プロローグ 海辺の街 

 太刀川慶くんは海辺の小さな街に住んでいました。お屋敷の窓からは朝陽を反射するきらきらの水平線、窓を開ければ塩の香りとうみねこの歌が届きます。お屋敷の前の大きな白い道はたくさんの人が行き交う道で、太刀川くんは何もすることがないとき、窓辺で人々を眺めていました。
 とても小さな街ですが、太刀川くんはこの街がとてもすきです。自分の住んでいるお屋敷は綺麗ですし、その大きな窓辺は陽当たりもよく、太刀川くんのお気に入りの場所です。少し歩けばすぐに海ですし、白い砂浜もとてもきれいです。週末の朝には朝市が開かれ賑わいます。学校へ行く途中の長い坂道には苦しいですが、振り返ると街が一望出来るのできらいではありません。
 ですが―――ですが、時々、本当に時々、何かが足りないような気持ちになるのです。何か大切なものを、何処か遠くに置いてきてしまったような、そんな気持ちになるのです。
 一体、何だと言うのでしょう。そんな気持ちになる度に、太刀川くんは首を傾げました。こんなに、こんなに、しあわせで満ち足りているのに、一体全体何が足りないというのでしょう。
 いくら考えても太刀川くんには分かりません。けれども考えれば考えるほど、本当に自分は幸せで、この街がすきなのだなあ、と思うのです。

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パターン1 すくいたいおとこ 

 忍田真史は憐れんでいた。
 その矛先は専ら、彼の一番弟子に向けられたものだった。才能を見出して拾った、そこまでは良い。そこまでは忍田の思っていた通りだったのだし、彼の才能は確かに素晴らしいものだった。誤算があったとすれば、その才能が素晴らしすぎたことだ。忍田はため息を吐く。
 近界民との戦いを目的とするこの組織で、戦いの才能があるということは素晴らしいことで、彼にとっても彼を教える忍田にとっても、そして勿論この組織とこの世界の未来にとっても、それはとても有益なものだったろう。しかしそれを分かっていても、忍田はため息を吐く他はない。
 才能がなかったら、それは何度も自分について思ってきたことだ。才能がなかったら、きっと、こういう道ではないものを選べただろう。幼い頃から何度も思ったこと。それが今、凌駕されて、そのまま矛先は自分から彼へとスライドした。
 力があるということは、選べるということだと思っていた。それが間違いだと、忍田は生きてきた何十年かで既に学んでいた。
「お前は、何処へも行けないな」
その言葉が斬り伏せた彼に届いたとは思わない。
 いつもの稽古の途中。仮想戦闘体で斬った弟子の身体が再構築されるまであと十数秒。聞かれたくなかった、だからこの瞬間に吐き出した。彼の憧れる人間がこんな弱音を吐くのだと、知って欲しくなかった。
 そしてまた、自分と同じようにその真実にたどり着いて、絶望して欲しくなかった。
 再度構築された身体へとまた刃を振るう。斬り飛ばした腕から黒煙が上がり、ああ、と思う。
 こんなふうに。
 こんなふうに、腕を、斬り落としてしまえたら。腕だけでなく、脚も、失くしてしまえたら。思考のままに脚も同じように斬り飛ばす。痛みは殆どゼロに設定してるだろうに、やはり目の前で自らの手足が失われることには思うことがあるのか、彼の表情はぐにりと歪んだ。
 余りある才能を駄目にするには、それ相応の欠落がなくてはならない。けれども、それを与えてやれるのはこの仮初の戦場だけなのだ。そう思ったらひどく悲しくなった。
 消えた彼がまた現れるのを待つ間、忍田はそっと目を閉じた。

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パターン2 とうめいなおとこ 

 風間蒼也は憤っていた。
 その視線が向かう先はモニターの向こう、年齢としては一つ下の、この組織に属する期間としては先輩である男である。
 才能のある人間だと思っていた。そして、それを補強する努力を怠らない人間だと思っていた。少しばかり不器用なところのある彼を風間はそれなりに好いていたし、多くの人間にとって好ましい部類にあるだろう彼を、羨ましいと思う時もあった。
 それなのに、と風間は唇を噛む。
 それなのに、なんだこの体たらくは。
 原因は聞かずとも分かっていた。先週の黒トリガー争奪戦の結果は風間とて知っている。争奪戦を制したのは彼の一番のライバルだった。そして、そのライバルは彼の前から姿を消した。当たり前だ、黒トリガーを所持しS級になるということはそういうことなのだから。
 ライバルがランク戦から消えてからと言うもの、目に見えて彼の動きは変わった。何をしていてもつまらない、そういう声が聞こえてきそうなほどに、重だるい身体に鞭を打っているのが見え見えで、息さえもしにくそうで。
 ぐっと拳を握りしめる。彼がそうなら、ライバルの方もそうだ。死にそうな顔をして、手に入れた恩師の形見を二度と手放すか、みたいな顔をして。不器用な奴らめ、と思う。思うのに、何をしてやることも出来ない。
 強く、ならなければ。そう思った。
 彼らの視線の上に立てるほどに、強くならなければ。そうしたら、彼らのどうにもいかない思いの欠片でも、どうにか出来るようになるだろう。
 モニターの向こうから消えた男を追うように、風間はそっと目を閉じた。

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パターン3 てあしのないおとこ 

 太刀川慶は欲していた。
 自分のことは器用な人間だと思っていた。それこそ、物心ついた頃というレベルからの話で。大体のことは自分一人でどうにかなってしまっていて、子供という時分に関して言えば、周りが出来ないだろうという前提でやってくれること以外殆どすべては(つまり、たとえば生活に掛かるお金だとか)、太刀川一人でどうにかなってしまうものだった。
 当時の名前は違ったが、ボーダーという組織に入ってからもそれは変わらなかった。寧ろ、悪化したと言っても差し支えない。
 太刀川には才能があった。直接誰かに言われたことはなかったが、そんなもの周りの大人たちの目を見ていれば分かる。才能の如何で差別されることも、ましてや優遇されることもなかったが、特に師匠からの視線なんか最高に分かりやすかった。
―――可哀想に。
そんな声が聞こえてきそうなほどに。
 ふ、と漏れたのは自嘲だったろう。そういうものまで分かっているなら、利用くらいしてやれば良いのに、と思う。太刀川の欲しいものをきっと、彼は与えてくれるだろう。けれど、太刀川が何かしら行動を起こさねば、彼は勿論、周りの人間にも伝わることはない。聞こえない声は発していないのと同じだ、それは分かっている。
 けれども。
「甘え方なんて、誰も教えてくれなかったし」
身体ばかりが大きくなって、中身が追いついていないなんて。まるでハリボテですと告白するようで、そんなものは残りカスのようにこびりついたプライドなんてものが許してはくれなくて。今更問うことも出来ずに、ただ刃を振るう。
 ざしゅ、と黒煙が上がった。悔しそうな顔。この人の名前を、俺は知らないな、と思った。思ったけれども、それ以上考えることもしなかった。勿論、尋ねることも。小柄な割には良く動く人だった、評価にもならない感想を、ひとつ。
 視界に映る嘘ばかりの黒い残渣から目を逸らしたくて、太刀川はそっと目を閉じた。

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パターン4 まもりたいおとこ 

 その男は蔑んでいた。
 誰よりも何よりも、自分のことを蔑んでいた。
 男には弟があった。年の離れた小さな弟はとてちてと彼の後をついてまわって、その様子を男はいつも可愛らしいと思っていた。
 だからこそ男は選んだ。この街を、その未来を、弟が安寧に暮らす日々の礎となることを。それは男にとってひどく幸福なことだった。愛すべき弟のために身を捧げられること、それをするだけの素質が自分の中に確実に存在したことに感謝をした。
 弟には、こういったものに関わって欲しくなかった。だからその分、自分が。その気持ちの何処がいけなかったのだろう。愛しいものをまもりたいという、その気持ちの、何処が。
 男はあっけないほど簡単にその生命を終えた。
 そうして、弟は男があれだけ遠ざけたかった戦争に、その身を放り込んだ。
 それを見ていた男の発狂のほどは、想像に難くないだろう。どうして、どうして、と叫べども叫べども、その声は弟には届かず、あれほど柔らかかった表情筋はいつしか眉間に皺を寄せる程度のものになり、男の弟は死んだも同然だった。
 どうして、どうして。何故その安寧をまもってやれなかったのだ。かきむしる腕がなくて、自傷する身体もなくて、男に出来たのは自らを蔑むことくらいだった。
 お前が、お前が。お前がもっと、ちゃんとしていたら。何も出来ない身体で男は何度も何度も思った。素質があるだけでは駄目だった、それに甘えて何も対策を講じなかった自分のミスだ、と。
 物事には代償が必要だ。弟の平穏についてもまた然り。彼をまもるにはやはり、籠に入れておくくらいのことはしなければいけなかったのだ。
 自責の念に押しつぶされそうになる胸を撫ぜながら、男はそっと目を閉じた。

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パターン5 いやしたいおとこ 


 学校が終わって本部へと向かう。警戒区域の中の道をのろのろと歩いていると、曲がり角でばったり、時枝と出会った  最上宗一は恐れていた。
 飲み干した缶をピラミッド状に積み上げていく。アルミの柔らかそうな音に、少しだけ塔がぐらつく。
「最上さん今日ペース早いっすね」
向かいで飲んでいる後輩を、最上はじとりとした目で見遣った。うわ目ェ据わってる、なんてからから笑う姿はほろ酔い程度に見える。もとより彼の飲むスピードはそんなに早いものではなかったが、現在三本目の彼とピラミッドが築けてしまっている最上では、どれほどに差が出ているのか言われなくても分かる。
 しかしそれでもそろそろ止めたらどうか、などとしらけることを言わないのだから、この後輩は出来た人間なのである。最上はそう思ってる。
「迅のことっすか」
飲み飽きたとばかりに煙草を取り出した後輩に、少しだけ顔を顰めてやった。俺の部屋なんだから良いじゃないですか、そう笑って換気扇を付けに行って、また戻ってくる。
 行動のあちこちに見える細やかな気遣い。それを彼のいないところで顔に似合わず、と言って笑ったことは記憶に新しい。
「俺はアイツのこと、そんなに心配しなくても良いと思いますけどねー?」
窓も開けて、空気の通り道を作ってから、また座る。
「アイツ、アンタには懐いてるじゃないっすか。そんなアンタが自分のこと気にしてくれてるって、それだけで結構救われてると思いますよ」
そうかあ?と零せば、そうっすよ、と返って来た。この生ぬるさがまた、心地好くてたまらないと思う。
「まぁ泣くこととか不安になることとか、あると思いますよ。どうしても駄目そうなら、目でも覆ってやれば良いんじゃないですか」
こうやって、と手が伸ばされる。酒の所為だろう、その手はひどく冷たく感じた。どうせこちらが熱くなっているだけのくせに。
「こうやって見えなくしたら、アイツも少しは心安らぐんじゃねーっすか」
掌しか見えないゆるい視界の中で、からりとした笑い声だけが通って行く。
 心地好い、それは嘘ではない。けれどもそう思う反面、こうして人を心地好くするこの男がひどく心配になるのだ。お前のその癖が、と思っても口にすることが出来ない。どうせ無意識で、もう刷り込まれた人間性のようなものだ。それをどうにかしろだなんて、存在の否定のようなもので。
 ああでも、と思う。全部見透かされている、そんな感覚も本当に、本当に、嫌いじゃあないのだ。
 嫌な奴だな、そう思いながら今度やってみるよ、なんて返して、その掌の下、最上はそっと目を閉じた。

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パターン6 もうもくのおとこ 

 林藤匠は嘘を吐いた。
 お前は案外周りを見れる人間だよな、というのは誰の言葉だったか。剣がめっぽう強い同期だったかもしれない。やたらと昔の話なのでどういう流れでそんなことを言われたのか、まったくもって覚えていなかった。けれどもそれになんて返したかは、覚えている。
 人魚姫みたいに取引したんだよ。
 その言葉にその相手は恐らく笑ったのだと思う。そういうのは似合わないな、なんて言われて。きっとその時はそれで終わりだった。
 嘘を吐いたというのは、勿論その時のことではない。もっと前のこと。組織が少しずつ大きくなって、そうして変容の時が恐らくもうすぐ来る、羽化を待っていた時のこと。
 小さな建物の一階、一番端のベランダ。喫煙所と化したその一角に現れたその人に、驚いた顔を隠そうともせずに珍しい、と呟いた。
「そんなに珍しいか」
「そりゃあ」
 元々面倒見は良い方なのだと思う。それが高じていつのまにやら組織の一番上にまでなってしまって。だからこそ、そんな立場に彼がついたからこそ、徐々に変容していくその性質に気付いてしまった。
 そして、気付いていしまったからには捨ててはおけなかった。それが自分の性分であるとの自覚はあるけれども、ああ、と思う。
 これは、今からやることはきっと、ひどく最低な嘘だ。
 他愛もない話。場を繋ぐように、これがさいごだと言うように、くだらない話をだらだらと。けれどそうして幾ら伸ばそうとしても時は止まってくれなくて、火はじりじりと進んでいくだけで。そんなに嫌ならばやらなければ良いと言われるかもしれない、それでもやらないなんて選択肢はなかった。何故と聞かれれば、そういう性分だから、ただそれだけの話で。
 もう充分短くなってしまった、煙草を灰皿代わりの空き缶へと入れる。
「俺さ、」
今日はいい天気だね、そんなことを言うように。
「アンタのこと嫌いだよ」
 それを聞いた彼はこちらを真似るように、まだ長い煙草を空き缶へと放り込んで、そして、振り返る。
「知っている」
不器用なその人の、それが笑顔であるなんてもうとっくに知っていて、こんな言葉にもそういう返しをしてくるなんて卑怯だと思った。人のことなど言えた選択ではないので何も、言わないが。背を向けて歩き出す。
 煙草の箱の柔らかい角を潰してしまう手の力を緩めることすら出来ず、林藤はそっと目を閉じた。

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エピローグ ポベエトオルの祝福 

 太陽がくるくるとまわり、さんさんとあたたかな光をこちらへ寄越す、そんな日のことでした。
 三時のお茶の時間、向き合った忍田さんは、うっそりと太刀川くんがローヤルミルクティを飲む様を眺めていました。
「お前は一人でも立てる強さを身につけたんだな」
お砂糖を三つ入れたところで、忍田さんはそんなことを言いました。太刀川くんは顔を上げます。あいも変わらずこちらを見ているその顔は、安心したようにも、寂しそうにも見えました。
 太刀川くんは、こくりと頷きます。
「うん、おれ、強くなったよ。だから、忍田さんと一緒に何処へでも行けるよ」
その言葉に、忍田さんはひどく驚いたように目を見開きました。
「何か大変なことが起こっても、おれ、忍田さんを守ってあげられるし、自分が危ない目にあいそうになったら、ちゃんと逃げられるんだ」
それは、手足のなかった日々が太刀川くんに教えてくれたことでした。
 太刀川くんの話を聞いて、ひどいことだ、と憤慨してくれるともだちもいました。それに太刀川くんは怒ることはしませんが、少しだけ悲しくなったのを憶えています。ともだちは太刀川くんを好きと思ってくれているから、ひどいことだと言ってくれたのですが、勿論それは太刀川くんにもちゃあんと分かっているのですが。それでも忍田さんを悪く言われることは、太刀川くんにとって悲しいことだったのです。
 けれども、ひどいことだと言わないともだちも勿論いました。そのままで大丈夫だ、と笑ってくれる彼らに、太刀川くんはどれだけ救われたでしょう。
「おれは強くなったから、自由だから、幸せだから。もう、ちゃんと選べるんだよ、忍田さん」
 ぱちん、と。
 その音が聞こえたのは太刀川くんだけだったのかもしれません。忍田さんはふわり、と長年背負ってきた重荷が下りたような顔をしました。その表情に太刀川くんは、忍田さんが遠くへ置き忘れてしまった大切なものを取り戻したのだと知りました。
「だから、次は大丈夫だよ」
今度は自分が魔法を解く番なのだと、そう思いました。それは太刀川くん自身の気持ちのようでもありましたし、何処か遠くの誰かの忘れ物を拾ったような気持ちでもありました。
 とても、あたたかな日のことでした。おいしいお茶であたたまって、かわいらしいお菓子でおなかも満たされて。おひるねに、最適な日のことでした。
「ねえ、忍田さん。おひるねしようよ」
太刀川くんのお誘いは笑顔で受け入れられました。
 いちばんに陽の当たる窓辺にクッションを集めて、太刀川くんと忍田さんはそこに寝そべります。
「きっとすてきな夢が見られるね」
「そうだな」
 もう大丈夫だよ、太刀川くんは心の中でだけ呟きました。こんなにきらきらした気持ちなら、悪い夢など見っこありません。太刀川くんも、忍田さんも、きっと太刀川くんのともだちのみんなも、それからそれから、見ることなど出来ない、過ぎ去ってしまった遠くて近い、誰かも。
 ふわり、ふわり、さいごの魔法が解けていきます。

 ―――おやすみなさい。



20140623

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20200222