お前は奪ったものだからね 

 物言わぬ人形を愛しているのだと、口さがないことを言われたことがあった。彼女が生きていることが簡単に人に伝わりにくくなって、いやそもそも魂が既に此処にはないのだからきっと、その口さがない言葉も正しいところはあるのだ。
「それでも俺は貴方が貴方のままだとそう思うんだ」
なにものにも汚されない美しい精神の宿った器は、彼女が唯一遺してくれたものだから。
 と言ったら。唯一俺を選んだ彼はとても不満そうな顔をした。



優しい声音で 君に 「貴方が居ない世界なんて要らない」 と言いました。
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***

宵闇に光が射す 

 私の上司はとても優秀である。どうしてこんな第三班なんてところにいるのか不思議に思うほど、優秀だ。そんな人のもとで働けることは私にとって、とてつもない幸運なのだろう、と思う。
 でも、だからこそ、気になることはあると言うもので。
「そういえば、プライベートなことを聞いても良いですか」
「答えるかは分からんが、どうぞ」
「真倉さん、結婚しているんですか」
 その指に、指輪はなかった。指輪のあとも。でもこの上司は毎日定時で帰れるように心掛けているし、飲み会にも合コンにも出ないから、そうじゃないかって言われているだけ。
「ああ、出来た妻だ。私にはもったいないくらいの」
否定されると思っていたから、私はその言葉に少しだけびっくりしてしまった。それに。
 いつも鉄面皮な彼が、少し、本当にほんの少しだけだけれど、その頬を緩めるのを見てしまったから。
「…奥さんを愛していらっしゃるんですね」
「ああ」
当たり前のことのように短く呟く彼の、その後ろにへし切長谷部の影が見えることは言わないでおいた。
 私よりも審神者としての適正が高い彼のことだ。私なんかが言わずともその影には気付いているのだろう。一体、どういった関係なのか、私が聞くことは出来ない。私の上司の真倉さんは愛妻家で、だから合コンにも出なくて、指輪はしていないけれどもそれは本当のことなのだ。だって嘘を吐く必要なんて何処にもなかったから。
「いいなあ」
私は呟く。
「私もいい人見つけたいです」
「…そうか、頑張れ」
そういう対応が素っ気ないのも、この人のことを良い上司と思うことの一欠片なのだろう。

***

墜ちるのは、誰 

 好きだと言えと、強請(ねだ)ったことなどなかった。そんなふうに言ったところで男の口から出るものが真実だとは思わなかったし、そもそも分かっていることを再度確認するような人間らしい動きをへし切長谷部がやってやることもなかった。無駄、とまでは言わないが、分かっていることを今更確認するほどこの男に信を置いていない訳ではないのだ。
 この男は、言葉にしないけれどもへし切長谷部のことが好きだ。
 言えば否定をするだけ、でもへし切長谷部がそう伝えてからと言うもの、憑き物が落ちたようにその手付きはやさしいものになった。眉間の皺も、へし切長谷部に向けられることはなくなったし、書類を勝手に手伝っても何を言われることもなくなった。へし切長谷部の主も少しだけ変わった空気を察しているようだった。
 以前より、触れ合うことは減ったと思う。性行為に頼らなくなったことは多分、男にとっては良いことなのだろうが。頼っていたという自覚もないのだろうな、と思う。ただ、仕事をこなして眠る。それだけのことが出来ない男のことを不器用だと言うのだと、へし切長谷部はもう知っていた。
「へし切長谷部」
微睡みの中、部屋を出て行く男が振り返る。
「―――すきだ」
 その言葉に飛び跳ねるように起き上がりたいのを堪えるのに、一体へし切長谷部はどれほど冷たくなれば良かったのだろう。



@helpless_odai

***

 「お前は、何か欲しいものとか、ないの」
そんなふうに吐かれた言葉にへし切長谷部は目を丸くした。いろいろな理由はあったが、まずそもそも彼は人間であり、へし切長谷部は神であるからというのがある。人間というのは神に願うものだ。それが、神に願いはないかと問うというのは、何か。
「叶うなら…」
それでもへし切長谷部は口にする。
「出掛けたい」
 その人間が大嫌いな神に、願ったものであるから。
「は、ちっぽけな望みだね」
その薄い唇がいつもと同じに嘲りを吐き出すことを知っていて。

花咲く春は何処までも 

 長谷部くん、と主である少女がへし切長谷部を呼んだのはそのすぐあとのことだった。
「今日ね、お休みもらえたの。あとね、あかりくんから、これ」
少女の手の中にあったのは、現世に対応した服だった。
 それを見ただけで何が起こったのか理解する。付喪神であっても現世に行くことがないわけではない。主である人間が現世に戻るとなれば必然的に護衛が必要であり、基本的にはそれは政府の人間が担うものだが刀剣男士を連れて行きたがる審神者も多いのだと言う。刀剣男士というのは霊体であり、普通であれば一般人に見えないものであるので護衛の際はそのままついていくらしいが、例えばその刀剣男士が現世に興味を持っている場合は別とされる。大方の無理ではない要求が通るこの世界では、力を貸す代わりに現世というものを体感することが可能になっているらしい。審神者と共に休みをとって、現世で遊ぶものもあるのだとか。とは言え、これは聞いた話でしかないのだが。へし切長谷部の主である少女は複雑な環境に身をおいているらしく、へし切長谷部が顕現してからと言うもの一度も現世へ帰還したことはなかった。
「………あの人は…」
主の前ということも忘れて額に手をやる。
「長谷部くんが言ったの?」
「私は…そ、の」
「もしかして、何か違うように捉えられちゃったのかな」
その通りだ。
 少女があの男と一応血が繋がっているのだと、こういう時に実感する。何もかも見透かすような顔を、幼い少女であるのにしてみせるから。
「ね、誰にも言わないから。あかりくんにも言わないから、教えてくれない?」
何て言ったの? と少女は笑う。その笑みはとても優しい。優しいから、へし切長谷部は言う。
「…出掛けたい、と」
「あかりくんと?」
「………はい」
何も隠せる気がしなかった。すぐに言葉を付け足す。
「決して槻田様と出掛けることが嫌という訳ではなく!」
「大丈夫、分かってるよ」
 未だ少女の様相を隠さない主はやわらかく笑う。慌てなくても良いのに、私だって長谷部くんの主なんだからね、と。彼女は自分のものである彼が、自らの従える神のお気に召したことがこの上なく自慢らしい。よく分からないけれども、なんとなく分かる。そんな心地がしてしまう。
「あかりくん、ちょっと思い込み激しいもんね」
言わなくても分かってるって顔するんだよね、と少女は呟く。そうだ、あの男はそういう顔をする。自分が何も言わないことについて誰にも察されていないと、そういう矛盾には気付かずに。いや、もしくは、気付いたまま放置して。
「多分、今回のことだって気を遣ったと思ってるんだよ」
―――どうでも良いことだと、放置して。
 とりあえず今回は私と出掛けてくれる? と少女は言った。へし切長谷部にそれを断る理由はない。だから、と手を繋ぐ。
「一ヶ月もつおみやげ、買おうね」
その笑みに、あの男がどれほどに救われたのか、へし切長谷部には到底理解が及ばないのだろう。

***

神のみぞ知る 

 これは愛情なのだろう、と思う。例え人と神とそれが交わることがなくても、此処に何が生まれる訳ではなくても、それでも確かに愛情なのだ、とへし切長谷部は断ずる。そうであって欲しいと、そう願う。
「…どうした」
袖を引いたのは本当に微かな力であったはずなのに、それでも男は気付くから。
「………煩い」
「静かにしていたつもりなんだが」
「動くな」
「君が僕に命令か」
偉くなったものだな、だから神なんて嫌いなんだ、と男はいつものようにそう言って、へし切長谷部はそう思っていれば良い、と思って何も言わなかった。
「…貴方は、」
「何だ」
「いや、俺のことがひどく、好きなんだな、と思ってな」
「この間から君はおかしなことばかり言うんだな」
「おかしくなどない」
「いや、おかしいさ」
 その先は言葉にされずとも分かった。
―――僕のことが好き、だなんて。
だからそれを言わせまいとして、今度は袖を強く引く。ひっくり返ったその人が腕の中に落ちてきて、素直に唇を塞がれてくれることを知っているから。



『たった1つお願い…』
真倉さん へ
好きな人『少しだけ私を好きでいて下さい。あなたにもらった愛情に利子を付けて返したいから』
あなたはこのお願い、聞いてくれますか?
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ずっとこうしたかった 

 手を伸ばす。男はへし切長谷部のその行動に最早何を言うこともしない。元々口数の少ない男ではあったが、それでも行為の上で男の指示にないことをすれば何かしら文句をつけてきた男であるというのに、それがこの短期間で何が変わったのだろう。それとも、もう殺されても仕方がないと思ってでもいるのだろうか。この男が何も感じ取っていない訳がない。それでも何も言わないのは、彼女の決めたことを何よりも第一に考えているからだろうか。
「―――貴方は、」
へし切長谷部の腕がその首に巻き付く。細くもなく太くもない、何の変哲もない首ではあったが、きっと力を入れれば簡単に折れてしまうことを知っていた。
「可哀想だ」
「…そうか」
君はそう言うだろうと思っていた、とどうでも良いように言うこの男を、このまま手放さないでいたかった。



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荷物を持とうと差し出した手は、君にそっと包まれた 

 嫌われているのだと思っていた。でも、そんなのは当たり前だったから、別にどっちでも良かった。この人は少なくとも私に暴力を奮わない、力であっても、言葉であっても、態度であっても。いないものとして扱わない。ただ、それだけで。
―――貴方はそれを優しさと呼べるなんて、知らないのだろうけれど。
 それを知っていて黙っていることを選んだ私は、きっと卑怯者なのだろう。



空色 @sora_odai

***

君の居ない日常は間違い探しのようで。(認めたくない、たった一つの『間違い』) 

 先輩、と声がする。部下が立って、こちらを見ている。
「疲れてるんですか?」
「…いや、そうじゃない」
「じゃあ寝れてないとかですか? 蜂蜜が良いらしいですよ」
「随分古い民間療法を知ってるんだな」
「そういう先輩こそ。ネギでも巻きます?」
「いや…。風邪とかじゃあない。眠れてもいる」
でも蜂蜜は良いかもしれないな、最近甘いものなんて食べてない、というと部下は少しだけ笑って、甘いものは良いですよ、と言った。
 その顔を見ていたら今だって後ろにいるはずのどこぞのカミサマに、蜂蜜をくれてやりたくなった。



一人遊び。
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それは緩慢な自殺 

 甘さなどやはり欠片もないな、とへし切長谷部は思う。ただ、思っていたよりもその行為が何処かに振れるということもなくて、今まで通りとまでは行かずとも、それでも保っているように見えて。
―――嗚呼、
 いじらしい、とへし切長谷部は言わなかった。思っていることも伝わっていない、と思う。ただこの男は卑屈だから、何処までへし切長谷部の視線を曲解するか。曲解されたらされたで良いと思っていた。
 この人が、この世に留まるのであれば。
 それはへし切長谷部の主の望みでもあるから。
 そっと、唇で名前を呼ぶ。音にもなりきれなかったそれに瞼が持ち上げられる。眠りに入るまでが早くなった。そして、眠りは深くなった。この男がいつ殺されても良いと思うようになったということを、へし切長谷部は見ないふりをする。
「貴方が死ぬ時は、」
「…ん、」
「俺が連れて行こう」
「………何処に」
「何処だろうな」
「千重子がいないなら何処でも一緒だ」
微睡みの中、男がそんなことを零したことにも気付かないのは、それだけへし切長谷部が男の一部になってきたからなのだろう。



image songe「入水願い」東京事変

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恋慕積もりて雪路を穢す 

 真倉さん、という違う班の人のことを好きになったのは偶然で、所謂一目惚れというやつだった。私はどうにも猪突猛進なところがあると自覚しているものの、今回は大丈夫だと自分に言い聞かせた。きっと真倉さんに私の良いところをアピールして、きっと私のことを好きになってもらおう。
 と、そんなことを言ったら真倉さんとよく仕事で一緒になると言う同僚ははあ、とため息を吐いた。
「あの人はやめときなさいよ」
私はどうして、と問う。
「いろいろあるけど…まずあの人妻帯者だし。愛妻家だし。靡かないでしょ。あと、刀剣男士が睨み効かせてるからなんていうの、不義理みたいな真似、出来ないよ」
何だそれは、と思った。
 私だって此処で働いている以上、刀剣男士がどういうものなのかは知っている。彼らは神様だ。でも、真倉さんが審神者だったとは聞いたことはないし、何故そんな彼に刀剣男士がついているのだろう? 噂じゃないの、と食い下がる私に、その子は私が視えること知っているよね? と問うてきた。その子に僅かながらの審神者適正があることを、私は知っている。いろいろと家の都合があって、審神者にならなかったことも、審神者にどうしてもならなくてはならないような凄い才能ではないことも。どうでも良いこと、とばかりに彼女が言うのを、私は聞いていたし、実際に視える・視えないはどっちでも良いと思っていた。彼らはやろうと思えばこちらの目に映ることは可能なのだから。
「仕事で真倉さんともよく会うし、だから一緒にいる刀剣男士のことも視えてる。私が視えてることは向こうも知ってるし、それで困ったことはないけどね」
まあ、やめときなよ、とその子は繰り返して話は終わった。
 私にはそれが、どうしても真倉さんから私を遠ざけるための言葉に聞こえてしまって仕方なかった。
 私は今まで、刀剣男士を視たことはなかった。此処は審神者に直接関わる班でもないし、必要がない、というのもある。だから、知っているのは話ばかりだ。でも、今はそれはどうでも良い。人間と人間の話に、刀剣男士が割り入ってくるとは思えなかった。真倉さんは審神者ではないのだから、余計に。その奥さんとやらの護衛かそれに準ずるものとしているのだろう、と私は推測する。で、あるならば、と私はその推測を展開させた。どうして、それが刀剣男士が真倉さんについている、なんて話になったのか? 刀剣男士のことが視える人間は別に少ない訳じゃあない、多いという訳でもないけれど。だから、多分、彼らが揃って勘違いするようなことが。
 ならば、その勘違いとは何なのか? 私は立ち上がった。好きな人のことだ、何でも知りたいに決まっている。だから私はあちこちで真倉さんの噂を集めた。何一つ苦ではなかった。噂は噂だけれど、集まれば情報になる。精査していけば、自ずと真実が見えてくるのだ。
 真倉さんは高貴な家の出で、今の奥さんとはその関係で結婚したらしい。その奥さんは元・審神者で、審神者をやめたのは本丸で倒れたから。真倉さんと彼女が結婚したのは元々の婚約関係があったからだけれど、彼女が倒れたことが決定打になったのは間違いないらしい。奥さんとやらは家からは全然出てこなくて、それでも真倉さんはその奥さんのために毎日さっさと仕事を終わらせて帰っているのだとか。愛妻家、という言葉は其処から来たのだろう。此処で、先程上げた疑問が浮かび上がる。どうして審神者ではない真倉さんに、刀剣男士がついている、なんて噂になったのだろう。彼らは、何を勘違いしたのだろう。私は一つ、推論を立てた。真倉さんは家のことを嫌っていたという話も聞いた、ならば家の関係で決まった結婚など嫌がっていたのではないだろうか。でも、奥さんの方はそうじゃあなかったとしたら? 自分が家から出られない間、真倉さんが浮気していないか監視させるために、自分の刀剣男士を同行させているのだとしたら。…いや、恋情やそれに基づく執着ですらないのかもしれない。槻田の家は、ひどく古風な言い方ではあるが貴族的な家だ。真倉姓になったとは言え、その染み付いた特殊性が息づいているとしたら? 外で浮気などされたら、家の名に傷が付く、とか。私にはそんなこと、と言ってしまえる類のことを病的なまでに気にしているのだとしたら?
 もし、そうであるなら―――それは、立派な人権侵害だ。
 私には権力はないけれど、真倉さんが望むのであれば一緒に何処までも逃げることは出来る。これでも貯蓄はたくさんあるのだ。細々と暮らしていけばなんとかなる。首都で育った人間ほど首都の外のことを知らないと、私は知っていた。だから、首都の外に逃れてしまえば誰も追って来なくなる。
 そう思っていたから、私は偶然@ァち寄った真倉さんの班で、もう帰ってしまった真倉さんに届ける書類を手に入れたのだった。これを、真倉さんに届け、ついでに奥さんとやらを盗み見ることが出来れば。そしてもしも私の想像が当たっていたら、そのまま真倉さんに告白をするのだ。一緒に逃げようと、私は言うのだ。あの静かな表情が私の前でふわりと緩む様を思い浮かべながら、私はよし、と気合いを入れ直した。
 真倉さんは職員の居住地区の、奥の方に居を構えている。普通であれば職員は寮に入るものだけれど、其処はやはり槻田家の影響なのだろう。こじんまりとはしているが趣味のよい、質素に見せて職人技の光る家だった。一体これを建てるのに幾らかかっているのだろう、というのを考えたくはない。
 真倉、と表札の掛かったその家にはインターホンがなかった。だからそっと玄関を開けてみる。引き戸だから音が立つかと思ったのだが、何の音も立てずにするりとそれは開く。すみません、と声をかけてみても応答はなかった。だから、という訳ではないけれど。私は靴を脱ぐと、その家に足を踏み入れた。
 廊下も軋むことはない。高級品である木材の香りがする。恐る恐る、と言ったように進む私の耳に、低い声が聞こえてきた。何を言っているのかまでは分からないが、私が聞き間違えるはずもない。真倉さんの声だった。私はその声を辿って家の奥へ、奥へと進む。
 声が近くなっていく。目の前の部屋の中に、人がいる。窓が開いているのか風が通り抜けて、それで真倉さんの声が聞こえたのだった。
「―――それで、思い出してね。君はよく祭りに行きたがっただろう。僕が何を言っても君が譲らないから、連れ回されて…僕は迷惑していたよ。でも、君はそれだけで充分という顔で、折角着た浴衣を自慢するようなこともしないから…。自慢してくれて良かったんだよ。そうしたら僕は褒めるための大義名分を得られたのだから」
そっと、覗く。
 真倉さんはベッドの横に座っていた。そのベッドの上にはじっと動かないものが横たわっている。奥さんだろうか? と一瞬思ったけれどもそれにしては動かない。何だろう、あれは。人形? 人間?
 動けないでいる私の視線の先で、それはゆっくりと瞬きをした。あ、人形じゃない。よくよく見れば胸の辺りも上下している。つまり、あれは生きている。人間なのだ。でも、動かない。どうして、なんて分からなかった。でも、動かないのだ。奥さんであろう人は全く動かないままなのに、真倉さんは気にした様子もなく話を続ける。時折彼女から相槌があったような反応をするのは、真倉さんにだけ何かが聞こえているのだろうか。
 それは、異様な光景だった。
 思わず後ずさりした私は、とん、と何かにぶつかる。
「お客様、何か御用ですか」
紫の瞳をした、男だった。男が扉を閉めて、真倉さんの声が聞こえなくなる。どうやらこの扉は防音機能がついているらしい。誰だろう、と思うよりも先に私の口は言い訳するように書類を届けに来たこと、返答がなかったから入ってきてしまったことを並べ立てた。男は頷いて、そうですか、と言って手を出す。
「書類、お預かりしますよ」
にっこりと、男は笑ったので私は彼に書類を押し付けた。
 そしてそのまま、逃げるようにして真倉さんの家をあとにした。

 「あ、戻ってきた!」
班に戻った私を待っていたのは、慌てた様子の同僚だった。何をそんなに慌てているのだろ、と思っていると、真倉さんの家に行ったって聞いたから、と言われる。いつもであれば刀剣男士が視える者が行くのだと、その子は言う。話が微妙に繋がらなくて、私はぱちぱち、と目を瞬(しばたた)かせる。
「真倉さんの家、防音凄いからね。インターホンもないし。誰も出てこなかったでしょ」
それには頷いた。
「書類、どうしたの? ポストに入れた?」
その言い方で私は、勝手に家に上がり込んだことがバレている、と思ったものの特に何も言わず、ただ私は部下の人がいたから、と本当のことを言った。多分部下だろう、それか執事、とか。あの家に執事がいてもおかしくはないし。慌ててそう言った私に部下? とその子は少しだけ訝しんでから、ああ、と呟く。
「その部下の人、」
 その子が取り出したのは自分の端末だった。そして、一つの画像を私に見せる。
「こんな顔じゃなかった?」
其処にいたのは、私の見た男だった。紫の瞳をした男。やはり執事か何かなのだろうか。私はじらじらと這い寄る事実から目を背けながら、座ったら、と言われるがままに座る。その子も私の対面に座った。声が落ちる。周りに聞いている人はいない。
「有名な話だから、どうせもう知ってると思うけど。真倉さんの奥さんが元・審神者で、彼女が倒れてから彼女の刀剣男士が真倉さんにずっとついてるって話」
私が聞いたのと同じ話。
 部下じゃないよ、とその子は言わなかった。
「一度、」
多分それは、私への優しさだ。その子の優しさは少しだけ分かりにくいけれど、それでも私には分かる。
「コネを作ろうとして女の子のいる店に連れて行こうとしたハゲが、その刀剣男士に脅されたって」
刀剣男士との霊力譲渡っていろいろあるけど、直接的なのは粘膜接触なんだよね、と。その意味が分からないほど、私は子供ではない。でもすぐに飲み込めるほど、大人でもない。
「噂はね、噂じゃないんだよ。あの刀剣男士は確かに奥さんの刀剣男士なんだろうけど、間違いなく真倉さんについてる刀剣男士なの」
普段は基本的に何もしないんだけどね、とその子は言う。
―――それは、
「ずっと、一緒なんだよ。何処へ行くのにも。主である奥さんじゃなくて、あの刀剣男士は、真倉さんについているの」
思い出す。
 私から書類を受け取った男の目の底は、笑っていなかった。
 どうして、と私は呟く。その声は惨めなほどに掠れていた。その子はさあ、と言った。聞いたことないから分かんないや、と。
―――基本以外のことがあれば、何かするということでもあって。
真倉さんは男性でしょう、と言う私はきっと時代錯誤に聞こえたかもしれない。でも、神様とやらはその貌(かたち)らしく、異性を好むというのは此処にいればよく聞く話だった。神隠しとやらの話も、一夜孕みの話も、時々耳に入ってくるのは大抵が女性の審神者である。
「神様に、性別って関係あるのかな」
それを打ち砕くかのように、その子は言った。
「人間でも性別なんて今は気にしないのに、神様が気にするっていうのもちょっとおかしな話だよね」
人間の気持ちに基づいて、変わりゆくものなのにね、と。
 その子の言葉はひどく現実的で、私は言葉を失ってしまう。まあ、とその子は立ち上がった。どうやらこの話は終わりらしい。彼女だって仕事が残っているだろう。
「どっちにしろ、ちゃんと帰ってこれて良かったね」
上手く言っておくから今日はもう帰りなよ。
 刀剣男士が見えないはずの私に、一体どうして彼≠ェ視えたのか。
 そんなの、向こうが姿を見せようと思ったから、としか答えがなく、私はやっと、冷や汗が出ていることを自覚出来たのだ。

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20190922