act.1 おばけ 

 「おばけのようだな」
病室を訪れて開口一番、風間が放ったのはそんな言葉だった。その後ろにいた太刀川は慌ててその口を塞いだが、ベッドを挟んで反対側に座っていた諏訪隊の面々の耳に、その言葉は既に入ってしまっていた。
「風間さんっ、アンタねぇっ」
いくら友人でも言って良いことと悪いことくらいあるでしょ! そう掠れた声で、困ったように怒ったように言う後輩の姿に、諏訪は笑ってしまった。病室にいた誰もが驚いてこちらを見やる。
「いや、ごめん。マジでその通りだなって思って」
「諏訪さん!」
「諏訪さん怒って良いんですよ、例えこのチビが友だちだったとしても」
可愛らしい部下たちのその言葉に、諏訪はまた笑った。その向かいではまた太刀川が、風間さんに向かってチビなんて!と蒼白な顔をしている。
「まーこんなになっても見えない訳じゃねえし」
オレも鏡見てびっくりしたぜ、と続く言葉。
「良い切欠にもなったかと思うし」
 しん、と静まり返る病室。
「…トリオン体では、そんなこと関係ないだろう」
口を開いたのは風間だった。
「そうだけどよ」
「だって諏訪さん隊長じゃん、今隊長務められる人間そんな多くないぜ」
「お前みたいなのがA級一位の隊長やってられんだから大丈夫だ」
「ぐ…それもそうだけど…」
「元々考えてはいたんだよ」
部下たちは何も言葉を発さない。深く俯いている小佐野の顔は見えないが、その隣で頑張って顔を上げている笹森の顔は良く見える。涙の浮かんだその目を見て、悪いことをしてしまったな、と諏訪は思う。
 ずっと前から決めていた。それこそ、この隊を組んだ時から。けれどもきっと、今回のことが最終的にダメ押しのような形になったのだと、そう思わせてしまうだろう。
「悪ィな、太刀川、風間。お前らはもうちょっとやれるだろーけどさ、オレはもうトリオン器官の成長も止まってるし」
同輩も後輩も、いつものふてぶてしい様子からは想像が付かないくらいに静まり返っている。
「日佐人もおサノも悪ィな、もうずっと前から決めてたことなんだ」
震えるまだ細い肩に、本当に申し訳なく思った。
「堤」
片方が色味の変わったその目で、堤を捉える。
「ここまで、ありがとな」

 風間と太刀川が帰って、それから暫くして笹森と小佐野も帰って。二人きりになった病室で、まだ堤は俯いていた。
「実際、いやじゃないんですか」
「んーまぁ、不便っちゃ不便だけど」
鮮明に見えるって訳じゃあねえし、と唸る諏訪に、堤が唇を噛むのが見える。
「…ま、俺はおばけみたいな諏訪さんも好きですけど」
 回診に来た医務室長は、もう少し運ばれてくるのが早ければ、と言っていた。諏訪はそれを堤には言わないが、きっと堤はもうそれを知ってしまっている。
 堤の言葉に少しの間だけきょとん、とした顔をしていた諏訪だったが、すぐににかっと笑って見せる。
「お前ってホント、悪趣味だな」
 堤は最後まで、顔を上げることはなかった。

***

act.2 有給休暇

 この街には十年と少しくらい前に異世界からの扉が開いて、こっちの世界の人間を連れ去ったり殺したりとそれはもう好き勝手していた。それを阻止しようと立ち上がったのが界境防衛機関・ボーダーであり、その日を境に異世界人との戦争が、市民にとっては日常になった。
 生物資源開発課、植物圏研究室。市民のボーダーに関する理解が深まってくるにつれて資金も集まり、すべての根幹であるトリオンについての研究室も増やされた。この研究室もそのうちの一つだ―――最も、来月末で閉鎖になる予定ではあるのだが。なんてことはない、ただの経費削減である。元々どの分野も三年以内にめぼしい発見がなかったら、というのは暗黙の了解なのだ。廃止を決めた上の決定を恨むことはしない。
「副室長、堤副室長!」
そんなことを考えていた堤は顔を上げた。目の前には元部下にして現在も部下である、笹森が紙の束を持って歩んでくる。
「五日間の有給と、無人保養所の使用許可! もらってきました!」
「ああ、ありがとう」
「男性二人…。諏訪さんですか?」
「そうだよ」
 かつての隊長の名前に、笹森が微笑むのが分かった。
「良く捕まりましたね。誕生日に合わせたんでしょう?」
「あの人忘れてそうだけどな。自分の誕生日なんて」
「あはー…あり得る」
 あの日、諏訪が引退するのだと友人と隊員の前で宣言したあの日から、彼は暫く運営側に回って仕事をしていた。元々要領の良い人間だったのだ、其処での仕事はなかなかにうまくいっていたらしい。それから数年して研究室制度が出来ると、彼は自ら志願して世界中にトリオン文化発展に繋がる生物がいないかどうか、実地調査に行くようになった。元とは言えB級の隊長をはっていた人間だ、もしも向こうでトリオン兵に遭遇したとしても、なんとか対処くらいは出来る。上もそう判断したのか、異動にそう手間はかからなかったと聞く。
「そういえば、引き取りの状況はどうなってる?」
「研究員のですか、それとも植物のですか」
「どっちもに決まってるだろ」
廃止を目前にした研究室ではあれこれやることが山積みだ。本当はこんな有給休暇なんて取っている暇はないのに。
「研究員はぼちぼち、って感じです。植物の方は…まぁ、最悪、おれらが分担して異動先に持っていくでも大半は対処出来ますし」
「その残りが問題なんだろ」
「あれはしょうがないですよ、維持費掛かりますもん」
「そこをなんとか。外に漏らせないからって処分は勿体ないしな」
「それはおれも同意見です」
苦笑してから、はい、と紙の束を押し付けられる。受け取ったそれに一通り目を通してからサインをして、まとめておいた荷物を持って立ち上がる。
「一日も休んでないのが上にバレての強制休暇なんでしょう?」
「ああ、ほんとはもうちょっとうまく休み取る予定だったんだけどな。廃止ってなると、な」
「副室長、結構そういう振り分けうまいですもんね。…でも、」
言葉に詰まった笹森に、堤はん? と首を傾げる。
「いえ、彼女さんとかじゃなくて良かったな、って思って。わりと副室長、ファン多いんですよ。この研究室に縛り付けられている間は安心だったのに、って嘆いてる女の子、多いですよ」
「なんだそれ、五点。じゃあ、あとよろしく」
「はい。おつかれさまです」
 堤の立ったあとの金属の椅子は、他のものに比べてやけに錆びているように見えた。

***

act.3 沼 

 三門市のはずれにある山のほとんど頂上。そこに、ボーダー所有の無人保養所はあった。保養所と言えば聞こえは良いが、こうして来てみるとただの放置された家屋である。あちらこちら植物は伸び放題で家を覆っているし、コンクリート製のはずなのに中にまで花が咲いている。
 そんな建物の中で、堤は一人、荷物の整理をしていた。ダンボール二箱ほどのそれは、どうせ今から来る人間は着替えなど持って来はしないだろうという考えの元、用意された二人分の着替えである。それを一枚ずつベッド(腹が立つことに、これだけはちゃんと綺麗になっていた)の上に放り投げていくだけの作業。ドドド、車のエンジン音で、顔を上げた。
 外に出ると見慣れない車が止まっている。
「お久しぶりです」
「おー久しぶり」
「道、分かりましたか」
「道なかったぞ」
そんな軽口。
 以前みた時よりも逞しく見える、そんな元隊長が其処には笑って立っていた。
 重たい荷物を二人で手分けして、階段の上の部屋へと運ぶ。元々が天気観測所だったらしい其処は、あれこれ間取りがめちゃくちゃだ。故に、と言って良いのかしれないが、一階にも部屋はあるのに玄関は二階にしかない。
「仕事は順調ですか?」
「まあまあ。何処でも行くから便利に使われてる感じ」
はい、と手渡されるフォトアルバム。
「水中に咲く食虫…いやこの場合は食魚植物か? それと他の色の花が中に咲いてる二重花、内側から他の花に食い破られた茎。仕事のついで」
ぱら、と堤はそれを開いてみる。珍しい形をした植物がいろいろな角度から撮影されていた。
「相変わらず変な植物が好きなんですね。仕事の方がついでですか」
「ちげーよ」
「七十一点ですかね」
「まだ生きてたんだな!? その制度」
かかっ、と乾いた声で諏訪は笑う。
 堤のこうしていろいろなものに点数をつける癖は、もう既に諏訪が彼に出会った頃には彼の癖として出来上がっていた。何が基準であるのかは未だ微妙なところではあるけれど、珍しいものであればあるほど、その点数は高いものになる。
「で、そっちは?わざわざ呼び出すほどのことなんだろ?」
「アンタの誕生日にふさわしいやつですよ」
「…あ。誕生日か」
「やっぱり忘れてた。日佐人とそうなんじゃないかって話してました」
「今日佐人お前の下にいるんだっけ」
「ええ、おサノは別の研究室ですけど、棟が一緒なんで時々会います」
「そっか、二人とも元気?」
「元気ですよ。誰かさんがほっぽらかすってぶうぶう言ってましたよ」
はは、と諏訪が笑った。
「ま、その話は飯でも食いながら」
「おっ。ついにコーヒー以外の調理が出来るようになって」
「ないです」
「なってないのかよ!?」
「頼みます、食材は冷蔵庫にありますから」
もー…と呆れた顔をしながら諏訪が立ち上がる。
「真面な食材なんだろうな?」
「三門のスーパーで買いましたから」
「なら大丈夫か」

 さんさんと日の照る屋上に机を置いて、その上にあれこれ料理を並べていく。諏訪の手がサラダを取り分けていくのを、堤はぼんやりと眺めていた。
「今もお前さ、ばらばらごっこしてんの」
「なんです突然」
「さっき階段の下で不自然な植物の残骸を見たから」
ああ、と頷く。そういえば、この辺りの植物は一通り解体してみたと堤は思い出した。
「お前が巡回任務の時、徐ろにたんぽぽ摘んで、中は空洞なんですよって見せてきたの思い出したんだよ」
「ああ、そんなこともありましたね。中空って言うんですよ、それ」
「なんだっけ、種を遠くに飛ばすためなんだったっけか」
「よく覚えてましたね。種が飛んでいけば茎は折れても問題ないから、強度よりも高さを重視した結果です」
「ふうん」
堤の空いた皿に諏訪はパスタを取り分ける。
 一瞬、沈黙が過ぎった。
「目はどうですか」
「なんともねーよ」
飲みもんなくなった、と諏訪が立ち上がる。
 あの日のことは一度たりとも忘れたことはない。何度目かの大規模ではないが侵攻があって、それにはB級の部隊も普通に戦闘に出ていて。小さい子供がいたのだ。逃げ遅れたのか、それとも親とはぐれて探していたら戦闘区域に残ってしまったのか、詳しくは分からなかったが。小さい子供がいて、その目の前には戦闘用トリオン兵がいる、それだけが見て分かれば充分だった。
 叫びと共に走っていった脚も、飛び込んだ背中も、それを見るよりも先に感じ取って援護しなくては、そう思った自分のことも。堤は後悔などしていない。
 ただ一つ、後悔があるとすれば―――。
 冷蔵庫から飲み物を取ってきた諏訪が笑う。
「相変わらず赤いフィルターはかかってっけど、ちゃんと見えてる」
手渡された缶は、よく冷えていた。
「それより撮って欲しいやつってなんだよ。この山? 特に珍しそうなモンって見当たんなかったけど見つかりにくいとこにでもあんの? 昼? 夜? 準備あるんだけど」
「…ここから少し行った、背の低い草が密集する広場みたいなとこに沼があるんですよ。其処に、二十七時です」

***

act.4 研究者の意地 

 ざわざわと音がしている。背の低い草が密集する広場のような場所で、諏訪はその真ん中に立つ堤に向かってシャッターを切る。その目の前には沼があった。カシャン、カシャン、シャッターの音の合間に、建物の隅に転がっていた蝋燭を持った堤が、一歩一歩、進んでいく。
 ファインダーの向こう、蝋燭の弱い光が堤の横顔を照らす。そこで初めて諏訪は、堤が逆の手―――利き手にカッターナイフを持っていたことに気付いた。それが頬の縁に当てられる。
 声を上げるより前に、カメラが手を離れた。
「きゃー」
可愛らしい声があがる。
 堤の顔はべろり、とまるで扉のように開いていた。その中には何やらもにゃもにゃしたものが鎮座している。顔の縁からはだば、と水が漏れていて、弱かった蝋燭の火は消えてしまっていた。
「びっくりしたあ」
「急ですよ」
「もういいならそう言ってくれないと」
どうやら先程の可愛らしい悲鳴はそれらが発したものだったらしい。もにゃもにゃとその不思議生物が堤の顔の中から出ると、堤はかちり、とまた何でもなかったように顔を閉じる。
「は、はじめましてえ」
そのうちに一匹が、にゅーんと諏訪に向かって伸びてきた。じっと見つめる。かまぼこみたいな白いもの。間違いなくこれが声を発している。
 とりあえず、とカメラを向けてみた。暗すぎて何も分からない。
「諏訪さん」
沼の中から声がする。
「この距離でいけますか」
「王子、いろいろいけないと思います」
不思議生物の言い分が正しい。そう思って諏訪は、とりあえずファインダーから顔を離した。

 真っ暗な保養所の中に座り込む。堤はその隣に立っていた。月と星の光だけが辛うじて窓の近くだけを照らしている。
「アンタなら知っていると思いますが、高トリオンに晒された植物には独立した生態系を築き始めることが観測されていて、俺のとこの研究室は主にそういう研究をしていました」
ひそひそ、と声が聞こえる。
「此処の沼は地下千メートルの地中まで繋がっていて、其処からやってきたものが高トリオンに晒されて変化を見せて…、あ、元々地中千メートルには地上と違う独立した生態系がありまして、光に頼らない彼らは地球からふき出す硫化水素を吸収し、体内に共生しているバクテリアに分解させ、そのエネルギーで生きています。光は勿論、食べることも放棄して生きる一群ですね。それで、この沼で採取出来た新種の種をまぁ、簡単な話、地上でも生きていけるようにする実験をしていました」
「沼ってもっと水深浅いモンじゃなかったのかよ」
「まぁ、そうですけど。日本においては明確な定義はありませんし。底なし沼的な」
「ンなとこ入って浮いてこれなかったらどうするつもりなんだよ」
「それは大丈夫です、浮きますから」
みた? みたみた、よく見えた。
「話戻しますけど、彼らに地上の餌を与え続けていたら、退化していた消化器官が復活して、その中に眠っていた新種のバクテリアが発見されました」
えーいいな、わたしも。ちがう穴にしてくださーい。押さないでよー。
「彼らが食べたものの機能情報を一部保存して、再構築のちにその個体に変化を与えるという機能を持っていました。地底環境が安定しなかった時代に効率的に環境に即するために使われていたのかもしれませんね」
「…ぜんっぜん話に集中出来ねえ…」
 さっきから堤の身体のあちこちから顔を出す不思議生物のひそひそ話の方が気になってしまう。
「静かにしないか」
「はぁい」
そんなもんで良いのか、と諏訪は更に頭を抱えた。
「ていうか植物なのに食べるって何」
「食べるって表現がしっくり来ないなら、堆肥とかって考えでも良いです」
「堆肥…。で? それがお前の中に入ってるってこと?」
「はい、話がはやいですね。そういう植物が俺の体内に入って、内臓も脳も骨もすべて食いつくされて、代わりのようにこういう妙なやつらが出来ました。皮膚は内側からこいつらの作り出す細胞壁で強化されている状態ですね。どうも俺の人格はそこに張り付いているらしいです。細胞壁と、細胞膜の間にバターみたいに伸ばされて。まぁ、ホントの意味で植物人間っていうか、なんていうか…」
葉緑体が植物と同量に作られなかったことを喜ぶべきですかね、と笑う堤に何を言おうにもツッコミが追いつかない。
「何、葉緑体まであんの」
「ありますよ。光合成してますよ。最近良く顔色悪いって言われるようになったのその所為だと思います」
「おー…葉っぱは緑反射してるから緑に見えるんだもんなー…」
「博識ですね」
「お前ほどじゃねえよ…細胞壁ってことは核もあんの。お前今一個の細胞なの」
「核はないですね。液胞はめっちゃ発達してますが」
でも破けやすくてさっきみたいに水が漏れます、との言葉にはおおー…としか返せなかった。
 もっと慎重に口の中にでもこいつらを住まわすことが出来れば、と堤の説明は続く。なんてったってそんなこと、と頭をかきむしる諏訪に、アンタ、と声が落とされた。
「珍しい植物、好きでしょう」
目を見開く。
「撮れば良いじゃないですか」
「…やだ」
「なんでです」
「もうアラサーだっつうのに王子とか」
「その辺はこいつらの勝手なのでほっといてください」
「ってかなんでそんなモンが中に入っちゃったんだよ。それも実験とか言わねえよな? 有給休暇無理に取らせるようなホワイト目指してる機関がそんな、人体実験紛いのこと」
 沈黙。
 それで諏訪は大体の理由の方向性はつかめてしまった。
「夜勤で…腹が減りまして…サラダ…まずかったです」
立ち上がる。
「待ってください」
「お疲れ様でしたー」
「まさか胃酸まで分解すると思わなかったんです。部下が貧乏なやつばっかで、隊員あがりだったらまだしも、隠してるカップ麺よこせなんて非道なことは…諏訪さん、」
掴まれたティーシャツの裾が馬鹿みたいに伸びていく。
「つきあってらんねえだろ! そんなうっかり!」
「進歩にはそういう偶発的事故も重要で、」
「事故って言っちゃってるじゃねえか!」
「前向きで柔軟な発想です」
 言い合う諏訪と堤の間で不思議生物がおちついて、と声をあげる。
 目の前の堤にも、そのもにゃっとした不思議生物にも、ただただ心の底からうるせえ、と叫んだ。

***

act.5 嘘 

 なんだかんだとのせられて、結局部屋の一つにスタジオのようなセッティングをして、諏訪はその真ん中に立つ堤にカメラを向けていた。ファインダー越しに見ても、どうにも頬が強張ったままなのを感じてしまう。
 大きな照明の光を浴びながら、ティーシャツを脱いだ堤がむっとした顔をする。
「なんですか。俺今、すっげえ珍しいですよ、もうちょっと喜んでください。九十七点はかたいです」
「うるせえよ」
明度やら何やらをいじる。四角の中のそのほっそりとした、けれども一度はきっと鍛えていたのだろうと分かる体躯をした男が、美しく映るように。
「ちくしょー。お前はいっつも何考えてんのか分かんねえと思ってはいたけどよ…」
くそっと悪態を漏らしても堤の表情は変わらない。
「泣くほどのことですか」
「泣いてねえし!」
 きゃん、と高い声を出してみれば何が面白いのか堤は笑った。
「何笑ってんだよ」
「いえ、あまりにも諏訪さんが俺のこと心配してくれるので」
全然帰って来ないし連絡もあんまりですし、忘れられたかと思ってたんですよ。そんな言葉にぎゅっと唇を噛む。
「…馬鹿か」
 ピピ、と音がする。四角い枠で切り取られたその男は、照明に照らされて彫刻のように微笑んでみせた。にゅっと、白いものが出てくる。
「ちょっとォ!? モデルさん内臓しまってーェ! いかがわしいですよ!」
諏訪の声に驚いたように、白はんぺんが引っ込んだ。
 静かになった部屋に、ピピピ、カシャリ、と無機質な音が響く。
「どうですか」
首の角度を変えながら、堤が呟いた。
「他人に見えませんか」
「他人て。元々他人だろ。一時同じ隊を組んでたってだけで、部下と上司だったってだけで。お前はホントは、俺に敬語使う理由だって今はねぇんだぞ」
地位はお前のが上なんだから。ファインダーから顔を離さずにそう告げれば、つまらなそうにその眉が落とされる。
「そうですか」
カシャリ、また、光が炸裂する。
「アンタならそう言うと思ってました」

 一通り写真を撮ったあと、気分転換に、と外に出た。もう外は明るくなっていた。結局昨晩は寝ていない、と気付く。朝まで撮影会をしてしまった。
 高いところに上がっている訳でもないのに、山の下にある街が見えた。三門の街は朝もやに包まれて、ぼんやりとしたものになっていた。あれを守っていた時期があったなんて―――別に、今もそうではあるのだが、信じがたかった。
「そうだ」
唐突に、堤が呟く。
「何、まだなんかある訳」
「俺は珍しくて貴重になってしまったので、」
「ああ、うん、ソーダネ」
野鳥の声がする。羽根の音。近い。
「さらわれるかもしれません」
ばさり、二人の間を何かが横切って行く。きっと、野鳥だ。鳥は専門外なので何の種類かは知らない。
「狙われています」
「は―――………」
 開いた唇が正しい言葉を紡ぐ前に、
「いた!!」
ぎゅるん、というエンジン音とヘッドライトに、周りで休んでいた鳥たちが一斉に飛び立った。
「ああ、よかった、見つかった…夜勤明けの何もない道って怖いんですよ…」
「………時枝?」
「部下です」
「時枝もお前んトコかよ!?」
見知った顔に、いつのまにやら諏訪の背中に隠れていた堤が出てくる。
「どうした」
「すみません、本部からやっぱり今月の三門山環境データが今日中に欲しいって言われまして」
「うわ…勝手…いらないって言ってたのに」
どかどか、と足を踏み鳴らしながら階段を上がっていく堤の背中を見送る。
 車の傍に立っていた時枝が、お休みのところすみません、と頭を下げてきた。
「いや、仕方ねえだろ」
「…諏訪さん、お元気そうで安心しました」
「お前もな、時枝」
そんな会話をしていると、またどかどかと足音がする。
「休めとか休むなとか…」
着替えてきた堤が車に乗り込む。
「昼には戻ります」
「おー…」
 嵐のように去っていった堤と時枝を見送りながら、
「うん?」
首を傾げる。
「さらわれ、………」

***

act.6 煙草 

 どかどかどか、と堤は白衣を翻して歩く。
「副室長来てるって?」
「らしいけど見てない」
「あっあそこにいるのそうじゃない?」
そんな声にもいつもならばにこやかに対応するが、今は聞こえていないふりをした。
「副室長! ………ですよね?」
そうう仕切りの向こうから顔を出して呼びかけてきた部下に、足を止めることなく何だ、と問い返す。振り返ったまま問われた内容に簡潔に答えを返して、前を向いた瞬間、
「わっ」
バケツに躓いた。
 廃止騒ぎであちらこちら荷物の山なのだ、喜ぶべきは咄嗟に手がつけたことと、そのバケツが空だったことだろうか。
「大丈夫ですか、副室長…」
「これ、」
痛みに悶えながら、心配そうな部下に手に持っていた資料を渡す。
「保管しといてくれ」
それをまだ心配そうな顔をした部下が受け取ったのを確認して、ゆるゆると立ち上がる。
「もっとゆっくりしてけば良いのに」
「本当にご友人ですか?」
「怪しいなー」
そんな楽しそうな部下たちの声を、仕事しろ、と一喝して階段を駆け下りる。
 エレベーターを待っているのも億劫だった。
「あ、今、」
ロビーを通り抜けようとしたところで、受付嬢に声を掛けられる。
「いや、タクシーは拾う」
腕時計を見る。
「くそっ」
もうとっくに昼、なんて時間は過ぎていた。
 はやく戻らないと、と思った堤の視界に飛び込んで来たのは、ロビーに置かれた観葉植物の後ろ。密集する部下たち。
「こらっ」
思わず声をあげる。この忙しい時に。
「なにして、」
葉の向こう側が、見えた。
 あ、と声が上がる。
「る」
「こっちが聞きたいわ」
そこには、施設案内のパンフレットを持った諏訪がいた。
「話途中だっただろ。さらわれるとか狙われてるとか言っといてさっさと出掛けんなよ! 昼すぎても連絡ねーし山降りて来もするわ! あすこなんもねーしな!」
「研究棟は大丈夫ですよ」
「研究棟はってことは本部はだめなのかよ」
「そういう訳じゃないですけど」
でも大丈夫です、と繰り返す。
「その割にはセキュリティ激甘だったぞ!? オレがボーダーの一員ってのを差し引いても、此処の職員じゃねえんだからもっとこう、さぁ…!」
堤の友人ですけど、って言ったらすんなり中に通されそうになったわ、と髪を掻き上げる諏訪の言葉には流石にため息を吐いた。
「まぁ、ほら、生物資源探索ってことで好奇心旺盛な人が多いんですよ」
「………それで済ませて良いのかよ…」
「それに、此処の人たちは誰も知りませんよ、俺が植物人間だなんて」
 堤がそういったそばから、にゅるん、と耳からあの不思議生物が顔を出した。
「若、このコーヒー飲んで良い?」
「オイ」
諏訪が顔を上げる。
「バレてませんよ」
数メートルと離れていないところに、受付嬢が立っていた。
 先に動いたのは諏訪だった。不思議生物の伸びている部分をぎゅっと握って、真下にあったソファの背で隠す。必然的に近くなった二人の顔に、受付嬢が少しばかり頬を染めたのが分った。
「す、すみません。今、先月別の研究室に移った菊地原さんから、副室長にお電話が…でも、一応お休み中ですよね…?」
「って、菊地原も部下だったのかよ!?」
「此処、わりと顔見知り多いですよ」
「そういうことは先に言えよな!?」
「アンタが聞かなかったからでしょう。俺らのこと興味ないとばかりにあっちこっち行って」
「そういう訳じゃねえよ!」
「あ、あの…」
受付嬢が困ったように、お断りしますか、と問うた。
「いや、」
堤は少しばかり床を睨みつけるようにして応える。
「出る」
 その瞬間、自分の襟首についたままだったタグが見えた。今日一日、午前中だけとは言えこれを朝からずっとつけっぱなしただったことに急に羞恥心が湧いてきた。
「取ってください、諏訪さん」
「え」
「取ってくださいって」
これ、と指差す前に、いや、と諏訪が呟く。
「とれた」
諏訪のいる方のソファには、不思議生物がすてん、と転がっていた。
 ぷちん、と音がしてタグが外される。
「ほら、行ってやれば」
背を押される。とた、と足が動く中で、あの人、と思った。
 あの人、まだ煙草吸ってるんだ。今回、諏訪は一度も煙草を手にしなかったから、気付かなかった。

***

act.7 スナイパー 

 ごぽり、と音がする。水の中を気泡が分裂して、上へと昇っていく。
「お気に召さなかった?」
声で引き戻されて、堤は対面に座る人間を見た。グラスを二つ挟んだ向こうには、菊地原がじっとこちらを見つめている。
「すごくない?」
こんこん、とグラスの側面を指で叩いて示す。
 グラスの中にはひらひらしたものが沈んでいた。もう気泡の発生は緩やかになっているようだった。ゆるゆると、細かい気泡が立ち上っていく。
「この微炭酸に溶ける花、堤さんから分けてもらった種でこっそり作ってみたんですよ。向こうでは機材が貧弱でこれっぽっちですけど。ちなみにフランボワーズ味」
料理が運ばれてくる。
「面白いですよねえ、餌の色や味を覚えて再現出来るなんてさ。こんな種が最近見つかったっていうんだから、地中の研究はまだまだこれからだってのに。設備にお金かかる割に利益出ないとか言われてもさあ」
ぶうぶう言うところは変わらないな、と堤は出て来た料理に手をつけた。とは言っても、中身は空っぽなので、口の中であの不思議生物たちが受け取るのを待っているだけなのだが。おーらい、おーらい、昨日からごちそう続き。楽しそうで何よりだ。
「あの天才堤大地が三年かかりきりでも結果が出なかったんですよ」
「天才なんて」
「天才じゃないですか」
戦闘の方はからっきしでしたけど、そう続けるところもまた、変わらない。
「だからこそ全く新しい生物や、バクテリアの画期的なトリオン採取への可能性が地中にはあるんですって。………ところで」
 くろぐろとした眸が堤を真正面から見つめてくる。
「この葉っぱ食べたってホントですか」
 菊地原の耳はサイドエフェクトだ。もうこの計画はバレているのかもしれない。年齢を重ねるにしたがってその力は全盛期よりは落ちていると聞くが、それでも人よりも聞こえることには変わりない。今だって、耳を済ましているだろう。堤の反応を伺おうと。
 けれども彼が基準にしている心臓は、もう堤の中にはない。
「ああ、枯れかけを三鉢ほどな。どうせ処分することになるんだ、この際味も知っておきたいって思うだろ」
「流石だなぁ発想が違うなぁまた一緒に働きたいなぁ」
「菊地原、棒読みになってるぞ」
「はいはい」
ぱくり、とまた一口食べる。咀嚼するふりをする。
「新しい研究室に馴染めてないのか、それとも時枝と喧嘩でもしたか」
 少しの沈黙のあと、菊地原は顔を覆った。

 その様子を、向かいのビルから諏訪は双眼鏡を持って眺めていた。楽しそうである。もう一つ上がったら展望台であるそこであんぱんなんか片手にしていると、本当にまずいことをしているみたいだ。もう、と思わず声が出る。
「人間を見張るなんて初めてだ…しかも知り合いと来た」
その声に反応するように、フードからぴょこり、白い不思議生物が顔を出した。あんぱんをつついていく。
「………もう人間じゃねぇんだっけ」
この非現実にも、そろそろ適応出来そうだ。
「あっ全部食うなよ」
「若、あれのみたーい」
「無視かよ」
 と言いつつ、その小さな指が差した方向を見やると、電気の消えたフロア、静かに光を放つ自動販売機。
「飲み物?」
「コーヒー」
「は? またコーヒー?」
地中千メートルから来た新種だというのに、そもそも植物だと言うのによく食べる奴らである。
「お前ってなんか缶の飲み口とかでさっくり切れそうなんだけど。さっきみたく」
「あれは元々取れるすんででしたので」
「でも預かりペットにこれ以上勝手に餌やるのもなぁ…」
向かいのビルに視線を戻す。特にこれと言って異常はなさそうだ。
 ぐずっ、とフードで声がした。
「コーヒーの深い闇色だけが故郷を思い出させてくれます。ああ、我がふるさとは遠い」
そっと振り返る。その一つ目に大きな水の粒が浮かんでいる。
「うーん」
こちらを伺うのが分かってまた向かいへと視線を戻した。
「仲間と離れてさびしいよう」
ぽたぽた、と雫が布に染みこむ音。
 はぁ、とため息を吐く。
「まったく…嘘泣きするほどかよ。堤見てろよ」
「やったー」
「そんなにコーヒー好きなのか」
「いやだったんですけど癖になって」
「ふうん…まぁ堤、コーヒーくらいしか淹れらんねえしな。その所為? ブラックで良い?」
「あ、さとう北海道ミルクたっぷりで」
「深い闇色の故郷は…」
「異常なしです」
小銭を取り出す。小さな細い入れ口に、吸い込まれていく百円玉一枚、十円玉二枚。
「しかしまぁ、今回のあいつは史上最高に訳わからんな。前は辛うじて人間だったけど、今はそうでもねえみたいんだし」
ピッと押したボタンに反応して、がしょん、と缶の落ちる音がする。
「何処の誰に狙われてるのかしらんけど、はやくシメねーと仕事いけねーよな」
 拾い上げた缶は冷たかった。
「これじゃあオレがストーカーか…」
思い出すのはあの頃、握っていた感覚。その紛い物の武器で遠くから狙うことはなかったけれども。それをするのはもっと―――
「スナイパーだ」
プルタブを倒したパンッという音がやけに響いて聞こえた。
 振り返った向かいのレストランでは、堤が倒れていた。

***

act.8 いと 

 缶を放り出して駆けつけると、しれっとした顔の堤がそこにいた。胸元にはワインらしき染み。
「ああーその、ですね。一匹減ったでしょう。それでバランスが悪くて酒を零しました」
はぁ、っと肩が揺れる。
「こっちは酔いつぶれただけの菊地原です」
「…そう…。菊地原も酒飲める年齢になってんだな…」
「アンタ、昔の仲間から離れすぎなんですよ」
はぁ、と次に吐いた息は、安堵と呆れの入り混じった色をしていた。
 酔いつぶれた菊地原を家が分からないから、と保養所まで連れ帰って、寝かせてやって。
「ちょっと沼を見てきますね」
「待てってば」
「大丈夫です、夜ですから」
諏訪の言葉など聞かずに、堤はさっさと出て行った。
「もう…何が良くて…」
 唸っていると、ごそり、音がする。菊地原を寝かせた寝室の方だ。
「具合、どうだ」
「大丈夫ですけど………諏訪さん?」
「おう、覚えてんのか」
「そりゃあ、あんだけうるさいひとだったもの」
「てめぇ」
「諏訪さん、昔よりやわらかくなりましたね」
だから一瞬分かんなかった、と目が細められる。
「…あいつ、研究室とかでどうよ」
「変わり者ですかね」
「やっぱり」
「隊員してる時はそんなこと思わなかったんですけど。研究者になってからは、びっくりすることばっかで。まぁ、その分人気もありますけど」
「人気あんのか」
「ええ」
 暗かった部屋の電気をつけて、飲み物飲むか、と問うた。頷きが帰って来たので、一度冷蔵庫に取って返す。ソフトドリンクはコーヒーと炭酸しかないが、まぁ、良いだろう。
「堤が人気、ねぇ…」
「想像つきませんか、それともびみょうな気分ですか」
二つ並べた缶は炭酸の方が取られた。残ったコーヒーを諏訪が取る。
「頼りになるし、そこそこ優しいでしょう。勿論怒るとすっごく怖いですけど。自分の研究してた種だって、処分するくらいならせめて自分の一部に、って食べちゃったって言うしさ。毒みたいなものって、一番分かってたはずなのに」
 一瞬、諏訪の動きが止まった。
「諏訪さん聞いてますか。あの研究室、来月末にはなくなっちゃうんですよ。それなのに堤さんは皆の行き先の世話ばっかして、あの人自身がどうするのか誰も知らない」
窓の外を見る。
 昨日の沼の辺りで、蝋燭らしき灯りがゆらゆらと揺れていた。
「皆、言わないけど心配してるんですよ」
暗がりに溶けるように、けれどもそこに何かいるのだと、雄弁に、知らしめるように。
「だから、ぼくが。一番そういうの、言わなそうだから、言ってくれるかもしれないって。それに…ぼくも、このまま堤さんが、どっか遠くに行っちゃうんじゃないかって、そう思ったし」
わし、っと諏訪は菊地原の頭を掴んだ。
「昔より大分素直になったなぁ! 菊地原!」
「う、うるさいです」
そのまま撫で回す。
「そうか」
呟く。
「そうだったんだな」

 菊地原を寝かしつけて沼の方へと足を運ぶと、おい、と声を掛けた。
「此処で星撮ってるから」
沼に浸かっていた堤が、身体を起こす。その顔は昨晩のようにべろり、と開いていた。あーあ、と笑う。
「おばけ同士になっちまったなぁ」
「おばけっていうか、俺にはもう血がありませんけど。それでも同士って言ってくれるんですか」
あなたはまだ人間でしょう、と堤は俯いたまま言った。
「そんなこと言うなよ。オレの目が戻らないってわかった時、オレはお前が好きって言ってくれたの思い出して、なら大丈夫だって思ったんだからよ」
 満天の星空とは言えなかった、月も半分くらいで雲を引き連れていた。だから諏訪は気付かなかった。
 先ほどの言葉を言った時、堤がその目を最大にまで見開いていたことに。

***

act.9 信頼 

 あくびをする。テラスに用意された朝食。
「起きないですね」
「起きねえな」
ぐったりと、横になった菊地原の背中を見て二人で呟く。
「菊地原には悪ィけど、はやく送ってっちまいたいんだよな、落ち着かねえし」
「多分起きたらアイツ、風呂入りたがると思いますよ。研修の時散々風呂だのなんだのって」
「研修の時も酔いつぶれたのか。大丈夫かよ」
「知り合いがいると気が緩むみたいです」
あと昨日は時枝と喧嘩してたらしいですし、やけ酒みたいなとこもあったんじゃないですか。そう呟く堤に、なぁ、と諏訪が話し掛ける。
「菊地原と時枝って、」
「え、あ、そこは…沼より深い…」
 ちゃぽん、と音がした。堤の身体から伸びた不思議生物が、その隣のコーヒーに角砂糖を入れた音。
「もうちょっと緊張感持ってもらえますー? 九十七点として」
「うーん…」
今度は別の不思議生物がミルクを注いでいる。何から何まで自由だ。
「もうちょっとこそこそするように」
「はあい」
そんな会話の後ろで、車の止まる音がした。
 振り返ると、見知った顔が手を振っている。
「………じょ、上司です」
「え、上司って。あれ太刀川と風間に見えるけど」
「だから上司なんです。正確には太刀川が」
「太刀川が?」
「生物資源開発課、植物圏研究室長」
「…聞いてねぇぞ」
「言ってませんでしたから」
また諏訪を盾にするように後ろに隠れた堤にため息を吐く。諏訪の方が身長はないのだから、隠れるに隠れられないと思うのだが。
「菊地原も言ってたけどお前、ホント人気者なんだなぁ。休みとってんのに、毎日まいにち…」
ふっと、風の吹いた心地。
 ぶちん。
 軽い、音がした。
 倒れ込んだ堤に慌てて駆け寄る。
「だ、大丈夫です。またちょっとバランスが」
「いや変な音したぞ。ぶちんって」
「大丈夫ですってば。破けたら水が漏りますから。すぐ分かります」
「本当か?」
抱き上げてべたべたとその身体を触る。
「濡れてない…よな」
「諏訪さん触診のつもりなんでしょうけど雑ですね」
「うるせえ」
 下から、つつみー! いるんだろー! と声が聞こえる。
「オレ出てくっから、大人しくしてろ」
うるせえー! と叫びながら、ばたばたと足音が遠ざかっていくのを堤は床に耳を付けて聞いていた。
「…優しくて雑なとこ、変わってないな」
 そのまま、太陽から隠れるように、うつ伏さる。
「もっと、ちゃんと調べてくださいよ」

***

act.10 責任の在り処 

 太刀川が階段を駆け上がってくる。その後ろで風間が休み中に悪いな、と声を掛ける。
「諏訪さん!」
「ドーモ。堤は今ちょっと出れんぞ」
「あっ大丈夫、用があるのは菊地原だから」
きくちはらー! と大きな声で名を呼びながら、太刀川は勝手に部屋の中へと入っていった。
「ほんと、悪いな。これお土産」
「あ、ありがと。いや、元気そうで何より…」
あれで菊地原嫌がらないのか、と元上司に聞いてみたい気分ではあったが、部下を可愛がって止まない風間のことだ、話し始めたら止まらない気もしたのでやめておく。
「ぎゃー」
悲鳴が聞こえて、菊地原が太刀川に捕まったことが分った。
 どうにも菊地原は今日の十四時までに、首都にある支社にすぐに向かわないといけないらしい。
「なんでぼくが…」
「お前今度あっちの責任者になるんだろ」
「嫌だって断ったはずですけど」
「それが原因で時枝と喧嘩したんだろ?」
「うるっさいなぁ…自分の恋愛がうまくいかないからって後輩の不幸を喜ぶのやめてもらえます」
「べ、別におれはうまくいってない訳じゃねえし」
飛行機は取ってある、と風間が言えば、広い道まで送るよ、と太刀川。慌ただしく、扉が閉まる。
「あーこれ、風間からお土産」
「何ですか?」
「ゼリーっぽい」
「じゃああとで食べましょうか」
だんだんだん、と音がする。
 咄嗟に堤が取っ手を掴んで、開けられた扉を抑えた。
「堤ーおれ、冷たいお茶が飲みたい」
「階段下りたところに湧き水出てますから好きなだけどうぞ」
「上司が最後の嘆願に行ってるっていうのに〜」
「俺のは有給ですから。しかも半ば強制の」
ぐぎぎ、と徐々に扉が開いていく。太刀川の後ろで風間が、みっともないぞ、と声をあげた。風間さんは黙ってて! と悲鳴のような怒号のような声。
「お茶くらい良いんじゃねえか?」
「うちにはっ、コーヒーしかありません、から!」
 植物人間になっている堤が、元A級一位に敵う訳がなく。ばたん! という音と共に、堤が吹き飛ぶのを慌てて受け止める。
「っぶねえなあもー…」
「くっ…すみません…」
ほんと、破れたらどうすんだよ、と小声で言うと、それを見ていた太刀川がふっと息を漏らした。
「おれの勝ちな。コーラ飲みたい」
「ねえから帰れ」

 屋上に並べた机に、結局四人で座る。
「おまえさあ、どうすんの」
「どうするって何がですか」
望み通りの飲み物を冷蔵庫から出してやって、強い日差しの中懐かしい顔ぶれが並んだ。
「今後の進退だよ、昨日の菊地原だってそうだろう? 皆気にしてんだよ、お前がどうすんのかって。まぁ一部の噂では…」
読まれてるな、と思いながら麦茶を啜っていた諏訪を、太刀川はちらりと見やる。
「諏訪さんについて世界中飛び回るつもりだとか」
「え、初耳」
「だから噂だってば、諏訪さん。ちがうの?」
「違いますよ」
「だよねー。大体仕事辞めたら何が残んの、って奴らの吹き溜まりだもんね、此処。家事料理は出来ないし気難しいし年はとってるし。引退即要介護じゃん」
「それに髭だし馬鹿だしって足してそのままお返ししていいか」
 風の音がした。
「いらない研究室がなくなるように、おれら研究者は、一度でもボーダーとして関わった者は、記憶を持ちたいと願う限り、役に立たないと、生きてちゃ…」
ぼうっと遠い目が堤を映す。ざわざわと、木の音がうるさい。
「………いけないんだよ、絶対。おまえが何処へ行くのも良いけど、勝手だけど、研究者はやめんなよ。許せねえよ。おまえ天才のくせに。忘れたくないことがあるくせに」
「でも俺は、研究室を救う発見一つ出来なかった。俺は俺を天才だと信じる人を、ただの一度だって救ったことがないんだ」
 片側だけ伸ばしていた前髪が、風でぶわりと巻き上げられる。いつから伸ばしていたんだっけ、諏訪は思う。こんな、三つ編みが出来るくらいに、そちらだけ。
「でもま、考えてることもあるし。この休み中にまとめるから」
笑った堤の顔は、何処までも嘘くさかった。
 そろそろお暇します、そう立ち上がった二人を玄関まで送っていく。
「あー久々にはしゃいだら靴入んない。汗、うわ」
「どうぞ」
「どーも」
靴べらを受け取った太刀川の、動きが止まる。
「は?」
太刀川が振り返った時、その眸には何も映らなかっただろう。変なものは、何も。
 けれども遅かった。
「うそ! なんか! 見た! いた! 白くて、はんぺんっていうか、かまぼこっていうか、あ、餅っぽい、でもまずそうな…長い感じの」
「………古い建物だから、単に出るんじゃないのか」
「そんな! 非科学的な!」
その言葉に一瞬ほっとした諏訪と堤は、次の瞬間声を荒げることになる。
「楽しい話! 解明するまで帰らない!!」
「帰れ!!!」

***

act.11 コーヒーゼリー 

 太刀川なんて放っておいて土産のゼリーを食おう。そんなことを言った風間の言葉に甘えて、家中を捜索する太刀川は放って三人は食卓についていた。
「夕方から今回の出張報告会あるから、午後には帰る」
「頼みます、風間さん」
「ああ、任せろ。すまんな、あれでも久々に友人に会えてはしゃいでいるんだ」
「オマタセー。オイ風間、客人面してんじゃねえ、手伝え」
「土産の金を出したのはオレだ、それにオレはれっきとした客だろう」
またコップが机の上に並べられていく。諏訪は風間の持って来た土産を開いた。中には深い闇色をしたゼリーがぴっちりと諏訪を見上げている。
「此処のコーヒーゼリーうまいらしいぞ」
「へえ」
「クリームかけましょう」
「おかまいなく」
 風間の目の前に置かれたゼリーに、勝手にクリームをかけていく不思議生物。ばっちり、風間の視界に入ってしまっている。
「あー…今、身体を苗床に実験中です。経費削減で…エコっていうか…」
「なるほど。助かる」
堤がひとまとめにして回収したそれを見つめながら、風間がもぐもぐとゼリーを咀嚼する。きゃー、王子、お許しをー。よかれと思ってー。そうして飲み込んでから、
「なるほどじゃあなかったな。間違えた」
「ああ、まあ、そうなりますよね…」
一瞬誤魔化せるかなと思ったのに、と息を吐く堤は、内密にお願いします、と呟いた。
「実験事故です」
「…保険、下りるだろうか」
「どうでしょう」
「申請するか? 王子」
「風間さんまで!」
ぽん、と諏訪の分のゼリーの上を、不思議生物が跳ねていく。下見ても良いー? とこちらも見ずに聞いてきた太刀川に、好きにしろ、と堤が返した。

 沼の様子を見てきます、と堤が出て行って、其処には諏訪と風間だけが取り残されていた。ぽつり、ぽつり話し出せば思いの外話すことはあるものである。
「お前、研究者じゃねえのか」
「ああ、総務だ」
「総務って何すんだよ」
「主に雑用」
「お前が…? ってかお前、今でもよく食うんだな」
食材足りっかな、と呟くと、最悪太刀川に買わせて持ってくる、と返された。
「そういえばお前誕生日だったな、おめでとう」
「…ああ、お前まで覚えてるとは思わなかった。ありがとう」
 豆粒よりは大きく見える堤が、何やら沼の縁にしゃがんでいるのが見える。もしかしたらあの、身体に残っている方の不思議生物を外に出しているのかもしれないと思った。
「目」
風間の声で、諏訪の焦点はすぐ近くまで戻ってくる。
「結局治らなかったんだな」
「ああ…ってお前知らなかったっけ」
「お前がさっさと運営に回った挙句にこちらに一言もなく異動したおかげでな。風の噂程度にしか聞いてない」
「あん時と大して変わんねえよ。見た目が悪いだけで見えてはいるし。ただ目が、頭への血の通り道になっちまったから。血流が悪くなるとアレだから誤魔化す系のものがつけられなくなった、それだけだ」
なるほど、と頷いた風間と、あれ? と声を上げた不思議生物。
「王子の所為じゃあないんですか?」
 喉が、乾くような心地がした。
「…なん、それ」
「助けを呼ぶのが遅れたと」
「いやだってあん時は通信機壊れてて、おサノとは繋がんないし、緊急脱出機能は強制停止させられるし、日佐人は止められる前にぎりぎり緊急脱出してたし。
あれが最速だったと思うけど」
「いえ、王子、その時携帯持ってたんですよ、生身の方」
換装を解けばすぐにでも救急車が呼べたんです、そうでなくとも本部に連絡すれば済んだことです。一般回線は死んでいなかったのですから。
「でも、出来なかったと」
音が、消えそうになる。
「貴方に、見蕩れて」
 夏の音が蘇った。一瞬。酒を飲めるようになったばかりの堤の表情は、見えなかったけれど。
 息を吐く。
「みとれたなんて、そんな良い風景じゃなかったろ。オレら緊急脱出あるし模擬戦でも殺し合いしまくってるから、いざそういう生身が傷付くの見ちゃって、驚いて動けなかっただけだろ」
「いーえ、王子の脳も内臓も食べた私が言うのだから的確です」
「食うな! いばるな!」
「信じて!」
そんな言い合いを、正面から風間が諌めた。
「時間が経てばいろんな見え方がするだろう。隊長だったお前が怪我をして、自分は無傷で…、なんとなく、そういう責任を感じていたとしても可笑しくはない、あいつなら」
「なんとなくっていうのが一番やっかいじゃねえか。誰にも分かんねーし。動かねえ部分なんだからよ」
「ま、人間の中にも地中みたいなところがあるってことですよ」
「うまいこと言うな」
「風間、そいつ調子に乗るから褒めないで」
 つい、と指で不思議生物を押してやると、面白いくらい簡単にコーヒーの中へと落ちる。ひどい! との言葉は聞こえないふりだ。
「でもまぁ、あいつの話っていつも良くわかんねえしな。頭が良すぎんのか…今だって、何に狙われてるとか言ってくんねえし、聞いても無駄な気もするし」
「狙われてる?」
「そ。貴重になったからさらわれそうなんだってよ。そんな言われたら心配だろ。だからとりあえず解決するまでは見てないとっては思ってる」
「それって、」
 風間の言葉はどだだだ、と上がってきた太刀川によって遮られた。
「風間さん! いいこと思いついた!」
きらめかんばかりの顔。
「此処で報告会やっちゃえば良いんだよ! おれ連絡回してくるね!!」

***

act.12 別れ 

 いいじゃん、元々ボーダーの施設なんだし、という太刀川の暴論により、其処はまたたく間に出張報告会の会場へと変わっていった。報告、だめでしたー! その一言で本来の目的は果たしたようで、すぐにただの飲み会へと変貌していったが。
 そんな中、諏訪はパスタを少しばかり取り分けると、あの外れてしまった不思議生物を連れて沼のほとりへと出た。
「ま、今は騒がしいけど、夜中には帰るだろ。明日も仕事のはずだし。おばけ探しも飽きたと思うし」
そういや、と月を見上げる。
「オレもこの目になってから暫くは、ヒソヒソされたな。おばけみたい、って」
「存じております」
「…そうか」
 フォークの代わりに持って来た箸で、少しずつ、その口へとパスタを運んでやる。
「もしかしてさぁ」
不思議生物は丸っこい身なりをしているくせに、その口は頭頂部にあるらしかった。そこがイソギンチャクのように―――植物なのだから、食虫植物だとかそういうふうに言った方が良かったのかもしれないが、割合グロテスクに開いて、パスタをずるずると飲み込んでいく。
「オレが珍しい植物になったから、みとれてたってことなんかな。あいつ、点数付けんの好きだろ。オレと会った時にはあの癖もうあってさ、お前ならどうしてそんな癖になったのか、知ってそうだけど」
「話しますか?」
「いーや」
首を振る。
「知りたかったらアイツに直接聞いてるよ。聞かなかったってことは、そういうことなんだ」
 もう少しはやかったら、なんて。医者のお決まりの慰めでしかない。そう思っていたからこそ諏訪は今まで気にせず来たのだが、変に真面目な堤はそれを真っ当に信じてしまったのかもしれなかった。
「オレがトリオン影響を受けた植物探しに行ってんのはさ、わりとあいつのあの癖が好きだったからなんだ。あいつから良い点もらえるの、割合嬉しかったんだよ。………最初は」
 開いた部分が花のようだな、と思った。けれども堤から聞いた説明を結ぶ限り、これは実なのかもしれないとも思う。
「でも、そのうち…自分より珍しい生物見てると、安心してることに気付いちまったんだよな」
もう、あいつには言えねえな、と俯くと、不思議生物は声を上げた。
「王子はずっと近くにいて欲しいそうですよ」
「え、なんで。狙われてるから?」
「いえ」
「珍しいから?」
「いえ」
「料理…?」
「いえ」
「えー…あと、」
「さて」
言葉は遮られる。
「さて。ごちそうさまです、若。私はそろそろ―――」
 言われた通りに、不思議生物が入っていたコップごと沼に浮かべる。
「ほんとに行くのかよ」
「はい」
その一つ目には、前とは違う涙が浮かんでいた。
「故郷の地中に戻って、王子に頂いたこの知恵をふるさとの発展に役立てねばなりません。寂しいですがお別れです」
「…気を、つけろよ」
「お元気で」
 沈んでいくカップに、危なくなったら戻って来い、と声をかけようとして、隣を駆け抜けていった人影にそれは吸い込まれた。
 沈んでいく背中は、良く知っている堤のものだった。
 最後の別れをしていたのだろう、暫くしたら堤は浮かんできた。
「あいつ、ほんとに行っちゃった訳」
「ええ」
「寂しいか?」
「いえ…」
「ホント?」
「………少し、寒いです」
 俯いたままの手を掴むと、ひんやりと温度が流れ込んでくる。
「…冷たいんだな」
「植物なんて大概そうでしょう」
そのまま、保養所までの道を辿る。
 珍しいからじゃない、諏訪は考える。便利だからでもない、あと何かあったろうか。近くにいて欲しい理由など。
 ふいに振り返った。手を掴んでいるのについてきているか不安だった。振り向いたらいけない、なんて。大体何処にでもある話だけれども、別に何処かから堤をさらってきている訳でもないからきっと大丈夫だ。
 暗い獣道、うっすらと保養所の灯りに照らされた頬は若干赤みがかって見えた。

***

act.13 茶番 

 朝になっても諏訪の予想とは裏腹に、誰一人として帰ってはいなかった。誰もが二日酔いと寝不足で屍のように転がっている。
「なんか変な生き物が! イソギンチャクみたいな…」
「あ、それ調査中」
「え、何なんですか!? 新種!?」
「さあ…」
「ちょっと、太刀川室長!」
部下に囲まれている二日酔いの太刀川を尻目に、諏訪はいつのまにやら堤から外れたらしい二匹目を拾って、沼へと向かった。
 静かな沼に、カモフラージュ用の花瓶ごと浮かべる。
「将来、王子に頂いたこの知恵で地底が栄えたらきっと招待します。若が撮りたくなるような珍しい者も集めておきますので」
「なるべく早く頼むな。ジジイになっちまうから」
「お任せください、我が故郷の底力見せますよ、地底だけに」
「うるせえ、はやく帰れ」
 花瓶と不思議生物と堤が沈んでいったところから、花だけが浮かび上がってきた。それから少し間を置いて、堤が浮かんでくる。そうして立ち上がった身体が諏訪の方へと一歩踏み出した時、ふらり、とその身体は傾いた。
 慌てて沼の中へと駆け入る。沈むかもしれないとか、そういうことはどうでも良かった。
「つ、」
「大丈夫です。軽くなって安定しないだけです。先に戻っていないと…また…。ひとりで、戻れます、から」
「このまま」
呟く堤の肩を掴む。
「三匹ともいなくなったらどうなるんだ」
堤がこういう、目を見て言われるやり方に弱いのを知っていた。知っていて、このやり方を選んだ。
「…多分、立てなくなります」
「そんなの」
「死ぬ訳じゃあありません」
「でも、」
「そのとき」
堤が立ち上がる。諏訪はその背中をじっと見ていた。水で、肩甲骨が透けている。
「限りなく近付くはずなんです―――満点に」
 何が、そんなに。
「だから、もう少し待っていてください。俺を観察していてください。大丈夫です、がっかりはさせません。ないものを作ってみせますから…」
先に、戻って、と言う堤はまたバランスを崩した。また駆け寄る。引き上げようとしたら、拒まれた。ずるずると、堤が重そうに立ち上がる。
「あんま一緒にいると疑われますよ…ホモだって。きもちわるいでしょう、すみませんね。俺がもっと、………ちゃんとしていたら。諏訪さんがこうして介護、みたいな真似、しなくて良かったはずなのに」
また、堤はバランスを崩した。今度こそ、諏訪はその腕を掴んで引き上げる。
 軽かった。二匹抜けただけだと言うのに、その身体は片手で充分支えられるほどで。身長は堤の方が諏訪よりも大きいというのに。
「諏訪さんが女の子だったら、もっと、ゆっくり」
できましたかね、という言葉はそのまま背の低い草の中へと落ちていった。
 目が合う。
 そこで、ようやく諏訪は決意した。

***

act.14 邪推 

 脚の動かし方さえままならない堤を引きずって、もう慣れた階段を上る。
 部屋の中ではまだ研究室のメンバーががさごそとやっていた。おばけ探しは続行していたらしい。いた? いない? 間に挟まる二日酔いの声。その中へ、諏訪は堤の手を掴んだまま、突入する。
「おい」
声を発したら、面白いように視線が集まった。
「オレら本当は、友人じゃねえんだ」
しん、と静まり返る。
「元上司と元部下とかでも、ねえんだ。だから、二人でゆっくり休ませてもらえねえか」
隣で堤がどんな顔をしているかなんて、見ることが出来なかった。
 その中で、いち早く我に返ったのはやはりと言うか風間だった。
「さ、帰るぞ。おばけなんていると思ってるのか。仮にも科学者が揃いも揃って。今までオレたちが頼りきりだった堤にゆっくり休んでもらうという、最後の大事な仕事が残っているだろう」

 ぞろぞろと保養所を引き上げる車の中、太刀川が名残惜しそうにその古い建物を眺めていた。
「ほんとに恋人なんかなぁ」
助手席で悠々としながら、その頬は疑念でいっぱいになっている。
「普通に元上司で元部下で、友だち。それで気を遣って嘘吐いただけじゃないの」
「きりないぞ、それ」
運転を務める風間がたしなめた。
「両方かもしれないしな」
「は?」
「まぁ、ただの邪推だ」
「いや邪推って。おれもそう思ってますけど」
「…今の言い分だと両立出来ないと言いたげに聞こえたが」
「両立出来ない人のが多いかなって思っただけ」
 そんな言い訳がましい太刀川の言葉にため息を吐いて、風間はハンドルを握り直す。
「しかし堤は人気者だな。あっさり全員が帰り支度をして。こんなにあっさり行くんならもっとはやくこの手を使えば良かった」
「…ほんとは。研究室の解体もあいつがどうにかしてくれると思ってたんだよね、皆。おれはどうせ頼りないし人気ないですよ」
「そんなことないぞ」
至極真面目な顔で風間は言った。
「いじけ方が古いところとか可愛らしくて、オレは良いと思うぞ」
 驚いて目を見開いた太刀川が、そのまま車のクラクションを横から鳴らすまで、あと五秒。

***

act.15 幸福 

 静かになった保養所のテラスで、諏訪と堤は客人たちの車が見えなくなるまで見送っていた。
「…休み明け、嘘でしたって言えば許してくれんだろ。良い奴らばっかだし」
風の音がする。野鳥の声がする。
 自分たち以外、誰もいない場所なのだと実感する。
「…許されなくても、良い」
か細く聞こえてきた堤の声に、諏訪はそちらを見やった。
「………って言ったら、ヒきますか」
 昼の光に照らされて、その表情は良く見えた。頬が、赤い。思わず顔を逸らして、まごつく視線を落ち着かせようとする。
「…今更」
絞り出すように言った言葉に、隣で堤が笑ったのが分った。
 そんな妙に爽やかな空気に耐えられなくて、また諏訪は言葉を探す。
「アー…記念にセックスしとく?」
「なんでアンタはすぐそういう話になるんですか」
「いや、だって、大事だろ。恋人、だったら」
横目に映した堤も、何処か落ち着かない様子だった。
「俺人間じゃないですけど」
「気にしねえよ」
あと内臓ないから多分挿れられるのは無理です、との言葉にあけすけなのはどっちだ、という言葉を諏訪は飲み込む。
「お前に突っ込んで破けでもしたら困るだろ」
「じゃあ諏訪さんが?」
「吝かではない」
「でも内臓ないんですよ」
だから出もしないですけど。
「どっちかってと諏訪さんが一人でシてるのと変わらないと思いますけど」
「…まぁ、セックスはいっか」
「人格は張り付いたままなので見ていて楽しいという気分はへぶっ」
諏訪の手が堤の顔面にぶち当たる。
「お前はさぁ!」
「諏訪さん! 外れますって、顔」
「わ、悪ィ!」
 慌ててぶった辺りをさすったら、思いの外顔が近付いた。つい二日前までは、普通に出来ていたことだったのに。双方同じことを思っていたのか、あたふたと視線が彷徨う。
 あー…と言葉を探すように諏訪は唸った。
「…お前が立てなくなったら、面倒見るくらいしか、出来ねえけど」
「…すみません、気を遣わせて」
「いや、まあ…よくわかんねえけど…」
 どさっと音がして、ふう、と最後の一匹が堤の身体から落ちた。

***

act.16 最高得点 

 今回の休暇の着替えは堤が事前に、テキトーな店に入ってテキトーに買ってきたものだった。そんな買い物をすれば、サイズが合わないものが出てくるのは仕方のないことで。
「ぶっ」
その格好を見て、思わず諏訪はふき出した。
「に、似合うぞ」
「もうふき出してるんだから取り繕わなくて良いですよ…」
何をどう間違ったのか、一枚、とてつもなく大きなティーシャツが混じっていたのだ。間違えて買ったのならば間違えて買った人間が着るべきだ、という諏訪の主張のもと、それは堤が着ることになった。
「まるでワンピースじゃないですか…」
「カワイーぞ」
「嬉しくないです」
そんな会話をしながら、諏訪と堤はやかんに入れた最後の不思議生物を連れて、沼へと向かった。
 今日、最後の一匹が、故郷へと帰る。
 ざぶざぶとそのやかんを抱いて沼へと入っていく堤に、その不思議生物は王子、と声を上げた。
「ご希望のもの、ちゃんと出来ましたよ。ばっちりそっくりな色合いです」
これで心置きなく仲間に追いつけます、と不思議生物は笑う。涙を浮かべながら、それでも笑っていた。
 他の二匹にもしたように、堤は水の下で少しばかり彼らと最後の会話をしているようだった。暫くして浮かんできた堤に、バスタオルを投げる。それは綺麗に堤の頭にかぶさった。
「…今回も倒れんのかと思った」
堤は答えない。諏訪もざぶざぶと中へと入っていって、バスタオルのつっかかった堤の頭をがしがしと拭く。
「歩けるか?」
バスタオルごと手を掴んで、それから保養所へと一歩目を踏み出した時。
 がくん、と足元が少しだけ沈んだ。
「お、わ」
慌ててバランスを取る。
「悪ィな、大丈夫、か………」
振り返った先。
 堤はいなかった。

 光が遠くなっていくのを堤は感じていた。どんどん、身体がばらばらになっていくような感覚。幼い頃からやってきたように、無慈悲に割かれれる植物のように。
「王子」
聞き慣れた、声がした。
「おはやいことで」
あれまぁ。なんてこと。ちょうど今、ぬかるみを作る練習を。知らない声もする。
「見てください」
「増えたでしょう? この辺りの地中はもういっぱいです」
「こんな浅いところまで」
「しかし王子」
「若が王子の珍しさに飽きたら、ぬかるみでさらってくれとおっしゃっていましたが、もうよろしいのですか」
声がする、声がする。
「まだ、探してますよ」
 堤はただじっと、暗闇を見つめるだけだった。深く、深く、闇色のその先を。
「王子のお考えはわかりますよ」
「これ以上近付けないのなら、今度は遠退く日がひどく恐ろしい」
「最高得点で時を止めて逃げてしまおうという算段ですね」
「狡いですが賢いと思います」
「では、このまま。地上に、お別れを」
呼んでいる。
「まだ、探してますね」
 呼んで、
「あ、溺れ」

***

act.17 足 

 水面に顔を出す。酸素がないはずの堤の肺を叩いていった気分にさせた。
「…全然溺れてないじゃないですか」
「溺れるって、こんな浅い沼で…ないだろ」
沼に使ったままの諏訪が、訝しげな目で見てくる。ずりずりと重そうに、諏訪は堤に近付いた。
「足つっただけだよ。ってか見てたのかよ」
ったくよお、と言いながら諏訪は堤の脇下に手を入れる。
「お前もー持ち上げて帰るかんな。歩かせたんじゃ何処に行くか分かんねえ。…ってか軽ッ。こないだ持ったサボテンの鉢より大分軽い…」
言葉が、止まった。
 堤がサイズを間違えて買ってきたティーシャツが、イルカとかジュゴンとかのヒレのようにくるりとねじれていた。

 諏訪は何も言わずに、堤を抱えたまま保養所への道を辿った。
 そうしてとりあえずテラスに下ろす。やたらと大きなサイズのティーシャツは思いの外邪魔だったので、脱がせてしまった。水を絞って、テラスに掛けておく。
「どうすんの、足」
「作ればいいんじゃないですか。諏訪さん器用でしょう」
「いやそりゃあいろいろ作るのは好きだけどよ…足?」
「駄目なら根っこで良いです、俺は此処で一人木に育ちます」
「誰がンなことさせるか!」
 仕方がないので保養所の中を探し回って、それらしい工具といらなそうな椅子を見つけ出して来た。
「根っこは駄目だかんな」
足つくるぞ足、とそれらを堤の前の広げる。
 堤の足のあったところは、まるで誰かに破り取られたかのように消えてしまっていた。曰く、地中に置いてきたのだとか。これ以上は諏訪にとって理解出来る話ではなくなる気がしたので、そのまま聞かずにいる。
 当の堤はと言えば、何やら紙に書き連ねながら、のんびりとテラスに寝そべっている。バインダーまで使っているところには、これだから理系は、と突っ込むべきだったろうか。
「これバラして良いんだよな。埃かぶってたし。一応洗ってきたけど」
「良いんじゃないですか」
「じゃあバラすわ」
「その前に」
バインダーから堤が顔を上げた。
「ちょっと中の物をとって欲しいです」
「え、これ? …あ、椅子ンとこが箱になってんのか」
「いや、こっちのです」
「こっち?」
指差されたのは脚があった辺り。
「こっち?」
もう一度、諏訪は聞き返した。

***

act.18 プレゼント 

 恐る恐る、足がついていた場所に近付く。
「なんだよ…ごみでも入ったのか? こんなかに手、突っ込むの? むり、こわい」
「大丈夫ですよ」
「もうこの短い間でお前の大丈夫は大丈夫じゃないって分かってんだからな…」
 堤の中は空洞になっているようだった。
「液胞とか葉緑体は何処にあんだよ…」
「はりついてます。基本上の方に集中してるんですよ、あと背中とか」
「そういうモンかよ…」
―――中空って言うんですよ、それ。
ふいに、この休みが始まったばかりの時の言葉が蘇った。
「うわっやわらかいこわい」
「怖がらないでくださいよ」
「むりむりこわい。これ?」
「違います」
「えっ」
「もっと右です」
「わ、悪ィ」
彷徨っていた指先が、何かを捉える。
「これ?」
「それです。ゆっくり取ってください」
まるでいちご狩りにでも来たみたいだ、諏訪はそんなことを思った。微妙にやわらかくて、ぶにぶにしていて、掌に収まりそうなものを、ゆっくりと取る。
 そうして引いた掌に乗っていたのは、丸くて白色をした物体だった。中には、赤い色をした同じような球体が入っている。
「誕生日、おめでとうございます」
それを見つめたまま言葉を発さない諏訪に、堤はやや早口で説明を加える。
「あの子たちの中にペルネチアと始祖を分ったものがいて、身体の中で一つだけ育てることに成功しました。赤と白の実があるんですけど、白の中に赤を入れる形で作って、その赤には俺の血とトリオンを混ぜてあります。だから、そのうち乾燥して黒く変色します。俺は、アンタと他人だし、血液型も違うし、俺のトリオン多いとは言えなかったし。よく馴染むとは言いがたいかもしれませんけど、人間の適応力って存外捨てたもんじゃないですから。そのうち、同化すると思います」
きれいだと思った。
「誤魔化すことしか出来ませんが、良かったら」
 これが、自分の中に?
 そう思ったら、急に胸が締め付けられるようにきらめきで埋まっていくのを諏訪は感じた。いや、うん、ともごもごと呟いてから、やっとのことで正しい言葉を引き当てる。
「ありがと」
けれども視線はまだ、掌の球体から離せなかった。
「すげーな天才科学者」
「見ましたか天才の底力」
「ばっか、何言ってんだよ。まさかこれ作るために植物になった訳じゃねえだろ? ついでに偶然作ってみただけだろ?」
 答えはない。太陽に透かしてみる。まだ赤みのかかった黒目が、きらきらと輝く。
「…おめでとうって、いつから用意してたんだよ。結構しっかりついてたけど、っていうか生えてたけど。どうやって取り出すつもりだったんだよ。偶然破れてたから…」
尻すぼみになる言葉。
「偶然…」
 ぼりぼり、と尻の辺りを掻いている堤は、さも図星ですと言わんばかりの表情でそっぽを向いていた。
「いや、そりゃあ目のことは気にしてたけど。結構、かなり…いやでも嘘だろ。嘘だって言ってくれ。天才ジョークだよな。オイ、返事しろ」
何も答えがないのは、それだけで雄弁な答えになる。
「どう考えても副産物のバランスが可笑しいだろ! この駄目科学者!」
「ちょっと効率悪かっただけです」
「え、認めんの…」
 絶句した諏訪の後ろから、邪魔するぞ、と風間の声がした。

***

act.19 零点 

 風間の来訪に、諏訪は慌てて堤の下半身へとバスタオルを掛ける。
「元気そうだな」
「これ見てそう言えんのかよお前…」
「元気ですよ、そっちはどうです?」
「オイ堤、お前は何しれっと流してんだ」
どうにも完全なる頭の可笑しい方の理系共に囲まれていては、諏訪に発言権はないにも等しいらしかった。
「皆死にそうで元気だ。まぁ、堤には敵わないだろうがな」
 そう言ってから、風間はうーん、と唸る。
「どうしよう」
「ンだよ」
「いや、もう…この植物の異常発生と異常気象、その発生源とみられるこの山を中心とした地中に生息していたらしい知的生物異常発生で、あらゆる研究室に協力要請を出し、トリオンを生成する機能がそれなりに高いっていうことで鬼怒田さんが高血圧を悪化させ、うちなんか特にこの周辺専門だった訳だから寝る暇もなく」
正直太刀川が面白いことになっている、と続けられた言葉に笑う気力もない。
「出勤はしたいんですけどねー」
「だろうな。本当に残念だ、見せたいぞ、解体騒ぎなんて嘘のようだ。一応人里離れた山だったから良いものを、市街地にまで植物が広がっていきそうで、今広報と協力しててんやわんやの大騒ぎだし、あっちこっちこれから被害が出ないとも限らん。まぁ、そのおかげで研究室は生き返ったんだからおかしなはなしではあるがな」
つらつらと語る風間に、諏訪は思わず顔を覆った。
「すまん…」
「なんでお前が謝るんだ、お前の所為でもあるまいし」
 別れ際、風間は研究室の面々にはうまいこと言っておく、と言っていた。
「いやしかし困ったな」
風間にしては珍しいその表情に、諏訪は何事かと目を瞬かせる。
「いや、研究室の面々は、堤が褒めてくれると思って頑張っているからな。みんな、あいつから良い点が欲しいんだ」
その言葉に、諏訪は暫く、呆然としていた。

 いちに、いちに、と声を合わせて手を引く。
「生まれ直したみたいで滑稽ですね。面倒ですからもう根っこにしましょう」
「だーかーらー根っこはだめだって言ってンだろ」
見舞いとか来たらどうすんだ、生えてたらあっちこっちから怒られンぞ、と続ければ、渋々と言ったようにリハビリが再開される。
「当面は怪我してるくらいには振る舞えねえと」
「当面って。まだ先を要求する気ですか」
「そうだけど」
「諏訪さんの鬼!」
 いちに、いちに、と声に合わせて、ぎしぎしと諏訪お手製の足は唸りを上げた。
「この先ずっと人に会わねえ訳にもいかねえだろ」
「そうですけど」
「あと此処でずっと静養してる訳にもいかねえだろ」
「そう…ですか?」
「オレ仕事あるし」
堤が俯く。
「お前連れてけるくらいにはしなきゃいけねえだろ」
 ぎゅっと、繋いでいる手が驚いたように握られた。
「諏訪さん」
「ンだよ、収入は必要だろ」
「…オレ、保険下りるかもしれないですよ」
「そん時はそん時だ。バリアフリーの家でも作れば」
だから、と諏訪は呟く。
「もう少し人間でいろよ。頼むからさ」
 太陽が地平線に沈もうとしていた。赤々とした光の中、諏訪はじっと、堤を見つめる。
「ほんとはさ、不思議生物からちょっと秘密聞いちまったんだ。オレが頭打った時、珍しくてみとれてたのずっと気にしてたって。悪ィな」
「………零点です」
掠れた声。赤い世界の中、堤は太陽の方を向いた。
「あの時アンタを助けられるのは俺だけでした。それが嬉しくて、今が永遠になれば良いと思った、馬鹿でしょう。アンタは俺を、」
 二人分の影が、光に飲まれる。
「びりびりにしたって良いんです」

***

20140907