へんじをしてはならない。 だってぼくは、義経公のまもりがたな、今剣であるのだから。 紫の雲にはまだ届かない 今剣 今剣には誰にも言ったことのない不思議な記憶がある。 ざわざわと胸の五月蝿い夜、今剣は一人、与えられた部屋から這い出て廊下を歩く。何も履いていない素足がぺたぺたと音を立てて聞こえるのは、きっとこの夜は静かだからだ。この胸の音もそうなのだろうか、静かな夜であるから人のような身の鼓動に惑わされている、ただ、それだけ? 「おやおや、お前も月を見に来たのか?」 ふいに、声が掛けられた。 縁側座っている美しい青の衣には見覚えがある。 「三日月宗近」 名を呼ぶとその刀は静かに微笑みを浮かべた。 「あなたもねむれないのですか?」 「おや、今剣は眠れなくて出て来たのかな」 「はい」 隠すことでもないので頷いた。 三日月宗近はそうかそうか、とその目を弛ませた。光の具合か、欠けた月がその中にきらりと光って見えた。空の月とは、違うもの。今宵の月はまるまるとしていた。欠けた部分などない、月。これが原因だろうか。月というのは力があると言われている。それは、暗闇を恐れる人間たちがこしらえた話なのかもしれなかったが。 とんとん、と三日月宗近は自らの座る隣の辺りをそのたおやかな指で叩いて示した。こうも落ち着かない時には、誰かと話している方が良いのかもしれない。三日月宗近がこうして話し相手を欲しているのなら、それに甘えるというのもありだろう。今剣とは違い、ただ月を見るためだけに彼が此処にいたというのなら、彼の胸はきっと凪いでいることだろう。そういうものと話していれば、今剣の胸も穏やかさを取り戻すかもしれない。 「何かあったのか?」 「いえ…、なんだか、むねがざわざわとしてしまって」 戦に出た訳でもないのに、妙に身体が起きろと喚くのだ。 はやく、と急かすように。 「三日月宗近は、つくもがみとは、なんだとおもいますか?」 「付喪神か。我らのことだな?」 はい、と頷く。 「かみとなはつくけれど、ぼくたちができることはそうおおくありません。ぼくたちはあるじさまに、こうしてひとのようなすがたをいただかなければ、なにをすることもできない」 人間に施しを受けなければ何も出来ないそれは。 果たして神と呼べるのだろうか。 今剣の言葉を聞いた三日月宗近は、ふむ、と一つ頷いた。それは月明かりに照らされて何かもっと、意味を含んだ仕草にも見えた。 「付喪神というのはそもそも不確かなものであるからなあ」 不確かなもの、だからこそ審神者というものが必要なのだろう。この世と何処かの狭間に立って、影響を与えられる存在にする。式神や降霊に近いものだと、主は言っていたが。 「神と名はつけど、我らの存在は妖ものの類に近いらしい」 「あやかしもの、ですか」 今剣は自分の手を見た。妖もの、そう呼ばれるものを見たことがある訳ではなかったけれど、もっとどろどろとしたもののような気がしていた。 血と酒の混じった、どろりとしたもののような。 いろいろな説があるからな、と三日月宗近は続けた。愛されたものはそのように、憎まれたものはそのように。人とあれば人のように、人とあらねば違うものに、神に近ければ神のようになるのであろう、と三日月宗近は言う。物語のように、静かな声が朗々と、月夜を綴っていく。 「そもそも我らは人のために作られたもの。それがどんな形になろうと、それは人の思うものの延長線上にあるのではなかろうか」 「ひとの、おもうものの…」 どきり、と胸が鳴った気がした。 「今剣は伝説のようなものだったな」 頷く。 「現存しない刀というのは幾らかいるが…今剣はその中でも存在からして危ういだろう。だから不安になったのではないか」 このような夜であることだしな、と三日月宗近の手が今剣を撫でていった。 「だが、お前は今此処にいる。それがお前が存在した、何よりの証明にはならないか」 「………はい」 一つ、頷いて笑う。そして立ち上がる。 「もうねむれそうです」 「そうか」 「おやすみなさい、三日月宗近」 「いい夢を、今剣」 ぺたぺたと、また素足が木の廊下に張り付く音がする。 三日月宗近の言葉が、今剣に響いた訳ではなかった。今剣はこの胸のざわめきの理由を、本当は知っていた。けれども、彼の言葉はまるで人のようにあたたかくやさしいものだったので、それを与えられたことが嬉しくて、頷いたのだった。 今剣には誰にも言ったことのない不思議な記憶がある。きっと今後も、誰にも言うことはないだろう生々しい記憶が。 未だ戦にて傷一つも負わないこの身軽な腹を引き裂いた、鋭利な感覚を。生暖かな生きている証拠(しるし)が溢れ出た、絶望の深淵を。一緒に、と懇願を拒絶出来なかった、悵恨の奈落を。 「義経公…」 さて、それは一体、誰の名だったのだろう。 20150308 20171102 改定 |