カロリー・ゼロ。 0.うさぎの心臓 発端はただの事故だった。 前が見えないくらいの書類の山を運んでいた菊地原が段差に躓いて、ちょうどそこを通りがかった時枝がその身体を支えようと、反射的に手を伸ばした。うまくいけば菊地原の身体は支えられて、可哀想な書類たちだけが床にばらばらと散らばるだけだったろうに。菊地原の持っていた書類が動いたことによる重心移動によって、 「あ」 そんな気の抜けた時枝の声と共に、二人は床へと倒れ込んだ。 いったぁ、とため息を吐く。 「もう、ちゃんとささえ…」 てよ、それでもA級なの、と続くはずだった言葉は途切れた。どくどく、と煩い程の心音が聞こえる。勿論、それは菊地原のものではない。 早鐘。そういって間違いのないその音は、たった今事故によって菊地原が押し倒す形になった、時枝の胸から聞こえてきていた。 「ごめん、支えきれなかった」 見上げてくる顔はいつもと変わらない、眠たげな印象を受ける表情。 「菊地原、退いてくれると嬉しいんだけど」 その言葉に黙って従うと、菊地原は時枝に手を差し出す。 「え、ありがとう…」 驚いたように目を見開いて、それから少し笑って。 その手が触れ合った時、また、その心臓はうさぎのように跳ねた。 * 20140502 *** 1.ライオンの爪先 時枝を立たせてそのまま、繋がれた手を引いて手近な小会議室へ入る。え、なに、と戸惑いを見せはしたものの、時枝は大した抵抗もなく付いてきた。 「菊地原、書類」 「いいから」 がちゃり、と鍵をしめて、置いてあったパイプ椅子へと腰掛ける。まだ手は離さない。 「ぼくのこと、すきなの?」 相変わらず変化のない顔を見上げて問う。 すると次の瞬間、その心臓は面白いように脈打った。 無意識のうちに後ずさろうとしたのを、繋がれたままの手が引き戻す。 「ねぇ、時枝。答えてよ」 ぼくがきいてるの。子守唄でも聞かせるみたいに、甘えた子供が飴でもねだるように。そういう声で鼓膜に滑り込む。 そうして暫くすると、その首はこくり、と縦に振られた。 「うん、すき」 いつも通り平坦な言葉。ふぅん、とそれに一つ頷いて、脚を組む。 「へぇ、そうなんだ」 面白いことを聞いた、という表情で。じゃあ、と菊地原は微笑む。 「ぼくのことすきだっていうなら、ぼくの言うことくらい聞けるよね」 それを端的に表現するのならきっと、小悪魔、というのが正しいだろう。 「舐めなよ」 そう言ってふい、と振ったのは爪先。 さて、どう出るか。死刑を言い渡してみたような気分で、菊地原は時枝を見つめていた。 *** 2.孔雀の掌 「え、菊地原ってそういう趣味なの」 ちょっとヒいた、でも違和感ないね。やはり変わらない表情とは裏腹に、その心臓は追い詰められたように跳ねた。聞こえていると気付いていないのだろうか、菊地原は繋いだ手に力を込める。 「そういうの、いいから」 はやくやりなよ、と言えば、きょとんとした顔がこちらを向いた。 「いや、オレ、そういう趣味ないし」 やらないよ、何でやると思ったの。ちょっと分からない、と眉根を寄せて見せた表情は、それでも希薄だ。 「ぼくのことすきなんでしょ」 「すきだけど、言うこと聞くかどうかは別の話でしょ」 ぱちぱち、と瞬(しばたた)かれるうちに、消えていく。 はい、この話はおいしまい、と言わんばかりに、時枝の手が菊地原の手からすり抜けていった。 「書類、拾うの手伝ってあげるから」 なんなら運ぶのも、そう一度振り返った時枝に、当たり前でしょ、と菊地原も立ち上がる。 流されてしまったのは分かったけれども、不思議と不快には感じなかった。 *** 3.トカゲの背中 それからというもの、菊地原は時枝に会う度にスキンシップを試みるようになった。菊地原が触れる度に、あのポーカフェイスの下では心臓がうさぎのように跳ねるのだと思うと、なんだかそれはとても面白いことのような気がしたのだ。 肩を寄せる、手に触れる、腕を掴む。最初はそれくらいだったのが、どんどん面白くなってきて、それだけでは物足りなくなった。腕に縋る、首に手を回す、後ろから抱きつく。その度にうさぎのような音がして、ああ、と満足感が広がっていくのだ。この音が聞けるのは自分だけなのだと、そう思ったらこれは誰の手にも渡らないのだと、優越感のようなものまで付いてきた。 「仲が良いな」 人目も憚らずにそんなことを繰り返していたため、そう言われるまでに時間は掛からなかった。 一番最初にそう指摘したのは風間だった。隊の訓練の合間に連れ立って食堂へ向かう、その途中で見慣れた背中に抱きつく。 「う、わ、って菊地原か」 もうこの頃には一番この風景に立ち会うことが多かったであろう歌川は、ツッコミを放棄していた。彼曰く、時枝が嫌がっていないなら自分の口を出すことではない、だそうで。そうなれば菊地原を止める者は事実上いないも同然になった。 「突然抱きつくのはやめてよね」 「何で?」 「びっくりするから」 ほんとうに、それだけ? と問わなかったのは周囲に人がいるからだ。流石の菊地原でも、秘密にされるべきものを勝手に露見させるような、そんな真似はしない。 そんなやりとりを眺めていた風間がぽつり、言ったのが先ほどの台詞だった。 「当たり前です」 え、と固まる時枝に構わず菊地原は言う。 「だってときえだだもんね」 その言葉に、また心臓の跳ねる音がした。 ほう、と呟いた風間の観察するような視線。逃げたくても逃げられない、そんなふうに思っているのが丸わかりの背中を抱き締めながら、菊地原はとくり、と自分の胸で鳴る音を聞く。 「ん?」 「なに、どうしたの」 後ろの菊地原を見ようと、時枝が振り返る。 「…べつに」 「そう」 なら良いけど、と視線は逸らされた。そのまままた少し、気まずそうな空気に戻る。 その背中に隠れるようにして、菊地原は小さく、本当に小さく首を傾げてみせた。 *** 4.かえるの脛 球技大会が面倒で、仮病を使って抜け出した。短距離走や長距離走とかいった個人技ならまだしも、チームを組んでのスポーツは苦手だ。そもそもボーダー隊員はその時に入れるかどうか分からないものなので、最初から助っ人くらいにしか考えられていない(勿論、例外もいる)(歌川なんかは最初から数に入ってたりする)。保健室に行く代わりに校舎と校舎の間の、道路に面しておらず、喫煙所からも死角になっている、そんな場所へと向かった。 生徒の間では比較的有名なサボりスポットではあったが、いつしかそこに集まるのはボーダー関係者ばかりとなり、それ故に一般生徒はあまり来ない場所になっている。そういう訳なので先客はいるかもしれなかったが、菊地原としては誰がいても、殆ど知らない人間とチームを組んで仲良しこよしやるよりは、そちらの方がましと思えた。 けれども。 「…あ」 「…あれ。菊地原?」 正直、これは予想外だった。 「何でいんの、時枝」 「んー、なんとなく」 曖昧にそう言って、時枝は膝を抱え直す。それ以上は言うつもりがないようだった。菊地原にも、追求する理由はなかった。 「さむくないの、それ」 時枝の脚に視線を向ける。まだ冬は盛りで寒いと言うのに、時枝が履いているジャージは短いものだ。 「さむいけど、忘れたから」 仕方ない、と擦るその肌には鳥肌が立っていた。ため息を吐いて近付く。 体育座りをする時枝の前に、向き合って腰を下ろすと、粟立つその脚を挟み込んだ。 「…何やってんの、菊地原」 「あったかいでしょ」 「びみょう」 そう言いつつも動こうとはしない、そんな時枝に笑う。 「時枝は生意気だよね」 嘘吐き、と言わなかったのは、向き合う表情に穏やかさが見て取れたからだろう。 分かりにくいと思っていた表情も、いつのまにか読めるようになっていた。心音には今でも耳を傾けるけれど、受け取れる情報はそれだけではなくなった。 「菊地原が我が侭すぎるんだ」 目を閉じてそう呟いた口元が僅かに緩んだのを見て、もう一度、菊地原は笑った。 *** 5.キリンの唇 学校が終わって本部へと向かう。警戒区域の中の道をのろのろと歩いていると、曲がり角でばったり、時枝と出会った。 「あ、菊地原」 自主練? と問われて頷く。何かにおいがする、と観察してみれば、その口元がむぐむぐと動いているのが分かった。 「何か食べてる?」 「ん、ガム」 クラスのやつにもらった、と時枝は言う。 「何味?」 「ミント」 「うわ、ミントなんて草じゃん。良く食べられるね」 それには曖昧に笑っただけで、返事はなかった。 時枝はあまり喋る方ではないが、何かしら食べている時はそれが顕著であると、既に菊地原には分かっている。一緒に食事を摂っている時ならまだしも、こうして彼だけ、という状況は少し気に食わない。とは言え菊地原もたくさん喋る方という訳でもないので、何かしら喋っては時枝が頷き、沈黙がおり、また何かしら喋っては沈黙、と、途切れ途切れに続けていく。 そんなことをしていたら、ぱた、と時枝が脚を止めた。 「菊地原って思ったよりオレのこと好きだよね」 「はァ!? 何言ってんの、意味分かんない」 「だって、」 今日は、よく、しゃべる。 僅かに、けれどもひどく嬉しそうにたわんだその唇が、次の言葉を紡ぐのが耐えられなくて。一歩。止まるタイミングによって開いた差を詰める。三センチ差なんて大したことはない。 触れたところから、草の味がした。 *** 6.蛇の頬 まっず、と言って離れれば、時枝はぽかん、としてみせた。 「何、その顔。ウケる」 「人の顔見て笑わないでよ、悪趣味」 唇を拭うような真似もしなければ、唇を抑えるような真似もしない。ただ戸惑ったように視線が彷徨うのは、見ていて面白かった。 えっと、と時枝が言葉を探す。 「何…、菊地原、オレのことすきにでもなったの?」 「はァ?」 そう零すも、ともすれば鼻先が触れ合いそうな、そんな距離を崩すつもりもなかった。 「そんなワケないじゃん」 表情が、感情が、 「えー…、じゃあ何でキスしたの」 「嫌がらせ」 「ほんとに?」 「嘘吐く理由もないでしょ」 読めるようになったのは、菊地原だけではないはずだ。 「へー。じゃあ菊地原は、どうでも良い人間に嫌がらせでキス出来るくらい節操なしなんだ」 いつもと変わらない平坦な声。けれどもその中に、かすかにきらめきを見つけて嬉しくなった。嬉しくなって数秒後、胸の内だけで嬉しいって何、と自問自答する。 「嫌がらせじゃなかったら時枝はどうするワケ」 「んー、まあ、お返しくらいはするよ」 「じゃあしてよ」 「ねえ、菊地原。それって告白?」 「好きにとれば」 時枝がそっと動くのを菊地原は見ていた。静かだな、と思う。声も、行動も、時折跳ねる心臓でさえ。静かだ、と。 「…なんでほっぺなの」 「草の味嫌いなんでしょ」 ほんのり笑みを浮かべたその頬を掴んで引き寄せて、そのまま噛み付くように接吻ける。 ひんやりと、頬の冷たさが掌に浸透していった。 *** 7.海月の指先 そういう訳で菊地原と時枝はお付き合いをすることになった。所謂恋人同士というやつである。 と、言っても今までと何かが大きく変わる訳でもなく。 「付き合うことになったからって調子に乗らないでよ」 「今までオレが調子乗ったことあった?」 菊地原が唐突にスキンシップを取ってくることも、時枝がそれを放置するのも、そのままだった。 「ぼくがおまえのものになったんじゃない」 菊地原はいつもの調子で言う。 「おまえがぼくのものになったんだからね」 なにそれ、と時枝は笑ったようだった。 ふわふわと少し先で揺れる指先を掴む。 「菊地原?」 「あのねえ」 みなまで言わせないでよ、と握る手に力を込めた。 「ぼくだって手くらい、繋ぎたいって思うの」 ぱちり、眠そうな目が瞬く。 「…菊地原が、素直、だ」 「わるい?」 「悪くないけど、明日槍でも降りそう」 「…スコーピオンなら降らせられるけど」 「勘弁」 するり、と一方的に握っていた手がその中で蠢いた。 「…こっちのが、いいでしょ」 跳ねる心臓の音など、もう何度も聞いているはずなのに、 「オレだって、手、繋ぎたい、し」 ああ、どうしてこんなにも。 絡み合った指先から、ほんのりと暖かさが心臓まで昇ってくるような、そんな心地がしていた。その感覚をしあわせと呼ぶのだと、誰に聞かずとも、答え合わせをせずとも、分かっていた。 *** 20200217 |