慎重に壁に張り付く。向こうの人間に悟られないように、内偵として選んだ部下が、警察の関係者だと見破られないように。客引きの真面目そうな男が選んだ人間しか、鍵の掛かった店内には入れない。そういった警察にとってはひどく厄介な仕組みを作り出したのは、一重に相手がずる賢いというのもあるだろうが、ここ数年、同じような追いかけっこを続けていれば余程馬鹿な相手でなければ学習くらいするだろう。
 そう、今まさにガサ入れされるこの違法風俗店、その経営者一同とは、この数年何度も摘発を狙って追いかけっこを続けているのだ。どれだけ逃げ道を塞いだと思っても、まるで事前に予知されているかのように目の前で逃げられる。
「今日は」
隣で班長である忍田が呟いた。
「上手くいくと、良いな」
それに、返す言葉は一つしかない。
「………ああ」
そうして、部下と客引きの会話に耳を済ませた。
 事態が動いたのは、それから数分後のことだ。
『あっ、ちょ、ま―――』
やっと中へと入った部下に、続こうとした瞬間。彼が忍ばせていた無線にそんな声が入って、その次にがすん! というまた物騒な音が入った。慌てて扉を蹴破る。伸びている部下。
「諏訪!!」
「林藤、奥だ!」
「お、おう!」
脈だけ確認して、奥へ走って行く。生きてはいるようだ、きれーに落とされやがって、その文句は目が覚めた時にとっておこうと思う。
 建物の構造上、この奥には隣接するビルで塞がれた窓しかないはずだった。だからそっちの警備は手薄になっているが、まさか。
 一番奥の部屋の扉は開いていた。壁に背中を付けて、向かい側の忍田と目配せをし合う。そうして踏み込んだ部屋には、誰もいなかった。壁には、馬鹿が見る≠ニの文字。
「やられたなぁ」
あはは、と笑ってやれば、その隣で忍田が大きく肩を落とした。

 三階にある生活安全課の一番端の狭い部屋―――半分物置のような課の名前も明記していないその部屋で、林藤はうつらうつらとしていた。ここ最近ずっと張り込みやら何やらに追われていて、あまり眠れていないのだ。
 そのうっすらとした眠りは、誰かの足音で打ち破られた。
「筆跡鑑定が済んだ」
「ぶっ」
ばさり、顔面に紙の束を叩きつけられ、はっきりと目が覚める。
「しのだー」
「何だ」
「もっと優しい起こし方してくれよ」
「お前に今更優しさなんて示してもな」
 叩きつけられた資料に目をやって、はぁ、と息を吐く。
「またジンの奴かよ」
「ああ、前のと筆跡が一致した」
彼が署名を残したのはたった一回だけだった。ジン=A彼こそが、この届出もされておらず、未成年を雇う風俗店の経営者なのではないかと忍田は思っているらしい。
「そういや諏訪は元気だった?」
「ああ、打ちどころが良かったらしい。明日には復帰出来るそうだ」
「そーか。じゃあ説教は明日に延期だな〜」
俺が行った時はまだアイツ寝てたんだよな、と資料を捲ると、ああそうだ、と忍田はポケットに手を突っ込む。
「食べるか?」
出されたのは、飴。
「何味?」
「りんご」
 一瞬、空気が途切れる。
 けれどもその一瞬のあとに林藤は何事もなかったかのようにへらり、と笑って、首を振る。
「遠慮しとくわ。俺、林檎嫌いなんだ」
「そうだったのか? 初耳だ」
「あんまり好き嫌いって言うもんじゃねーだろぉ」
こんな、もう、良いおっさんな訳だし、と煙草を手に取れば、それもそうだな、と納得したように頷かれた。行き場を失った飴は、忍田の手で剥かれて忍田に食べられる。暫くからころと音を立てていたそれは、がり、と無残にも噛み砕かれた音を最期に途絶えた。
 それを聞いて、いつまで経っても癖というのは治らないのだな、とそう思った。



20141225



 この班は生活安全課内でもひどく浮いた班だった。元々忍田が好きで設立したいと上に掛け合ったものを、全くやんちゃ小僧が―――そんな城戸署長の一声で設立が認可されたのだとかなんとか。一応班、としてはいるが、狭い物置とは言え一部屋を与えられている訳だし、普段は普通に生活安全課の仕事をしているが、ジン一派の事件となればさっさとそっちに回るしで、正直周りからはどう扱って良いか分からないという顔をされている、というのが実情だ。特に爪弾きにあっている訳でも、鼻つまみ者である訳でもないことを喜ぶべきだろうか。
 十数年前、この街で一番に大きかった勢力が、同じ頃力を付けてきた警察によって壊滅に追い込まれて以来、実のところこの三門の街は他と比べてなかなか治安が良いと言えた。少年犯罪は少し多いような気もしていたが、それもその組織の置き土産とする見方が強い。今日も今日とてジン一派の資料を見返していた林藤は、大きく伸びをした。
 前回逃げられてから、既に数ヶ月が経っていた。未だ彼らの動向は掴めない。
「すわー」
「何ですか、林藤サン」
「煙草持ってない?」
「さっき終わりました。アンタそろそろ減煙しないと忍田サンに怒られるんじゃないっすか」
「あー…そんなに吸ってねーのになぁ…」
「そんなに、って。流石に一日で五箱消費ってやべーですよ。オレでも四箱吸わないのに」
「五箱…」
「気付いてなかったんすか?」
あー、と不明瞭な返事をする林藤に、一本だけですからね、と諏訪は煙草を渡す。
「アンタいつもそうですよね、ジン一派が姿くらますと煙草手放せなくなんの」
「そーか?」
「そーっすよ」
忍田サンも太刀川も突っ込まないつもりみたいでしたけどね、と諏訪は口を尖らせる。
「こちとら安月給なんですって。それでやっと買ってる煙草なのに、取られちゃたまんねーっすよ」
 どうせ、と思う。
 どうせ、彼らはこの三門の街にいるのだ。それは少し、異様にも思えた。一つの組織がひとつの街を拠点にすることはそう珍しいことではない。だが、彼らは何度も何度も警察との追いかけっこを敢行している。まるで、見つけろ、追い掛けて来いと言うように。それに、今はいない忍田班の班長ともう一人、彼にとても良く懐いている部下はとても焚き付けられているようではあったが。
「そーいや、忍田と太刀川は?」
「なんか、可能性がどうとか行って出て行きましたよ」
かのうせい? と首を傾げて見ても、諏訪は詳しくは知らないっす、と自分の作業に戻ってしまう。
「かのうせい、かあ」
小さく呟いた声は、諏訪には届かなかったらしい。ぷかり、煙が輪になって上がっていく。
 何度も見返した資料に、目新しい報告はなかった。



20141225



20211129 改定