scene1.星 今でも時々思い出す。 それは木崎レイジが四つだとか、そういうまだ小さかった頃の話だ。母の兄であるその人は伯父というよりかは従兄弟の兄というくらいの歳だったけれども、母の強い言いつけにより彼のことを伯父さん以外で呼ぶことはなかった。母のどうしても外せない用事とかで彼の元に預けられたレイジは、彼の誕生日が近いことを知った。 幼子に出来ることなど限られているが、どうしてもレイジは彼の誕生日を祝いたかった。だからカッターと折り紙を何処からか探し出して来て、幼稚園で習った通りに輪っかにして繋げて、それを首に掛けてあげた。 「ありがとう、レイジ」 伯父はそれだけで大層喜んでレイジを褒めてくれたが、レイジの方はそれでは満足いかなかった。折り紙はいろんな色を使ったし首飾りは綺麗に出来たが、それでもまだ少しさみしかった。 じっと少しの間考えていて、すぐに真ん中に飾りがあればもっと格好良くなると気付いた。なので黄色の折り紙の裏に大きく星を描いて、定規を当ててカッターで切り離そうとした。 そして、誤って指を切り落として大騒ぎになった。 「…あれからもう大分経ったんだよな」 実のところ、笑い話のように語られるそれを覚えているに過ぎなかった。母は何故か伯父に会うことに対して良い顔はしなかったし、伯父の方もそれを分かっているのか木崎親子から距離を取ろうとしているらしかった。 けれども、それも終わりだ、とおもった。 今日から暫くの間、レイジは伯父・林藤匠の家でお世話になる。一緒に暮らしている母が勉強のために外国へ行くためだった。母がどういう心変わりをしたのかは知らなかったが、そこそこに伯父が好きなレイジとしては喜ばしいことだった。もう既に大学生であり、実家通いを続けているとは言え親元を離れたくらいで不安になるような心の持ち主ではない。 母が出掛けに書いていった住所のメモを握り締める。 星が作れたのかどうかは、覚えていなかった。 *** scene2.こども ひょい、と覗いた家の庭では、子供が花壇に水やりをしていた。家を間違えたかと思ったレイジに、子供はあ、と声を上げる。 「たくみ! レイジ来たぞ」 子供が家の方を振り返ってそう叫ぶと、二階辺りからどたばたと音がした。 ぽかん、とレイジはその子供を見つめる。五歳くらいだろうか。まだ小さい。記憶の中の匠とはそこまで似ていないように見えた。 「ええと、オヒサシブリです」 子供はぺこっと頭を下げる。レイジの記憶の中の匠は結構いろいろなことがてきとうな人であったが、子供の躾けというのはしっかりやれたらしい。意外だ、と思いながら子供をまじまじと観察した。お久しぶりということは、会ったことがあるのだろうか。子供の記憶に残る程度ということは少なくとも数年以内に会っていることになるが、困ったことにレイジにその記憶はない。 「…悪い、伯父さんに息子がいるだなんて知らなかった」 「あ、そっか。前一緒だった時はおれもとっても小さかったから、憶えてないもんな」 子供に覚えてないなどと言ったら泣かれるかと思ったが、子供は何やら納得したような顔をするだけだった。 「でもおれはすぐ分かった」 にこっと、子供は笑う。なるほどなるほど、などと続けるのが何処か理屈っぽくて、似ていなくてもこの子供は匠の子供なのだな、と思った。 がたがた、と玄関の向こうで音がする。どんっ、とした音は匠がコケた音かもしれない。 子供が仕方ないな、という顔をして扉を開ければ、その向こうで芸術的な着地をしている匠と目が合った。 「やー久しぶり!」 上げられた手に会釈を返すと、よいしょ、と匠が立ち上がる。 「お久しぶりです」 「随分アイツに似てきたなあ」 背伸びをして自分よりも高い位置にあるレイジの頭を、匠はわしゃわしゃと撫でた。 こういう子供扱いが、レイジは実は好きだった。身体が大きく、元々大人しい気質なレイジは早々に母の手を離れてしまって、子供扱いなんてほとんどされなかったから。 「とりあえず、上がれよ。部屋、案内するから荷物置きに行こうぜ」 「はい。お世話になります」 上がった家は、二人暮らしにしては広かった。 「最後にお前と会ったのって、小学校上がる前だったっけ」 「そうだと思います」 「随分長いこと会ってなかったんだな。俺のこと忘れてたんじゃねーの?」 けらけらと笑う匠に、いいえ、とレイジは返す。 「忘れたことなんてありませんでしたよ」 「そっか」 僅かに目が細められた。 「そういや、左手の薬指は?」 言われて左手を差し出す。さっき思い出していた、切り落としてしまった指だ。それだけ印象的な大事件だったと言えばそれまでだが、同じことを思い出していたのだとくすぐったくなる。 「ああ、綺麗に治ったな」 よかった、と匠は言った。 此処がお前の部屋だ、と着いたのは広めの和室だった。 「和室大丈夫か?」 「問題ないです」 抱えたままだった荷物を置いていく。 開け放たれた窓の向こう、中庭をさっきの子供が駆けていくのが見えた。 「他の部屋も案内しとくよ」 「お願いします」 とんとん、と階段を上がっていく。 「夏休みはいつからだ?」 「来週からです」 洗濯カゴを抱えた子供は、そのまま洗濯物を干しに行くようだった。まだ小さいのにしっかりしている。 「ヒトとしての生活は順調か?」 その質問には、少し引っかかりを覚えた。 覚えたが、ええと、多分、と返しておいた。 *** scene3.指 階段を上がった先は書斎のようだった。 「こっちが俺の仕事部屋。で、そっちは陽太郎の部屋なー」 「陽太郎って言うんですか」 「良い名前だろ」 「良い子に育ちそうな名前ですね」 ベランダから洗濯物を干す陽太郎が見えた。視線に気付いたのか、こちらを振り返って大きく手を振ってくる。可愛らしいな、と思った。元々子供は嫌いじゃない。 「伯父さんは確か、植物の仕事してるんでしたよね」 「そー。植物発生学が専門」 難しそうな本の真ん中に、額縁を見つけた。あ、と声が漏れる。 「これ、まだ持ってたんですか。丁度来る時に思い出してたんです」 紙で出来た首飾り。それがまるで何か特別なもののように、虫ピンできれいに止められて標本のように飾られていた。 「…なんだ」 その真ん中には、何もない。 「結局星は作れなかったんですね」 額縁を元の場所に戻して、自分の左手を見る。傷跡一つ残っていない、薬指。 「指は生えたみたいに治っているし、夢だったのかと疑ってました」 「落ちちゃった指は挿し木にしてさ、」 匠の指がベランダの方を指差す。 「今日も元気に洗濯してるよ」 ぱん、と。丸まった洗濯物を伸ばすその音が、ひどく響いて聞こえた。 「聞いてると思うけど。俺が植物細胞の全能性、簡単に言うと一部から全構造と機能を再生する能力な、それを医療目的でヒトに応用する研究をしてた時に、お前の親父さんが失踪してな」 つらつらと語り始めた匠に、大した表情の変化は見受けられない。 「妹がどうしても夫との子供が欲しいって言って聞かなくて。まぁ俺にとっても良い義弟だったし、研究も上手く行ってたし。人の助け借りられないから作るのは大変だったけどさー。骨と皮膚の役割を同時に果たす細胞壁とかホント、出来た時は夜中なのも忘れて酒盛りしたよね」 いやあホント、なんとかやってみるとか安請け合いするんじゃなかった、と匠は頷く。 「丈夫で柔軟で、不便ないだろ? まぁ中の繊細なプロトプラスト同士の癒着とか、DNA位置が定着しなかったり、途中蛹みたいにこもり始めちゃうわであれこれ面倒なことは山のようにあったけど」 「あの」 遮る。 「何の話です?」 時が、止まったような気がした。 ぱち、ぱち、ぱち。きっかり三回瞬きをしてから、匠は立ち上がる。 「風呂はあっちで、洗面台も下にあるから」 「ちょっと待って下さい、すごい大事な話のような気がしたんですが」 伯父さん、と慌てて追いかける。階段を下りて少し行ったところには風呂場と洗面場があった。しまったなぁ、と呟いている匠に追いつく。 「うちに寄越す時には話しておくって約束したんだけど。忘れてんのかわざとなのか…アイツ俺のこと嫌いだろ…」 アイツとは聞くまでもない、レイジの母であり匠の妹のことだ。 洗面所の大きな鏡の中からは、いつも通りのレイジが見返して来ていた。 「お前の見かけはヒトだけど―――」 *** scene4.適応 青い、という言葉が降って来た。見上げると、同じサークルの同級生が心配そうにレイジを覗き込んでいる。 「お前ってガタイ良い割りに白いんだよな。今日なんか磨きかかってる気がするし。調子悪ィの?」 「緑っぽくはないか?」 反射のようにそう聞いたら、え?と困ったような声が返って来た。それから、別に緑っぽくはないけど、と言われて、そうか、と胸をなでおろす。 「なら平気だ」 大学の隅の植物園は、園芸サークルが管理している。その中に立っていると、耳の裏がどくどくと痛むような気がした。 バスに乗って林藤家へと戻る。玄関でただいま、と声を掛ければリビングにいた匠がおかえり、と返した。 「バス通い大丈夫そうか。前チャリだったんだろ?」 「まぁ、時間は掛かりますけど…」 そんなことより、と鞄を置く。 「日に当たりすぎではないかとか、水を飲み過ぎではないかとか、突然森の声が聞こえてきて環境保全を訴えて来たらどうしようとか…そういう心配があとからあとから沸いてきて忙しいです」 「お前見かけ真面目なのに大分ファンタジックな思考してんのな…」 外国のものらしい雑誌を捲りながら匠は苦笑する。何が書いてあるのかレイジには分からないが、きっと専門分野の論文なのだろう。 「そんな簡単に植物がヒト型になるかよ。全部嘘だ」 「ほんとですかっ」 「ってことにできねーかなーって思ってる。急すぎたな。悪ィ」 あまりに真面目くさった顔で謝られては、何を言い返すことも出来ない。 はぁ、とため息を吐いて、レイジは机にふさった。 「まぁ、まだ全然信じていませんけど。でも指は生えてるし、料理でも出来るし、困ったことがないから困るんですよ…嘘なら嘘ってはやめに、」 「ホントホント」 「はやい上に軽いです…!」 わーっと頭を抱えれば、陽太郎がとてとてと寄って来た。 「そんなになやむな、レイジ」 はい、と差し出されたのはグラスだった。中にはオレンジジュースが並々注がれている。ありがとう、と言って受け取った。 陽太郎があれこれやりたいと言うのを、匠は尊重しているらしかった。…というのはきっと建前で、元々匠がものぐさな所為なのだろう。 「これからもきっとだいじょぶだ。おれ、八百屋さんでもお花屋さんでもバレたことないんだ!」 にぱっと笑った陽太郎は、とても可愛らしかった。 *** scene5.夕食 とんとん、と包丁がリズミカルに動く。 「陽太郎は、」 少し声を潜めれば、リビングでテレビを見ている陽太郎には届かないだろう。別に、聞かれて困る話でもなかったが。 「オレの指だった………っていうのも嘘じゃないんですね」 「信じられないなら直後からのインターバル撮影見せるけど」 「グロ方面は勘弁してください」 「お前の指だろ」 「もう別のヒトです」 剥いた豆を沸いたお湯へと入れる。みるみる色が変わっていくのが、遠くの出来事のようだ。 「ご飯、まだー?」 「もうちょっとー」 台所に顔だけ覗かせた陽太郎とミートボールを用意する匠の遣り取りを、レイジはただ黙って聞いていた。 いただきます、と三人で声を合わせる。 「レイジの家ではおゆはん何時だった?」 「決まっていた訳じゃないが、もう少し遅かった」 「だいじょぶか? たくみは気が利かないから言わないと分かんないぞ」 「いや、大丈夫だ」 そんな会話をしていると、かしゃ、と音がした。 「面白いな」 音の方を向くと匠がハンディカムを構えている。 「箸をつけるおかずの順番が同じだ」 「偶然でしょう」 「たくみ、はやく食べないとご飯冷めちゃうぞ」 「いーや、昨日も同じだったね。フィルム余ってたかなー」 「冷えたお米嫌いなくせにー!」 陽太郎の文句も素通りに、匠はがたがたとものを取りに行ってしまう。 「いっつもこうだ」 ぷすーとふくれた陽太郎がミートボールを口に放り込む。 「記録おたくなんだ、たくみは。子供っぽくてこまる」 「はぁ…」 子供に子供っぽいと言われてしまう匠に突っ込むべきなのか、それとも見た目に反して陽太郎がしっかりしすぎていることに突っ込むべきなのか、レイジには分からなかった。 *** scene6.朝 休日。 起きて階段を降りてくると、もう陽太郎は外の花壇に水やりをしていた。 「おはよう、レイジ!」 「おはよう、陽太郎」 言葉を交わすと、陽太郎が中庭から上がってくる。そうして洗面所で手を洗うと、とたとたと寄って来た。 「おやすみなのにはやいな!」 「此処に来てから朝はやいからな。癖だ」 「いいくせってやつだな」 「そうだな」 レイジが目玉焼きを焼いている間に、陽太郎が牛乳を用意して、パンを出してくる。そうして席について、いただきます、と声を揃えた。 「はやおきはたくみに見習って欲しいな。たくみは何も予定がなければ遅くまで起きてるし寝てるから」 「…朝食はどうしていたんだ」 「パンとか。あっためるだけでいいやつが冷蔵庫にはいってた」 「なるほど」 朝食後は二人で洗濯物を干した。 「レイジは背が高いから、洗濯物干すのがすぐ終わるな!」 きらきらと笑う子供が、美しいと思った。 「…陽太郎は、オレの指だったって言われたけれど…。そうとは思えないくらいしっかりしてるな」 「そうか? レイジはおれがちっちゃいからそう思うだけじゃないか?」 こてり、と首が傾げられる。それが純粋な疑問符の形だと、そう言ったのは誰だっただろうか。 「おれはなかなかおっきくなれないんだって。もともと指だったからか、ええと…ほっとくと変な形になっちゃうんだって。腕が五本とか、脚が四本とか。そういう。そっちに栄養が行っちゃうし、暮らすためにはそれをととのえないといけないから、なかなかおっきくなれないんだ」 ぽつぽつと語る陽太郎は楽しそうだった。 「たくみはがんばってるけど、おれを枯らさないようにするだけで、ほんとは精一杯。おれ、知ってるけど、知らないふりをしてるんだ」 「…やっぱり、オレの指だったなんて思えない。オレよりしっかりしてて、全然似てなくて、正直実感がわかないな」 「そうか?」 カンキョーの所為かな、と陽太郎は笑った。たくみはほっとけないから、そう言って、空を見上げる。 「いい天気なのにな」 レイジは頷いた。 「どこかに出掛けたいくらい」 声が合わさる。顔を見合わす。 「公園とか?」 またぴったり合った声に、二人同時にふき出した。 *** scene7.公園 フリスビーが飛んでいく。本当は野球ボールとかの方が良いのかもしれなかったが、あの家を探しても出てこなかったのだから仕方ない。フリスビーは代用品だけれども、ないよりマシだ。 レイジと陽太郎が日の下で遊んでいる傍ら、匠は木陰に寝そべって本を読んでいた。元々日光に弱い体質らしいとは聞いていたから、無理に日の下に引きずり出す訳にもいかない。けれども陽太郎がうずうずと匠の方を見るので、仕方ない、とばかりにフリスビーの狙いを変えた。 すぱーん、とフリスビーが匠の鼻を直撃する。痛い!と悲鳴を上げる腹の上に、更に悲鳴を上げた陽太郎がどすっと乗った。 「たくみもやろう! おひさま苦手は仕方ないけど、最近おなかがぷよぷよしてきたぞ!」 「うっ」 「おさけ! おさけのみすぎなんだ」 「お、お前…五歳児相当の癖にいらんことばっか覚えやがって…」 どうやらコケたらしい。それでも謝らないところが陽太郎らしい。 レイジは小走りで二人のところまで行く。 「脇腹がつかめるのはやばいらしいぞ!」 「わかった…わかったから上から退い…」 あ、と声があがった。 どすん、先ほどとは比べ物にならない重量に、匠は悲鳴すら上げられなかったらしい。 「…すみません」 「だ、だいじょうぶ…」 陽太郎と同じところでコケたレイジは身体を起こして謝る。 「おれたち、やっぱり似てるみたいだな」 陽太郎の笑みだけが、木陰の中で太陽のように輝いていた。 風呂から上がると、また陽太郎は中庭にいた。 「お風呂とめたか? たくみはシャワーしか浴びないんだ」 「ああ」 「ありがとな」 裸足で、柔らかい草の上を駆けていく。 その背中の小ささを思うと、なんだかひどく胸が痛んだ。 *** scene8.約束 庭の低木の様子を見ているらしい陽太郎は、振り返らなかった。 「今日は楽しかったな」 「うん」 それを振り返らせたくて、言葉を探す。 「伯父さんの運動にもなっただろうか」 「なったと思う。あんなに動くたくみは久しぶりにみた」 何かを摘んでいるらしいその手は、やはり小さかった。自分のものだったと言われても、未だ信じられない。 「また、何処か行きたいな。なぁ、レイジ。夏の真ん中は何処が良いと思う?」 「海とか?」 やっぱり!と、陽太郎はやっと振り返った。 おれもそう思った、そう言われてレイジもまた、笑う。 「秋は?」 「薔薇園」 「おれもそう思ってた!冬は?」 「冬は………難しいな」 「ならおすすめがあるんだ。星の勉強!いつもはこどもだからだめっていうたくみが、ホットサングリアをちょこっとだけだけどくれるんだ。燃える星の味がするから、おれはすき」 楽しそうに語ったそれは、きっと匠との大事な思い出なのだろう。 「おれたち、双子みたいだな」 陽太郎は悪戯っぽい笑みを湛えたまま、そう言った。 「…双子というより、兄弟だろう」 「そっか、兄弟か」 そっか、ともう一度呟いた陽太郎は、もう寝なくちゃ、と足を払った。 「良い夢を、兄ちゃん」 足音も立てず、二階へと駆け上がっていく。 その瞬間、レイジは理解した。 布団に入っても思い出すのは陽太郎の後ろ姿。音もなく駆け上がる足も、草を摘む手も。 「全部、オレの指だった」 欠けていない薬指を見つめる。 「オレのものだったんだ」 外では雨が降り始めていた。 雨の中、声を聞いた。 「たくみ、一緒に寝よう」 「レイジいる間はやめるって言ってなかったか」 「べつに、いいだろ」 「はいはい。入れって」 「声が大きい、レイジ起きちゃうぞ」 「お前の方がな。大丈夫だ、雨の音が掻き消してくれる」 それは、夢かもしれなかった。 *** scene9.やじるし 一週間はあっという間に過ぎて、レイジの夏休みが始まった。 暇なら料理は頼んだ、という匠の怠惰な方針によって夏休みの間の台所当番はレイジになった。元々料理は趣味だったし、陽太郎が喜んでいたので快く引き受けた。 夏休み中も植物園の世話はある。その当番の日付を、カレンダーへと書き込んでいった。植物園の植物たちは相変わらず元気で、自分も同じ種族なのだとは思えなかった。 「ほんと、レイジは料理上手いよな」 匠は毎回褒めてくれた。時には頭を撫ぜて。あれが美味いだのこれが気に入っただの言ってくれるのも嬉しかった。 「こんなに美味しい料理が作れるなんて、おれ、レイジの指をやめてもったいなかったかもな」 陽太郎は時々羨ましそうな顔をした。それに対してレイジは、教えてやる、と言うことくらいしか出来なかった。 「陽太郎がレイジくらい料理出来るようになったら、俺なんにもしなくて良いなー」 「おれが料理出来るようになったらまず、たくみに料理教える」 「それがいいな」 「お前らほんと仲良しだなー…」 俺だって出来ない訳じゃ、と匠が何処からともなくビール瓶を取り出すと、途端に陽太郎が騒ぎ出した。 「あったくみ、だめだ! 今日はもうおさけ飲んだだろ!」 「飲んだって昨日のあまりじゃん」 「その…なんだっけ、ツミカサネ! それがだめだって!」 「その知識源は何処だ? レイジか?」 その遣り取りを、レイジはぼうっと見つめていた。 こういうのを、幸福と言うのだろうか。そんな疑問が浮かんでくる。 「そうだ。もうレイジは夏休みになったんだから、何処か行こう!」 「それもそうだな、何処が良い?」 「それなら打ち合わせ済みだ!」 陽太郎がレイジを見る。 「なっ!」 「…ああ」 その隣で匠がビール瓶を奪っていったのは、見なかったふりをした。 *** scene10.海 ざぶん、と波の音がする。 「海には浸からない方が良いと」 「分かってる。何度もきいた」 こういう時こそカメラを回すべきなのにな、と言った陽太郎は振り返らなかった。 匠は荷物を見ていると言って、木陰に座り込んでいた。岩を回りこんで来た此処は、レイジと陽太郎の二人しかいないような錯覚を起こさせる。 「せっかく海に来たのにって思うけど、おれたちは特別製のにせものだから、仕方ないよな」 でも思い出くらいは欲しい、と陽太郎はしゃがみ込む。 「貝。ないかな」 「貝か」 「耳に当てたら、海の音が聞こえるような、貝」 その背中がいつもよりいっとう小さく見えて、一歩踏みだそうとした。 あ、と声が漏れる。 「どうしたの、レイジ」 「サンダルが壊れた」 片方の鼻緒が無残にも千切れていた。振り返った陽太郎に見せると、少し難しい顔をした。 これは、千切れても戻らない。 そう、思っているのかもしれなかった。そうだったら嬉しかった。レイジも、同じことを思っていたから。 「たくみのところに戻ろう、レイジ。足、痛いだろ?」 「貝は良いのか?」 「だいじょぶ。おれたちは千切れても平気だけど、センサイだろ。傷がついてからじゃ遅いって、いつもたくみに言われてる」 「…そんなの、世界でたった二人だな」 すたすたと歩いて行く陽太郎のあとを、レイジはゆっくりと追いかける。 「おれ、レイジがうちに来てくれて良かった。おれ、ずっと兄ちゃんが欲しかったんだ。こないだ呼んでみて、それが分かった。レイジなら、兄ちゃんの役をやってくれる。歳は離れてるけど、双子みたいな、優しくて大きい兄ちゃん」 波の音の合間に絡まって、幼子特有の高音は不思議な響きに聞こえた。 「普通の殖え方をしないおれたちは、どんな役でも出来るんだな。そうやって…三人で、ずっと。親子、みたいに暮らしていけたら」 夢を語られているようだった。それを壊しかねないものを持つレイジは、さながら悪魔だろうか。 「きっと、楽しいよな」 岩をもう少しで回り込む、というところでやっと、言葉が転がり出た。 「お前とまた一緒になりたいから、兄の役は出来ない」 陽太郎が、振り返る。その顔には今までみたこともないくらいに表情がなかった。 けれどもすぐに満面の笑みを浮かべると、 「レイジ、なんか言ったかー? 風の音がすごくて、全然聞こえないんだ!」 レイジに向かって手を振る。いいこと思い付いた、と陽太郎は叫ぶ。 「おれ、たくみのサンダル借りてくる! レイジはそこで待っててなー!」 ああ、悪魔になれたら良かったのに。 *** scene11.えらんだひと すこーんと、だめになったレイジのサンダルが、匠の読んでいた本を直撃した。 「どうした、陽太郎」 「どうもしてない」 むすっとした顔で、陽太郎は匠の腕の中へと入り込む。 「告白されたんだ。レイジに。戻ってこないかって」 「はは、アイツそういう渋いの似合うな。脳内再生余裕」 「まじめな話だ!」 「はいはい真面目に聞いてるってば」 ぽか、と一発胸を叩く。 「大切な、ヒトなんだ」 「うん」 「おれを作ってくれたし、やさしいし、朝ちゃんと起きるし」 「…うん」 「でも、違う。家族だったら良いなっって思うけど、違うんだ。くるしい。すごく、こまる」 どうしよう、と陽太郎は呻いて、そのまま頭を埋めた。匠はその頭を優しく撫でる。 「おれ、レイジをさみしいところに置き去りにした。おれがいちばん、そういうのきらいなのに」 「そっか。………家族なら、迎えに行かないとな」 答えはない。 匠はため息を吐いて、また笑った。 「お前は忙しそうだから、俺が代わりに行くか」 「…そうだ」 くぐもった声がして、細い腕が伸びてくる。匠の首筋に、まるで予めそう決められていたかのように、陽太郎の腕が縋り付く。 「朝はたくみの父親で、母親で、昼は息子で、夜は恋人で、おれはそれが幸せなんだ。毎日まいにち、この胸がいっぱいになって、心配で、幸福で………多分、レイジのところにいたら、こうはならなかった。レイジのとなりだったら、きっと、さみしいしかなかった」 「…さみしい、か」 「だって、レイジは、ほんとは、おれのことを見てるんじゃないんだ」 ぎゅうと、陽太郎の腕に力がこもった。 「たくみと同じで、おれのこと見てる訳じゃないんだ」 「…ごめんな」 「ううん」 首が振られる。 「たくみはこれからおれのこと見てくれるって約束してくれた。それだけで充分だ」 じゃあ迎え行ってくるから、と背中を軽く叩くと、腕が外される。 「さっき言ったこと、レイジには内緒にして」 「分かってるよ」 たくみ、と歩き出した背中に追い付く声。 「おれ、レイジの身体が懐かしいなんて、思ったこと、ないから」 振り返った先では、さっきまでの涙声が嘘のように陽太郎が笑っていた。 「たくみのとなりはあれこれ忙しくて、そんなこと思う暇なんて、ないんだからな」 「…はいはい、分かってるよ」 海の音が、煩かった。 *** scene12.あいしてくれるひと ぎくしゃく、していないと言ったら嘘になる。そんな家の中で、レイジは黙々と朝食を摂っていた。中庭ではもう陽太郎が動いている。長い切れ味の良さそうな鎌を持って、草刈りをしていた。 「手伝うか」 「だいじょぶ。もう終わる」 レイジはそのとなりに座り込む。 「陽太郎。この間の、海の、」 「レイジ。枝と根だったら、どっちがすき?」 「枝だろうか。どうしてだ?」 ざくり。 目の前で、陽太郎の腕がころん、と落ちた。 目を見開いたまま動かないレイジの前で、陽太郎は腕を拾う。 「ほんとは聞こえてた」 その顔は五歳児に不似合いなくらい、かなしそうに眉根を下げていた。 「きこえないふりしてごめんなさい。嘘はいけないことだって教わってたのに」 言葉が見つからないレイジを、陽太郎は真っ直ぐ見つめていた。 「でもおれはまだ小さくて、ヒトのことをあんまり知らなくて、ずっとどうしたら良いか分からなくて悩んでた。レイジは………おれにとって、とっても大切なヒトなんだ。レイジがいなきゃおれは生まれなかった。親、とか。ヒトはそう呼ぶのかもしれないけど」 陽太郎が大きく息を吸う。その先の言葉を、きっとレイジは、ずっと知っていた。 「でも、おれ、やっぱりたくみのとなりが良い。たくみじゃなきゃだめなんだ」 思い出すのは、星のこと。あの紙の首飾りの真ん中、つけられなかった星。 「昔、レイジがたくみを祝福するためにつくろうとしてくれた、あの星の代わりがおれだった。だから、おれは、たくみの胸でないと落ち着けないんだ」 つけられなかったんじゃなかった。つけなくてももう完璧だって、心の何処かでは分かっていた。 「だから、だから、ツミホロボシじゃあないけど。おれに出来ることは、これくらいしかなかったから」 差し出される腕。力を失ってつくりもののように、中途半端に手を開いた白い腕。 「レイジのことを想って切ったんだ、きっとレイジのことをうんとすきになってくれる。レイジがたくみのためを想って切った指が、おれになったように。おれがレイジのことを想って切った腕は、きっとレイジをあいしてくれる」 どうぞ、と残してまるで電池が切れたように、その身体は後ろへと倒れ込んだ。すべてを知っていたように、匠がそれを受け止める。 慌てて片腕を受け取ったままの状態で、レイジはただ二人を見つめていた。 *** scene13.成長 中庭の影になったところで、レイジはべったりと臥していた。何をやる気も起きなかった。今日は植物園の世話当番なのに、もうそろそろ家を出ないといけないのに、世界が今すぐ終われば良いとすら思った。 「…そんなに本気だったの」 「当たり前でしょう。本気じゃなかったら言いません」 階段を降りて来た匠が、その後ろに立ったのが分かる。 「ショタコン…」 「その言葉熨斗付けて返してやるよ。ついでにナルシストもおまけしてやる」 「いりませんて」 はは、と笑い声が上がった。 「陽太郎は一ヶ月くらいで塞がるよ。お前の方は整形までちょっとかかるな」 「俺の心の傷はそんなものでは」 「挿し木の話な。暫くは水につけとけ」 陽太郎からもらった腕は、匠の用意した水瓶に差し込んだままになっていた。あれが、ヒトの形になるのか。陽太郎も同じだったはずなのに、あれほど本能で理解したのに、どうしてもその様を想像出来ないでいる。 「陽太郎は嬉しかったろうよ」 「何ですか、勝者の余裕ですか」 「ひねくれんなよ。お前みたいに真面目な奴がひねくれるとロクなことがねえんだから」 起き上がった頭に、掌が乗せられた。 「挿し木の世話はするんだろ」 「…無理です」 「惚れた男の頼みなのに?」 ぐっと唇を噛む。 「…アンタが、言いますか」 「はは、悪い悪い。世話は園芸種の薔薇よりも楽チンだよ」 「そんなわけ、」 思わず声を上げた。歩き出していた匠が振り返る。 「お前なら、出来る」 そんな顔をされてしまえば、何を返すことも出来なかった。 *** scene14.はじまり 千切れても平気。 陽太郎の言葉が思い出された。ごとん、とバスが揺れる。振られたばかりで傷心のはずなのに、浮かぶのはあの腕のことばかりだった。 ヒトの、世話なんて。植物は腐るほど世話をして来たが、ヒトは流石に無理だと思った。それも植物の一種だと言われてしまえば何も言えないが、そもそも植物は喋らない。 「…あの人に、頼んでみるか」 自分の母親のことなのに、ひどく久々に思い出した気がした。そういえば、もう此処へ来て一ヶ月が経っていた。そろそろ連絡があっても良さそうなのに。 もう通い慣れた道を通る。玄関のノブに手を掛ける。 ほぎゃあ、と声が聞こえた。赤子の泣き声に聞こえた。 首を傾げながら入る。 「ただいま」 「ああ、おかえり」 匠の抱いているものに目が行った。 人間の、赤子のように見えた。 「陽太郎だよ」 言葉を失う。 「雑菌が入って多めにすいたから、個体強度が下がってな。お前ももし自分で剪定するつもりならその辺気をつけろよ」 とんとん、と背中をさすりながらあやす姿は慣れているように見えた。“なかなかおっきくなれない”というのは、こういうことでもあったのだろう。 「あと妹から留守電入ってたよ。帰るの伸びるって」 あの、と言葉が転がり出たのは半分くらい衝動だった。 「多分、迎えに来ないです。薄々気付いてたんだけど、言い出せなくて。俺、母に捨てられたんです」 言葉にしてしまえば、簡単なことだった。 「あの人、今度再婚するから。それに気付いてたから、焦ったのかもしれないです」 「…そうか」 そう呟いた匠の声は、何ともつかない色をしていた。 「そうか。アイツ以上に、あいせる人が出来たんだなあ…」 それで、すべてに合点がいってしまった。陽太郎の時よりかは薄いけれども、きっとこれも本能に刻み込まれたものだった。 ―――オレ、たくみさんが好きなんだ。 ―――オレは、林藤さんが好きなんです。 わんわんと響くふたつの声。混ざっていた、それでも不思議ではない。何度も繰り返せばそれがどちらのものか分からなくなって当然だ。 「もう、焦らないか」 「…はい」 「なら安心して任せられるな」 「はい」 青空が綺麗だった。まだ夏は真っ盛りで、レイジの夏休みも残り一ヶ月以上ある。大学が始まるまでに、きっと彼もかたちになるだろう。 「不甲斐ない俺だけど、お前とちゃんとした家族になりたいと、そう思う」 与えられた畳の部屋はそのまま。 「だから、これからよろしくな」 水に浮かんだ白くて細い手が、頷くように揺れていた。 *** 20141006 20140907 編集 |