ケヱス5−1 けんきゅうしつ 

 みんみん、と蝉の声が五月蝿い夏の日でした。その日も、林藤さんはノートと筆記用具とあとはお財布と諸々の入った鞄を持って、冷房の効きの悪い研究室にやって来ていました。
 エンターキーを押して書きだしたものが動作するのを待つ間、林藤さんは大きく伸びをします。そうしてふいっと視線を投げた先には顔に傷のある男が、何やら難しい顔をして考え込んでいました。林藤さんの視線に気付いたのか、男は顔を上げました。
「何だ」
少しばかり不機嫌そうに聞こえるその声が、別に本当は不機嫌でもなんでもないことを林藤さんは知っています。
 男の名前は城戸正宗さんと言いました。城戸さんは遠い夏の日、林藤さんにかかった魔法を解いた人でした。勿論、城戸さんにそんなつもりはなく、ただ林藤さんの自由研究の結果を見て、直々に一緒に研究しないかと誘いに来ただけの話で、そして林藤さんも、その魔法にかかっていた時間のことを今でもそう不幸だったとは思っていないのですが、それでも彼には感謝の念が絶えないなあと、そう思っていました。
 城戸さんの質問に、林藤さんはんー…と少し、曖昧な様子で唸ってみせました。
「昔のことを、思い出してました」
「昔か」
「ええ」
むかし、と二人の間でその言葉が差すことは、一つしかありません。それを城戸さんも分かっているのか、頷いただけでそれ以上何も言いません。
 林藤さんはその沈黙が甘えて良いという許可だと、もうとっくに知っていました。ですから、ぽつり、ぽつりと言葉を零し始めます。
「城戸さんはさ、結局俺に、最上さんから離れろって言うことはしなかったなって」
 林藤さんが城戸さんと初めて会った日、確かに城戸さんは魔法を解きました。
けれども次に会ったとき、また林藤さんの目は見えなくなっていたのです。見えないから一緒には行けない、そういう林藤さんの瞼を撫ぜて、城戸さんは静かに問いました。
―――本当に?
その言葉を聞いた途端、ぱちり、と林藤さんの目は開いたのです。
 そんなことを、何度も繰り返しました。そして、城戸さんのいる学校へと進む頃には、それは本当に時々になっていました。
 少し長い休みのあとに、いつも盲目になって戻ってくる林藤さんに、周りの人々は口々に言いました。最上さんと離れろと、彼処はお前のためにならないと。そういう言葉たちに、いつだって林藤さんは静かに首を振るだけでした。
 盲目になった林藤さんを戻すのは、いつだって城戸さんの役目でした。何回も繰り返していることなのに、城戸さんは一度も面倒などとは言わず、また、最上さんと離れた方が良いとも言いませんでした。
 それが、林藤さんにとってどれほど心地好かったことか!
「言って欲しかったのか」
「まさか」
いびつな口元を晒した城戸さんに、林藤さんは笑いました。その一見おっかない表情が城戸さんなりの笑顔なのだと知っているので、笑いました。
「俺は―――俺は、」
小さな声で、秘密を告げるように、林藤さんは囁きます。
「最上さんが、だいすきなんです」
 それは、ずっと林藤さんの中で秘密になっていたことでした。何故って、林藤さんの魔法のことを知っている人々にそれを言えば、途端にそれは洗脳だと言われたことでしょう。それが林藤さんには分かってしました。それでも、この気持ちが洗脳などではないと、信じていたかったのです。
「勝手かもしれないですけど、城戸さんが一度もそう言わなかったことで、俺は、最上さんをだいすきでいることを、赦された気持ちになっていたんです」
懺悔のようでした。
「俺にとって、その気持ちは、どうしても嘘だとかそういうものにしたくない、大切なものなんです」
 城戸さんはそれを黙って聞いていました。そして、林藤、と小さな声で呼びます。
「お前の気持ちは、お前のものだ。誰が踏み散らして良いものではない」
厳格なその声に、林藤さんは笑いました。
「…ありがと、城戸さん」
「別に感謝されるようなことはしていない」
 ピ、と音を立てた画面に、林藤さんは向き直ります。
「…ちなみに、俺、城戸さんのこともだいすきですよ」
「そうか。それはありがたいな」
 そのとき、城戸さんがどんなに優しい顔をしていたのか、もう画面にかじりついていた林藤さんは知ることはないのです。



20140619

***

つきのとぐち 

 十一時にいつものカフェーで。
 そんな一つ年上のともだちの言葉に、太刀川くんはいつもの海へと向かう道を一人、てとてと歩いていました。海沿いのカフェーは子供のお財布にも痛くない価格を提供してくれるので、この近辺の子供たちは揃ってその店を利用するのです。店長さんも怖い顔はしていますが、静かにしている子供にはおまけをくれたりします。勿論、ともだちである風間さんの保護者のようなひとである林藤さんの、ともだちであることも彼らの気を緩めている一因ではあるのですが。
 そんなことを考えているうちに、太刀川くんはいつものカフェーへと辿り着いていました。おつきさまの描かれた扉に、太刀川くんはそっと手を掛けます。くるりと匙で掬ったような形をしているそれを三日月と呼ぶことを、太刀川くんはずっと前に知っていました。
 それにしても、今日はとても静かです。確かに、此処のカフェーは人気な割りには静かで過ごしやすいお店ではありますが、それでも今日はあまりに静かです。静かすぎるとも言えました。一体全体、どうしたというのでしょう。
 かちゃり、と静かな音で取っ手が回ります。
 ぱあん! とした軽快な音に太刀川くんはその大きな目をいっぱいまで見開きました。
「たんじょうび、おめでとー!」
きれいに揃っているとは言いがたい、そんな重奏が太刀川くんの耳に届きました。
「あ…」
「今日誕生日なんでしょ、太刀川さん」
ともだちの中の一人が進み出て、たすきを手渡しました。“本日の主役”、と書かれたそのたすきに、ぶわり、と胸の中に何かが湧き上がるのを感じます。
「、うん!」
 太刀川くんはたすきを受け取って身につけました。そして、お店の中を見回します。このお店の店長さんを始め、よく見知った顔が立ち並んでいました。その誰もがにこにこと笑っていて、太刀川くんを祝福してくれているのが分かります。
「太刀川」
その中から、風間さんが太刀川くんを呼びました。
「とりあえず、乾杯をしよう。腹が減った」
「おれ、風間さんのそういう結構自分勝手なとこ、きらいじゃないよ!」
大きな声で笑ってから、太刀川くんは大きく頷きました。
 乾杯しよ、と声を上げると、カウンタアの近くに立っていた林藤さんが、ほらよ、と飲み物の入ったグラスを全員に回してくれました。太刀川くんの分は、いつもの通り冷たいロオヤルミルクティです。今日が誕生日だからでしょうか、いつもと違って上には生クリイムが乗せられていました。ついでに、さくらんぼも。豪華です。女の子たちが見たら太りそう、と悲鳴を上げるのかもしれませんでしたが、今日は太刀川くんの誕生日なのです。少しばかり贅沢をしても、たとえそれがたくさんの脂肪分を取ることだったとしても、一日だけならきっと許されるでしょう。
 亜麻色の髪をしたともだちが、音頭を取ります。
「では、太刀川さんお誕生日ー」
「おめでとー!」
ばらばらと声が上がって、かつん、かつん、と近くの人々がグラスを軽くぶつけあいます。
 いろんな人とこつんこつん、とグラスをあわせながら歩き回っていると、隅にいた林藤さんと目が合いました。
「林藤さん!」
たたっと太刀川くんは林藤さんの元へと駆け寄ります。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう!」
こつん、とまた軽い音がします。
「今日、他のお客さんは?」
「今日は貸し切りー。表に看板つけといたからお前の友だち以外は入ってこねえよ」
「良いの?それ。だって、店長さんだってお仕事…」
「その店長が良いって言ったんだから、だいじょーぶだーって。っていうか城戸さんが率先して誕生会の準備してんだから、甘えとけよ」
ぽんぽん、と頭を撫ぜられます。
 よく林藤さんはこうして頭を撫ぜます。撫ぜられると、とてもほっこりした気分になります。子供扱いをきらう風間さんが大人しくこれを受け入れている意味が、よく分かりました。きっと、林藤さんはひとの頭を撫ぜるのがとっても上手なのでしょう。
「太刀川」
そんなことを思っていると、後ろから風間さんの声がしました。
「風間さん!」
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「ちなみにこれの発案者蒼也だぞ」
「えっ!?そうなの!?ありがとう風間さんー!」
グラスを傾けないように慎重に、けれどもそこそこ勢いをつけて風間さんに飛びつくと、風間さんはなんで言うんですか、と林藤さんに文句を言っているようでした。そういえば、今日の約束の時間や場所を伝えてくれたのは風間さんでした。あの時にはもう、この会のことを考えていてくれたのでしょう。胸があつくなるのを感じました。
 うれしい。
 それをうまく伝える術を、太刀川くんは持っていませんでした。言葉だけでは足りないような気がして、そのままぎゅうぎゅうと風間さんを抱き締めます。
「太刀川、痛い」
「うん」
「分かったから、一回離せ」
「うん」
そうして離れると、太刀川くんはもう一度笑って、ありがとう、と言いました。
 林藤、とカウンタアの中から店長さんが声を掛けました。
「そろそろ」
「おっ。分かりましたー」
じゃあ、俺は仕事あるから、と林藤さんは片手を上げて移動していきました。その間際、何やら風間さんと目配せしたように見えます。これから、何が始まると言うのでしょう。
 風間さんが太刀川くんの手を引きます。連れて行かれた先は、お店の真ん中でした。からからと、サングラスの似合う従業員さんが持ってくるのは。
「わぁ…! ケエキだ…!」
四角い形をしたそれに、太刀川くんは目を輝かせます。この場にいるのが大人数のためでしょう、それはとても大きくつくられていました。従業員さんが丁寧に、太刀川くんの歳の分だけの蝋燭を立てて行きます。
 それに火が灯ってから、徐々に部屋が暗くなります。林藤さんの役目とは灯りを落とすことだったようです。周りのともだちが、おめでとう、とまた言ってくれます。誕生日の唄が、広がっていきます。
 そうして唄が終わって、太刀川くんが火を吹き消そうとした時。
 どーん! と大きな音がして、貸切中と書いてあった扉が蹴り開けられました。とてつもない音です。悪い人でも入ってきたかと思うほどの音でした。
 しかし、その扉の前に立っている人を、其処にいる誰もが知っていました。
「慶!」
はぁっ、と息を弾ませるその人は、何やら大きな包みを抱えています。
「忍田さん!」
 びっくりした状態からいち早く我に返った太刀川くんは、その人の名前を呼びました。そうです。強盗さんもびっくりの勢いで飛び込んできたその人は、太刀川くんの保護者の、忍田さんでした。
「悪い、遅れた…」
げほっと咳き込むその背中を慌ててさすりながら、太刀川くんは二度目の驚きを感じていました。
 だって、今日は太刀川くんの誕生日なのです。
 そのお誕生日会をやってもらえて、とても嬉しいというのに。その場に、忍田さんがやってくるなんて。
 まるで。
 息を落ち着けた忍田さんが、真っ直ぐに太刀川くんを見つめます。
「慶。遅れてごめんな。何を贈れば良いかと悩んでいたら遅くなってしまった」
ああ、なんてやさしい声色でしょう。
「誕生日、おめでとう」
 その瞬間、太刀川くんの胸はいっぱいになってしまいました。
 手を伸ばして、その首筋へと縋り付きます。
「ありがとう」
ぎゅうぎゅうと忍田さんに抱きつく太刀川くんの後ろで、ぱちぱち、と拍手が広がっていきます。
「ありがとう、忍田さん。おれ、嬉しい」
 いちばんだいすきなひとからのおめでとうが、こんなにも素晴らしい贈り物なことを、太刀川くんはこの日、初めて知ったのです。



20140907
太刀川誕



エレボスの掩祝

貴方のもとめるしあわせはきっと、その手の中に。



*洵さんの「シェシェリスの祝寿」と合わせてどうぞ

 太刀川くんは小さい頃からよくいろんな夢を見ました。
 それは知らない場所を冒険する夢だったり、日常の延長線上のような、そうです、例えば今太刀川くんが願って止まない―――忍田さんと一緒に、何処かへ出掛ける夢だったり。人間でないものになる夢だって見ました。蛙になって、川を泳いでいたらそのまま海に出てしまい、どんどんしぼんでいってしまう夢です。前の休みの時に、風間さんと一緒に行った林藤さんの家で、“シントウアツ”の話を聞いたからでしょう。にんじんになっている夢も見たことがあります。その時はあの行きつけのカフェーの店長さんが丁寧に調理してくれて、太刀川くんは最終的にすてきなにんじんケエキになったのでした。
 ふしぎな夢を見ることもありました。別の世界の夢、と太刀川くんは思っていました。別の世界の太刀川くんはその世界がすきで、忍田さんがいなくても生きていけて、それがとても良く分かる夢です。この世界がだいすきな太刀川くんとしては、その夢を見たあとはいつだって不安なきもちになりました。いつか、自分もそうなるのではないか。そんな思いが胸にむくむくと湧いてくるからです。出来れば、見たくはない夢だなぁ、と太刀川くんは思っていました。
 けれども、その日の夢は今までに見たことのあるどれとも、勝手が違うものでした。
 太刀川くんは白い長椅子の後ろに立っていました。目の前にはとってもとっても青い、どこまでも青いと錯覚するような水槽があります。中を大きい魚も小さい魚も、あっちこっち行き交っています。
 目の前の長椅子にはひとが座っていました。とても背の高いひとです。知らないひとです。けれども同時に知っている、とも思いました。よくあの不思議な夢で見る別の世界の太刀川くん、その人の後ろ姿にそっくりでした。
 とは言っても知らないひとには変わりありません。知らないひとに話し掛けることは実のところ、太刀川くんが最も苦手とすることでしたが、何故だかその人には話し掛けないといけない気がしたのです。
「あの…こんにちは」
恐る恐る掛けた声に、その人はすぐに反応しました。曖昧でぼんやりとした瞳に太刀川くんが映り込みます。その妙な表情のなさに、太刀川くんは早速声を掛けたことを後悔しましたが、どうであれ逃げ場はないように思えました。
「隣に座っても良い?」
こてん、と首をかしげながら問うと、その人はいいぞ、と言ってくれました。太刀川くんは喜んで、その長椅子にちょこん、と腰掛けました。
 椅子に座ると、立っていた時よりも落ち着いて目の前の箱詰めの海を眺めることが出来ました。
「ここはすごくきれいだね」
太刀川くんは思わず隣に座るひとに話し掛けました。
「海の中にいるみたい」
 太刀川くんの住むお屋敷の近くには、とてもきれいな海があるのです。太刀川くんは風間さんたちと、何度もその中に潜ったことがあります。隣のひとはしばらく間を置いてから、そうだな、と答えました。
「いつも此処にいるの?」
「…いや、今日がはじめてだ」
「そうなんだ。おれも初めて来たよ」
 きゃらきゃらと、太刀川くんの声がその人以外、誰もいない空間へと響いていきます。
「これと似たような景色ならいつも見ているが…」
ぼんやりと、独り言のように呟いたその人に、太刀川くんは首を傾げました。そうして、なんだか忍田さんみたいなしゃべり方をするひとだな、と思いました。
「ここまで鮮やかじゃないな」
水槽を眺めたまま曖昧に話を終わらせたその人に、太刀川くんはふぅん、と呟きました。
「おれも海の中に入ったことならあるけど、こんなに魚がいるなんて知らなかった」
それを真似して独り言のように呟いてみると、ちらり、とその目が太刀川くんを見ました。
 とっても既視感を覚える目でした。けれどもその正体は分かりません。
 そのことで胸がもやりとするより前に、その人はなぁ、と声を掛けてきました。
「…なに?」
「お前、名前は?」
「太刀川慶」
「………だろうな」
 まるで、前から知っていた、と言わんばかりの笑みでした。これはいつもの不思議な夢なのかな、そう思いましたが、いつもの夢ではこうして誰かと喋ったりすることは出来ません。なのできっと、違う夢なのでしょう。
 そう思いましたが、太刀川くんは聞かずにはいれませんでした。
「あなたの名前は?」
「太刀川慶だ」
予想通りのその答えに、太刀川くんはわぁ、と声を上げます。
「おれと同じ名前なんだね!」
 その言葉に少しばかり、大きな太刀川さんは困ったような表情をしてみせました。太刀川くんはこういった夢に慣れていますが、彼は違うのかもしれません。けれども違う世界の自分と話せるなんていうことは初めてだったので、太刀川くんは楽しくなりました。
「此処は海と同じ場所なんだね! すごいなぁ。前、風間さんたちとざぶざぶって海に入ったことならあるよ。腕で水を掻いて脚で水を蹴って、すごく楽しかったんだ」
それでね、海の中から見る太陽がとってもきれいでね。ぱたぱたと足が勝手に動きます。大きな太刀川さんはそれを横目に何やら考えているようでした。
 大きな平べったい魚が硝子にぺたり、と張り付くように泳いでいく姿に声を上げると、太刀川さんは楽しいか、と聞いてきました。うん! と太刀川くんは大きく頷きます。
「すごいねっ、あっ、見てみて!」
視界の端を通って行った巨大な影に、太刀川くんは目を奪われました。なんだろう、あれ、と呟きます。もしかしたら風間さんなら知っているかもしれないな、そうも思いました。風間さんは林藤さんの家に良く行って、其処のたくさんの本が詰まった書斎でいろんな本を読んでいるので、とても頭が良いのです。
 太刀川さんはその影を追ってから、ジンベイザメだ、と呟きました。大きいな、と付け足されたところを見ると、あの魚はその種類の中でもいっとう大きいのでしょうか。
「すごい! あれも魚なの!?」
興奮のあまりぐっと近寄っても、太刀川さんは嫌な顔をしませんでした。丁寧に、鮫の仲間だ、と教えてくれます。鮫、と太刀川くんがぼうっとその後姿を見つめていると、太刀川さんはなぁ、と声を落としました。うん? と太刀川くんは隣のひとに目線を戻します。
「風間さんたちと海に行ったときは、楽しかったか?」
「…すごく楽しかった。海にもぐったときは手足がちゃんとあったから、おれ、自分で海まで歩いて、それからもぐったんだよ。海の中の貝殻を拾ったり、遠くに見える魚を指差したりして…。夢みたいだった」
 ぱたん、と両足が地につきました。この話をして、大人の姿をした太刀川さんに可笑しいと思われないかが不安でした。たかが夢、と言ってしまえばそれまでですが、やはり、同じ名前をしたひとに可笑しいと言われてしまうのは、きっと悲しいことでしょう。
「………手足が、あった?」
床に落とした視線でも、照明を反射する水のおかげで何かが前を通って行ったことは分かりました。でも、顔を上げる勇気がありません。
「うん。おれ、ずっと手足がなくて、触ったり握ったり、立ったり歩いたり、一人で何も出来なかったんだ。ずっと窓から外を眺めてた」
 そういえば、こういうふうにひとに話すのは初めてだな、と太刀川くんは気付きました。今のともだちは太刀川くんの手足がない時のことを知っています、どうしてか忍田さんの前でだけは立てないことも知っています。だから、こうして説明するのは初めてだったのです。
「そうしたら風間さんが言ったんだ、お前にはそんなに立派な手足があるのに、って」
太刀川さんは息を飲んでいたようでした。それから、俺にもそう見えるぞ、と静かな声で告げます。本当? と問えば、ああ、と返って来ます。
「さっき自分の足で立ってたじゃないか」
 ぱちり、自分の睫毛が瞼を叩く音を聞いたような気がしました。
「…そっか、おれ、立ってたんだ」
「気付いてなかったのか」
至極不思議そうな顔をしたその人に、だって、忍田さんが、と言いかけた言葉は、途中で消えていきました。これではまるで告げ口をしているようです。
「何か言われたのか?」
こちらを気遣うような声に、太刀川くんはいっそう下を向きました。言っても、良いのでしょうか。そう思う太刀川くんの胸の中で、大丈夫、と声がしたような気がしました。
 思考の末、慶、と出て来た声はいちばんだいすきなひとの声に似せられていました。
「お前は自分が不幸であることをいつでも自覚していなければならない、って」
太刀川さんは何も言いません。息を飲むようなこともしませんでした。けれども、きっと、彼にとって太刀川くんは可笑しいのでしょう。
 それを払拭したい訳ではありませんでしたが、いえ、払拭したいきもちはありましたが、その意図を以ってではなく、太刀川くんは言葉を続けました。
「でもおれは、自分のことは自分で決めるって、決めたんだ。いつか忍田さんの前でも一人で立って歩くことが出来るんだって、思うことにしたんだ」
言葉がきらめきを伴って口からこぼれ落ちていくのを感じます。まるで、あの砂浜のようだな、と思いました。きらきらと、言葉が星のかたちで、足元に積もっていくような。
 大きな太刀川さんは、静かにたった一言、そうか、と呟きました。太刀川くんも同じくらい静かな声で、風間さんたちにそう言われて、すごく嬉しかったんだ、と告げました。
「ねぇ、」
思い切って顔を上げます。
「おれの手足はちゃんとある?」
 本当は―――本当は。まだ不安になるのです。風間さんたちの前で歩くことが出来ても、行きつけのカフェーでお手伝いが出来ても、忍田さんの前では未だに、どうしても一人で立つことは出来ないのですから。時間のかかることさ、林藤さんはそう言ってくれましたが、それでも太刀川くんの胸には不安が去来します。それはむくむくと膨らんで、やっぱりあの楽しい日々はすべて夢だったのではないかと、そう思わせるのです。
 じっと、観察するように空漠とした瞳が太刀川くんの手足へと注がれます。海のきれいなところだけを切り取ったような水槽は光を反射して、その顔を半分ほど青く照らしていました。
「―――ああ」
息を吐くような、そっとした言葉でした。
「立派な手足だな」
 太刀川くんはふわり、と微笑みました。ありがとう、と言う声は震えていなかったでしょうか。ちらり、と見た宝石箱の海では、色とりどりの魚がたくさん集まって、ぴったり同じ動きで踊っています。
「………お前は、見えているのか?」
太刀川さんのその問いかけに、太刀川くんは首を傾げました。
「見えてるよ?」
この人も、もしかして林藤さんと一緒なのでしょうか。
「おれは目はちゃんと見えてるよ」
「そうじゃなくて、幽霊とかそういうのを、だ」
どうやら、違うようでした。幽霊、と繰り返します。幽霊というのはおばけと同じものでしょう。林藤さんが子供たちに読んでくれる絵本でその存在は知っていましたが、そういえば見たことはありませんでした。
「ううん、見たことないよ」
なのでそう返したのですが、それを聞いた太刀川さんは少し落ち込んだ様子でそうか、と呟きました。
「見えるの? 幽霊」
「…ああ、小さい頃からずっとな」
「それは…」
 太刀川くんの頭を過ぎったものについては、言うまでもないでしょう。
「誰かにそう言われたからなの?」
どきどきと、胸が痛いほどに鳴っていました。
 風間さんも林藤さんも、こんな気持ちだったのでしょうか。自分と同じなのかもしれない、もしそうだったら、自分に救うことは出来るだろうか。そんな大層なことを考えていた訳ではないのかもしれません、だって二人とも、そして太刀川くんも、そういった日々のことをつらかった、かなしかったとは思っていないのですから。
 そんな太刀川くんの緊張をゆるりと解くように、太刀川さんはいや、と言いました。
「物心がついた頃からずっとみえる。誰にも言ったことはないし、言われたからそうみえてるわけじゃない。俺にはそれが普通なんだ」
「………そうなんだ」
口から出たその言葉は気の抜けた色をしていました。何もないのならば良かったには違いないのですが、それでも一瞬でも同じなのかも、と思った分だけ拍子抜けしてしまったのです。
「でも、大丈夫だよ!」
そのぼうっとした感覚を拭うように、ぎゅっと太刀川くんは拳を握って強く言います。
「風間さんも林藤さんも可笑しいことじゃないって言ってたよ」
おかしいこと、じゃない。太刀川さんは繰り返します。咀嚼して飲み込んで、自分の一部にするかのように。
 ですので、太刀川くんはうん、ともう一度強く頷きました。
「だいすきなひとはきらいにならないよ?」
 あの日、行きつけのカフェーのテラスで、林藤さんの奢りで各々が好きな飲み物を飲んでいたあの日。
―――嫌いになってしまったの?
太刀川くんの中では、それがいっとうに怖いことでした。忍田さんに嫌われてしまうよりももっと、忍田さんを嫌ってしまうことの方が、ひどく恐ろしかったのです。
 けれども、震える声でそう問うた太刀川くんに、風間さんも林藤さんも笑いました。笑って、そんなことはない、との答えをくれました。彼もまた、同じかどうかは分かりませんが、もしも何か迷っているのなら、太刀川くんは力になってあげたいと、そう痛いほどに願いました。同じ貌(かたち)をしているからではありません。
 太刀川くんが、初めて。ひとのために何かをしてあげたいと、そう思ったからです。
 太刀川さんはじっと悩んでいるようでした。太刀川くんにひとの頭の中を読む力はありませんが、彼がきっといちばんたいせつなひとについて考えているのであろうことは分かります。さっき彼は誰にも言ったことはないと言いました。それはきっと、そのいちばんたいせつなひとにも、言ったことがないということなのでしょう。
 それはかなしいことだと思いました。いちばんたいせつなひとにする隠し事はきっと、身を切られるような痛みを与えるのでしょう。
 耳の底で、わん、と何かが響くのを感じました。太刀川くんはあっと声を上げます。
「警報」
「…警報?」
目の前の太刀川さんは辺りを見回してから、俺には何も、と呟きました。うん、と太刀川くんも頷きます。
 もともと耳鳴りのようなものなのです。それはいつだって、夢の終わりに訪れました。呼ばれているような心地になると風間さんに零した時、彼が警報と名をつけてくれたのです。それから、太刀川くんはこの音を警報と呼んでいます。
「もう…帰らなくちゃ」
警報の音が聞こえる、そう呟く声は落ち着いて聞こえました。立ち上がると、まだ背の高くはない太刀川くんでも、彼を見下ろすことが出来ました。
「…話してみたら?」
内緒の話をするように、太刀川くんは微笑みました。
「おれも帰ったら、忍田さんに話すよ。今はまだ出来ないかもしれないけど、繰り返したらきっと忍田さんの前でも一人で立って歩くことが出来ると思う」
それがいつになるか分かりません、起きた時、この夢を覚えているとも限りません。それでも楽しかったことを、忍田さんに知ってもらいたいと太刀川くんはそう思うのです。
 忍田さんの前でも、立って。そうして、今まで太刀川くんが心揺さぶられたすべてを、話して、時には見せて。そういうことを、きっとしあわせと呼ぶのでしょう。
「今日はきっと、良い夢が見られるといいね」
 今までぼんやりと水槽を照らしていた光が、徐々に強くなっていくような心地でした。そのままそれは太刀川さんを飲み込むと、自分の姿さえ見えないほど、真っ白になりました。

 眩しいな、と思って太刀川さんは目を開けました。
「慶、起きたか」
「しのださん…?おはようございます…」
どうやら、ちょうど忍田さんが太刀川くんの部屋のカアテンを開けたところだったようです。白いレエスのかかった綺麗で大きな窓からは、とれたての朝の光が差し込んできています。
「今日は特に何も予定がなかったな」
「うん」
ぼんやりと、瞼の裏に浮かぶ大きな魚。鮫。ジンベイザメ。
「忍田さん」
「なんだ?」
「ジンベイザメって知ってる?」
「知ってるが。ともだちからでも聞いたのか?」
 最近、忍田さんは太刀川くんがともだちのことを話しても、形容しがたい顔をすることがなくなりました。それどころか、こうして自分から聞いてくれることもあります。
「―――うん、そんなとこ」
「見たことあるか?」
「んー…あるような、ないような…」
背中に斑点を背負った、大きな身体。それだけがやけに、目に焼き付いています。
 どっちだ、と笑った忍田さんの表情はとてもやわらかいものでした。ねぇ、と太刀川くんは声を上げようとします。
 けれども、それよりも先に忍田さんが口を開きました。
「見に行くか」
ぱちり、瞬きます。
「ジンベイザメ」
 吸い込んだ息が、喉の辺りで音を上げるのを聞きました。
「ほんとう!?」
「ああ、本当だ」
「忍田さんと!?」
「いやか?」
ぶんぶん、と頭が取れるかと思うほど強く首を振ります。
「まさか!!」
今まで、忍田さんが何処かへ行こうと言ってくれることはなかったのです。
 第一歩だ、と思いました。太刀川くんが変わることを選択したように、忍田さんもまた、何処かで選択をしているのです。えへへ、と笑う太刀川くんに、忍田さんはそんなにジンベイザメが見たかったのか、と少し的はずれなことを言っていました。うん、そうだよ―――太刀川くんは嘘ではない言葉を零します。
―――忍田さんと、見たかったんだよ。
 その言葉はきっと、次の一歩を踏み出した時に、きっと言えるでしょう。



20140907

***

としょしつ 

 太刀川くんはその日、委員会のお仕事をしていました。
 太刀川くんは図書委員です。太刀川くんは本を読むことがとてもすきなので、この委員会に立候補したのでした。しかしどうやら学校のともだちはそのことを知らなかったようで(そういえばいつだって本を読むのは林藤さんの家の書斎ででした)(故に知っているのは風間さんなど一緒に林藤さんの家に行ったことのあるひとだけです)、太刀川くんが手をあげた時はとてもとても驚いていました。
 図書委員会のお仕事は昼休みや放課後に図書室を開放して、学校の生徒たちが本を借りるお手伝いをすることです。貸出の手続きをしたり、一緒に本を探したり、返却された本を元の棚に返したり。意外とやることはたくさんあるのであまり好まれませんが、本がすきな太刀川くんにはどれも楽しい作業でした。
 貸出カアドにはんこうを押して、どうぞ、と本を手渡すと、太刀川くんはその人の向こう側に見慣れた顔を見つけました。
「風間さん」
本を借りに来た下級生が行ってしまうのを待って、太刀川くんは小さな声でそのともだちの名前を呼びます。風間さんはすぐに気がついて、こちらへと近付いて来ました。
「委員会か」
「うん」
「お前にぴったりだな」
その言葉に、太刀川くんはくすぐったいきもちになりました。こうしてともだちが、太刀川くんのすきなものを理解してくれていると、胸の辺りがこしょこしょっとなるのです。
 そんなきもちをほっぺたに乗せながら、太刀川くんはありがと、と呟きました。そして、首を傾げます。
「何か本借りに来たの? 探す? おれ手伝おっか?」
「この本を探しているんだが」
「ああ、これ。これはね、あっちの棚にあるよ」
風間さんの覚書を見た太刀川くんは、奥の棚を指差しました。それを見た風間さんが頷いて歩き出したので、太刀川くんはそれについて行きます。
「でもなんだか意外だな」
「何がだ」
「風間さんは難しい本しか読まないのかと思っていたから」
 風間さんはいつも、太刀川くんには理解出来ないくらいに難しい本を読んでいました。とても難しいその本たちは、風間さんが将来やりたい研究に関わることなのだそうです。もっともっと知りたい、そう思って真剣に本を読む風間さんのことを、太刀川くんはいつもすてきだなあと思って見ていました。
 風間さんの覚書に書いてあった本の題名は、太刀川くんも知っているものでした。読んだこともあります。一人の船乗りが無人島に漂着して其処で生活する冒険譚です。どうして風間さんはこれを読もうと思ったんだろう。太刀川くんは訊ねようとして、そして、やめました。
 覚書を見つめる風間さんの横顔が、なんとも形容しがたいものだったからです。それは、太刀川くんがともだちの話をするのを聞いている忍田さんの表情に、とても良く似ていました。
「あっこの棚だよ」
太刀川くんは努めて明るい声を出そうとしました。視線を棚へと映して、た行の仕切りを探します。
 その横で、するり、と風間さんの指が背表紙を撫ぜました。
「此処にある本は」
 ぽつり、言葉が落ちていきます。
「平和だな」
「平和?」
太刀川くんは繰り返しました。
「箱詰めというのはな、オレたちの目には美しく映るように出来ているんだ」
た行の仕切りから指を滑らせながら、太刀川くんは風間さんの声に耳を澄まします。
「こうして物語として、枠の中に敷き詰められた出来事は、それがどんなものだって美しく映る。それは、こうして箱詰めされているからなんだ。それが、オレにはとても平和に感じる」
絵と似ているな、と風間さんは付け足すように言いました。
 そっか、と太刀川くんは呟きます。指先はもう、覚書にあった題名の本を探し当てていました。それをゆっくりと引き出します。表紙には海が描かれていました。ですが、太刀川くんのすきなこの街の海のように、目を見張るほどの青をしているという訳ではありませんでした。しんと静かな、灰色をしていました。
「はい、風間さん」
見つかったよ、とその本を風間さんに渡します。
「太刀川」
「なあに」
「お前はこの表紙を可笑しいと思うか」
 言われて、そっとまた、その表紙に視線を落とします。さっきと変わらない灰色の海が、静かに横たわっていました。
「…ううん、思わないよ。だってね、風間さん。海はね、見たひとのこころによって顔を変えるんだよ」
それは林藤さんの家にあった、きれいな写真集に書いてあった言葉でした。
「だからね、灰色の海があったって可笑しくないと思うんだ」
「…そうか」
「うん、そうだよ」
「ああ、そうだな」
何度も何度も、風間さんは頷いていました。きっとたいせつな誰かのことを考えているのだと、太刀川くんは思いました。
 ふいに棚の影から振り返ると、窓から入る陽が図書室の床にじんわりとあかく染めていました。



20140920

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ねがいのはかば 

 さらさらと掌から零れ落ちていく白い砂は、ひとつひとつが歪に削れた星の形をしていました。幼い頃からこの街に暮らしていた太刀川くんは、この海岸の不思議な砂を何度も何度も見ています。小さかった太刀川くんは不思議だな、綺麗だな、と思うことはしたものの、掌に集めてそれをじっくり眺めるということはしたことがありませんでした。
 長い年月を経て、太刀川くんは大人になりました。とても長い時間が掛かったような気がします。その長い時間で、太刀川くんはいろいろなことを経験しました。
 最初、太刀川くんは大きなお屋敷で忍田さんと二人きりで過ごしていました。それも楽しくなかった訳ではありませんが、すこうし退屈していたのも事実です。だからあの日、風間さんと出会った太刀川くんは誘われるままに外へと飛び出したのでしょう。
 そうです、太刀川くんはあの日まで、一人で外へと飛び出すことすら知らなかったのです。
 けれども太刀川くんは、あの日、それを覚えることが出来ました。風間さんを通して、ともだちもたくさん出来ました。美味しいカフェーの存在も知りました。自分がロオヤルミルクティがすきなことを、初めて知りました。いつも香りでしか知らなかった海が、とても美しいことを知りました。その海の向こうに、白い大きな街があることも知りました。その街への行き方も知りました。そして。
 勇気の出し方を、知りました。
 その勇気で忍田さんと話をして、海の向こうの白い大きな街に行って………決して、簡単なことではありませんでした。太刀川くんにとっては一つひとつが彼の世界を変える要素を持っていて、どれに対するにも驚きや怯えがついて回ったのです。勉強もたいへんでした。太刀川くんは元々賢い訳ではありませんでしたから。
 でも、それでも太刀川くんは頑張りました。誰かに褒められたかったからではありません、今まで暮らしてきたお屋敷が嫌になってしまった訳でも、この街がきらいになってしまった訳でもありません。
 ただ、好奇心が、逸る心が、抑えられなかったのです。
 そうして海の向こうの街へと旅立った太刀川くんは、白い大きな街で数年を過ごしてまたこの街へと戻ってきました。数年で変わったこともありましたが、やっぱりそこは太刀川くんのだいすきな街のままで、帰って来た時にとても安心したのを憶えています。
 お屋敷へと戻って、ともだちにも帰って来た挨拶回りに行って、一段落ついた太刀川くんは一人、この砂浜へとやって来たのでした。
 太刀川くんにとって、この砂浜は、海は、すべてのはじまりでした。何処までも何処までも続いていきそうな白と青の美しい対比が、太刀川くんの勇気を引き出す最初の引き金だったのです。
 さらさらと掌から零れ落ちていく白い砂は、一つを残してすべて落ちきってしまいました。太刀川くんの大きくなった掌には、たった一つの砂粒だけ。角が削れてまあるくなったそれは、きらきらと太陽の光を受けて輝いていました。心なしか、あたたかいような気もします。
 太刀川くんは、もう、これが何なのか知っていました。
「おれは、しあわせだよ」
そっと、そっと。内緒の話をするように、太刀川くんは呟きました。
 太刀川くんは知っています。この砂浜からは、星空がとてもきれいに見えることを。たくさんの星が輝く中で、その身を燃やしていくものたちのことを。
―――ひとが、それに願いをかける、ことも。
「ありがとう。おれはちゃんと、しあわせになったよ」
掌で、きらり、と星だったものは輝きました。
 それが太刀川くんにはよかったね、と言ったように見えて、嬉しくなりました。



20141015

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わがや 

 この世界でいちばんに愛おしいと言っても過言ではない存在が、行きたいと言っていた学校の合格通知を持って帰ってきたその日。
「蒼也」
彼を、呼ぶ声は。彼の、頭を撫でる手は。
「…おめで、とう」
震えていなかったでしょうか。弟の夢が叶ったことを一緒に喜ぶ、良い兄でいられたでしょうか。
 そこまで考えて、首を振りました。良い兄でいることを、彼が求めている訳ではないことは、もう充分に良く分かっていました。
 いつか。
 思います。いつか、心からそう思える日が来れば良いと、きっと来るのだと。その時が来たら弟に、今度こそ本当の言葉をかければ良いのだと、もう、分かっているのです。



いい兄さんの日
20140907

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残酷な夢は醒めないで 


 お前の髪はとてもやわらかくて、くせっけなのだろうけれども、とてもさわり心地がよさそうだ、と風間さんは思いました。思っただけだったのは風間さんの声が彼には聞こえないからでした。彼もずっと、風間さんには計り知れないものを抱えているのでしょう。だから小さいままなのでしょうか。
 風間さんにはどうすることも出来ませんでしたし、どうにかするとしたら彼自身で、風間さんには何も出来ないと分かっていました。だから、そっと囁くだけにします。
「オレたちがちがうものでよかった」
伸ばした手は彼を通り抜けます。
「お前を応援することが、出来るのだから」



あなたの髪 わたしのと比べる べつべつにつくられたことを喜んでいる / 林あまり
20150917

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20200222