![]() もみじ葉に映える鬼の顔 自分の名前が唐突に分からなくなった。政府施設の食堂でのことである。此処では防犯のために他の施設に出入りしたり職員としてのサービスを受ける際に、自らに与えられた名を名乗るという習慣がある。それは操作一つで空に映し出すことの出来るネームプレートに書かれている名前であるのだが、まあ此処ではなかなかそのネームプレートを出すことはないのでこの話は割愛する。食堂もまた受けられるサービスの一つなので、食券を出す時に名乗らねばならないのだが、自分の名前が分からなくなった。止まってしまった男に対して食堂の職員はどうしました? と心配そうにしている。 少しばかり考えて、自分の名前が獅子王で、ししおうと読むことを思い出した。獅子王は刀剣男士で、昔は主を持っていたがいろいろな事情で彼女の元を離れて政府で働いている。刀剣男士というのは同位体が多くいるので主に政府や元々いた本丸の外に出る際は、自分を顕現させた審神者の審神者名を頭につけて名乗ることが多い。此処でも、それが決まりだった。自分の他にも獅子王はいるし、だから識別として誰に顕現されたのかは重要だった。現世での苗字のようなものとして人間は捉えているらしい。それを聞いた時はなるほどな、と思ったはずだった。 そういうことは思い出せるのに、どうしてか自分を顕現させた審神者の名前が思い出せない。誰々の獅子王、と名乗れば良いだけのはずなのに、獅子王にはそれが出来ないのだ。それに、一瞬前とは言え自分の名前も分からなかった。まるで、突然空白になったかのように。獅子王が固まっているとこんのすけが食堂のテーブルから飛び上がった。いつもいるこんのすけだが、置物ではなかったのだなあ、とぼんやり考える。これは自分のネームプレートが読めなかった者が出た時の緊急警報だ。自分の名前が読めないなんてそうあることではないので、大抵敵襲として警報が出される。そんなことだって思い出せるのに、どうしてかやはり自分を顕現させたはずの主の名前が思い出せないのだ。 困ったな、と頬を掻く。そんな獅子王にこんのすけはその場を動きませんように、と言う。動くのであれば拘束させていただきます、とも。このこんのすけは改造品であり、捕縛だけなら刀剣男士を逃がすこともないのだと知っている。あと、人間が紛れ込む方が圧倒的に多いので人間に対して攻撃を加えることも可能なのだとか。今はあまり関係ないけれど。未だ名前は思い出せないけれど、獅子王は此処で働いていた記憶があるので、このまま待つことにした。これで自分が敵だったならこれは嘘の記憶ということになるが、それにしては実感がありすぎる。呪術の中には記憶を塗り替えるものも勿論存在するが、それにしてはこの記憶は獅子王に馴染みすぎるのだ。洗脳や幻はやはり異物を紛れ込ませる行為であるから、何処かに違和感があるはずなのに。 しん、と静まり返っている食堂の人山を掻き分けてやって来たのは、知った顔だった。 「あー…お前か」 やって来た男は獅子王の顔を見るなりそう呟いた。それからこんのすけの警報を止めてもらうと受付に近付く。ほうらいしです、と名乗った男の名をどう書くのかすら、獅子王は思い出せない。この男のことを、知っているはずなのに。 「すみません、鉄紺(てつこん)さん。おにぎり貰えますか」 「はいはい。二人分ですね?」 「頼みます」 食堂の職員がおにぎりを握っている間に人だかりの中から誰かが駆けてくる。 「ほうらいしさん、大丈夫ですか」 「大丈夫大丈夫。敵襲じゃない」 部下らしい男とそう会話してから、男は行くぞ、獅子王に話し掛けてきた。 「なあアンタ、名前、どうやって書くんだ?」 「そこまで行ったか。あとで教えてやるよ」 そこまで、とは。 疑問に思ったけれどもこの男は獅子王の異常について知っているらしい。おにぎりも美味しそうだし、着いて行けば教えてもらえるだろう。獅子王はまた、でも困ったな、と思って歩き始めた。後ろではまたざわめきが蘇り始めていた。 結論から言うとこれは呪いらしい。誰の呪いというのは教えて貰えなかったが、獅子王は呪いを受け、時折記憶が消えたりなんだりする羽目になっているらしい。 「まあ大抵の部分は一時的なものだからちょっと休んでればそこそこ回復は見込めるって、今までのデータからも出てるんだけど。完全消去された部分が何処になるかだよねー。あとで刀剣男士用の脳波チェック掛けなきゃ。ていうか今回は食堂で起きたかー。困ったねー。毎回こんのすけ起動させられても困るし」 「食堂来る前何してたか分かるか?」 「それは分かる。待機室でテレビ見てた。再放送のドラマ」 「あー昼の」 内容はなんともドロドロな愛憎劇と言ったものだった。そういうものに触れる部署なのにこんな再放送を見てるのは何でだろうな、と思いながら眺めていたのだ。そしてそのあと、昼休憩の時間が来たので待機室を出てきた。その辺りは記録に残っているはずだ。 「…えっと、」 「なあにー? あ、ちょっと脳波チェッ掛けるから頭動かさないでね〜。あ、脳波チェックって分かる? 君の脳みそに当たる部分にこう、ちょちょい〜っと見えない波を当ててね、君の脳みそに当たる部分がどう活動していて記憶がどの程度変化しているのか過去のデータと照らし合わせるんだけど〜」 「あ…それは覚える。俺は秘密を作れないんだろ?」 「なんだ、覚えてるの」 がっかりしたように医者のような男が言う。彼の名前は覚えていた。青柴(あおしば)だ。カウンセリング施設からの出向医師で結構悪趣味。そして獅子王の仮契約主だ。最悪である。 「俺を…顕現した主の名前、って。何て言うんだ?」 「ん、チェック終了〜。うんうん、審神者さんのことについての箇所、確かに前回より減ってるねえ〜」 「顔も、思い出せないんだけど」 「そうだろうねえ、結構ガッツリいってるよこれ〜回復するかなあ」 「…青柴先生」 「やってみるよお〜。これでも俺は術師兼お医者さんだからね!」 「はあ…」 「その前に覚えてないって自覚している部分の問診するよ〜」 うきうきとする青柴を前に、獅子王は勿論、獅子王を連れてきた男もまた、ため息を吐いたのだった。 そうして問診が終わったあと青柴による解呪が行われ、獅子王はやっと自分を顕現した主の名前を思い出すことが出来たのだ。 「…紫雲英(げんげ)」 「うんうん、君を顕現させたのは紫雲英様だよ〜」 「解呪は、本当に上手く行ったのか」 「うーんとね、この話をするのも毎度のことなんだけど、君はどうしても忘れちゃうからね。仕方ないよね。君の呪いは侵食系だ。所謂こんがらがったやつだね。無理に解こうとすると君がパーンってなる可能性があるから、君と話し合いの結果、君は相談課で働くことにした。俺は君が面白い被験体だと思ったから仮契約主として申し出た」 「最後のは覚えてる」 「なんだあ。侵食系なんだけど、毎回侵食してくるかと言うとそうでもない。緩急があるし、何かが切欠で突然ガッと来ることもある。今回はガッと来たやつだね。定期検診でゆらぎが見られたらすぐ解呪するようにしてるけど、基本的には時間が経ったらアウト。呪いが記憶を食べちゃうんだよね。イメージ的には。で、今回は思ってたより時間が過ぎてた。名前を忘れたのは一番最近だったんじゃないかな。顔とか、声とかも。でも、それ以外は違ったのかもね。君、最近忙しくしてたし。俺のこと避けてたし」 「………悪かった。今後は努力する」 「うん。よろしい。そういう訳で、記憶は残念なことに戻らないし、こっちにあるのは脳波データで中身は最初から君を計測し続けて、忘れた部分と照らし合わせて分野を区切っただけで、君の記憶である訳じゃないし。俺にはこれ以上は無理。どうする? 仕事休む?」 「…いや」 獅子王は首を振る。 ―――獅子王。 優しい声を思い出す。 「俺は働くよ、だって俺が決めたことだ。…覚えてなくても、俺ならそうするって、それくらいは分かるぜ」 「そっかあ、じゃあご飯食べてさっさと報告書作成して。さっきから課長からコール入ってるの無視してるんだよね〜」 「青柴先生馬鹿なんですか?」 一緒に来た男―――この男の名前の字も思い出していた、蓬莱柿と書くのだ―――が呆れたように言って、青柴は笑ってみせた。 記憶の中の女は相変わらず獅子王、と優しく呼んでいた。とても優しい顔をした、女だった。 *** 20180323 |