あなたの与えてくれたものが、こんなにもこの胸で煌やいている。



第一章 

 ああ、これは死ぬな、と思った。自分を抱き締める兄の身体はもう動かないのに、まだあたたかいしやわらかい。けれども死んでいる、そう分かった。そこに生命はない。子供ながらにそれくらいは分かる。
 そういう状態にした元凶は、未だ目の前にいた。なんだか良く分からないが、どう見ても普通のものではない。化け物かそれとも機械か何かなのか―――逃避する思考を呼び戻すことも出来ずに、それを見上げる。
 それはこちらの存在に気付いているようで、じっと見つめてきているような気がした。何処が目なのかも判然としないので、本当にそうなのかは分からなかったが。おもむろにそれが、腕のような部分を振り上げた。死んでしまう。そう思ったのに、身体は動かないままで。
 迫り来る死は怖いはずなのに、この瞬間、すべてが麻痺したようで。スローモーションで振り下ろされる腕を眺めて。
 一閃。まるできらめきだった。そこから文字通り世界が切り開かれたような、そんな感覚。一太刀でその化け物が頭から裂けて、その向こうでその一振りをしたであろう人間と、目が合う。
 それが、風間蒼也とのちの師匠となる林藤匠との出逢いだった。

 狭くはないが広くはない廊下の向こう側から、その人がやってくるのが見えた。
「お、蒼也じゃねえか」
「お久しぶりです」
頭を下げる。
「このあと暇だったりする?飯でも食いにいかない?」
「残念ですが、チームで練習の予定がありますから」
 袂を分かってからも、時折林藤はこうして風間を誘う。それに対する風間の答えはいつだって同じだ。後に続く理由は毎回違えど、断り以外の言葉を返したことはない。林藤もそう答えるのを分かっているのか、そうか、とだけ言った。
「あんま無理はしないようにな」
下げた風間の頭をぽん、と一撫でして、去っていく。その背中を眺めながら、遠くなったな、と思った。

 頭から裂けた化け物の、その傷を通り抜けるようにしてその人は風間の前に降り立った。もふもふとした襟の部分、ダブルのボタン。夏なのに暑くないのだろうか、妙に麻痺して冷え渡った頭が、そんなことを考えていた。眼鏡の奥の瞳は不思議な色で風間に伸し掛かるものを見やる。
「兄ちゃんか」
顔立ちから推測したのだろうか。こくり、と頷く。その人はそうか、と言った。
「…遅くなって、ごめんな」
その声は湿り気も何も帯びていない、ただ真っ直ぐに胸を貫くような音をしていた。彩るものが何だったのか、それは今でも分からない。
 兄の身体を引き剥がされても何も感じなかった。ただ重さがなくなった、それくらいで。手が伸ばされて、風間の頬に触れる。
「冷たいな」
風間にはその温度が分からなかった。でもきっと、その人が言うならそうなんだろう、と思った。
 その人はちょっと待ってろ、と何やら黒い機械をおもむろに翳すと、その画面を凝視する。そして、そうか、と一人呟いた。
「全部、忘れることも出来るぞ」
今日感じたこわいことを、ぜんぶ、とその人は言う。ゆっくりとした語り口だった。このまま、ぜんぶわすれて、いつもにもどる、きみには、それが、できる。一つひとつをしっかりと、風間に理解させるような、そんな言葉。
 これは優しさなのだろう、と風間は思った。今日の出来事は確かな恐怖体験で、心にはきっと傷が出来ている。これから何度も、この日の悪夢に悩まされるかもしれない。消えない、消えない記憶。その時初めて、どくどくと脈打つ自分の心臓の存在を知った気がした。
 生きている。そう思った。思ったら、ゆるり、と風間は首を振っていた。
 これを忘れてはいけないと、そう思ったのは本能だったのか。それとも、自分を庇って死んだ兄への、贖罪だったのか。
「あれは、なんだったんですか」
「秘密だ」
すぐさま返された言葉に、そうですか、と呟く。
「俺は、あれがなんなのか、知りたいです」
すぐさま答えが得られるとは思っていなかった。けれど、だからと言って確実に糸口になるであろう恩人を逃すことも考えられなかった。
「貴方についていけば、教えてもらえますか」
ぜんぶ、すてたら。そう言葉にしたのが軽率だったのか、今もそれは分からない。
 暫く、彼は考え込んでいるようだった。閉じられていた瞳が開く。
 一言、彼は問うた。
「死ぬのは怖いか」
風間は真っ直ぐにその瞳を見据える。読めないな、と思った。今まで人の感情を読もうとしたことなんてそうそうなかったけれども、周りにいた人間の誰よりも、底の分からない人間だと、その一瞬で分かった。
 こくり、と頷く。風間にその時出来るのは、偽らずに答えることだけだった。嘘を吐いたとしても見抜かれる、そう思ったからかもしれない。
「…名前は」
「風間、蒼也」
「蒼也か。俺は林藤匠だ」
「林藤、さん」
家の場所、分かるか。その問いに一つ頷くと、案内して欲しい、と言われた。



 立ち上がろうとした風間は勢い良く転―――びそうになったのを、林藤の腕が支えた。
「あー…脚に力入んない感じか」
「………はい」
「ンな屈辱的な顔すんな。こんくらい当たり前だろ、ちょっと待ってろ…よっこらせ」
ひょい、とでも効果音の付きそうな軽々しさで、風間の身体が持ち上げられる。
「ひ、一人で歩けますから!」
「歩けなかったじゃねえか」
「少し、時間を貰えれば」
「あーそれはだめ」
難しい顔で、吐かれる言葉。
「またアレ出て来るかもしんないから。俺たちがまずやることはあすこから離れることなの」
こっちも仕事だから、と林藤はずんずんと歩を進めていく。その後ろでは仲間だろうか、他の人間が兄の身体を丁寧に運んでいくのが見えた。
 仕事、なんて言われたら風間にはそれ以上文句を言うことは出来ない。抱き上げられた腕の中で、次の曲がり角を右、真っ直ぐ、と指示を出して行く。
 歩いている途中で、あ、そうだ、なんていう気の抜けた声と共に、その身体がしゅん、と音を立てた。
「…え」
一瞬で、目の前の服が作り変わる。
「変身、ですか?」
「んーまぁ、そんなもん」
「それも教えてもらえますか」
「保護者の同意が得られればな」
ほんとは人前ですんのよくねえけど、お前しかいないしいいだろ。面倒臭そうにそう言った林藤に、既に彼の中で風間は換算的には仲間に入っていると知った。嬉しくなってその首に手を回す。が、なんだよお前、かわいいとこもあるんだな、なんて言われたので少し腹が立って、そのまま頭突きをしておいた。
 そんなやりとりをしていれば家までは直ぐだった。林藤は風間を抱えたままインターホンを押し、それに慌てている間に両親が飛び出てくる。
「蒼也!?」
知らない人間に抱えられているからだろうか、母の顔は驚きと心配と、その他諸々からか青白く見えた。
 改めて自分の身体を見てみれば、逃げ回った時についた傷やら、兄に抱き締められていたことで移った血の痕やら、あの化け物の発した砂埃やらに塗れていて、これは心配せざるを得ない、と思う。林藤は自分がこのまま運ぶ、ついでに話もさせてもらえませんか、と断って、風間を抱いたまま風間家に脚を踏み入れた。
 埃っぽいまま居間のソファに降ろされて、風間は神妙な顔をした大人たちを見上げる。凍るような空気の中、林藤が兄の死を伝えると、両親共に何の冗談だ、という顔をしていた。遺体はこちらで鑑定後、お返しいたしますので、と話を続ける林藤に、静止の声が掛かる。
「うそ、でしょう…?」
母の顔面は蒼白を通り越したような色だった。
「あの子が死んだ、なんて…そんな、だって、」
元々ハリがあるとは言えない声が、どんどんか細くなっていく。林藤は難しい顔で二人を見つめていた。
「…ほんと、だよ」
思わず、声を上げる。
「今日、俺、死にかけた」
「蒼也」
「兄さんは…俺を、かばって」
「蒼也、良い。悪い、配慮が足りなかった。お前は席を外させるべきだった」
「でも、」
 膝の上に置いた手に、大きな手が重ねられる。その温度はまだ分からなかった。
「これは俺の仕事だ」
「俺にも関係ある話でしょう!!」
歪む、と思った。その表情が、目元から一瞬力を失って、それからまた元の難しい顔に戻った。本当に、一瞬のことだった。
 そして風間の叫びに触発されるように、疳高い声が上がる。
 身体が強張るのが分かった。耳からびりびりと、悲しみを流し込まれているようで。母の絶叫に、風間は何もすることが出来なかった。
 涙を散らし、母が林藤に掴みかかるのを見ていた。母の掌が林藤の頬を打って、その眼鏡が飛ぶ。
 避けられただろう、今なら分かる。でも林藤は避けなかった。もしかしたらこれを予想して換装を解いたのかもしれなかった。
 呆然としていた父が少し遅れて我に返り、母を止めに入る。ふらり、と脚に力を込めると、今度は立ち上がることが出来た。震える身体で眼鏡を拾うと、ぐにゃりとフレームが歪んでいた。
「おう、ありがとな」
どうして笑えるのだろう、と眼鏡を受け取る林藤を見る。打たれた頬は赤く腫れ上がっていて、痛いなんてものではなさそうだった。
 すっと顔を上げた林藤は、今度は厳しい顔をした。機密のため、手短にはなりますが、と前置きして、兄の生命を奪ったもののことが語られる。曰く、あれは異世界人なのだと。彼の組織は、それに対抗、もしくは交渉するために、発足したものなのだと。今はまだ権力もなにもなく、ボランティア同然のものではあるが、近い将来政府や警察にも認められ、もっとたくさんの人を救えるようになるつもりだと、彼は言った。
「今回は、運の良かった方だと、個人的には思います」
母の啜り泣く声が、BGMのように流れている。
「息子さんが今後襲われない可能性も、勿論あります。ないとは言えません。ですが、私個人としては、襲われる可能性の方が高いと思います」
父が顔を覆った。
「そして、これは息子さん自身も希望していることですが、私は私たちの組織で、彼を保護したいと思っています。勿論、保護というのは名目であって、彼には今日、お兄さんの生命を奪ったものたちと闘ってもらうようになると思います」
彼にはその力があります、と淡々とした言葉が続く。縋る母の声なき声を聞いたのか、父が苦虫を噛み潰したように口を開いた。
「蒼也はまだ子供です」
「ええ、分かっています。ですから、ご両親を交えて、一度正式にお話をしたいと思っています」
 両親は一度、風間を見た。そして、根負けしたように弱々しく首を縦に振った。
 帰り際、林藤は風間の頭を撫ぜていった。
「たくさん食べてたくさん寝ろよ」
それがなんだか次に繋がる言葉のような気がして、笑って頷いた。



 後日設けられた話し合いの席には同席は許されなかった。だから風間は、そこでどんな話し合いがなされたのか、知らない。知り合いの家へと預けられた風間は、林藤の姿を見ることすら叶わなかった。
 ただ、帰ってから、問われた。
「蒼也」
父が呼ぶ声は懇願のようだった。行かないでくれ、思いのままにそう言えたら良かったと、そう思っていることが子供の風間でも良く分かった。
 賢い人だった、聡明な人だった。遠く離れてしまった今でも、それは覚えている。だから彼は林藤の説明を理解して、遺された息子に行くなと言うことも出来なかったのだろう。
「あの人のところに、行きたいか」
 一度、力強く頷いた。それだけで伝わると、分かっていた。

 兄の遺体が戻ってくるまで待って、ささやかな葬式をあげた。兄はあんなにどろどろだったのが嘘みたいに奇麗になっていて、それが彼らの組織からのせめてもの償いなのだろうと思う。静かに泣く母、かたい表情の父。そんな二人を見て、彼らのような人間がこれ以上出なければ良いのに、とそう思った。思ってから、自分のような人間も、と思い出したように頭の中で付け加える。
 兄がかえって来た夜、あれから初めて風間は涙というものを思い出した。布団にくるまって、声を押し殺して、枕に顔を押し付けた。きっと、両親は一緒に悲しんでくれただろう。実際、涙を流さない風間のことを、心配していたと思う。けれどもどうしても、罪悪感が拭えなかった。自分の所為で、と誰が責めることはないと分かっていても、自分だけは自分のことを赦せなかった。
 葬式には林藤も、彼の組織の人間も顔を見せはしなかった。風間たちを慮ってのことだったのだろう。差出人のない花と金一封、それと一言が届いていたことを知ったのは、数日経ってから、父がひっそりと話してくれたからだった。
「…明日、林藤さんが迎えに来るそうだ」
着替えとか、日用品とか、そういうものは母さんに詰めさせてやれ、と父は言った。
「お前は、賢い子だから、きっと向こうでも上手くやれるだろう」
父の手が風間の頭を撫ぜる。それが父なりの別れの言葉だったのだと、餞別だったのだと、分かったのはもう少し後でのことだった。
 与えられていた部屋は、ダンボールで埋まっていた。一番近いダンボールの中には、教科書などが詰め込まれていた。林藤のところへ移ると言っても、学校には変わらず通う。小学校はもう残り半年で、転校の手続きをするのは面倒だから、という話でまとまったらしかった。中学校は向こうに近いところへと通うことになるようだ。
 丁寧に服を詰めていく母に、ありがとう、と声を掛けるのは躊躇われた。結局、何を言うこともせずに自分の作業へととりかかる。大きめのリュックを引っ張ってきて、手放せないものだけを詰め込んでいく。
 ゲーム機と充電用コンセント、ゲームカセット。叔父さんが外国で買ったと言って、くれたトランプ。アルバムから抜き取った写真をまとめたフォトブック。集めているビールの王冠。前の誕生日に兄のくれた深海魚図鑑。一つひとつ丁寧に詰めていけば、あっという間にリュックは満杯になった。
 こんなにたくさんのものに囲まれていたのにな、と思う。顔を上げて部屋を見回せば、まだそこはダンボールに塗れていた。当たり前だ、荷物を運ぶのも風間が此処を出て行くのも、明日のことなのだから。
 その中で母が服をたたみ直している。その背中が異様に小さく見えて、やはり言葉を掛けることは出来なかった。

 最後の夜だ、とは誰も言わなかったが、その日の夕飯は豪勢で、けれども出来合いのものを買ってきた訳でもなく、すべてが母の手作りで。おいしい、と言いながら全部を平らげた。途中から満腹で味など分からなくなっていたけれど、これを美味しいと言わないなら何が美味しいのかと、そう思った。
 夕飯の後はテレビを見て、少ししたらお風呂入りなさい、という母の言葉で風呂に入って、それからそろそろ寝ろよ、なんて父の言葉で布団に入る。いつもと変わらないその流れに、幸福と名付けようと、目を閉じた。
 朝はすぐにやって来た。組織の出した車がダンボールを積んでいく。風間はそれを、二階の窓から見ていた。優しげな顔をした男が父と話している。林藤の姿は見当たらない。迎えに来るんじゃなかったのか、と若干むすっとした心持ちで男を凝視していたら、ふいにその男が顔を上げた。
 ばちり。視線が合う。
 男はふわり、と花がほころぶように笑って、それから恐らく、大丈夫だよ、と言った。父にもその言葉が聞こえていたのだろう、ゆっくりとその首が回るのに気付いて、そうしたらなんだか急に恥ずかしくなって身を引いた。
 暫くして、蒼也、と父の声がした。リュックを手に階段を下りる。
 階段の下では父と母が揃って待っていた。その顔を見て、本当に最後なのだな、と思った。選択したのは自分自身で、確かにこれからへの期待というものも存在するのに、胸の辺りがちくりと痛む。
 はらはらと涙を流す母は、一度だけ強く風間を抱き締めた。
「…どうか、元気で」
このか細い腕の何処にこんな力があったのかと思うほどの、痛いくらいの抱擁だった。
 父と母は、県外に引っ越すのだと言っていた。息子を一人失い、そして遺されたもう一人もまた、同じようにして失うかもしれない。そんな環境が近くにあるところで、父は兎も角母は耐えられないだろうと、風間でも分かっていた。
 寂しい、と思わないと言ったら嘘になる。けれども、愛されていないとは、感じなかった。
「…母さんも、元気で」
もう二度と会えないかもしれない。そう思いながら、その背に腕を回す。
 守りたいと思った。
 同じように弱い背中を、出来るだけ守りたいと。そうすることが出来るだろう道を選べたのだから、尚更。
 父が母の肩を優しく叩くと、その腕から力が抜けていった。合図をくれた父に頷いて、風間は二人に背を向ける。いってきます、というのは可笑しい気がした。でもだからと言って、さよならと言えるほど風間は強くなかった。
 靴を履いて玄関の扉を開ける。
「よお、待ったか?」
軽い声に、思わず笑みが漏れた。
 林藤の頬には大きな湿布が貼られていた。また避けなかったのだ、と分かってむっと顔を歪めると、そんな顔すんなよ、と笑われた。
「これから、よろしく」
差し出された手を取る。
「………あ」
思わず、言葉が零れた。どうした、と聞かれてなんでもない、と笑って返す。
 繋がれた手はあたたかかった。



第二章

すこしずつ、貴方との毎日が日常になってく。



 鬼のような人だった。
「ほらほらまだ終わってねえぞ」
倒れ込んだ顔の横を木刀が掠めていく。這々の体でその刃の範囲から抜け出すも、長い脚が一歩で間合いを詰めてきた。
「ッ」
一つ目は受け止める。そうして引いてやって来た二つ目はしゃがんで交わした。空振った腕の下を潜り抜けてその懐へと飛び込む―――つもりだった。
 ぐるん、と視界がひっくり返り、本能的に身体を丸めて手を出す。小指側の側面が木の床を叩いてから殺しきれなかった勢いで二回転半ほどして、風間は天井を見上げた。その首元に、すっと木刀が添えられる。
「はい、また蒼也の敗けー」
にこにこと笑う林藤に、ずっと詰めていた息が漏れた。

 組織に来てまずしたのは、技術者によるこれから闘うであろうものたちの説明だった。以前、林藤はそれらを異世界人だと言った。彼らは近界民(ネイバー)と呼んでいるらしい。風間の見たものは量産型の兵隊人形で、その向こうにいるのは向こうの世界で暮らす人間なのだと言う。
 驚いたか、と問うたのは隣に座っていた林藤だった。
「向こうにいるのも、俺らとなんら変わらない人間なんだよ」
 どきり、と胸の鳴る音を聞いた気がした。
「俺らと同じように頭があって、目が二つで、鼻は一つで口があって。腕が二本で脚が二本で、そして、家族も友人もいる。…俺らが相手にするのは、そういうものだ」
じっと見つめてくる眼鏡の奥の瞳は鋭かった。息が詰まりそうになりながら、風間はそれを見つめ返していた。
 林藤、と技術者が窘めるように呼ぶ。
「蒼也くんはまだ子供ですよ」
「そうだけどさ」
最初に知っとかなきゃいけないことだろ、と続けられた言葉に、少しだけ嬉しくなった。この人は、風間を子供扱いしない、対等に仲間として見てくれている。それが、行動の一つひとつから伝わってくるようで。
「俺だって子供にどうかとは思うけどさ、それでも教育一任されたからには責任あんだろ」
その言葉には、目を見開いた。
「教育?」
聞き返すと、あ、言ってなかったな、と林藤はこちらを向いた。瞳の中には真剣さと、それと少しの照れくささが見て取れる。
「あー…なんてーの?お前の師匠になります?」
こういうの向かないからずっと弟子なんて取ってなかったんだけどな、と頭を掻く姿に、何故だか妙に胸が高鳴った。
「俺は教えンのとか苦手だと思うから、師匠らしいことは手合わせくらいしか出来ねえと思うけど。よろしく」

 すい、と切っ先が退いていった。それを合図に、手をついて起き上がる。
「ほい。戦略をどうぞ」
にこにこと告げる声に、先ほどの動きの意図を説明していく。
 最初彼が言った通り、確かに教えるのは苦手らしかった。現在彼らが使っている武器の種類は大まかに分けで三種類で、そのすべてを試して見たところ、一番に風間に向いているのは攻撃手だろうということになった。弧月、という名の日本刀のような武器。彼らがトリガーと呼ぶそれを使いこなすために、今、風間は必死で稽古をしている。
 すべての説明が終わったところで、林藤はふむ、と頷いた。それがなかなか良い作戦だ、という感想を抱いた時の反応であると風間はもう気付いている。
「で、反省点は?」
「とりあえずは自分の腕力不足と、武器ばかりに気を取られていたことです。投げられることを考えていませんでした」
「よろしい。今の時点でそれだけ言えれば上出来だ」
ぽん、と頭を撫ぜられる。
「足払いとか目潰しも立派な戦法だからな。たまにそういうのを批判するやつがいるけど、生命のかかってることなんだから俺は別に良いと思ってる」
ま、使うかどうかはお前が決めることだけど、使えるにこしたことはねえだろ。
 木刀を持つのが様になって来てすぐ、林藤と風間は手合わせをするようになった。勿論、既に大人である林藤とまだまだ子供である風間に力量差は大きく、林藤の方がそこそこに手を抜く形で行われているものだったが、そうであっても風間が彼に勝ったことはない。
 曰く、お前は賢いんだから、頭を使うことに慣れろ。
 元より持っているもの、林藤は言葉に濁しはしたが、恐らく風間の体格がさほど良くないことを指しているのだろう。
「そういうのを生かすのも、勿論良いんだがな。それには頭が使えないとだめだろ」
兎にも角にも経験値が足りないから、頑張って増やすぞ、と林藤は言った。
「相手が基本俺だけで悪いな。他ともすり合わせ出来るように考えとくから」
 林藤が二、三歩下がって、すっと風間を見据えた。
「次、行けるか」
「勿論です」
同じようにその瞳を見返す。
 また甘い疼きが、胸の辺りでざわめいていた。



 基地には風間以外にも幾人か子供がいた。
「風間さーん、これとこれ欲しい」
「蒼也、私はこれとこれとこれー」
「…迅、小南。お菓子は一人一つまでと言われただろう」
野菜が山盛りになった買い物かごを片手に、風間は低く注意した。

 子供は子供同士、と、空き時間は同じ年の頃の子供でまとまっていることは多かった。大人たちは大人たちで、何やら難しいやることが多くあるようだったから。
 けれどもこの基地にいる子供たちは自分の置かれている状況を多かれ少なかれ理解している訳であって、子供だからという一言で切り捨てられてしまうと、そりゃあもう反発がある訳で。
「じゃあアレだ、お前らにおつかいを頼みます」
そう言ったのは林藤だった。そのとなりに立っていた忍田が、その手があったか、という顔をしたのは見ないふりをしておく。小南の師匠である彼は小南同様、少しばかり抜けたところがあるのを風間は既に理解していた。この場合、小南が師匠である忍田に似ているのかもしれなかったが、細かいことはどうでも良い。
「えーおつかいぃ?」
真っ先に不満を訴えたのは勿論小南である。
「おつかいなんて普通の子でも出来るじゃん」
「こなみ、お前普通の子だろ」
「トリガー使えるもん」
「桐絵、それでもお前は普通の女の子だろ」
 ぶうぶうと言い合う師弟を横に除(の)けて、林藤は腕を組んだ。
「お前ら、この組織がとても小さいものだということは分かっているな?」
「はい」
「分かってるよ」
「人手が足りないのも分かっているな?」
「勿論」
「今城戸さんが頑張って探してるんでしょ?」
「そうだ、だけどもこの組織はぶっちゃけ怪しい。怪しいところに入ってくれる人間なんてそうそう見つからない。故に、うちは今人手不足で、既存の隊員でやらねばならないことがたくさんある」
林藤の言葉に風間と迅は頷いた。いつのまにやら小南も戻ってきている。
「その中には食堂の運営も含まれることは分かっているな?」
「そういえば料理は当番制でしたね」
「料理作るひといないと困るもんね」
「そうね…ご飯は大事だわ」
もうひと押し、と言わんばかりに林藤は真面目な顔をしてみせた。
「じゃあ、おつかいがどれだけ大切な任務か、分かるな?」
 分かった!と目を輝かせて真っ先に返事をしたのは小南で、風間と迅はこっそり、顔を見合わせてみせた。

 もとより断るつもりはなかったが、一人一つお菓子を買っていいからと言われてしまえば俄然釣られる気になってしまうのが子供というもので。そういう訳でその日から、買い出しは三人の仕事になった。
 子供だけで買い出しなんて、と襲われた経験のある風間は最初はそう思ったが、迅も小南も風間よりもっと前からこの組織にいて、近界民を凌いで逃げる程度ならば余裕で出来るのだと言う。最初こそ、こんなへらへらした少年と可愛らしい少女が、と半信半疑だった風間だったが、特別に許可された模擬戦でもってして、彼らの強さは既に実感していた。
 こっそりとお菓子を複数個かごへ入れようとする二人を目ざとく止めて、レジへと向かう。尚もぶうぶう言う小南には、自分の分をくれてやった。すると迅も小南にお菓子を差し出すのだから、今度は小南の方が慌ててしまって、結局三人でお菓子を分けあいながら帰ることになった。
 基地につくと、迅も小南もただいま、と言って建物の中に入っていく。この行動が、どうしても風間の胸をざわざわとさせていた。既に風間の荷物も此処へ運び込まれていて、専用の部屋もあって、両親は県外に越したために生家も人手に渡ったと聞いているが。それでもまだ、此処を帰る場所にしていいのか迷いでもあるのだろうか。
 二人の後ろから無言で何も言わずに玄関に足を踏み入れると、奥で林藤が二人の頭を撫ぜているのが見えた。その後ろから彼らの師匠がひょっこりと顔を出して、二人はそれぞれそっちへ向かっていく。それを笑顔で見送った林藤が、こちらを向いた。
「おかえり」
にっと笑ってそう言う林藤に、胸の辺りをぎゅっと掴まれたような心地になる。
 卵の入ったビニール袋を握ったまま、風間は動けないでいた。林藤が近付いてくるのを、ただ見ていた。
「そーうや」
屈まれて、見上げられる。
「おかえり」
「…た、ただいま?」
「おう、よく出来ました」
 にゅっと手が伸びてきて風間の頭に着地すると、わしわしと撫で始めた。
「もう、此処はお前の帰るとこだから」
何度でも言ってやるよ、とその響きは限りなく甘い。
「おかえり」
「…ただいま」
 自分の声が、すとん、と胸に落ちてきた。もうこの言葉をいうのに迷うことはないのだろうと、そう思った。



 夢を見た。
 身体の冷える感覚で目が覚める。は、と漏らした息は震えていて、目を覆うようにして汗を拭った。
 ひどい、夢だった。
 夢の中で、風間は迅と小南といつものようにおつかいに出掛けていた。小南を真ん中に三人で手を繋いで、いつものスーパーへ行く途中。バチバチという不穏な音と、真っ暗な穴。その中から出てきたモールモッドが、繋いでいた手を切り離して、それから。トリガーを起動する間も、逃げる間もなかった。目の前が真っ赤になって、切り取られた脚が遠くに見えて。迅も小南もどれだけ呼んでも動かなくて、どんどん赤は広がっていくだけで、世界が灰色になって。
 夢は夢だと割り切れないのは、そういう未来がいつ来ても可笑しくないと、風間自身がそう思っているからかもしれなかった。
 ふらり、廊下へ出る。兎に角一人でいたくなかった。あの部屋に、一人で、まだ広すぎるベッドに大人しく横たわっていることなど、悪夢の再来を望んでいるのと同じことだ。廊下の電気はもう消えていた。時間を見る余裕はなかったが、もう深夜なのだろう。漏れ出る明かりを頼りにぺたぺた、と廊下を歩く。
 そうして辿り着いた部屋は、大人たちはいつも執務室として使っている書類の山のある部屋だった。大体いるのは城戸だとか最上だとか、そういったまだ関わりのない人だったけれど。それでも良いと思うくらいには、悪夢は風間の胸を抉っていっていた。誰でも良い、落ち着くまで一緒にいさせてもらえれば、それだけで。
 そう思って開けた扉。微かに、キィ、と軋む。
「ん?蒼也?」
くあ、とあくびをした林藤がこちらを向いた。
 手に持っていた書類を置くと、林藤は笑う。
「なんだ、眠れねえの?」
「…その、」
「まーそういうこともあるよな」
詳しく聞くつもりはないらしい。
「林藤さんは、何を?」
「ん、やりたい実験の資料のまとめー。何をやるにもさ、これこれこうでこうなるはずだからやってみたい、出来たら未来のためになるから、みたいな理由が必要でさ。まぁそういうのはちゃんとあんだけど、俺そういうのまとめんの苦手で。気付いたらこんな時間。一旦完成したから風呂入ってちょっとさっぱりさせて、大丈夫か確認してたの」
それも終わり、多分大丈夫、と林藤は資料を置いた。投げるような動作にそれで良いのかと問いたくなったが、小さな組織だ。置いておけば誰かが見るのだろう。それこそ、この部屋に入る前に風間が想定していたような、城戸や最上が。
 「じゃー寝るか」
当たり前のように差し出された手に風間は目をぱちくりとさせる。
「蒼也」
はやく、と急かすような、けれども強制する色のない声に、誘われるように手を伸ばした。
 触れる。
 あたたかい手だな、と思った。風間に感覚が戻ってきたあの日から、何度も触れたこの手。そのあたたかさはいつも変わらない。
 ぎゅっと握ると、林藤はそうだ、とでも言いたげにまた笑った。

 そのまま手を繋いで辿り着いたのは林藤の部屋だった。廊下が暗くて良かった、なんて思ったのはプライドの所為なのかもしれなかった。この歳にもなって大人と手を繋ぐ、なんていうのはやはり、子供っぽい行為に分類されるのだから。
 けれどもそれを差し引いたとしても、なんだか妙に頬の辺りがかっかと熱くて、迅や小南にこの様子を見られなくて良かった、なんて思うのだ。
 部屋に入ってすぐ、その手は解かれてしまっていた。ばさばさとベッドを整えていく林藤をぼうっと眺める。手際が悪いのは、もしかしたらこの部屋ではあまり寝ていないからかもしれない、と思った。良く朝起きると、共用スペースのソファでうたた寝している姿を見る。
 前聞いた通り、この組織は人手が少ない。それでもやるべきことは減らないし、近界民も待ってはくれない。故に既にいる職員はいつでも忙しそうだった。勿論、辛いだの苦しいだのの愚痴を子供である風間が聞くことはなかったが、きっとそうなのだろうな、と思ったことは一度や二度ではない。
 子供であることは自覚している。やれることが少ないのも自覚している。だから、先日のように頼まれた仕事はどんなことでもしっかりとこなす。そうは決めていてもやはり、頼られないことが悔しいなんて感じるのは。
 蒼也、と呼ばれて思考は途切れた。
「ほら、来いよ」
いつの間にかベッドに寝転んでいた林藤が、状態だけを起こしてその手前のスペースをたしたしと叩いている。その行動が意味することなど、考えるまでもない。目の下の辺りに熱が集まっていく。
「俺は、そこまで子供ではありません」
「ばーか、何言ってんだよ。俺がさっきまで仕事仕事で身体冷えきってるから湯たんぽ欲しいだけだっつーの」
今風呂から出てきたばかりだろうに、けれどもその嘘に引っかかってやろうと思うくらいには、風間は疲弊していた。大人しくその手が叩いて指し示すスペースへと潜り込む。
 電気を消した手が宣言通り、風間を湯たんぽのように抱きかかえても抵抗はしなかった。
「お前、あったけえな」
林藤が笑う振動が、頭を押し付けている喉の辺りから伝わってくる。
 とん、とん、と背中を優しくたたく一定のリズムに、何処かへ行っていた眠気が戻ってくるのを感じた。
「だいじょーぶ」
ゆるい、声がする。
「もう、わるいゆめはみねえよ」
 鼓膜に滑り込むその声に目を閉じながら、明日は早く起きなければ、そう思った。

 勿論翌日早く起きれる訳などなく、林藤の部屋から出て来るのを迅にも小南にも目撃されてしまい、その後一週間ほど彼らにからかわれまくったのはまた別の話である。



美しくあれない私を貴方は嫌わないでいてくれるでしょうか。



 考え方は根本から違ったのだと思う。そもそもきっちりとした性格の風間と、大雑把なところの目立つ林藤だ。正反対と言っても過言ではなかった。それでも師弟関係が順調だったのは、その正反対さがうまいこと、互いを補い合う化学変化を起こした、もしくはテトリスのブロックのようにはまったからなのだろう。
「正直おれ、風間さんは林藤さんやだって言うと思ってたんだよね」
年下の先輩はそう言った。
「だって、林藤さん時々おれらでもびっくりするくらい、てきとーなことするもん」
報告書とかいっつも読めないしね、と迅が言えば、そうね、と小南が頷いた。
「蒼也は真面目だし、匠は不真面目だし」
「不真面目って」
流石に大人、仮にも風間の師匠で迅や小南にとってもそれに近い存在であろう大人を、そんなふうに言っていいものかと声を上げると、でもだってそうでしょう?と言わんばかりの顔が二つ、風間を見て首を傾げた。
 その顔を見て、思わず笑ってしまった。
「ひとの顔みて笑わないでよ!」
「もー風間さんひどいー」
きゃっきゃ、とまとわりついてくる子供に、悪い、と風間はまた笑う。
「あーまた笑った!」
「何がそんなに面白いのよー!」
こうして迅や小南と過ごす時間は楽しかった。それは同じ年代の子供だから、ということではない。彼らが、風間とは違う考えを持った人間だったからだ。同じような人間でなければ傍にいられない、そんなことではきっと、人生というやつはつまらないだろうから。
 元々が大人びた子供であったのだという自覚はあった。だからこそ、彼の言葉も友人たちの言葉も受け入れることが出来たのだろう。
 彼は近界民が嫌いではないのだとも言った。
「そりゃあ全員が好きとは言えねえけどさ。仲良く出来るやつだっていると思うし、全員が全員こっちを侵攻しようとか考えてねえと思うからさ」
その言葉に風間が少しばかり眉を顰めたのを、林藤は見逃さなかったのだろう。大きな手が伸びてきて、その頭を撫ぜる。
「でも、蒼也。お前がその考えは間違ってる、って思うんなら、お前の考えは棄てなくて良い」
思わず顔を上げた。
「良い、んですか」
「当たり前だ、あんなことがあったんだ。憎むなっちゅー方が無理だろ」
 あの日見た色だ、と思った。いつもの優しげな顔でもなく、後悔の色をしている訳でもなく。ただ、真っ直ぐに、胸に落ちてくる。
 その名前を、まだ風間は知らない。
「ただ、こういう考え方をする人間もいるんだってことは、覚えておいてくれると嬉しいとは思うぜ」
無遠慮に、しかし何処かしっかりやさしさを残して頭を撫ぜる手。
 それに確かなあたたかさを感じて、なんだかとても嬉しくなった。



 カリカリ、とシャープペンシルの芯と紙のこすれる音だけが響いていた。中学に上がって、宿題というものは小学校に比べて格段に増えた。出来るだけ訓練などに時間を振れるようにと、休み時間を費やしてはいるが、それで毎回すべて終わらせられる訳でもない。
 あとは数学だけだ、と顔を上げたところで、部屋の扉がキィ、と開けられた。
「風間さん」
「…迅か」
「私もいるわよっ」
「小南もか」
ノックもなしに入ってきたのはいつもの二人だった。学校の宿題を持っている訳ではないらしいのを確認して、風間ははぁ、とため息を吐く。
「お前らは暇なのか」
「暇じゃないから暇を作って来てるんだよ」
「私もよ!」
これを風間さんに見せたくて、とべろべろと広げられたのは何かの設計図らしかった。
「何だこれは」
「ボーダーが有名になった時の基地!」
これが一階、これが二階、と並べられていく夢の地図。大人たちのいろいろな書き込みが所狭しと並ぶ、お世辞にも綺麗とは言えない紙だ。
「秘密基地みたいよね」
わくわくとした表情を隠さない小南に、そうだな、と頷いた。書き込みを見ていると、どうやら細かい設定が黒で、修正が赤、その他要望が青で書かれているらしい。忍田と林藤の文字があちらこちらにあるのを、鬼怒田のお手本のような字が修正してあるのがまた、彼ららしくて笑ってしまった。見慣れた大人たちがあーでもないこーでもないとこの紙を囲んでいる図が思い浮かんで、楽しそうだな、と思った。
 でも、と思う。
「迅、これ、大事なものじゃないのか」
「なんかね、これは前のやつだから良いって」
書き込みすぎたから新しい紙作ったらしいよ、と言う迅に、頷く小南。風間は少しだけ、呆れにも似た感情を抱く。
 風間とて、秘密基地を作ったことはある。友人と、兄と、親には内緒でと無茶な設計図をたくさん書いたこともある。その大部分がそのまま机の引き出しに封印され、実行されたものも自分たちの無茶さを思い知らされるだけの結果になった。子供ですら無茶と分かることを、あの大人たちは実際にやってしまおうとしているのだ。
「おれたちもなんかあったらどんどん言えって」
「…それ、誰が言ってたんだ」
「技術さん」
その言葉で思い出すのは、良く林藤と一緒に何やら悪巧みをしている人だった。
「あの人、面白いしね」
頑なに名前教えてくんないけどさー、という迅に頷く。
「前に聞いたらこっちの言葉じゃちゃんと発音出来ないから、って言ってたぞ」
「外国の人なのかな」
「日本人にしか見えないのにね」
 その所為だろうか、彼は他の人間と距離を置いているように見えた。研究室としてあてがわれている部屋にいけばいつでも会えたし、話しかければ笑顔で答えてくれるが。何か、一線。風間たちと彼の間には、越えられないものがあるように。
「…あの人、城戸さんと仲悪いのかしら」
小南が、ぽつりと零す。それを受けて、あー…と迅が首を捻ってみせた。
「鬼怒田さんとは良く一緒にトリガーの話してるのは見るけど…。なんだろうね、言われてみれば城戸さんと一緒にいるところは見ないね」
「喧嘩してるの?」
「さあ…」
ちょっと聞きづらいよね、と曖昧に笑った迅に、そうかしら、と小南は眉を寄せた。
「大人になっても好きな人・嫌いな人ってあるのね」
「あんだけ毎回仲良くしろーって言うのにね」
 ぎゅっと、迅の手が風間の手を握った。迅はその反対の手で小南の手も握る。
「おれたちは、ずっと仲良しでいられると良いね」
「そうね!」
「………そうだな」
「風間さん、何その間」
 仲良し。
 そんなふわふわしたもので、ずっと、いられたら。何でもない、と笑って二人の頭を撫でれば、もーやめてよーと可愛らしい声が響いた。



 林藤は普段から風間を任務へ同行させていた。それがどうやら一人前扱いとして同年代には映ったらしく、特に小南からはあれこれ羨ましいなどとの言葉を投げられることも多かった。
 彼女の師である忍田は林藤とはまた違った思考の持ち主であるのは、この組織に入って一年と経たない風間でも良く分かっていた。迅の師である最上もそうだ。勿論、迅があまりに実践に出されないのはまた別の理由があるのだと、分かっていたが。忍田が小南を見る目は、子供を見る目だ。対して、林藤が風間を見る目は、子供に対するそれではない。
 あの日から、ずっとそうだ。
 林藤は風間を、対等なものとして見ている。見てくれている。
 それがどういうことなのか、風間にはまだ分からなかった。残酷だと思う人がいることも分かっていたけれど、やはり風間は対等であることが、嬉しかったから。

 その日も、いつもと同じように林藤は風間を連れて出動していた。門の感知器が警報を鳴らしていた。トリオン兵がひと気のない雑木林の辺りに出現したらしい。
 ひと気がないとは言え、トリオン兵をそのままにしておくことも出来ない。急行した先で目に映ったものは。
「蒼也、先に行く」
「はい、お気をつけて」
捕獲用トリオン兵の前には、小さな背中が見えた。風間よりも少し、背の高い子供。たん、と蹴った林藤の背中を、風間は辺りを警戒しながら追っていった。トリオン兵が一体だけとは限らないし、他に一般人が巻き込まれているならば非難誘導すべきだ。
 子供の悲鳴があがった。林藤がトリオン兵との間に割り込んで、その鋭利な腕を受け止める。返す刀で子供からトリオン兵を引き離した。風間は辺りを警戒しながら子供へと駆け寄る。子供は腰を抜かしているらしかった。無理もない。何もない所に突然あんな真っ黒い穴が開いて、その中から化け物が出て来たのだから。風間だって、最初にそれらを見た時は腰が抜けるかと思った。そうならなかったのは、隣に兄がいたからだ。
 林藤の方はさっさとトリオン兵を片付けたらしい。運びやすいように小さく刻みながら、基地と通信している。
「怪我はないか」
話し掛けた子供は返事をしなかった。仕方ないので林藤の方へと歩き出す。こういうことに風間は向いていなかった。自身が子供ということを除いても、茫然自失とした誰かの心に入っていくようなことが、どうしても出来なかった。不器用と、最上なんかは笑っていたが。
「林藤さん」
「ッ蒼也!」
ばっと、視界が遮られた。
 ぱち、り。一度瞬く間に状況把握に努める。風間は林藤に抱き締められていた。ぐるりと回った身体に、林藤の向こうをそっと覗けば、子供が震える瞳を最大にまで見開いて、こちらを凝視していた。からり、転がったのはその辺に落ちていた石だろうか。子供の、手は。
 今さっき、何かを投げたような、そんな形をしていて。
「―――バケモノ」
ずくり、と胸の辺りが抉られたような気がした。
 林藤は風間を離すと、つかつかと子供の方へと歩いて行く。近寄るな、と尚も石を投げられるが、トリオン体にそんなものは何の効果も示さない。林藤と子供の距離は縮まっていって、腰が抜けて動けない子供の前に、林藤がしゃがみ込んだ。
 バチッ、と一瞬火花が散ったような白い閃光が瞬いて、それから子供は力を失ったように倒れ込む。林藤の手がそれを抱きとめる。
 すべての善意に同じものが返って来ることを期待していた訳ではない。そもそも風間だって百パーセントの善意でこの組織にいる訳ではないのだ。好奇心、原動力はそれだったのだと思う。この状況だって、想像したことがない訳ではなかった。
 けれども。
 けれども、こうして目の前で起こってしまえば。
「蒼也」
優しい声が呼ぶ。
「気にするな」
 慣れたと言わんばかりのその表情に、風間は唇を噛み締めるしか出来なかった。



青い空がこんなにも憎いのです。



 子供に好かれる人だった。
 だからその日、稽古の時間になっても林藤が現れず、少し遅れてから一人、見知らぬ子供を連れて来た時にも、正直そんなに驚かなかった。
「悪いな、蒼也。見回り長引いちまった」
そう謝った林藤の背には、子供が一人、しがみつくようにして隠れている。
「師匠(センセイ)、彼は?」
「今日救(たす)けたやつ」
自己紹介でもしたら、と林藤が呟くと、その背中のものは伺うように風間を見てきた。
「風間蒼也、中二だ」
「…太刀川慶、中一」
差し出した手は、戸惑いも警戒も隠さないまま重ねられた。
 こいつも、と思う。こいつも、あのあたたかさに救われたのだろうか。太刀川と名乗った彼の手は冷たかった。こんなだったのだろうな、そう思う。風間はもう一方の手も出すと、太刀川の手を包み込むようにした。
「大丈夫だ」
驚いたように、目が見開かれる。
「お前は、選んだんだろう」
だから此処にいるのだろう、と見つめれば、慣れないものを見るような目で見返された。あの日の、風間と同じ、で。太刀川は選んだのだ。記憶を消して怖いことから逃げるよりも、力を手に入れて怖いものに立ち向かう方を。
「なら大丈夫だ」
 暫く太刀川は訳が分からないというように風間と林藤を見比べていたが、ゆるゆるとその首を縦に振った。風間は笑って手を離す。
「師匠(センセイ)」
「おう。今日も手加減しねえからな」
「望むところです」
 林藤と準備運動のように組手をして、それから木刀を持って打ち合う。その様子を、訓練場の端から太刀川は黙ってみていた。何を思っているのだろう。休憩が入る度に風間はそう思う。何処を見ているのか分からない、目の前にいる自分が認識されているのか、それすら不安になるほどの、曖昧な顔をしている。まるで、此処にいないような。訴えるように林藤を見れば、何も言わずに頭を撫でられた。
「アイツは仲間になりたいんだと」
頷く。
「俺らはさ、良いけど。蒼也、お前は、アイツと戦えるか?」
「アイツと敵対するって意味ですか?」
「ああ、悪い、そうじゃねえ。アイツと、肩を並べて戦えるか、って意味だ」
肩を、並べて。
 そういえば、こんなふうに聞かれたのは初めてだった。今の組織の中で風間は一番の後輩だったし、先にいた小南や迅は既に一緒に戦う仲間として、言い方は悪いが用意されていたようなものだった。
 それが、今。
 そういうことも考えなくてはいけない立場になったのだと、そう、思う。
「…俺、は」
「うん」
「………太刀川!!」
振り返って、呼ぶ。
 突然呼びかけられたことに太刀川はひどく驚いていたようだが、そんなことは知ったこっちゃないとばかりに風間は近付いて行った。ずかずかと。部屋の隅で体育座りをしていた太刀川は、動かない。
「太刀川、お前は、この組織に入って何がしたい?」
「何って…」
「何でも良い、何か、あるか。夢みたいなことでも、何でも良い。俺は、お前の言ったことを笑ったりしない。ちなみに俺は近界民(ネイバー)のことを知りたいからこの組織に入った。正直なところ、戦うのは今のところはおまけみたいなものだ」
「おまけ…」
風間は力強く頷く。後ろで林藤が吹き出したのが聞こえた。
「俺は、言ったぞ。お前のも、聞かせてくれ」
ゆらり、曖昧な表情が揺れた。
 当時はその感覚がどのパーツからやってくるのか分からなかったが、今となってはそれが目だったのだと分かる。
「おれは………」
焦点が合っていないような不明瞭な瞳は、こちらの胸をざわざわと擽っていって、正直他のことでいっぱいいっぱいにでもなっていなければ、きもちわるいと距離を取っていたかもしれなかった。
「おれは、そんな、風間さんみたいなかっこいい理由じゃないよ。おれはただ…戦うの、かっこいいって思っただけだ」
けれどもそんなの、些細な問題だ。
「あんなふうに戦えたら、って。そう思っただけなんだ」
何が彼の軸であるのか、それが分かってしまえば曖昧な瞳など気にもならなかった。
「…充分、かっこいいと思うが」
「そう?」
「というか俺の理由はかっこいいか」
「かっこいいよ」
「そうか」
ありがとう、とつぶやく。
 同じ、ものを見ている。細かいところが違っても、大雑把には同じ、未来を。
 林藤を振り返る。
「林藤さん!」
「おー、分かった分かった」
それが分かっただけで風間には充分で、肩を並べて戦うにはそれだけで良かった。

***

 太刀川は急速に組織に馴染んでいった。まるで、ずっと此処にいたような馴染み様だった。気に入ったのかよく迅に構うらしく、なんでおればっか! という悲鳴を聞いたのは一度や二度ではない。小南と二人それを聞きながら、その悲鳴に交じる嬉しさや楽しさに顔を見合わせて笑ったのも。
 太刀川は筋が良かったらしく忍田に見込まれてめきめきと成長していった。連れて来たのは林藤なのにな、と思ってそう漏らしたら、そんなに器用じゃないと笑われた。
「俺にはお前一人で精一杯だよ」
ぽん、と頭を撫ぜられる。それがくすぐったくて、休憩終わりです、と立ち上がった。
「太刀川に追い抜かされてしまう」
「はいはい」

 太刀川は初期の風間よりももっと、悪い夢を見るようだった。何度か、その叫び声で起きたことがある。何があったのか、それは聞かなかった。かっこいいと思ったから戦いたい―――それが、太刀川の本音だっただろうから。
 それでも一度、聞かれたことがある。
「風間さんは、怖くないの」
その時はまさか太刀川からそんな言葉が出るとは思っておらず、目を見開いてしまった。
 怖い、なんて。
 太刀川は絶対に口にしないと思っていたから。
「いつ死ぬかも分からないじゃん。攫われるかもしれないじゃん。それをおれたちだけが知っていることとか。怖くないとしても、何も知らない人間に苛立つとか、ないの」
風間の反応がないのを、自分の言葉が足りない所為だと思ったのだろう。太刀川は付け足す。風間の中ではまだ、怖い≠ニいう言葉が廻っていた。太刀川がそう思わないだろうと思っていた訳ではない、でも口にしないと、思っていたのだ。だから、驚いた。失礼な勘違いだったかもしれない、それを素直に伝えたらせっかく太刀川が言ってくれたのに、前言撤回されてしまうかもしれない。それは、きっと、よくない。
 そう思った風間は、そのまま質問に答えることにした。
「近界民(ネイバー)の存在については、時期を見て公表すると言っていただろう」
準備が必要なのだ、と言っていた。異世界というものがあって、なんて話はそう受け入れられるものではない。新興宗教扱いされて終わりだ。だから、と大人たちはあちこち奔走しているようだった。
 一人でも、多くを救うため。
 それが、ボーダーという組織が発足した大本の願いなのだから。
「それは、分かってるけどさ、」
誤魔化さないでよね、と言われた。言われてから、風間はもう一度、しっかりと考える。
―――怖く、ないの。
怖く、怖く、こわく、
「こわく………」
 思い浮かんだのは、あの衝撃だった。林藤の背中の向こうに見た、自分たちを恐れる瞳。ああいうものが今後、また現れるのだろうか。自分を襲ったものを倒した、同じくらいの力を持つものだと。
 救けてくれる、存在ではない、と。
「俺は…」
ああいうものが、自分たちに、林藤に、向くのは。
「…ボーダーというものが、世間に理解されないことの方が、怖い」
もう嫌だと思った。努力の様を見ているのだから尚の事。そこにいるのが、恐怖を抱えて、それでも立っている人間だと知っているから、余計。
 そっか、と太刀川は言った。おれもそれは怖いな、と言った。



 太刀川が組織に加わって、一年。
 あっという間に時は過ぎ去って、いつの間にか風間は実力で太刀川に追いつかれようとしていた。覚悟していたこととは言え、あまりに早い。
「こういうのもなんだけどなあ、アイツ、センスの塊だからなあ」
俺もまさか此処までとは思わなかった。
「正直忍田が気に入ったのも納得っつーか」
「…そういうの、俺以外に言わない方が良いですよ。まるで俺がセンスがないように聞こえます」
「ばか、お前なら分かってくれるって思ったから言ったんだよ」
この人は、と思う。
 自分の言葉が足りないというのは自覚しているのだろう。まるでこれでは、その欠点を逆に利用されているような気分だ。
「俺は、俺のやり方で強くなります」
「うんうん。それが良い」
林藤は笑顔で頷いてみせた。
「でもなー、俺思うんだけど、やっぱり木刀も弧月も、蒼也には重すぎると思うんだよなー」
「…でも、攻撃手(アタッカー)向きなんでしょう」
「うん。がっつり攻撃手タイプだと思う。それは間違いない」
その言い方にそんなにか、と思ったことは口には出さない。
「そのうちさ、短刀までとは行かないけど、もっと軽いトリガー出来れば良いのにな」
「それ、開発チームの前で言ったら簀巻きにされますからね」
「分かってるよ、そんな馬鹿はしない」
それに、と林藤は付け足す。
「そういうのをするのは、もう俺たちの世代の役目じゃねえしな」
俺たちは弧月で困ってねーし、と笑う林藤に風間はため息を吐いて、《もっと軽いトリガー》という案は何処かで使おうと、頭の隅に留めておいた。
 そんな、平和な会話をしていたからかもしれない。このボーダーという組織が近界民と戦い、その反面で一般市民の理解が得られないことがあるのだと、そういうことを忘れていた。
 皮肉にも、とても晴れた日のことだった。太刀川が暴漢に襲われた。そして、一緒にいて、彼を庇った忍田が負傷した。
「かざまさん」
太刀川がこんなに泣きそうな顔をしているのを、見たことがあっただろうか。いつもいつもへらへらと、感情を読ませないような顔をしている、そんな男が、今にも世界が終わるみたいな、そんな泣きそうな顔を。
「おれ、いつか風間さんが言ったこと、なんにも理解出来てなかった」
ぐずぐずと、鼻を啜りながら太刀川は言う。
 何の話だ、と思った。風間の、言ったこと、とは。
「風間さんの、怖いもの」
ああ、と思い出す。そんな話も、した。
「おれも、やだ。あれ、怖い」
だって風間はあの時既に、経験済みだったのだ。悪意を向けられるということが、どういうことか。トリオン体は痛くも痒くもないけれど、それでも心だとか、そういうやわい部分はガード出来ない。
「なんで、だっておれたち、頑張ってるのに。忍田さんだって、すごく頑張ってるのに、たくさん、たすけてるのに、なんで、なんで…!」
「太刀川」
「あやしいとか、そういう理由で、忍田さんが怪我するの」
 どうしていいのか分からず、手を握った。冷たい手。まるで最初に会った時のようだ、と思う。このまま、死んで、しまいそうな。
「あやしくないもん」
駄々っ子のように繰り返す太刀川に、風間は頷く。
「ボーダーあやしくないもん」
「ああ、怪しくなんかない」
「ねえ、風間さんは、なんで、」
 ひく、と喉の震える音まで聞こえる。
「なんでこんなに怖いのに、立っていられるの」

 その部屋をノックしてから開けると、電気がついていなかった。けれどもその中に、風間は灯りを見つける。
「…たばこ」
「ああ、これな」
今日だけ、許してくれ。そう言って林藤は笑う。
「やってらんなくなった時にだけ吸うって決めてんの」
 太刀川は医務室に連れて行った。もし入れなくても、と思った結果の行動だったが、医務室長は快く太刀川を中に入れてくれた。
「まー忍田は頑丈だからさ、大丈夫だけど」
太刀川がなあ。吐き出された紫煙に、友人の顔が浮かぶ。今日は離れない、いやだ、と駄々をこねた太刀川。
 子供らしい所がない訳ではなかった、むしろこの組織にいる子供の誰よりも、子供らしさの目立つ子供だった。けれども線引きというのはしっかり分かっていて、泣いて駄々をこねるなんてことは今までなかったのに。中学二年生だという、そういうプライドもあっただろう。それでも。
―――なんでこんなに怖いのに、立っていられるの。
それは、と思う。
 あれを、見たからだ。体験したからだ。それは嫌だと、強く思ったから。
 お前たちは、力を持っているのに。それが、襲撃者の言葉だったという。
「分かってはいんだけどね」
聞いてみれば子供が攫われたらしかった。その悲しさを誰かの所為にしたかった、そう言ってしまうのはきっと楽だろうけれど。
「政府とか警察とか、説明は続けてるけどね。こればっかりは時間が掛かる」
「…どうして、」
風間は声を上げた。
「どうして、俺には話してくれるんですか」
迅も小南も太刀川も、何一つ師匠からは知らされない。風間たちより少し上で、今狙撃手(スナイパー)の基礎を築いている東だってそうだ。詳しいことは、何一つ。
―――そんなのは俺たちに任せてれば良いから。
それが、大人たちの口癖。
「…お前が、当事者だからだ」
そう返した林藤は笑っていた。
「お前は力を持った。例え一人で放り出されても、一般市民が逃げるくらいの時間は稼げるようになってる。だから、話しておくんだろうな」
それが師匠の務めだと思うし、と続けられる言葉。
「それに、俺は、お前に―――」
ふいに、その目に力が宿る。胸で心臓が跳ねる音が、とくん、と響いた。
 ぱちり、ぱちり、瞬きがひどくゆっくりに見えてそれから―――その視線が風間の後ろに移動する。
「迅、こなみ」
「…お話、邪魔しちゃった?」
「いや、大丈夫だ」
首を傾げる迅に風間が答える。小南は迅の背中に張り付いたまま、顔を見せない。
 それだけで察したのだろう、林藤がこなみ、と声を上げる。おいで、と広げられる手。
「こなみは太刀川よりもおねえさん弟子だもんな、それで我慢してたんだなー」
がんばったな、と掛けられた言葉に、小南は顔を見せないまま迅の背中から林藤の腕の中へと飛び込んだ。よしよし、と林藤はその頭を撫ぜる。
「別に良いんだよ、それだけこなみは忍田が心配なんだもんな」
 声も上げずに泣く小南の背中を撫ぜてやりながら、風間はあの言葉の続きはもう聞けないのだろうなと、そう思った。



 学校から帰って来た風間は目をぱちくりとさせた。
 高校受験を目の前に控えた冬の日のこと。
「これは、」
「子供」
「林藤さんのですか」
「いやちげえよ」
団欒の場として使われているその場所には、何故かゆりかごがあって、その中には赤子が眠っていた。
「妹の子」
「妹さん、いたんですね」
「うん、いた」
た、の部分に力を入れて発されたその言葉に、風間は何も返さなかった。赤子へと指を向けてみると、遊んでくれると思われたのかその指をぎゅっと掴まれたる。強い力だ、と思った。
「陽太郎ってーんだ」
「ようたろう」
「良い名前だろ」
「はい」
陽太郎、とコップの水で机に書く林藤に、風間は素直に頷く。きれいな名前だ、と思う。あたたかいこの人が育てる子供に、ぴったりだ、と。
「なぁ、」
「何ですか」
「蒼也は子供、好きか」
「…嫌いでは、ないと思います」
「そうか」
その横顔には安心が見て取れた。それが、何に対する安心だったのか、そこまでは分からなかったが。
「陽太郎は、此処で育てるんですか」
「うん、そうなると思う」
今必死で育児書みんなでめくってるよ、俺は休憩出されちゃった、と言う横顔は、もう既に父親のものになっているような気がした。
 じっと、風間は陽太郎を見つめる。
「…これから、よろしく」
眠っている子を起こさないように、と小さく囁いた言葉はちゃんと林藤にも聞こえていたらしく、頭を撫でられた。



変わりゆくもの。



 最上宗一の訃報―――訃報と言って良いのだろうか。風間にはまだよく分からなかった。けれどもとにかく、その知らせを受け取った時、とっさに思い浮かんだのはその人のことだった。そして、次が迅のことだった。友人のことが二の次になるなんて、とは思うが、それは恐らくそれぞれが同じことになった場合、同じ行動をすると思うので自分のことを特に非情だとは思わない。
 一番は譲れない、例え、それが友人でも。
 それがきっと、あの横の並びの中での暗黙の了解だった。その時≠ェ誰に最初に降りかかろうとも。とは言え、迅の能力を知ってからというもの、きっと彼は自分をその最初≠ノ据えるのだろうと、そういう悲しい予想が出来ていたけれど。
 部屋には電気がついていなかった。
 涙一つ見せなかった迅を、放っておけば眠りそうにもない迅を、無理矢理にでもベッドに押し込んで、あとは周りの大人に任せて。ふとどうしているのだろう、と気になったのは林藤のことだった。迅の予知を知っていたのか、風間たちよりもずっとてきぱきと行動していたその人の姿は見えなく、林藤に与えられた部屋まで来たのだった。
 月の光だけが差し込む部屋で、林藤はぼうっと座り込んでいた。蒼也か、と笑みが浮かべられる。迅は落ち着いたのか、と問われたから一応は寝かしつけました、と返した。
「…まぁ、時間が解決してくれるのを待つしかねえか」
ぷはーと吐き出される紫煙に、あ、と思う。
「飯は食ってるし、寝かせてもいるし、悪夢はどうしようも出来ねえけど…とりあえずは保っている感じだろうな。最終的に迅のことは迅が自分でどうにかするしかねえ」
「はい」
大丈夫ですよ、とは言えなかった。林藤が言わないことを、風間が言えるほど迅のことを知らないからかもしれなかった。
 それ、とも。
「…貴方は」
「ん?」
「貴方は、………」
何と言えば良いのか分からない。大丈夫なのか、ちゃんと泣いたのか、悲しめているか…どれをとっても、間違いな気がした。
「蒼也」
伸ばされる手。
「ちょっと慰めてくれよ」
足りない距離は風間から詰めた。
 ふわり、と背中に回った手は決して力を込めないよう、細心の注意を払っているようだった。こんな時まで、舌打ちをしそうになったのをなんとか堪えて、代わりとでも言うようにその頭に腕を回す。思い出を辿るように手を動かしてみれば、短い髪がさらさらと指の間を擽っていった。
 その動作に同じことを思い出したのかもしれない。
「お前あったかいなあ」
「子供ですから」
「そうかもな」
くつくつと鳴る喉はいつも通りのはずなのに。
「あったかい、なあ」
 煙草臭さが目に染みた。その所為で、視界が歪んだ。



 迅の未来視(サイドエフェクト)が大規模侵攻の時期を以前よりももっと正確に出して来て(実のところ風間や太刀川はこの時初めて、そんな予知があったことを知ったのではあるが)(元々第一次大規模侵攻がこの地で起こるから、拠点を此処にしたらしい)(そんな話聞いてないと、小規模反乱が起こったのはまた別の話である)、それから小さな組織はそれこそ上から下へとてんやわんやだった。いろいろな交渉にまだ手間取っている段階だったのだ。誘導装置は完成していた、だから出来ることなら避難勧告を出して市民を避難させ、限られた一部地域で戦闘を行うことが望ましい。
 そんなことは誰もが分かっていた。そしてそれが現段階では不可能なことも、分かっていた。
 異世界人が襲ってくるので避難してください。そう言って素直に従って逃げる人間がどれだけいるだろう。そういうことだった。これで国か、それでなくても市の後ろ盾が得られればその言葉には箔がついたかもしれない。けれどもそれは未だ交渉段階で、国の方に至っては新興宗教扱いだった。まだ良い方だ、と渉外担当のその人は笑っていた。
「テロリスト扱いで全員捕縛、なんて最悪なケースも考えていたんですから」
避難訓練、していたでしょう。そう言われて初めて、その訓練が人型近界民(ネイバー)の奇襲のためではなかったのだと知った。
 見つめた先でその大人はにこにこと笑っていた。口が滑った訳ではなく、もう言って良いと判断されたのだろう。もう隠しておく理由がなくなった、そう言わんばかりの表情だった。
「忍田さんも林藤さんも、君たちをとても可愛がっているからね」
その言葉に何を言うことも出来なかった。
 風間たちはどう足掻いても子供だった。

 そうして、その日はやってきた。
 地獄とは、このことを言うのだろうと思った。どれもこれも自分たちの力不足の結果だった。飛び出すな、飛び出すな。迅、小南、太刀川、そして風間は互いの手をぎりぎりと繋いで陽太郎を囲んで、ただひたすら黙って耐えていた。
 自分たちの力を必要としている人たちがいる、痛いほど分かっていた。この時のためにつらい訓練も耐えてきたのだ、そういう思いがあった。それでも物分りが悪いままでいられるほど、此処は優しくはなかった。だから今、国の許可がない今飛び出せば、組織にとってもこれからの三門市の未来にとっても、悪いことになるのがサイドエフェクトなんかなくても分かってしまっていた。
「来た」
張り詰めた空間を切り裂いたのは、唐沢のそんな声だった。
 それを受けて、忍田が立ち上がる。
「最優先は人命救助! 各隊員はトリオン兵の排除へ向かえ! もしも人型とかち合ったらすぐに報告しろ!!」
忍田の号令に、一瞬で手が解けた。各々が既に決められていた配置へと向かう。
 もう二度と会えないかもしれない。そんな思いがなかった訳ではない。それでも、それでも。そんな寂寥に、恐怖に、身を任せていられるほど子供ではなかった。もう兵隊だった、戦士だった。
「蒼也!」
刃が、目の前を通過していく。
「…ッすみません」
「反省はあとな。とにかく今は斬って斬って斬りまくれ。それだけだ」
瞬間、これが最後なのだと直感した。何の根拠もなかったが、ただ、そう感じた。
「―――臆するな。それが俺からの、最後の教えだ」
 その表情が、どんなものだったのか。
 逆光で風間からは見えなかった。



 目が回るようだった。
 国が正式に組織を認めてからというもの、市民を安心させるためにも出来るだけはやく本部を設置しなければならなかった。エンジニアたちは不眠不休だったし、上層部は市民への説明や増やされた巡回に駆り出され、その中でも出来るだけ子供には休息を優先して与えるようにと、組まれているのが良く分かって悔しかった。けれども成長はすぐには出来ない。いつか大人になった時に、と意志を固める以外に子供≠ノ出来ることはなかった。
 「俺らは此処に残るよ」
それを言葉にされたのはいよいよ引っ越し、という日のことだった。数人荷物をまとめていないのは知っていたから、驚くこともなかった。
「玉狛支部って名前にしようと思ってる。俺は支部長。城戸さんの許可は取ってある」
「…よく、城戸さんが許しましたね」
「ほら、あの人基本甘いからさ」
「貴方がそれを言いますか」
城戸が甘いというよりも、甘くならざるを得ないような行動を取っているのが林藤、という方が正しい気がする。
「迅とこなみ、木崎もこっちに来る予定」
きっと、その次に発せられる言葉を風間は知っていた。
「お前は、どうする?」
「俺は………」
 もう兄の顔は思い出すのに時間がかかるようになっていた。当たり前だ、あれからもう、四年以上が経っている。四年、とその年数を胸の内で繰り返してから、それが長いのか短いのか分からず首を傾げた。どちら、なのだろう。
「俺、は…」
それでも、兄の顔を思い出すのに時間は掛かるようになっても、夢は見るのだ。何度も何度も、思い出したように。忘れるなとでも言うように。
「俺は、近界民を許すことは出来ません」
 本気で聞いたのではないのだろう。ただ、言葉として明確にしたかっただけだ。林藤のためにも、風間のためにも。
「…お前がそう思うなら、それで良いと思うよ」
下げられた眉尻は回顧だ、と思った。
「お前は、何処でもやれる」
欲しい言葉はそれじゃない。
「だから、俺は安心してお前を送り出すよ」
 それじゃあ、ないのに。
「―――いってらっしゃい」
 いってきますとは、返せなかった。



愛しすぎるもの。



第三章 

 風間さん、と呼び掛けられて振り返ると、そこには少年がいた。見覚えがある。はじめまして、と続けられた名前にもまた、聞き覚えがあった。
 三輪秀次。最近界境防衛機関・ボーダーへと入った少年。なかなかに見込みがあると、そういう噂だった。何でも、姉を近界民(ネイバー)に殺されていて、それが入隊の切欠だったのだとか。こうして顔と名前を一致させる前に、風間は彼に会っていた。いや、会っていたというほどではない。
 広く隊員の募集を掛けられるようになって、多くの人間がボーダーに入った。その、中で。
 目が合ったことを、彼は覚えていないだろう。そう思った。けれど、風間はその時のことを今も鮮明に覚えている。
―――同じ、目をしている。
そう、思ったから。
 三輪は風間に、何かしら聞きたいことがあるようだった。自分に答えられるだろうか、と向き直る。確か彼は万能手(オールラウンダー)を目指していたはずだ。対して風間は攻撃手(アタッカー)一本だ。使用しているのも今はスコーピオン一本で、スコーピオンが出来る前に弧月を使ってはいたが、人に教えられるほどとは思っていない。
「あの、聞きたいことが」
「なんだ? 俺に答えられることなら答えるが…戦術のことなら月見の方が良いと思うぞ。弧月も使っていたことはあるが…」
「あ、いえ、そういう話ではなく、」
では、何の話なのだろう。
 こほん、と三輪が息を整える。
「風間さんは…昔、林藤支部長に師事していたとは本当ですか」
「…ああ、本当だ」
別段隠している訳でもないが、誰から聞いたのだろうと思った。
 こうしてボーダーが大きな組織となって派閥が明確になった時点で、それまであった師弟関係のいくつかは消滅に近い形を取った。そういう道を辿った関係は古株しか知らない話になり、触れられないまま風化していく。風間と林藤もそのうちの一組だった。玉狛支部のボーダーにおける異質さ(勿論昔を知っている身としてはそれは異質でも何でもなかったのだが)は周知されたものではないが、三輪のような過去を持つ者にとっては受け入れられるものではあるまい。
 どうして、と唇が動いたのが分かった。どうして、なんて。そんなの。
「あの人とその点で分かり合えることはなかったけれど、まぁ、俺の考えを否定も、馬鹿だと言うことも、しないでいてくれたからな」
そう言うと、三輪は驚いたように目を見開いた。
 それが恐らく今言った言葉に対しての反応ではなく、今現在の風間の表情について出されたものなのだと、聞かずとも分かっていた。



 「風間さんてさーまだ林藤さんのことすきなの」
そんなことを迅に言われたのは、珍しく二人きりで食事をしにいった時のことだ。思わず噎せ込む。そんなに驚かなくても、と店員を捕まえておしぼりを頼む迅を、風間はぎろりと睨んだ。
 久しぶりに二人っきりで食事でもしない、と誘ったその真意はそこにあったのか、とも思う。またぞろ厄介な未来でも視えたのかと、そうであるなら自分に出来ることはしてやろうと、そんなことを思った数時間前の自分を引っ叩きたい。
「これでもおれ、風間さん応援してるんだよ?」
 風間がよほどすごい顔をしていたのだろう。迅がまあまあ、と酒を勧めてくる。
「…本当にそうなら、あの人に心配かけるのはやめてやれ」
思わず吐き出した言葉に、迅がえ、と言った顔をしたのが分かった。
「そんなに…心配、かけてる?」
「ああ」
「でも、ボス、そんな顔したことないけど」
あの人分かりやすいでしょ、との言葉に風間はゆるく首を振る。林藤が表面に出すのはプラスの感情だけだ。誰かをからかいたい時だったり、嬉しさを体現する時だったり。その分、誰かしらに対して悪く働く恐れのある感情は、その奥へと仕舞ってしまう。
 大人だもんね、と迅は言った。その何処か陰った表情の向こうで、最上のことを考えているのは聞くまでもなかった。
「…あれ、でも、それじゃあ何で風間さんは分かる訳?」
「そういう時の癖がある」
最近落ち着いて来ていたのに、此処でお前が風刃を手放したりなんかするから逆戻りだ。そう零せば、あー…と曖昧な声が返って来る。すごいね、と迅は言った。癖まで分かるなんて、すごいね、愛だね、と。
「何年見ていると思ってるんだ」
がん、と下げた頭が机にぶつかった。木造りの机の、木目が額にごわごわと当たる。
「九年だぞ…」
長すぎる、なんても言うにはまだ少し足りないのかもしれない。しかし、その貴重な青春のすべてを占めているこの想いが、短いだなんて言うことすら出来ない。
「ねえ、あのさ、」
「何だ」
「何で、とか聞いてもいい?」
「知らん」
 この恋の始まりに敢えて名前を付けるのなら、それは一目惚れ≠ネのだろう、と思う。絶望を一太刀で切り開いたその人と、風間は一生離れたくないと思ったのだ。吊り橋効果、刷り込み、勘違いエトセトラ。否定要素を探し始めたらキリがない。それでも、風間は林藤が好きなのだ。
 誰にも渡したくないと思うくらいには。
 迅はそっか、と言った。それから心配の方は善処するよ、と付け足した。



 第二次侵攻のあと、隊員には束の間の休息が約束された半面、上層部はてんやわんやなようだった。当たり前だ、各方面へのフォローに追加して隊員のスケジュール調整、更には今後の戦力強化案と防衛案を出し、市民の信頼を損ねないように走り回る。
 防衛機関としての責務は果たした。第二次侵攻に対する防衛は、予想以上の成果を出したとは言える。しかし被害がゼロでない以上、いや、もしゼロで防いだとしても、もっと、もっとと安全が求められるのは仕方のないことだ。
 不眠不休で栄養ドリンクを継ぎ足しに継ぎ足して働く大人たちを見ていると、自分たちが守られる側であることが悔しくてたまらなかった。まだ学生なのだから=Aそれだけで大体の隊員の言葉は封殺されたし、古株である東でさえそうなのだから他の人間がとやかく言えるはずがなかった。
 そんな中のことである。
 あ、と声が漏れた。
「お久しぶりです」
本部の廊下。
 ばったり会った林藤もまた、目の下にくまを作っていた。幽霊でも見たかのようなその顔に、風間はつかつかと近付いていった。そして、その手を取ってぎゅうっと握る。
「生きています」
冷えている、と思った。いつもあれだけあたたかかった手が、今は冷えきっている。あたためるように握る手に力を込めた。
「生きて帰ってきました」
「…うん、見りゃ分かるよ」
「帰ってきました」
目をじっと見据えて、繰り返す。
「………おかえり?」
「はい」
 笑う。
 笑えていたと、思う。
「緊急脱出(ベイルアウト)、」
「しましたね」
頷いた。支部長であろうと大まかな戦況は知っていただろうし、この人ならばリアルタイムで取得出来なかった分も後日集めているに違いない。そもそも風間のかつての優秀な部下がいるのだから、そんな取得ミスなど殆どないだろうが。
「息が止まるかと思いましたか?」
「馬鹿、俺を何だと思ってんだよお前は」
こちとら開発に関わってんだぞ、と言われて頷く。検証のためという大義名分を掲げ、何度も忍田と斬り合いをしていたことも、覚えている。
「…油断、してた訳じゃねえだろ」
「はい」
 油断などなかった。
「単純に相手が強かった、それだけです」
相手が黒(ブラック)トリガーだったことを言い訳にするつもりはない。あの人型近界民は―――黒トリガーは、強かった。きっとこれが他の近界の国での戦争だったなら、戦闘体が破壊されたあともオペレーター経由だとしても戦闘に参加することは叶わなかっただろう。
 緊急脱出があったから、風間は生きている。二度も―――と言う代わりに顔をしっかり上げ、目を合わせる。
「まだ俺は強くなります」
「まだって、お前。もう二十一だろ」
「足りませんから。まだ現役でいるつもりです」
だから安心してください、というのは言葉にしなかった。する必要がなかった。
 風間の手の中で、林藤の手もまた、あたたかくなっていた。



きっとほら、罪も遠退くから。



第四章 

 蒼也、と呼びかけられた声に振り返る。
「久しぶり!」
「久しぶりだな、陽太郎。新しい隊でA級昇格したと聞いた。おめでとう」
お前の噂、研究室まで届いてるぞ、と言うとへへ、とあの人によく似た照れ笑いが返って来た。
「おれは天才だからな」
「そうだな」
「おわっ!? 蒼也に手放しで褒められると逆に怖いな…!?」
「才能はあると思うぞ? まあ、それを活かすも腐らすも本人次第だと思うが」
「あ、そっちの方が安心する…」
おれ蒼也限定でマゾっ気出て来たのかもしれない、と渋い顔をしてみせる陽太郎に風間は笑ってみせた。
 好青年と言っていいような年になった彼に、月日が経つのは早いな、なんて思う。それと同時に自分も年を取ったな、とそうとも。それを周りに漏らせばお前が言うかとばかりにじっとりした目線を貰うのだが、それはさておき。
 現役を引退して開発室勤務になった風間と、林藤の距離は現役だった頃と変わらなかった。時折玉狛から提出される杜撰な書類に赤を入れて再提出の催促に行く、それが主に風間の役目になったくらいで。
「お前もワンオフを作ってもらうと思っていたんだがな」
玉狛第一は各々に合った武器を特別に持っていた。本部基準の武器も勿論使えたが、それでも彼らのメイン武器はワンオフ物であり、玉狛支部で育った陽太郎もそうなると思っていた。
「んーと、ないわけじゃないよ。でも、戦闘用ってより籠城用って感じのやつだし。ま、おれがその方が良いって言ったんだけど」
そっちの方が向いてるんだよね、と陽太郎は頬を掻く。
「でも普段は籠城なんてやってらんないし、それが役立つのは本当に最後かなって思うし。おれ一人ならそれでも何とかなったかもしれないけど、玉狛に後輩も入ってきたし」
それに、と彼は続ける。
「チーム戦も良いなって、オサムたちを見てて思ったんだ」
 ボーダーは、そういう組織だった。
 風間はそれを知っていた。そしてそれを子供に課す大人の側に既に回っていた。
「そうか」
それなら良かった、と笑うと、蒼也もそういう顔するんだな、と言われた。
 それからそのまま、
「…蒼也は」
何事もないような顔で。
「伯父さんのこと、好きなんじゃなかったのか」



 すれ違ったのは本部の廊下だった。いつも通り林藤はおっ蒼也、元気? なんて声を掛けてきて、脇を通り過ぎていった隊員が目を丸くしていた。林藤は今でも玉狛支部長をやっていて、開発室に入っても尚元・A級三位で城戸派という看板の方が強い風間との接点は表面上見えない。きっと今では師弟関係があったことなど知る人間は本当にごくわずかなのだろう。
 ボーダーは本当に、大きな組織になった。
 いつか大人たちが願っていたように。
 飲みにでも行く? というのは最早形式美だったのかもしれない。風間が成人しても変わらなかった声の掛け方は、現役を引退してから初めて変わった。林藤が誘い、風間が断る。ただの遣り取り。だから風間はその日、返事を変えた。
「奢りなら行きます」
「そうだよなー…ってえ!? 蒼也来てくれんの!?」
自分から誘っておいてその反応はどうなのだろう。それに、来てくれる≠ニは。迂闊なのではないのだろう、林藤の中で風間はそういうことを許されているというだけ、で。
「個室のあるところが良いです」
「何だよー、密談したいならそう言えば良いのに…」
「そんな堂々とした密談がありますか」
実際、表立って出来ない話はいくつかあった。林藤がすぐさまピックアップした幾つかの飲食店の中で気に入ったものを選ぶ。
「今日何時?」
「緊急コールがかからなければ定時です」
「りょーかい。タクシー手配しとくから公園まで歩け。コール鳴ったら多分俺にも分かると思うしその時はその時で」
「分かりました」
 特に何事もなく定時を迎え、指定された警戒区域外にある公園まで歩く。此処は大きなねこのすべりだいがあって三門市民なら誰でも知っていると言って良い公園だ。警戒区域ともそう遠くないので、よく本部職員がタクシーを呼ぶのに使っている。迎車と点灯したタクシーに近付くと風間様ですか、と問われたので頷いて乗り込んだ。

 密談はすんなり通った。それくらいなら表立って話してくれても良いのに、と林藤はいつも言う。
「…また大規模侵攻が起こるんですか」
「ああ」
近界の国々との関係は年々良くなってきていると思う。それでもすべてと同盟を結ぶことは出来ないし、同盟を結んだからと言って安心して良い訳でもない。
「警戒警報はまた出されないと思いますか」
「ああ。今回は偵察だけだった。偵察があったことは既に放送されてるから市民は察してるだろうけど、威力偵察があった訳じゃない。大々的に危険ですと言うことは出来ない」
「迅の、予知では」
「強い奴が来るってさ」
その手は煙草には伸びなかった。風間といるからと言って配慮するような人ではない。必要ないのだな、と思った。煙草を手放して、迅の話をすることが出来るようになったのだ、と。
「現役引退したやつにも話しに行くって言ってたよ」
「そうですか」
「お前んとこにも行ったらよろしくな」
「それは自分が決めることです」
「まあそうだな」
でもお前は迅が協力してくれって言ったら協力するだろう?
 そう問われればそうだった。けれどもそれは二人の間では言葉にされない不可侵の領域だった。
「そういえば、この間冬島さんに会いまして」
話題の転換に意味はない。
「おう、あいつ元気だった?」
「元気でしたけど、結婚しないのかと聞かれました」
「お前もそんなこと聞かれるような年か…」
「らしいですね。ボーダーにいるとその辺りは麻痺しますけど。それでですね、俺は、絶賛片思い中なので今は無理ですと答えました」
「へえ」
「それでその話なんですけれど」
こんなのは茶番だ。そう分かっているのに。
「相談に乗ってもらえないかと思って」
 その先の言葉が欲しくなる。
「俺にそういうのは無理だよ」
ゆるく、苦虫を噛み潰したように笑う林藤は無防備で、それでいて明確な一線を引いていた。それは分かっていた、一線を引かれることは。これ以上は来るんじゃないと、拒むとも言えないやわらかさで。
 でも、違う。
「俺には、こたえらんねえよ」
 どれだけ不器用なのだと風間は拳を握る。それは最大限の譲歩だった。ここまでなら、そういう意思表示。ひどい、あまりにもひどい、と思う。そんなことを言うならせめてもう一言、言えば良いのに。その方が重要だとでも言うのか、こんな時でさえも、こんな奥まった部屋で二人きりで飲んでいて、それでも。その肩に伸し掛かる立場を、下ろしてはくれない。
 死ぬな、と。
 その一言を、唯一の弟子に対しても、息子のような存在に対しても、恋焦がれる相手に対しても、愛を注ぎたい相手に対しても、言うことが出来ないでいる。
「…ばかじゃ、ないですか」
やっとのことで零れた言葉にはおう、と返って来た。
「馬鹿だよ。馬鹿だからこそここにいんだろ」
臆病と片付けるには無理があった。だって、風間は既に知ってしまっていた。
―――ああ、これも。
―――これも、愛なのだ。
 馬鹿は風間もだった。目の前にある手一つ、触れることすら出来ない。

 「秘密だ」
穏やかな顔をしていたと思う。
「秘密かー」
陽太郎も答えて貰えるとは思っていなかったらしい。
「おれにはそれで良いけど、他の人には適当に答え返した方が良いぜ」
「どうして」
「だって蒼也モテるし」
おれよく蒼也と話してるからだと思うけど、聞かれるんだよなー、と陽太郎は言う。
―――風間さんって彼女とか、いるの?
それにはなるほど、と頷いておいた。
「善処しよう」
「それ、イイエって意味じゃないよな?」

 「いつか―――いつか」
玉狛まで送れよ、と嘯いてみせた林藤が、肩で呟いた。
「俺も、蒼也も、そういうの、ぜんぶ、気にしなくて良くなったら―――」
本当に。

 そんな未来が来るのだろうか。



 「…来ると思った」
「言うことはそれだけですか」
風間に立ちはだかられて歩みを止めた林藤は、花束を抱えていた。
 今日、この日。林藤匠は玉狛支部長の座から下りる。
 とは言ってもあの支部に住み込んでいる林藤が其処を出て行ったり、玉狛支部が変容するようなことは勿論ない。これからは研究をメインにして、今よりもっと唐突に自由に近界へ出て行ったりするだけだろう。何も変わらない、そう思っている人間もきっといる。けれど、風間にとってはこれ以上ないチャンスだった。区切りだった。
 これを、逃したら。
 もう一生、チャンスは来ないような気がする。風間だって開発室に進んだとは言え有事の際は戦闘に加わるのだ。いつ死ぬとも、限らない。林藤にだって同じことが言えた。このまま近界で、風間の知らない内に死んでしまうのではないか―――彼がそんなに弱い人間でないことを、風間はよく知っている、けれど。
「貴方ならどっちもまだ職員だからと、ゴネると思っていたんですが…杞憂だったと思って良いんですか」
「ゴネようと思ってたんだけどな」
前・玉狛支部長ってだけでも結構な肩書じゃねえか、と林藤は頭を掻く。
「なんかお前の顔見たら、用意してた言葉が消えちまった」
「そうですか」
「そーだよ」
「消えたついでに俺に何か言うことあるんじゃないですか?」
「………お前、さあ…」
 ため息。
「近界民による侵攻が止むことはありません」
「そうだな」
「俺は生きている限り、ボーダー隊員であり続けます」
「…そう、だろうな」
「林藤さん」
「うん」
ここまで言ったのだから、言わせたのだから。
「あー…あのな、蒼也」
「はい」
「こんなことを言うのは今更かもしれんが」
「はい」
「俺は、お前に死んで欲しくない」
「はい。貴方がそう思っていることを、知っていました」
「…じゃあなんで」
「言わせないでください」
 聞きたかったんですよ、と風間は笑う。
 紛れもない林藤の言葉で、風間はそう願われたかった。
「それで、もう一つの方なんですけれども」
「あーなんかもう、うん、良いよ。お前の好きにしろ」
「…もう少し感慨というものですね」
「…だって、………なにもこんなオッサン捕まえなくたって。お前、モテただろうに」
「貴方にそう見えてたならそうなんでしょうね。けれど、それも貴方が好きだったからだ」
人が見ていたのは、貴方に一途に恋縋る、俺の姿です。
 感情だって風間の一部だ。それをおおっぴらにしていたつもりはないが、完全に隠していたつもりもない。真っ直ぐに見つめれば、林藤はあー…と悔しそうな声を出して額に手を当てた。
「ちげえわ」
次の言葉を待つ。
「さっき来ると思ったって言ったろ。あれ、嘘」
「うそ」
「本当は、」
 本当は?
 誰かに来て欲しかった、助けて欲しかった。明確な死を抱えながらもそれでもあの時、風間は死にたくないと思ったのだ。死にたくない、生きていたい、助けて欲しい。誰かに。
 誰かに、それを肯定して欲しかった。
「本当は、来て欲しいとおもってた」
「言うのが遅い」
反射のように言葉が出たのはシンクロしたような心地になったからだ。そういうことにしておく。
「でもその珍しい素直さに免じて及第点をあげます」
「…えらそー」
「偉そうにもなります。何年待ったと思ってるんですか」
 何年越しだろう、手を伸ばす。
 出会いとは逆に今度こそその腕の中に収めた身体は、相変わらずあたたかかった。






番外編 



あと少しだけこのままで

 ばん、とその扉を蹴破ると、おお蒼也、なんて呑気に言ってくるその人の目の前にどんっと大量の書類を落とした。
「なにこれ、再提出?」
「あたり、まえ、です!!」
 風間が持ってきたのは本部開発室に提出された大量の玉狛からの申請書類である。それらすべてはなかなかに開発室連中の魂に火をつけるには充分なものではあったのだが、如何せん手順やら何やらがあまりに杜撰だったのだ。結果はどうせこの男なら出して来るので置いておいても、もっともっと手順があるはずなのだ。これが、支部であってもその一番に偉い人間のやることか。まるで子供の落書きだ。
「むしろ通ると思ってたんですか?」
「いや思ってなかった」
「じゃあ」
 昔からそんなんだ、と鬼怒田は言っていた。直し部分を手慣れたようにい付箋貼りしていく開発室の面々に呆れを通り越した感情しか浮かんで来なかったのは言うまでもない。
「…最近、」
ぼそり、と林藤が呟いた。
「最近?」
「いや何でもない。しょうがねえだろ、俺そういう細かい仕事苦手なんだからさー」
「何でもない訳ないでしょう。アンタがそうやって撤回する前言はだいたい…」
 さいきん。
 ひっかかる。さいきん。最近、何があっただろうか。最近はずっと、開発室にこもりっきりで、特に何もなかったはずなのだが。ああそういえばここ最近、玉狛からの提出物が特にひどいまとめ方だと鬼怒田が言っていたような気がする。迅からメールも入っていた気がする。無理しないでね、と書かれていた。
「…もしかして」
「もしかしても何もねーよ、これ直せば良いんだよな。鬼怒田さんの指示的確だから分かりやすい」
「それを毎回覚えてくれれば良いんですけどね」
 もしかして、本部に行っても姿を見せない風間のことを、心配してくれていたのだとしたら。本部勤めになってから、時間の許す限りは会議の時間に合わせて販売機のところやロビー、休憩室や喫煙室に出て行っていた。最近は忙しくて、それも出来ていなかったが。
「林藤さん」
「なに」
「ちょっと休んでも良いですか」
「お前の時間が大丈夫なら」
 部屋のソファに腰掛けて、書類と向き合うその人を見つめる。同じ空間にいる、それだけで。
 こんなにも、疲れた身体が癒やされるのだから。



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20141204

***

セルモス

 この手のあたたかさを、忘れたことなどない。
 あれは風間の中で、まるっと世界の変わった瞬間だった。真っ直ぐな、真っ直ぐな瞳に射抜かれてから、変わろうと思ったその心が、定着した瞬間。同じ世界に生きることは楽しいばかりではなかった。兄の生命を奪ったもののことを知っていくのは、同じくらいやるせない気持ちも風間に与えていった。
 師匠と仰いで同じ時を過ごす中で、淡いものだった想いは育ち、少しでも一緒にいたいと、願うようになってしまった。この思いを伝えないと決めたのは自分のくせして。
 隣に。
 いたいと、願うようになってしまった。
 知っていた、この先派閥というものがもっと目に見える形で現れてくることを。その時、風間は彼の元にいられないだろうことも。そして、彼はそれを笑って許すだろうことも。
 だから。だから、今だけは。机に突っ伏したその人の、手の甲をそっと撫ぜる。
 あたたかかった。きっと、初めて触れた時も、こんなあたたかさをしていたのだろう。それならば。
 風間に出来るのは、このあたたかさを忘れずにいることだけなのだ。



20141209


***




20170131 改定
20170306
20200217
20211129 改定