っていく。彼はボーダーに在籍して長い。二人で話したいということがどういうことなのか、よく分かっている。 謝るつもりは、なかった。なかったけれども風間には責められる理由があると思っていた。だからそれを甘んじて受けようと。そうして見上げた先の林藤は穏やかに笑っていた。 「怒ってるぞ」 それは思っていたよりも軽快な声だった。 「宇佐美が失敗したとき、さじ加減って話をしたな。正しい器具で正しい分量を図る、それでどうにか菓子を膨らませようと試行錯誤する。お前には、ハナから菓子を膨らませる気なんかなかったって訳だ」 こんな顔も声も知らない、と思う。 数秒置いてから、それが林藤の怒りであることに気付いた。身体の奥底から凍りつくような、あれは怒りではなかったのだろうか。それとも、林藤はあらゆる怒りを使い分けるのか。風間は、何も知らない。 「太刀川の精神で駄目なら、お前の生命で、ってか。そりゃあ成功するだろうよ、事実お前を襲ったって事実だけで充分だ。敵とみなされたアイツは遠くないうちに死ぬだろう。満足か」 林藤が怒っているというのに、風間はその言葉を聞いて安堵した。 「満足です」 呟くようにして言う。 「オレは、オレが言った通りになっても、後悔はなかった」 「………だろうな。勿論、ンなこと言う訳にはいかねえから、外向きは人型近界民なんて出してねえし、太刀川は爆弾みたいなもので吹っ飛んでショックで寝込んでたってことにしてある。お前がやらかしたことも、なかったってことになってる。爆弾は無事に処理が済んだ、人型近界民のことも、取引のちに玉狛が秘密裏に近界へ帰した、そういう筋書きになってる。誰も、アイツが処刑されたなんて知ることはねえ」 木曜日に風間が林藤に言ったことが嘘だったと、林藤はもう知っている。風間は最初からそのつもりだったのだと、分かっているだろう。 ―――空を飛んでみろ、そうしなければお前は高層ビルの屋上から飛び降りる。 風間が選んだ嘘はそれと同じものだった。そして風間は、それよりももっとひどいものを選んだ。 「アイツの生命を奪うことが、本当に自分の生命で縛った結果だとでも思ってんのか」 林藤はきっと、風間は許さない。 「…処刑は、太刀川だけではなくお前まで傷付けられたという上層部の怒りだ。コケにされた、そうお前が思いたいならそれで良い。だけどな、」 林藤が息を吸う。ひゅう、と喉が掠れる音が聞こえた。 「あの人は、お前らが思ってるよりもよわい人なんだよ」 あの人=B 「あの人がお前を失って、それで怒りや悲しみを抱いて…喪った存在を嘆きながら、残りの人生を捨てて今後自分から仲間を奪っていった近界民の排除に努める。そりゃあ今までと変わらねえかもしんねえけどよ、お前はあの肩に、またひとつ生命を乗せようとしただけだ」 頭が動かない。思考が追い付かない。 「お前が眠り続けていたこの一週間、あの人がどれだけお前を心配していたか。俺のことだって殴れば良いのに、それすらしないで、涙も流さず、食べる量も目に見えて減って、眠れない夜を過ごして、それこそ生きた心地がしなかっただろうよ。あの人にとってお前はたいせつな部下なんだよ、たかが一人、されど一人だ。それを知らなかったとは言わせねえ。お前は、そんなあの人を巻き込もうとしたんだ」 言葉をひねり出すことも出来なかった。ごめんなさいと謝る対象は、今此処にいない。 城戸司令。 林藤の示すあの人≠ェ誰のことなのか、もう分かっていた。風間の目覚めたタイミングで彼が病室(ここ)にいたのは偶然だったのかもしれないが、それでも仕事の合間をぬって風間の様子を見に来ていたことは分かる。看護婦を呼んで部屋を出て行く、その横顔が思い出される。 ひどく、言い訳がしたかった。声の続く限りにごめんなさいと謝りたかった。小さな子供のように、そんなことちっとも考えていなかったのだと泣き喚きたかった。 「あの人にあのトリガーを使ったことは話してない。こんなひどい話、出来るか。すべてはアイツの頭が可笑しすぎた、ただそれだけだと報告してあるし、そういうことになってる」 怒ってるからな、と林藤は繰り返した。 「これはお前に対する怒りだし、俺自身に対する怒りでもある。お前はまだ子供だ。何も分かっちゃいない子供の意志に、すべて丸投げした俺に落ち度がある」 「違います! 悪いのは、勝手なことをしたのはオレじゃないですか! 貴方は悪くない!!」 思わず声を荒らげた風間に、林藤は小さく首を振った。 「お前、玉狛に通っていることが治療の意味もあったの、気付いてたか」 目を見開く。 「今日の土産はマドレーヌだ。ちゃんと駅前の店で買った、うまいって評判のやつ。それ食べて、味がするか確認しろ。お前、あの日から味覚がなくなってんだろ。何を食べても味がしない、そうだろ」 言われて、思い出す。 甘いままの口の中、それは太刀川があの朝くれたのど飴の味だ。甘い香りに包まれながらぬくぬくしているうちに、太刀川の心は遠くのところに行ってしまった。 「アイツと向き合うことで、ショック療法になるなら、ってんで医務室と連絡取り合って許可出したんだ。先生だって、俺を信頼してお前を預けてくれたんだ。なのに、その結果がアレだ。俺が悪い以外になんて言えるんだよ。お前の心がそこまで追い詰められてることに、俺は気付けなかった。それは、俺のミスだ」 何も言うことが出来ない。 「木曜日の事件は予行演習だったんだな」 「…はい」 本当に太刀川のことを思ってあのトリガーを使うのならば、条件と罰は逆であるべきだった。『もう二度と三門市に足を踏み入れるな。そうしなければ、お前はもう二度とボーダー関係者と口がきけない』ではない、『もう二度とボーダー関係者と口をきくな。そうしなければお前はもう二度と三門市に足を踏み入れることは出来ない』。風間は実験がしたかった。本当にゲームを仕掛けられた人間が、罰の方を選ぶ可能性もあるのだと言う、確かな証拠が欲しかった。なんとなく、林藤も気付いていたのだろう。だから何かして欲しいことはあるかと問うた。風間はそれに首を振った。それだけが事実だ。 「どうして、」 苦しげな顔だった。風間を見下ろして、今にも泣き出しそうな顔で。 「お前が生命を投げ出したとしても、それは所詮、それだけのことだ。アイツが俺らによって殺されるだけで、お前の犠牲は何も生み出さない。更なる悪意や暴力に自分を巻き込むってことは、それに立ち向かうのと決してイコールじゃねえよ。お前が喪われ、周りは嘆くだろう。お前の好きな太刀川だって、泣くだろう。何度も言うが、それは太刀川のためじゃねえ。だったら、どうして。なんだって、あんなことを」 「林藤さん」 声が、ふるえていた。 そうだ、と思った。 そこから全部、誤解なんだ。 (三十四) 「オレは、太刀川のことが、好きなんかじゃないんです」 掠れた声になったのは、それだけこのことを伝えるのが苦しかったからだ。 好き。大体の人間がそう言う。だけど違う、といつも思っていた。どうしてあの近界民に会おうと思ったのか。それは太刀川のためじゃない。でも否定しなかったのは、そう思わせておく方が事がスムーズに運ぶと思ったからだ。人は、誰かのために動く人間に弱い。 風間は周囲を欺いてでも、そうしなければならなかった。 だって。 だって、太刀川は、風間を許す。 あんなことになったのに、口がきけないくらい傷付けられたのに。風間を、きっと、許す。林藤は黙ってこちらを見ていた。情けない、悔しい、歯を食いしばって続ける。 「太刀川があんなことになったのは、オレの所為なんです」 やっと理解出来るような、ふるえた声がひどく無様だ。 「あの日の防衛任務はオレの担当で、オレが風邪なんで引いてなければ。本当だったら、ああやってひどい夢を繰り返し見せられるのは、オレだったはずなんだ」 言ってしまったら、沸騰したように目の奥が熱くなるのを感じた。ぼろり、と涙がこぼれ落ちる。泣きたくなんかないのに、歯を食いしばろうと唇を噛み締めようと、どんどん溢れて止まらなくなっていく。 全部、ぜんぶは自分のためだった。 あの日、風間が熱を出すことがなければ。本部に電話をして、太刀川に電話をして、変わってもらうよう調整しなければ。そうだったのなら、彼は此処にいた。あんなにひどいめに合わずにすんだ。 「オレはただ、自分の所為で太刀川がそんなことになったのが嫌なんです。それが、耐えられないだけなんです」 太刀川の代わりになりたかった。太刀川のことが、本当に好きだったから。 だけどそれは言い訳だ。瞞しだ。責任と呵責が結びついて、それに耐えられないから相手のために何かしたいなんて思う。自己防衛。そんな、自分勝手な欺瞞。 誰か他人のために生命を投げ出すことは、ひどく、難しい。 「林藤さん」 泣きながら、尋ねる。 「人間は身勝手で、人間は誰か他人のために泣いたり出来ないんだって、本当ですか」 太刀川から聞いた話。見知らぬ一般市民に声を使った日、涙が出た。怖かった、自分の生命がいつか失われることは覚悟出来ていたはずなのに、いざそれを選んだとなると怖くて仕方なかった。太刀川の苦痛を思って泣く時よりも激しく、止まらない涙に思った。 薄情だな、と。 黙ったまままの林藤に風間は続ける。 「誰かが死んでそれで悲しくなって泣いても、それは結局、その人を喪った自分が可哀想で泣いているのだと。人間の涙は、自分のためにしか出ないんだと。そう聞きました、本当ですか」 だったら。 息を吸っているはずなのに、酸素が入ってくる心地がしなかった。自分がどれだけ醜いのか付きつけられたようで、思わず顔を覆って叫ぶ。 「だったら、オレはそれです。それなんです。人が、太刀川が。オレの身代わりになったことの、責任に耐えられなかった、だから。太刀川のことが、好きなんかじゃないんだ」 「それの何がいけない」 静かな、声だった。痛みを堪えるような、響きをしていた。 緩慢な動作で林藤は手を伸ばすと、そのまま風間の頭を抱き寄せる。涙でべたべたの瞼を微かに開けると、林藤は目を閉じていた。 「馬鹿だな」 先ほどと違って、少しばかり必死さを含んだ声だった。凍った湖面が青く燃えているような、そんな声。そこで、やっと気付いた。林藤から、煙草の香りがしない。 太刀川があんなふうになってから。 おかしくなったのは風間の舌だけではなかった。以前より痩せた、と感じるのは風間が成長したからではない。嗜好品も遠ざけるくらい、太刀川のことを心配してくれている人がいた。 「責任を感じるから、自分のためにその人が必要だから、その人が悲しいことが嫌だから。そんなもんで良いじゃねえか。そうやって、自分のためって結びついたもので、相手に執着を抱く。その気持ちを、人はそれでも愛と呼ぶんだろ」 それを聞いてしまったら、もう駄目だった。最後のところで保たれていた砦は決壊して、風間は外聞もなく声を上げた。 「自分のエゴ、自分の都合。上等だろ。結びついたり離れたり、互いを必要とする気持ちに名前を与えて誤魔化して、そうして人間は発展して来たんだ。今更お前だけがお綺麗にはずれてやることはない。繰り返されて来たことなんだ、今、お前がたった一人で責任を感じる必要はまったくもってねえよ。―――太刀川が悲しいことが、苦しいことが、本当に嫌だったんだろ? それを愛と呼んで、何がいけない」 ぐらぐらの頭の中で、林藤の声だけが詰まるように流れ込んでくる。 ごめんなさい、詰まる息の間に何度も繰り返された声が、もう誰に向けてのものなのか分からなかった。林藤だったのかもしれないし、城戸だったのかもしれないし、太刀川に向けた言葉なのかもしれなかった。 「林藤さん」 何のために泣いているんだろう、これは誰のための、何の涙なんだろう。 風間は太刀川に何をしてやることも出来ない。所詮、代わりにはなれない。 ―――オレの所為で、太刀川は心と声を失った。 「お願いが、あります」 「何だ」 「オレにトリガーを、使ってください」 それが可能だということはあの近界民が証明していた。この力は、違う適合者がかければきちんと動作する。 「太刀川に使うのがだめなら、オレ、に」 「どんな内容が良い」 痛みを抱えるような声だな、と思った。やはり、彼は今此処に、あの黒トリガーを持ってきていた。きっと彼は予想していた、風間がこう言い出すことを。 ひどいことをさせようとしている、その自覚はあった。腕の中の風間を覗きこむ林藤の目を直視出来ない。 目を閉じたら、また新しい涙が溢れてきた。 「太刀川にしたことを、ずっと、ずっといつまでだって、覚えていないといけない、と。そうでなければ忘れた途端、オレは死ぬと。かけてください、オレは、あいつに、」 「…覚えていたいのか」 「いつか、忘れる。オレも、いつか。何にも知らないで太刀川を嘲ったやつみたいに、忘れて笑う日が来ます。傷付いて、帰って来ない太刀川を、オレは、オレだけは、待っていなくてはいけない」 自分の声じゃあ意味がないことは、もう実証済みだ。あの日の朝、風間は鏡に向かって自分の行った言葉を、まだ覚えている。 「…分かった」 躊躇いのない声が振ってくる。断罪を待つように目を閉じた風間の頭に、林藤が手を翳す。 「太刀川に何があったのか、あいつの痛みを忘れることなく覚えていろ。そうでなければ、お前は太刀川の傍にいられなくなる」 短く、息を飲んだ、目を開ける。望んだ内容と違う。訴えようと見上げた風間に、林藤は首を振った。 「お前の意志でいいんだよ。死で脅すことなんてない」 「どう、して」 傍にいられなくなる。それはあまりにも曖昧な罰だ。傍、というのが何処までを指すのか、すべて風間の価値観に委ねられている。そして、それはきっと、距離の問題ではない。心の問題だ。太刀川にしたことを風間が忘れるのなら、きっと風間の心はもう太刀川から離れているに決まっているのに。 「太刀川の傍にいたいなら、今太刀川がつらいということを受け入れて、支えてやれば良い。そこに無理をする必要なんて何処にもねえよ。お前がつらくなれば、ゲームは終わる」 「それじゃあ、オレは…ッ!!」 なるべく強い言葉で縛って欲しかった、のに。 「お前に、お前の気持ちを疑って欲しくないからだ」 ピン、とすべてが繋がった気がした。 「お前の言った通りにトリガーを使えば、自分の気持ちを疑って、お前が太刀川の傍にいられなくなる日がきっと来る。オレはそれが嫌なんだ」 「…嘘を、吐いたんですね」 風間は林藤にこのトリガーを使って間違えたり後悔したりしたことはないと言った。それは、嘘だ。 少なくとも林藤は、後悔したことがあるのだ。 自分の生命を投げ出せるくらい愛せる存在を守るために、此処から消えた人について。 (三十五) それに対して林藤は何も言わなかった。 「太刀川の傍にいるかどうかは、お前自身が決めろ」 でも、と風間は言い募る。 太刀川が、誰でもない太刀川自身が風間を許すのに、それなら風間は誰に許しを乞えば良いのだろう。謝る先も縋る先も取り上げられたら、それこそ風間は一人で立たなくてはならない。 ―――慶。オレはお前のに傍にいてほしいんだが、それだけじゃあ足りないのだろうか。 「多分だけどさ、」 林藤から風間はどう見えているのだろう。放り出された子供のような顔をしているのだろうか。 「太刀川はお前を縛ることは望まないだろ」 頭を殴られたような気分になった。 「太刀川がどういう奴なのか、お前の方が知ってるだろうけどさ。動物園行った時だって、忍田が小さい子の前に行こうとすればそれをさり気なく止めて、オレとお前が密談してればちょっと心配そうにして。歩調も合わせようとしてたし、昼食の時だって、あれ選んだのは太刀川だ。お前の好きそうなものを優先して選んでた」 知らない。そんなこと、風間は知らない。いや、気付かなかったのだ。何も、見ていなかったから。自分のことばかりで、太刀川のことを見れなかったから。 「お前が起きなかったこの一週間、ずっと心配そうにしてた。ああ、お前を担ぎ込んだ時に丁度検診してたんだよな。だから太刀川もお前がぐったりしてるのは見た訳だ。その日は食事も真面に手を付けなかった、ってよ。なんとか食べようと努力はしてたみたいだが、全部吐き戻してたって」 太刀川は、何も言わなかったから。 「…お前には、ゲームは仕掛けられない」 弾かれたように顔を上げる。 「まあ前例がないから多分、なんだけどな。解析しまくった結果そうじゃないかって出てるだけだから、お前には言ってなかったけど。適合者同士では、ゲームが仕掛けられないんだ。勿論、自分に向かっても使えない。だから、お前は自分の力だけで生きていかなくちゃならないんだよ」 ―――生きていて良かっただろ? 林藤はそうは言わなかった。言ったら風間を更に追い詰めるだけだと知っているからだろう。 怖かった。 とてつもなく怖かった。 だけどそれは、風間が自分で決めたことなのだ。誰に言われたでもない、自分で決めたこと。だから風間は最後に、と林藤に縋る。 「林藤さん、お願いがあります」 「太刀川のことだろ」 「はい」 林藤が断ることを風間は知っていた。でも、チャンスがあるのならば風間が何もしないという手はない。 「アイツに、オレと林藤さん、一回ずつトリガーを使いました。それなら、太刀川にだって同じことが出来る。お願いします、太刀川を助けてください」 林藤は心変わりはしないと言った。その必要がない、と。あの時とは条件が違うが、きっと林藤は断ると思っていた。 「オレは、お前に怒ってるんだからな? 多分、お前のしたことにオレはずっと怒り続ける。お前がどんだけ馬鹿なことをしたのか、オレは一生覚えてる。………でも、そんな結論を出したことに気付かなかった、その責任はあると思ってる」 「責任」 「ああ。お前には、その責任をとる資格も権利もない」 「………はい」 頷く。 「だから、会うだけだ」 「ありがとうございます」 「見舞いに行って、もう一回太刀川と会って。それだけだ。トリガーを使うことはほぼないって言える。それでも、良いか」 「はい」 話はそれで終わりだった。林藤は風間の頭をもう一度撫でる。 「よく頑張った」 もうそれ以上は言葉にも涙にもならなかった。 結局、最後まで破門とは言われなかった。 エピローグ 林藤が太刀川の病室に顔を出すと、其処には忍田がいた。 「もう良いのか」 「ああ。話は終わったし、落ち着いてるよ」 話を聞いていた太刀川が、そわそわと立ち上がる。 「順調に回復してるんだな」 「風間くんのおかげだ」 忍田は目を細める。 「きっと完全に治ったら、また風間くんは恩人なんだ、って話を嫌というほど聞かされるんだろうな」 「恩人」 「ああ」 前にも風間のおかげ≠ェあったような言い方だ。 「何年前だったか、随分昔に剣道の試合があったこと、あっただろう」 「ああ、太刀川が逃げ出そうとしたやつ」 「そう、それ」 懐かみ、慈しむような顔で、忍田は続ける。 「あの時、風間くんが見つけてくれて、行かなきゃだめだって説得されて。その時に『オレはお前と仲が良いことが自慢なんだ』って言ってもらったんだって、何度も何度も言うんだよ。相当嬉しかったんだろうな。そんなこと初めて言われた、どうしよう、おれと仲が良いことが、自慢なんだって! ってさ。だから堂々としなきゃ、逃げちゃだめだ、って思ったんだって。慶の、一番の自慢話だよ」 林藤は忍田にあのトリガーの詳しい性能を話してはいなかった。だから忍田は知らない。横では太刀川が話が終わるのを待っている。 「覚えてるんだな」 「え?」 「ん? いやなんでもねえよー」 太刀川が蒼也のお見舞い行くなら連れてくよ、と林藤は申し出て、忍田は頼む、と言った。あとで風間くんのところにも顔を出すから、と。本部長は忙しいらしい。林藤も実のところそこそこ忙しいのだったが。 風間の病室に向かう短い時間で、林藤は軽い声で言う。 「忘れろ。そうでなければお前の大事なやつが、ずっとお前を心配しているように感じる」 太刀川は真っ直ぐに前を向いている。自分の進む方向を、間違いなく認識している。 「って言おうと思ってたんだけどな。やめとくか」 林藤は首を振った。 「俺だってね、なんにも考えてなかった訳じゃないんだよ。俺だってお前のことをどうにかしたいとは思ってた訳だし。でもさ、それって俺が玉狛支部長で、ボーダーの上層部で、お前らを使う立場にあるから、思うんだよ。お前が可愛いからじゃない、蒼也に対して思うような、そういうものじゃない。お前は俺の弟子じゃないし、忍田は俺の共犯者で、そういう心情が働くような間柄じゃない。だから、俺がトリガー使えば蒼也の気持ちを全部台無しにするって思ってた。でも、台無しにするより更に向こうを蒼也が選ぶなら、俺がその前に台無しにしようって思ってた」 だから用意だけはしてたんだよ、と林藤は言う。太刀川は答えない。 「お前の非力な騎士様は一生懸命だったよ。必死にお前を守ろうとしてた。自分を傷付けて、ぼろぼろになって、それでもお前のことしか考えてねえんだよ、あいつ。俺はあいつの出した答えを正しいなんて言えねえけど、俺はあいつのことが好きだよ。だから、お前は自慢に思って良い」 林藤はもうこのトリガーを使うつもりはなかった。お守りとしても、誰かに持たせることはしないだろう。だから、林藤は自分の声で言う。自分の力で、自分の言葉で、太刀川に話し掛ける。 「お前には、とても素晴らしい友人がいる」 それが自分の弟子であることが誇らしいと、林藤は言わなかった。その代わりに太刀川の手にメジャースプーンを握らせる。 「これ、蒼也に返してやってくれ。お守りなんだろ? オレが返すより、きっとお前からもう一回渡される方があいつは嬉しいだろうから」 そこ曲がったらすぐだ、とそう言おうとした瞬間。 「ひとりで―――」 暫く使われなかった喉が震えて、掠れた声を吐き出す様を林藤は息を飲んで見ていた。ただ合わせ目が擦れただけのような、そんな少しの、動き。 「ひとりで、だいじょうぶ、だよ。りんどーさん」 「分かった。―――蒼也のこと、よろしくな」 まるい頭が僅かに、こくりと頷く仕草をした。それが、林藤のところからはっきりと見えた。太刀川の手元が太陽の光に細いプリズムを作っていた。少しばかり不安な足取りで彼が進む度、角度を変えてきらきらとさんざめく。 その手の中ではたった今手渡したばかりのメジャースプーンが、彼らの尊いお守りが、可愛らしい音を立てて揺れていた。 20170131 改定 20170306 20211129 改定 |