プロロオグ もしくは意味のない散文 現実、というものを。人間は一体どうやって認識しているのだろうか。 たとえば夢。それは恐らく私たちが知る、一番に近い幻の形である。眠っている間に展開される、この小さな脳みその中だけの世界。 勿論、そんな単純なものではないという反論もあるだろう。だからこれは戯言であり、ただの独り言なのだ。けれども私は、これが切欠になれば良いと、本当は何処かで願っている。 警報の音が、心地好い眠りから私を切り離した。 *** ケヱス1 うみべ 太刀川慶くんには手足がありませんでした。なので、一人で何をすることも出来ません。けれども太刀川くんはお外を眺めるのが好きでした、そして、お外へ行きたいなあといつも願っていました。毎日この小さな町の静かな大通りに面した、このお屋敷でいちばんに大きな窓際に座ってお外を眺めていました。 ある日太刀川くんは、太刀川くんのお世話をしてくれている忍田さんに頼んでみることにしました。 「忍田さん、おれ、外に行きたいです」 忍田さんは優しく笑って、こう言いました。 「『ご主人様は神様です』と、百回言ってごらん?」 太刀川くんはびっくりしました。太刀川くんが今まで忍田さんをご主人様と呼んだことも、忍田さんが呼ぶように言ったことも、なかったからです。けれどもすぐに気を取り直して、ご主人様は神様です、と唱え始めました。 ですが、忍田さんは太刀川くんがそう唱える度に首を振ります。声が小さいよ、心がこもっていないだろう、理由をつけてはなかなか一回に数えてくれません。しまいには太刀川くんは、疲れ果ててしまいました。もうお外へ行けなくてもいいや、と思いました。 それからいく日か経ちました。一度は諦めたお外のことでしたが、やはり眺めていると行きたくなってしまいます。 太刀川くんは小さな声で、窺うように訪ねました。 「忍田さん、おれをおぶって外へつれてってくれませんか」 するとどうでしょう、忍田さんはにっこり笑ったかと思うと、太刀川くんをよいしょと背負うとお外へと連れて行ってくれたのです。お屋敷からそう遠くない海辺まで足を伸ばして、忍田さんはきれいな砂浜に太刀川くんを下ろしました。 「この間は意地悪をして悪かったな、慶」 忍田さんが言います。 「けれどもああいった意地悪をしなければ、きっとお前は惨めな自分の立場のことを忘れてしまっただろう。お前は一人で何も出来ないから、誰かに何かやってもらえることが当たり前だと思ってしまっただろう。でも、それは駄目だ。慶、お前は自分が不幸であることをいつでも自覚していなければならない」 その言葉は太刀川くんの心にぐさぐさと刺さりました。しかし、忍田さんはまだ続けます。 「お前が自分の立場を弁えず大きな顔をするようになってしまったら、恥をかくのは私だ。それは分かるね?」 こくり、と頷きました。 「そう、そういう顔をいつでもしていなさい、慶。お前がそういう憐れな表情をしている間は、私もちゃんと同情が出来るからね」 最後に、忍田さんは頭をやさしく撫でてくれました。 私は向こうの木陰で休んでいるからね、と忍田さんがいなくなってしまったあと、太刀川くんは悲しい気持ちで海を見つめました。耳の底でわん、と何かが響いているようです。とてもきれいな海でした。自分は迷惑な存在なのだという思いが、じわじわと胸を満たして行って、太刀川くんはひどく泣きたくなりました。 でも太刀川くんは泣きません。何故って、太刀川くんには手足がないので自分では涙をぬぐえないのです。ですから、これ以上忍田さんに迷惑になるようなことは慎もうと、心に誓いを立てました。 *** ケヱス2 すなはま そのまま海を見つめていた太刀川くんに、おい、と声が掛かりました。その声の方を向くと、そこには小さな男の子が立っていました。 太刀川くんよりも背の低いその子は、しかめっつらでまず、自己紹介をしました。男の子は風間蒼也さんと言い、驚いたことに太刀川くんよりひとつ年上なのだそうです。そうは見えないね、と言ったら、太刀川くんは風間さんから、肩に一発もらう羽目になりました。 「オレたちはこれから海にもぐりに行くんだ」 「わあ。それはすてきだね」 きれいな海。その中にもぐることが出来たら、どれほどにすてきなことでしょう! 太刀川くんの胸には一瞬であの青の向こうが思い描かれましたが、それもすぐに消えてしまいました。 太刀川くんには手足がないのです。風間さんにずっとおぶってもらうわけにはいかないでしょう。それでなくてもさっき、迷惑を掛けないと決めたばかりですのに。 行きたいなあ、と思っていたのが顔に出ていたのか、風間さんは太刀川くんを誘いました。一緒にもぐりに行こう。やさしい人だなあ、そう思いながら太刀川くんは首を振ります。 「だめだよ、風間さん。だめ。おれには手足がないもの。風間さんに迷惑掛けちゃうよ」 すると、風間さんは首を傾げました。 「何故そんなことを言うんだ? お前には、そんなに立派な手足があるのに」 びっくりしたのは太刀川くんの方です。 「ええ、何言ってるの、風間さん」 「何って」 「おれには手足がないでしょう」 「いや、あるように見えるが」 風間さんは太刀川くんに手を差し伸べました。 太刀川くんはその手を取りました。そして、導かれるままに立ち上がりました。 「ほら」 そう笑った風間さんのあとをついていくと、風間さんのともだちが待っていました。風間さんの簡単な説明で太刀川くんを受け入れ、歓迎してくれました。 ざぶざぶ、海に入っていきます。水を掻く腕があり、水を蹴る脚があります。これは夢なのでしょうか! 太刀川くんはふわふわした気持ちを胸に、海の中を楽しみました。 そうして楽しんだあとは、最初忍田さんが下ろしてくれたところへと戻りました。戻ってしばらくすると、忍田さんが木陰から戻ってきました。忍田さんは太刀川くんがびしょぬれなことを、特には不思議だと思わなかったようです。 行きと同じように忍田さんにおぶわれて、太刀川くんはお屋敷へと戻りました。 *** ケヱス3 まどぎわ 一体、あの体験はなんだったのでしょう。ふわふわとした気持ちでいた太刀川くんでしたが、思い切って忍田さんに言ってみることにしました。 「忍田さん、あのね、おれ、この間海にもぐったんだ!」 「お前がか?」 思ったとおり、忍田さんはびっくりしたように太刀川くんを見ました。 「一人でか?」 「一人じゃないけど…ともだちが一緒だったんだ。でも、おれ、自分で海まで歩いて、それからもぐったんだよ。海の中の貝殻を拾ったり、遠くに見える魚を指差したり…おれ、立てたんだ!」 忍田さんはほんとうに、本当にびっくりしたような顔で、太刀川くんを見ていましたが、それを聞いて少しだけ目を細めました。 「お前が立てた? 手足もないのに?」 「あったんだよ、忍田さん」 「じゃあ私の前で立ってみてごらん?」 手足があるなら簡単だろう、と忍田さんは言いました。太刀川くんも勿論、と立とうとしました。 けれども、立てません。どうやって手足を動かしていたのか、太刀川くんにはさっぱり分からなくなっていました。 「ほうら」 忍田さんは言いました。 「お前には手足がないのだから、立ち上がることも歩くことも、ともだちと海へもぐることも出来ないんだよ」 忍田さんの手が優しく太刀川くんを撫でました。太刀川くんはとても悲しい気持ちになりました。 あれはすべて夢だったのかもしれない。太刀川くんはそう思うようになりました。太刀川くんの頭はきっと、退屈と悲しみで可笑しくなってしまったのでしょう。だから、あんなに幸せな夢を見たのでしょう。 でもまたいく日かした日。太刀川くんの座る窓の前を、風間さんが通りました。風間さんは太刀川くんに気付くと、海へ行こうと誘ってくれました。 「だめだよ、風間さん。おれには手足がないもの」 「だから、あるって言ってるだろう」 風間さんはむずかしい顔をして、まあいい、と言いました。 「海に行きたいならついてこい」 そう言うやいなや、風間さんは太刀川くんに背を向けて歩き出しました。太刀川くんは慌ててその背中を追いました。またしても、太刀川くんは歩ける夢を見ているようです。 どうしてだろう、太刀川くんは思いました。どうして、風間さんやともだちの前だと歩けるのに、忍田さんの前だとだめなんだろう。 あんまりに分からないので、それが何回か続いたある日、太刀川くんは思い切ってともだちに相談してみることにしました。 「おれ、どうしても忍田さんの前では歩けなけなくなるんだ。手足のない太刀川慶になってしまうんだ」 海にもぐって一休み。さんさんと陽の照るカフェーで、太刀川くんは聞きました。 太刀川くんのその言葉に、ともだちの多くはどうしてだろう、と同じようにむずかしい顔をしましたが、違うひともいました。 ことり、と風間さんがメロンフロオトを置きます。 「オレは、昔、透明人間だったんだ」 とても、静かな声でした。 *** ケヱス4 あさいち 風間蒼也さんにはお兄さんがいました。お兄さんはとてもやさしい声で、いつも風間さんに言い聞かせます。 「蒼也、お前は透明人間だ。だから僕から離れてはいけないよ」 お兄さんが大好きな風間さんはそれに頷きました。 「お前は透明人間だから、一人では買い物にも行けない。だって車の運転手からはお前は見えないんだから、うっかり轢かれてしまうかもしれない。声も聞こえないから、お店の人にこれが買いたいと言うことも、お金を払うことさえ出来ないんだよ。そもそも、ものに触ることが出来ないんだから、買ったものをもつことも出来ないだろうね」 だから、何か欲しいものがあるときは僕に言うんだよ?と、お兄さんはにっこり微笑みました。 「ああ、そんな悲しそうな顔をしないで、蒼也」 お兄さんの手が優しく風間さんを撫ぜます。 「僕は特別だから、お前が見えるしお前の声も聞こえるし、お前に触ることだって出来るよ。お前が他のものを触ることが出来るように、魔法を掛けることだってできるんだ!」 その言葉だけで、風間さんの胸の中はいっぱいになりました。何も怖いものなんてない、そう思いました。 風間さんはその言いつけをしっかりと守りました。どうしても欲しいものがあったとき、風間さんはお兄さんにようく、ようく頼むことを覚えました。何度も何度も、心をこめて、おねがいします、どうしても欲しいんです、こんなオレがものを欲しがるなんて浅ましいことだとは分かっています、それでも慈悲をかけてはいただけませんか。 風間さんの中でお兄さんはいなくてはならないひとでした。だって、お兄さんがいなくなったら、風間さんを認識してくれるひとは、誰一人いなくなってしまうのですから! けれどもある日、朝市へと買出しに行くお兄さんについていったことで、風間さんの世界はがらりと変わりました。 あろうことに、風間さんはお兄さんとはぐれてしまったのです。大変だ、と思いました。声をあげても、たとえば泣き喚いたって、風間さんを助けてくれるものはありません。だって、風間さんは透明人間なのです。ここで暴れたとしても、気付いてくれるひとはいません。だからと言って、じっとしてお兄さんを待つだけなんていうのも嫌でした。風間さんはもうずっとお兄さんに迷惑を掛けているのです。これ以上迷惑をかけたら、風間さんは捨てられてしまうかもしれません。 「どうした、ちび」 恐怖にぶるぶる震える風間さんに、一つの声が降り注ぎました。 あまりのことに風間さんは返事をすることを忘れていました。まさか、まさか! 風間さんが見えるひとが、お兄さん以外にいるなんて! 「迷子か?」 声を掛けてきたのは眼鏡を掛けた男でした。風間さんのお兄さんよりも年上に見えます。その言葉に風間さんは頷きながら、震える唇で聞きました。 「オレが、見えるの?」 ぱちくり、と。男は目をしばたたきました。それからどうして、と聞きました。風間さんは言います。自分は透明人間だから、普通の人間には見えないのだと。声も聞こえない、触れもしない。それをどうにか出来るのは風間さんのお兄さんだけで、だから風間さんはお兄さんの言うことをきちっと聞いているのだと。 話を静かに聞いてから、目の前の男は首を傾げました。 「そうなのか?」 ほんとうに不思議そうに傾げられた首に、今度は風間さんがぱちくりと目をしばたたかせました。 「俺にはお前が見えるし、お前の声も聞こえるけれど」 そう言ってから、男は風間さんの手を握りました。その手がすり抜けないことに風間さんはたいそう驚きましたが、男はにこにこと笑っているだけでした。 *** ケヱス5 さかみち 風間さんの話が終わってから、にこにことフロオズンヨオグルトを置いたのは林藤さんでした。林藤さんはともだちというよりは、風間さんとなかよしの大人、という感じでしたが、時々こうして飲み物をくれるので、太刀川くんは彼がすきです。 「俺も話すかー。俺はな、昔、目が見えなかったんだ」 太刀川くんの手元の檸檬スカッシュの、氷がからんと音を立てました。 林藤匠さんの目が悪くなったのは、風間さんに出会うよりもずうっと前のことでした。その頃、林藤さんにはお兄さんみたいな存在のひとがいました。本当の兄弟ではないけれど二人はとても仲良しで、毎日助け合って、時には悪さもして、たのしく暮らしていました。 それが少しずつ変わってきたのは、林藤さんの目が悪くなってきたくらいのことでした。最初は落ち込む林藤さんを、ほら、おれのサングラスとお揃いみたいだろ、と慰めていたその人は、日に日に元気がなくなっていくようでした。 ある日、その人は林藤さんの眼鏡の上から、掌を押し当てました。 「お前の目は悪くなるばかりで、もう、ほら、光も感じられない」 やさしげな声に、そうだなあ、そういうものだなあ、という思いが浮かび上がってきます。指の隙間から差し込んでいたはずの光も、徐々に消えていくような気がしました。 その日から、林藤さんの目は見えなくなってしまいました。 けれども困ることは何一つありません。何をするにも、その人が林藤さんを手助けしてくれるからです。林藤さんの目が見えなくなった日から、その人は少しずつ元気になっていくようでした。でもどうしてでしょう、本当に前みたいに戻ることは、なかなかありませんでした。それだけを、林藤さんはさみしく思いました。ですが、目の見えない林藤さんには何をしてあげることも出来ません。そんな自分を情けなく思いつつ、毎日を過ごしていました。 そして、変化というものは唐突にやってくるのです。 学校から帰る途中のことでした。林藤さんの前に立ちはだかったのは、二つも上の学校の制服でした。先輩が何の用だろう、そう思いながら目を閉じます。 先輩はうちに来ないか、と言いました。勿論、このときの“うち”とは、先輩の家ではなく先輩の学校を指します。先輩は林藤さんの夏休みの自由研究を見たと言いました。なるほど、と林藤さんは頷きます。先輩の学校はそういうことに力を入れていて、さらに先の学校ともつながりがあるので、林藤さんにとっては悪いお誘いではありません。林藤さんも自由研究の続きを、もっとやりたいと思っていました。とても嬉しいお誘いです。 ですが、林藤さんは首を振りました。 「俺はね、目が見えないんですよ。だからアンタとは一緒に行けません」 先輩がむっとしたのが分かりました。 「では何故眼鏡をしている」 「それは癖みたいなもんです。別に意味はありません」 ないと困るからね、そういったその人の顔が浮かんできたような気がしました。そういえば、どうして目の見えない林藤さんに、その人は眼鏡を掛けさせたのでしょう。ないと困る、とは。どういうことなのでしょう。 胸の中で首を傾げた林藤さんに、先輩はおおきなため息を吐きました。 「ならばどうして、お前は目を閉じたんだ」 魔法がとかれたようでした。ふいに目の辺りに入っていた力の抜き方を思い出して、林藤さんの瞼はふわっと上がりました。 目の前には顔に傷のある男が、想像した通りの表情で立っていました。 *** ケヱス6 やしき 二人の話を聞きおわって、太刀川くんはふるふると震えました。 「みんな…その、たとえばそういうひとたちをご主人様と呼ぶとして、あの………ご主人様のことが、嫌いになってしまったの?」 どきどきと、心臓の音がうるさいくらいでした。 いつか、いつか。太刀川くんは、忍田さんのことを嫌いになってしまう日が来るのでしょうか。それはとても怖いことな気がしました。 「いいや?」 答えたのは風間さんの方が先でした。 「嫌いにはなってねえよ」 笑って、林藤さんが付け足しました。 「でも、いくらだいすきな人だったとしても、俺は俺だって、決めただけだ。俺のことは俺が決める、そう決めたってだけの話なんだ」 それを聞いた瞬間、太刀川くんの心はふわっと軽くなりました。 一人で歩けない、不幸でいなければいけない、そんな状態から抜け出すことは、そんなに難しいことではなかったのです。自分のことは自分で決める、ただそれだけで良かったのです。目から鱗とは、まさにこういうことを言うのしょう。 太刀川くんはすこしだけ俯いて、ありがとう、と言いました。風間さんと林藤さんは、どういたしまして、と返しました。周りのともだちが、拍手をしてくれました。 帰り道をたどる太刀川くんは、胸の辺りがすっかり軽くなっていることに気付きました。もうこれからはきっと、自分のことを頭が可笑しいだなんて思ったり、忍田さんを嫌いになってしまうことを恐れることもないでしょう。それはとてもしあわせなことに思えました。 帰ったら忍田さんに今日あったことを話そう、そう思いました。今はまだ出来ないかもしれまんせが、繰り返すうちに忍田さんの前でも一人で立って歩くことが出来る、そう思うことが出来ました。 忍田さんにたくさん話したあとのベッドは、いつもよりもふかふかと心地好いものでした。ああ、今日はきっと良い夢が見られるなあ、ときらきらした気持ちで、太刀川くんは眠りにつきました。 *** エピロオグ 或いは蛇足 警報の音でうっすらと目を開ける。 隣で眠っていた人が、むくりと起き上がるのが分かった。 「ねえ忍田さん」 「何だ?」 浅く、息を吸う。 ―――おれの手足がなくなってしまったら、かなしい? * 20140614 *** 20200222 |