もしも誰か、赦すものがあるならば。 

 行為中に男の機嫌が悪かったのは自分が煽ったからだ、という自覚はあった。男の方にも機嫌が悪い自覚はあったのだろう、まるで事務処理のように一度だけ行われた性行為のあと、風呂にでも入って来いと部屋を追い出された。勿論、部屋に戻れと言われた訳ではないので風呂を済ませたら男の部屋には戻るつもりだったが、一体どれほど時間を開けたら良いのか。
 そんなことを考えながら浴場までの道をぼんやり歩いていると、前から誰かの歩いてくる気配を感じた。こんな時間に誰だろうか。誰であろうと、この城のものはなんとなく、へし切長谷部が一ヶ月に一度の来客と何をしているのか知っている。だから客間には誰も近寄らないのだろう。身だしなみを整える間もなく部屋を放り出されたので、見るものが見れば確実に事後だと分かるだろうが、へし切長谷部にとっては最早それくらいのこと、という認識だった。
 ゆっくりと近付いてくる足音に、気配を殺すようなものは感じられない。それに気付いた瞬間、身を隠そうとしたが遅かった。
「長谷部くん…?」
ああ、この人にだけは。
「どうしたの、その格好」
廊下の灯りは煌々としていて、さっと隠れられる場所もなくて。
「………あかりくん、なの?」
 知られたく、なかったのに。
 思わず廊下に蹲ってしまった。これ以上、この姿を見られたくなかった。逃げ出せば良かっただろうに、へし切長谷部にはそれすら選べない。
「槻田様、お願いします。見ないでください」
「長谷部くん、」
「お願いします」
「長谷部くん!!」
細いけれども強い、そんな声で遮られた。
「私は、頼りない主かもしれないけれど、一応は真倉さんと対等よ。それが無理強いなら、私から言うことだって出来る。主として、真倉さんに、私の刀剣男士をそう扱わないでと言うことが出来る」
少女の声はこれ以上なく正しく、そして光り輝いているように聞こえた。それでもそれを聞いた瞬間、へし切長谷部は首を振ったのだ。
 どうして首を振ったのか、自分でも分からなかった。確かに無理強いではなくて、へし切長谷部に選択権を与えた最悪のものだったが、やめたいと、そう懇願することは考えられなかった。どうして、だろう。
「ッ…槻田様…」
涙が溢れる。
「俺、は…」
「長谷部くん…」
「俺は、俺は………」
それより先は言葉にならなかった。
 彼女はただへし切長谷部の頭を、まるで子供にするように撫でるだけで、それ以上は何も言わなかった。

***

いいから黙れ 

 今日はいいよ、と男が言ったのを、へし切長谷部はただ黙って聞いていた。
「あの子に知られたんだろう」
彼の言うあの子≠ェ自らの敬愛する主のことであるのだと、へし切長谷部は分かっている。
「僕は別に、君が嫌だと言うのならやめるつもりなんだけれど」
黙ったままのへし切長谷部に何を思ったのか、男は軽く振り返って続けた。
「君はもしかして、その選択肢があることすら気付いていなかったのか?」
選択肢、と。
 そんなものが。
「別に僕だって色狂いな訳じゃあない。君が断ったことで別のものに僕が行くかと問われれば、別にそんなことはしないよ。馬鹿な君ならそういうことを考えていそうだからね。ちなみに、あの使えない子を抱くなんてこと、天地がひっくり返ったって―――」
ないから、と続くはずだったのだろう。それを遮るように胸ぐらを掴んで引き寄せる。抵抗する気もなかったのだろう、その身体はいとも簡単にへし切長谷部の元へとやって来た。
 その先を、聞きたくなかった。
 それは、どうしてだろう。
「どうしたの」
へらり、と男は笑う。
「このまま、殴っちゃう?」
殴ってやるのも良いと思った。馬鹿はどっちだ。唇を合わせる。
 いつもやられているように、相手を顧みないような荒々しい接吻け、を。
「…貴方と寝ることは、」
はあ、と息を吐きながら、言葉を探す。どちらのものとも分からない唾液が、喋る度にわずかわずかに糸を引く。
「俺が選んだことだ」
驚いたように見開かれる瞳に胸が満たされたような心地になって、もう一度接吻ける。今度は優しく、と心がけた。男の舌を味わうように、互いの唾液を混ぜあわせるように。
 「貴方は黙って、俺を抱いていれば良い」

***

貴方が愛した世界 

 主である少女に何もかもが露見したあとでも、結局その関係は変わらなかった。へし切長谷部が望んだからであると言えばそれまでだったが、男のすべてに投げやりであるような態度は、少し、ほんの少しだけ軟化したようにも思えたので、彼の方にも何かしら変化があったのだろう、と勝手に思う。
「長谷部くんは、」
今日の分の仕事を終えて床に臥せる少女が、小さく問う。
「あかりくんのこと、どう思ってるの?」
「………どう、とは」
「好きとか、嫌いとか。その他でもいいけど」
「そう言われましても…特に、これと言った感情は…。それに、」
 思い出すのはいつかの言葉だ。
―――そもそも君は僕が嫌いだろう?
「彼も、俺のことはどうとも思っていないようですし」
 へし切長谷部の言い分に、少女は思うことがあるようだった。
「…あかりくんは、」
真っ直ぐな、視線がこちらを向く。
「長谷部くんのこと、好きだと思うよ?」
前に言ったでしょう、と少女は真剣な顔をした。
「あかりくんね、私たちのおうちのこともあるだろうけど…昔っから、すごく我慢しいで………でもね、すっごく素直なの。おうちが決めたことでも、本当に嫌なことは嫌だって言える人なのよ」
家が決めたこと。それは少女にとっては絶対で、どうしても逃れられないものではなかったか。確か、此処にいるのだって家の事情だと聞いていた。
「私のところに来たのだってね、あかりくんにはお兄ちゃん…そうね、腹違いのお兄ちゃんがいてね。その人は本妻の子なんだけど。ゆくゆくはその人の付き人に、って話だったの」
そんなものに逆らうということは、彼らの世界では死を意味するのではないのか。
「分家は本家の盾だけれどね、分家の中にも更に序列があるのよ」
「序列…」
そう、序列、と物語のように少女は繰り返す。それがまさか、自分の関わっている物語だとは知らぬように。
「あるのよ、小さい子供だと、誘拐だとか、それで身代金だとか。分家でも、その危険にさらされることがあったから、序列は暗黙の了解でも決めておくものだったの」
 誰が、一番先に死ぬのか。
「でもね、あかりくんはそのお兄ちゃんとすごく、仲が悪くて。こいつを守るなんて絶対に嫌だ、って言ったんだって。それから、お兄ちゃんからの嫌がらせが始まって、最終的に階段から突き落とされるってことがあって、うちに来たの」
どんな不良品でも血が混じっているのなら。利用出来る分は利用しないと。
「そんなことがあったものだから…うちに来た頃のあかりくんはとっても怖くて…。私もなんとなく、あかりくんの気持ちが分からない訳じゃなかったから、何も話し掛けないでいたのね。嫌いでも好きでもなくて、きっとこの人は私に話し掛けられるのが嫌だろうな、って思って。でもね、それでもあかりくんは、私が転んだ時に手を差し伸べてくれたの」
嬉しかったなあ、と呟く少女は本当に嬉しそうで、その場面を見ていないへし切長谷部にすらそれが目に浮かぶようだった。
「嫌われていると思ったのにね」
そうじゃなかった、って分かったら、とてもたまらなくなって。
 少女が男に話し掛けるようになったのはそれからだったと言う。いつもどおりに感情の薄い顔ながらそれでも男は少女の言葉に受け答えをし、何処へ行くにも少女に付き添った。
「だからね。あかりくんが今していることがあるのならば、それはね。誰に言われたからでもない、あかりくんが自分で決めたことなのよ」

***

馬鹿な人 

 いつも通りに部屋まで案内し、衣類に手を掛けたところで今日はいいや、と声を掛けられた。書類も何も持っていないように見えるのに、何故。へし切長谷部が怪訝な目をしたのに苦笑してから、男は言った。
「僕だって疲れることくらいあるんだよ」
 とは言え部屋に帰れとも言われないまま、いつものようにその部屋で寝ることになった。何もしないのならばへし切長谷部が此処に泊まる理由もないような気がしたが(いつもは行為で疲れているからそのまま寝ているだけだ)、無駄なことを言って男の機嫌を損ねることもない。
 いつもよりも早く寝息を立て始めたその男を本当に疲れていたのだろうか、と見つめていると、気配が近付いて来るのを感じた。起き上がって待つ。
「誰だ」
男が来ている間、基本的にこの客間には誰も近寄らない。それはいろいろと察された結果ではあったが、別段何を言われる訳でもないので放っておいているし、放っておかれている。それなのに、何だろうか。何か、緊急の用事か。
 廊下の気配は一瞬息を詰めてから、静かに答えた。
「私だよ」
「…ッ槻田様!?」
何故こんな時間に、この男の部屋に。さっと血の気が引く。まさか、彼女を呼んでいたから今日は良いだなんて言ったのか。そう考えて首を振る。男は以前、そういうことはしない、と言ってた。へし切長谷部から見てどれだけ問題があっても、嘘は吐かないと、それだけは思っていた。それに、男は既に眠っている。彼が呼んだとしたのなら眠る訳がないし、そもそも地位で言えば少女の方が高いのだ。何か用があるとしても男の方から来訪するのが彼らにとっては正しい形だろう。
 それでも、少女が男の部屋に来ているという事実がへし切長谷部を落ち着かなくさせる。
「ごめんね、夜遅く。あかりくんは寝てるの?」
「はい…」
けれど、入れて、と言われてへし切長谷部がそれを拒む術はなかった。
 襖を開けると少女が入って来る。その顔色は、先程男が霊力元を変えたからか最後に見た時よりはずっと良くなっているように思えた。少女はそのまま真っ直ぐ男の元へと向かうと、その額に手を当てた。
「うん、やっぱり。長谷部くん、お水、持ってきてもらえる?」
「水…ですか?」
「あと、氷枕も。場所は分かる? ご飯は…良いかな。薬も、多分もう飲んでるだろうし」
「分かりますが…槻田様?」
言わんとしていることが分からず首を傾げると、少女は苦笑したようだった。
「あかりくんね、熱出してるの」
 熱。
 ぱちり、とへし切長谷部が瞬(またた)いたのが分かったのだろう。
「言わない人なのよ。一人で黙って、抱え込もうとする人なの」
―――僕だって疲れることくらいあるんだよ。
それだけで、分かるものか。
「馬鹿よね」
へし切長谷部の中に燃え上がった怒りにも似た感情に気付いたのか、少女は男の額を撫でる。言われてから見てみれば何処か息が苦しそうに見えなくもない。寝ている時まで耐えるなんて、本当に。そんな中で、疑問が煌めく。
「人に馬鹿ばか言うくせに、本当はこの人が一番馬鹿なの。でもこの人を馬鹿にしてしまったのは、私たちだわ。だからね、長谷部くん」
 どうして、へし切長谷部を追い出さなかったのだろう。
「もし貴方が嫌じゃないなら、この人が馬鹿でいられなくしてあげてほしいの」
それにすぐさま頷くことは出来なくて、へし切長谷部は氷枕を持ってきます、と立ち上がった。

***

その涙には形がない 

 朝になると、男の熱は昨晩より上がっているようだった。
 いつもより遅い時間にようやく瞼を開けた男が起き上がろうとするのを、すぐ横にいたへし切長谷部が留める。
「熱があるんだろう」
体調が悪くとも、男はしっかりと仕事をこなしている。ならば、この城の刀剣男士であるへし切長谷部がそれ以上を求めることはない。
「大人しくしていろ」
 熱で朦朧としているのか暫く男はへし切長谷部を見つめたあと、のろのろと布団に戻った。氷枕は日が昇る前に変えてある。気持ちが良かったのだろうか、少し眉間の皺が解かれた。
「ちえこか」
千重子。それはへし切長谷部の主である少女の名前だった。槻田千重子。それが、彼女の名前。
「主は貴方を心配しておられる」
「………はは、僕が、千重子にか。世も末だな」
目を閉じたまま綴られる言葉にいつもの棘はない。心配されるのは彼女の方だと、そう言いたげだ。
「…刀剣の付喪神は、男しかいないのだろう」
「ああ」
「たとえ相手が神であろうと、そんな場所に娘をやる家があると思うか。しかもまだ、成人もしていない子供を、だ」
狼の前に放り出すようなものだ、と男は続ける。
「妊まされたりでもしたら、いや、傷物になるだけでも…今後、使い物にはならない。そういうリスクを冒しても、あの子は此処に送られた」
一夜孕みの神話なんてごまんとあるだろう、とその声が震えることはない。
 それは、何度も繰り返してきたからだ、と瞬時に分かった。何度も、何度も。胸の内で、頭の中で、もしくは口に出して。
「何故だか分かるか」
問いかけではない。だから、へし切長谷部がそれに答えることはしない。
「あの子が、妊めないからだ」
 なんとなく、気付いていた。
 そう言えば彼は怒るだろうか。
「あの子は神への供物にされたんだよ。あの子は…家から、捨てられたんだ」
彼らにとって、家≠ニいうのは世界の一部なのだろう。きっと、最初からなければないまま生きていけたはずなのに、一度組み込まれてしまえば、もう、抜け出せない。
「どうしてだ」
汗が肌を滑っていく。
「どうして、あの子なんだ」
張り付いた前髪が鬱陶しそうだ。
「僕ならいい、僕は…仕方がない………でも、あの子は………。あのこは、しあわせに、なれたはず、なのに」
 子供のような声だった。
「かみなんて、だいきらいだ」
それが彼の本音なのだろう。
「なにも、できないくせに。しれんばかり、あたえる」
黙って聞きながらへし切長谷部は思った。
「だいきらいだ………」
譫言のように繰り返す男の額を、昨晩少女がしていたように撫でる。
 苦しそうなままの顔を見ながら、言葉は零せても、と思った。

***



20161019