![]() 貌(かお)のない少女と昼下がりの廊下 信濃藤四郎の顕現したその本丸は、いつでもしとしとと雨の降る本丸だった。主さんは気さくでおっとりとした人で、俺はすぐにこの本丸が好きになった。刀剣男士というのはその性質上、人間の質―――というと少し聞こえが悪いのだが、まあどういう人間なのか、ということには敏感だ。特に短刀なんてものは人間の一番そばにあったものだからこそ、顕現したてでも心というものに理解が深かったりする。 という前置きをしたのは、俺が人を見る目がない、という訳ではないことを否定したかったからだ。主さんは本当に良い人だったし、戦績だって良かった。後ろ暗いこともなければ他の刀剣男士にだって好かれていた。近侍は宗三さんがよく務めているけれども、それは宗三さんから名乗り出ているからであって、こういう事例は結構珍しいのだと言う。確かに言われてみれば宗三さんは拘りが強い方だし、来歴からして誰かの傍にいるというのが落ち着かないタイプが多いようだったから、うちの本丸の宗三さんが率先して近侍を務めているのは偏に主さんの役に立ちたいからで、一緒にいたいからで、このことからしても俺の主さんがなかなかの人間であることが窺えると思う。そういう訳で俺は俺の見る目を信じていた。 だから、不思議に思ったのだ。 そんなに刀剣男士に慕われている主が、どうして雨を降らせたままにしておくのか。主さんが雨を好きなのかと思えば違うと軽い否定が返ってくる。景趣が梅雨で固定されていることもない。それでも本丸の天気はいつだって雨だった。困らないのか、と問うたことはある。作物だって、雨ばかりでは育たないだろう。でもどうやら、そういったものにはちゃんと細工がされており、困らないようになっているらしかった。堀川なんかには洗濯を気持ちよくさせてやれなくて申し訳ないなあ、と主さんは言った。その言葉でまあ、この雨に主さんは納得はしていても不本意なのは分かった。 「此処はね、仕方ないんだよ」 どうして、と問うたのだろうと思う。 でも、主さんの声は諦めのようなものではなかった。少し尊敬の色すらあるような、そういうものだった。ますます不思議になる。 「信濃」 主さんはやさしい声で俺を呼んで、それから頭を撫でた。 「探ってはいけないよ」 冒険もほどほどにね、秋田に一緒にいてもらうと良いだろう、と主さんは言った。 そして俺には、その日から、何かの影が見え始めた。 秋田は俺の同室だった。長いことこの本丸にいる秋田に主さんに言われたことを伝えてみると、ああ、と言う顔をされる。 「信濃兄さんはどうしても気になるんですか?」 他の本丸がどうかは知らなかったけれど、この本丸の秋田は俺のことを信濃兄さんと呼んでくれる。それが少しくすぐったくて、嬉しい。 「どうしても、って訳じゃあないけど」 「なら、知らない方が良いこともあるんですよ」 「秋田は知ってるの?」 「知ってるのは、一つだけ」 秋田の青空のような瞳が、俺を映す。 「影を見てはいけませんよ」 「え…?」 「そのうち見えなくなりますから、気にしないようにしてください」 誰でも通る道なんです、と秋田は言った。それ以上聞くことは出来ただろうが、多分教えてはくれないと、それくらいは分かった。 けれども、気にするなと言われて気にしないでいられることもない訳で。 「―――」 影が、廊下の向こうにいる。 姿形は、少女のようだった。俯いている。俺はそれに足を踏み出す。見てみたかった、どんな少女なのか。どうして其処にいるのか聞いてみたかった。この本丸の雨のことを何か知っているのか、聞いてみたかった。 そして、その少女が顔を上げようとした、瞬間。 「信濃、だめだと言っただろう」 主さんの声が聞こえて、すべてが真っ暗になった。 * 気が付いた時は政府本部にある医務室で、主さんと宗三さんが覗き込んでいた。 「ああ、目覚めましたね」 主、僕は本丸の方に連絡入れますから、と宗三さんが席を外して、それから 主さんはまず大丈夫かい、と確認した。俺に何か話すために宗三さんが席を外したのは分かっていた。俺はとてもまずいことをしてしまったのだ。主さんの言いつけを破った。ごめんなさい、と言う俺を主さんは静かに撫でていてくれた。泣きたいのはきっと、主さんの方だろうに、俺は自分を優先してしまった。 そうして、やっと俺が落ち着いた頃。 「あの雨はね、降らせておかないといけないんだよ」 主さんは言った。それはちゃんとした機関と話し合って決めたことだから、安全は保証されているんだ、と。 「ただ、でも、降らせておかないといけない」 結界のようなものかな、と主さんは言ったけれども、きっとそれは結界ではないのだろう。それくらいは俺にだって分かる。 そうして、脳裏に浮かび上がってくるのは。 「あれは、」 影。 忠告してもらったのに、どうしても、呼ばれているような気がしてしまった、影。 「誰、だったの?」 聞いても答えてはもらえないと分かっていた。けれども訊ねておかなければならないとは思っていた。主さんはゆるく首を振って、それから答えになっていない答えをくれた。 「それは知らない方が良いということになっている」 「主さんは、知っているの」 「そうだね、知っている、に入るのかもしれない」 繰り返しになるが、俺は主さんのことが大好きだ。だから、これだけはどうしても聞きたかった。 「主さんに、危険なことは本当に、ない?」 「―――物事は、」 主さんが、すう、と息を吸う。 「絶対と言い切れないことを、君はもう知っているよね」 「…うん」 「なら、私の言いたいことも汲んではくれないかな」 言いたいことは痛いほど分かった。 分かったけれども俺は主さんの刀剣男士で、だから主さんが望まないなら何処にだって行きたくないと、そんなことをまた、泣きながら言ったような気がした。 * わたくしはとてもくらくて聴いているあなたの顔のなかに降る雨 / 加藤治郎 *** 20190922 |