いつもより遅い時間。ギィという音で顔をあげると、一ヶ月ぶりの薄ら笑いが目に入った。
「悪かったね。仕事が長引いたんだ」
そう甘く舌に乗せる言葉が本物なのか、へし切長谷部は知らない。

さよならの系譜 

 別に、男がやって来る時間がきっちりと決められている訳ではない。彼にだって他の仕事があるのだし、この仕事を最優先に、とさせることは出来ないのだ。へし切長谷部としては最優先にしろと、そう思うことはあってもそれを決めるのは政府であってへし切長谷部ではないし、ましてやこの男でもない。
「夕餉は」
「食べてきたよ」
君は? と問われてとっくだ、と返す。
 男を出迎えるのはへし切長谷部の仕事となっているが、その時間を正確に知らされている訳ではない。彼の連絡を受けられるのはこの城での唯一の人間である主だけだが、彼女に無理をさせる訳にはいかなかった。それでなくても審神者の力を常日頃から吸い上げているこの城にいるだけで、彼女は起きているのもやっとの状態にまでなるのだ。そんな彼女に、無理をさせる訳にはいかない。しかし、主の部屋に入ることもどうかと。
 そういう訳で、へし切長谷部は連絡を受けないまま、ただ只管男が来るまで城の入り口で立って待っていることにしていた。主の護衛は、初期刀である陸奥守吉行が務めている。近侍の役目であろうことまで任せるのも、へし切長谷部なりに陸奥守吉行を信用しているからだった。でなければ。
「なんだか」
男は呟いた。さっさと部屋へ案内して、主の負担を減らしたいのに、とへし切長谷部は足を止めない。男もそれを気にすることなく、そのまま続けた。
「まるで妻のようなことを言うんだね」
足が、止まる。
 振り返ったへし切長谷部の目は、それはもう誰が見ても分かるほどに剣呑なものだっただろう。
「…誰が」
「君が」
ご丁寧に指で示される。人を指差してはいけないと言うのは刀剣である自分だって知っているのに、この男は知らないのだろうか。それともへし切長谷部が人間ではないから、わざと使ったのか。
「知らないかい? 人間の夫婦では、特にこの国の昔ながらの考え方では女性は家に尽くすものと考えられていた節があってね。古い作品には珍しくもない遣り取りだったんだよ、今のは。仕事で遅くなった亭主に妻は聞くんだ、晩御飯はどうしますか≠チて」
それが、何だと。
「そう怒るなよ、ただの喩えだ」
そんなもの文学でしか見たことがない、と先に歩き始めたのは男の方だった。へし切長谷部もそれに続く。
 先ほどとは逆になる、順番。その背中を見つめながらそういえば、とへし切長谷部は思った。自分は、この男のことについて何も知らない。政府の役人であることくらいだ。苗字は知っているが、下の名前だって。役人と言っても、所属はどういうものなのか、歳は幾つなのか、家族はいるのか―――何も知らない、けれど。
 きっと、この先も知ることはないのだろう。
 そう思った。予想のような、願いのような思考。足を踏み出すと、胸の辺りを隙間風が吹き抜けていくような、そんな心地がした。

***

 R18

 男は、耐えることを嫌う。
 そう言うと少し語弊があるような気がするが。いつものように、男用に用意された離れの部屋を訪れたへし切長谷部は、丸窓に縋るようにして立てさせられていた。ずちり、と耳に響く粘膜の音が何の音なのか、もう考えたくない。ただ唇を噛み締めることで、気を紛らわすしか。
「気持ちが良いなら声を出せば良いだろう?」
 ぬっと後ろから首筋を辿って唇の端をなぞっていった指が、やわやわときつく結んだところを解そうとする。それに逆らうように更に力を入れた。此処は、離れだけれども。それでも誰かが通らないとは限らないのだ。此処は絶対の場所ではない、この男に用なんて思い浮かびもしなかったが、だからと言って人払いをしている訳でもない。
 だから、とまた唇を噛む。それだけではない、僅かに残った矜持を保つためでもあるのだ。自分で選んだこととは言えこの男に好きなようにされることに、抵抗がない訳では、ない。
 こんな。
 おんなの、ように。
 へし切長谷部のそんな思考を読み取ったかのように、背後で男はふっと笑った。
「聞かせてやれば良い」
そして、男がつまんだのは鼻だった。
 流石に鼻をつままれては息が出来ない。快楽に歪む脳では正しい判断など出来る訳がなく、酸素を求めて僅かに開いた唇の、その隙を逃さないとでも言うように指が滑り込まされた。それが閉じるより先に激しい動きに声が上がる。
 おく、まで。
「君がこんなに可愛らしく啼くのだと、教えてやれば良いだろう?」
びりびりと痺れるような感覚に、声が零れたのかすら分からない。
「ああ、でも、そうしたら君はこれからずっと、この城での慰み者になるのかな」
なんということを言うのだろう、と思った。それはへし切長谷部のみならず、この城に仕えるものすべてへの侮辱だ。しかしへし切長谷部にはそれを言うだけの権限がない。主と同じように扱え―――そう命を受けたへし切長谷部が、馬鹿にするなと憤ることは、出来ない。
「それは、もったいないなあ…」
どの口が、と思った。必死の思いで捻った身体でそのまま接吻けを乞う。
 疲弊した頭ではそれくらいしか、自らの声を抑える方法が分からなかった。

***

 その日、やってきた男はいつもは持っていない重たそうな鞄を持っていた。
「仕事が終わらなくてね」
へし切長谷部の視線に気付いたのか、男はいつものように笑う。終わらない仕事を持ち込むほどに忙しいのならそういう表情くらいしてみせれば良いものを、と思った。可愛げがない―――なんていうのは、へし切長谷部に言えたことではなかったかもしれないが、どうせ言葉には出さないのだ。胸の内でくらい、何を思おうと勝手だろう。
「忙しいのなら此処へ来るのは明朝でも良かったのでは?」
「そうも行かないさ」
案に情事など減らしてしまえと言ってみるが、それはすぐさま否定される。
「万が一ってこともあるからね」
 あれが死ぬようなことがあれば、それは政府にとっての汚点になる。男は静かにそう続ける。歴史修正主義者の凶刃に倒れたのならばまだしも、能力が足りないものを働かせていたとなっては、ね。薄ら笑いはまだ、取れない。
「此処を放っておく訳にもいかないだろう」
仕事なんだから、と更に付け足された言葉に唇を噛んだ。それがどうしてなのかへし切長谷部にはよく分からなかった。
 敬愛する主のことをそんな理由で片付けられたことに対する、憤りでないのは確かだった。

 この書類を終わらせたら先に仕事の方をするからと、そう言った男の後ろ姿をへし切長谷部は正座して見つめていた。先に、ということはそういうことだ。此処で、ではおやすみなさい、などと気の利かない答えを返せば男は間違いなく機嫌を損ねるだろう。
 がさり、と紙の音がしてそちらを向く。書類を早く終わらせたいのだろうか、男の手が滑ったようだった。ばさばさばさ、と散らばる書類。
「拾っても?」
「………ああ、助かる」
手を出しても良い書類のようだった、それなら最初からへし切長谷部に手伝わせれば良かったものを。そんなことを思いながら拾い集めたものに、目を落として。
 ぱちり、と自分の瞬く音を聞いた気がした。へし切長谷部の手の中には男の落とした書類があった。本人の署名が必要な類の書類。それに書かれた、無機質な文字列。

運命のいたずら R18

 最初にこの城へとやって来た時、男は今と同じ笑みを浮かべていたな、と思い出した。その時既に近侍を務めていたへし切長谷部は、主の横でこの男を観察していたのを覚えている。何か、あれば。主に嫌われたとしても、疎まれたとしても、その男を斬ろうと思っていた。
―――真倉です。
それだけを名乗った男に、それ以上のことを知ろうとは思わなかった。
 ぐちり、と音がして目を開ける。
「待たせすぎた、かな」
今日の君は心ここにあらず、と言った様子だ、と男は目を細めた。不機嫌であるようではないが、ここは弁解しておくべきだろう、と思ってへし切長谷部は口を開く。
「…先ほど、貴方の名前を見た」
「僕の名前なんてとっくに知っているだろう?」
それとも忘れてしまったのかな、と笑う男はへし切長谷部とは違い、余裕があるように見えた。役割が違うから、ではないだろう。ただ単に、この男にへし切長谷部が乱されているだけのことだ。
「なまえ、だ」
腹の中を掻き回されながら、それでも必死にへし切長谷部は紡ぐ。
「貴方は、姓しか名乗らなかっただろう」
「…ああ」
そうだったかもしれないね、と男は返した。あまり興味がないようだった。それならばへし切長谷部がこれ以上続ける必要もないのかもしれなかったが、それでも一度口から零れた言葉は先を求めるように転がっていく。
「朔の日に来る貴方が、月≠ネどという名前だ、なんて…」
ひどい話だ、と顔を覆う。
 まるで。
「まるで、貴方が此処へ来るのは必然だったようではないか…」
返って来たのは乾いた笑いだけだった。まるで夢見がちな発言を嘲笑われたのかとも思ったが、どうにも違うように感じる。動きも、止まる。何事だ、と恐る恐る指をずらして見れば、薄い灯りの中、男は不思議な表情をしていた。
「必然、ねえ」
そんなに、引っかかる言葉だっただろうか。じっと見つめていると男はゆるゆるとまた腰を動かし始める。
「まぁ、僕の名前はつき≠カゃないんだけどね」
「じゃ、あ…ッ」
「教えたところで君は呼ばないんだろう? 苗字だって呼んでくれたことないくせに」
何だその言い方は、と思う。
 その言い方は。
「、呼ばれたい…のか…?」
 それが失言だったことに気付いたのは、再び男の動きが止まってからのことだった。
「………は、まさか」
「…ッあああッ!!」
がんっ! と骨と骨の当たる音がしそうなほどに強く打ち付けられて、思わず声を上げる。
「そんなこと、あるわけないだろう」
 男の表情はもう見えなかった。ただへし切長谷部はおかしくなりそうな感覚を逃がすために、チカチカとする視界から意識を逸らすしか、出来なかった。

***

第二以下もまた同じく 

 この本丸を取り仕切る主には付喪神を使役しきるだけの力がない。
 それは顕現してすぐに伝えられたことであったし、それが気に入らなければまだ悠久の眠りに戻ることも可能だった。それでもへし切長谷部は主に膝をついた。彼女についていこう、彼女のために戦おう、そう決めた。それだけだった。
 主は女性ということもあり、力の変動は月の満ち欠けに依存することは彼女が一番よく分かっていた。新月の夜、彼女の力は限りなくゼロに近くなり、主から供給を受けているこの本丸ごと消えてしまいかねないのだと説明された。それは大丈夫なのか、と心配を露わにしたへし切長谷部に、彼女は笑って大丈夫よ、と言った。もうどうするかは決めてあるの、と。
「この度、特別措置法によりこの本丸の担当となりました、真倉です」
そうしてやって来たのがあの男、という訳だった。
 すっと伸びた姿勢が嫌味なほどで、その顔面は妙に翳って見えた。にこにこと、薄い笑みを浮かべてすらいるのに、何処か暗い。
「お疲れ様です」
「誰の所為でこんな面倒なことになっているのか、ご理解いただきたいところですね」
「十分理解しています。…真倉さんにはこれ以上ないほど感謝してます」
「貴方が槻田家のご息女であるからの特別措置であることを、ようく覚えておいてください」
「はい、勿論です」
男の言いようにも顔を曇らせることなく返す彼女に、胸が傷んだ。
「それで、彼は」
「彼はへし切長谷部です。近侍を勤めてもらっています」
「そう、ですか…」
男が観察でもするようにへし切長谷部を睨め付ける。
 主と認めた人間にそんな尊大な態度を取る彼は、第一印象から最悪だった。

***

月の在り処 

 ―――まぁ、僕の名前はつき≠カゃないんだけどね。
前の新月の晩よりずっと、へし切長谷部の耳からはその言葉が離れなかった。月。確かに書類にはそう書かれていた。ならば、違うのは読み方なのだろう。
「どうかしたの、長谷部くん」
そんなふうに思考に沈んでいたへし切長谷部は、目の前にぬっと顔を出した主に驚いて目をぱちくりさせてしまった。
「槻田様…。子供のような真似はおやめください」
「今のは長谷部くんが驚いたんでしょう? 私は普通に出て来ただけよ」
「いえ、今のは驚かせるつもりで出て来たでしょう」
俺には分かります、と言えば少し頬が膨らまされた。
「だって長谷部くんがあまりに思いつめた顔をしていたから」
どうしたのかな、と思って、と言われてから、初めてへし切長谷部は自分がそんな顔をしていたことを知った。
「それは…ご迷惑を」
「別に迷惑ではないけどね」
 私には力になれないこと? と問われて初めて、彼女ならば知っているのではないか、と思い至った。
「あの。槻田様は、彼の名をご存知ですか?」
「彼って、真倉さん?」
「はい、先日名前を見る機会があったのですが…」
行為のことは端折って、誤魔化されたことだけを告げる。この何の穢れも知らないような人にはあの男との関係は知られたくなかった。こんな戦場に身をおいている時点で純粋無垢とは言えないのだろうが、それでも。へし切長谷部の目に映る彼女は、子供のような顔で笑う人だったから。
「長谷部くん、知らなかったの?」
彼女は目を丸くする。
「いつも一緒にいるから、知ってるかと思ってたのに」
 確かにあの男が来る時彼女は臥せっていて、だからこそ近侍であるへし切長谷部がこの本丸を代表してあの男に接しているのではあったが。
「でも、珍しいね。長谷部くんはそういうこと、聞かないイメージだった」
「そう、ですか…?」
「気にしないとかじゃなくてね、自分で答えを出しちゃうような、そんなイメージ」
違ってたらごめんね、と主は笑う。
 確かに、とへし切長谷部は思った。此処へ来てから、へし切長谷部は自分のことは自分で決めていたし、大抵のことは自分で答えを出していた。こうして誰かに答えを聞くのは初めてだった気さえする。それであれば、彼女がそういったイメージを抱くのも仕方ないことと言えよう。
「彼ね、あかりくんって言うの」
可愛い名前でしょ、と主は笑った。あかり、口の中で繰り返す。月と書いて、あかり。なんて奇麗な名前だろう、そして、なんて似合わない名前だろう。
 そんなことを思ってから、あれ、と思った。あかりくん=Bまるで、既知の仲であるように。へし切長谷部の思考に気付いたのか、主はうん、と笑ってみせた。
「そうだよ。あかりくんとは、此処に来る前からの知り合いなの」
目を見開く。頭に浮かんだのは彼が初めてこの城へとやって来た時の遣り取り。あれを知り合い同士でやっていたなどと、なんと白々しいことか。
「ええとね、はとこ、だったかな? 一緒の家で育ったし、私にとってはお兄ちゃんみたいなものね」
私の家はちょっと複雑でね、と彼女は続ける。
「私の所為で、あかりくんは自由になれなかったの。………ううん、きっとあの人は私の所為なんて、言ってくれないけど」
「主の所為だなんてことは…」
「ううん、私の所為なの」
否定しないで、と彼女の目が言っていた。
「きっと私が、もっとしっかりしていたら、もっと………」
そうして彼女は首を振る。
「もし、の話なんて良くないね」
 そうやってまた笑った彼女に、それが彼女が今此処にいる理由なのだろうと、ぼんやりとそんなことを思ったが、それ以上の詮索をするほどへし切長谷部とて野暮ではなかった。

***



20161019 まとめ