恋の残滓は牙を剥く 

 自分の名前ももう忘れてしまっていた。この聖域に人間が入ってきて、空間を捻じ曲げ何やら作っていく。ああ同じことを繰り返すのだな、と思った。何が同じかも分からないのに。記憶はなかった、ないに等しかった。時折まるでデジャヴュのように思い出すような、それだけで。
 そもそも聖域とは言ったけれどもこれは本当に聖域なのだろうか、それすら分からないのにそう信じているのだ。薔薇が咲いていた、それは誰かのためのものだった。大切な、誰かのための。そもそも自分は残滓であり、何でもないはずなのに、どうして此処にないにも等しい感情と共に取り残されることになったのか。よく分からない。自分が長いこと此処で眠っていたような気もするし、何かのタイミングでまるで解き放たれるように目覚めたような気がしていた。
 聖域には建物が立って、そのうち人間がやって来た。女だった。何処かで見たことのあるような気がした。目なんてないはずなのに、どうしてかそんなことを思った。
 そうしているうちに女は仲間を増やしていった。何処かたどたどしい女だったがどうやら増えた仲間は女を慕っているようだった。女は幸せそうにしていた。何処にも居場所がなかったから、と最初の仲間に零しているのを聞いていた。耳もないはずなのに。だからこの仕事を頑張れたら良いのかなって、と続ける女は少女のようで、何も知らない初心な子供のようで、なのに女は女で。
 褥で女が喋ったこともすべて余すことなく聞こえていた。
「私の、名前はね―――」
息が止まるかと思った。呼吸器官なんてないはずなのに。
―――それは、彼女の名前だ。
 どうしてそんなことを知っているのか、それは分からなかった。だってそんなことは一度も話していないはずなのに。いやそもそも彼女が自分の名前を知っていたかも怪しい。それでも直感のように思った。誰の名前? 彼女とは誰だ? 女は誰を騙っている? 分からないけれどもどうにかしなければと思った。どうにか、どうにか、どうにか―――ああ。
 殺してしまおう。
 そう思ってからは早かった。
 彼女には耐性がないらしかった。だからあまりに早く事は済んだ。彼女は流れ込む怨嗟に耐えきれなくなって、その時本丸にいた全員を折った。遠征に出ていたものがいたのは少し、心残りだったけれども、元々目的は彼女だけだったのから。
「おいでよ」
呼ぶ。
「君の居場所は此処だ」
 此方の方がお似合いだと、導く。最早目も見えていない彼女はふらふらと歩いて、そして、飲まれた。この空間の礎に、聖域だったものを汚した分だけ、洗濯機のように働けば良いと。
―――本当は、
 落ちたのは一体何だったのか。
―――貴方に愛して欲しかった。

***



20180223