落とし穴の夢はそのうちに醒める 

 中庭を二足歩行の白兎(しかも燭台切光忠のような格好をしていた)が走っていくのを見て、へし切長谷部は膝をついた。この話は知っている。にっかり青江が読んでいたものだから、読み終わったあとに貸してもらったのだ。それを今日読み終わったから返しに行こうと、そう思っていたというのに。
「あれえ、長谷部くんがこんなところにいるなんて珍しいね」
君、視えないものだと思っていたのに、と聞き慣れた声がして、その通りだと眉間を揉む。
「さあ追いかけようか」
「…追いかけなくてはだめか」
「当たり前でしょう」
 それが親愛というものだよ、とにっかり青江は言った。
「本、面白かったでしょう?」
「………ああ」



本をよむならいまだ 新しい頁をきりはなつとき 紙の花粉は匂いひよく立つ そとの賑やかな新緑まで ペエジにとじこめられてゐるやうだ 本は美しい信愛をもって私を囲んでゐる
室生屑星「本」

***

私を愛する貴方はいない

 遠征から帰って来た面々を迎えてやれば、その中でにっかり青江が少しばかり浮かない顔をしているのに気付いた。
 どうした、と声を出さずに問えば視線で指されるのは燭台切光忠。勿論へし切長谷部には何も変わったところなど見つけられない。
「燭台切くんも罪なことするよねえ」
ふわり。
 何かを手繰り寄せるようにしたにっかり青江は燭台切光忠が遠退いたのを確認してからそう呟いた。
「だめだよお帰り、彼は君には手に負えないよ」
それで何となく事のいきさつが分かってしまって、はあ、とため息を吐く。
「ああ、本当だ。あいつは自分の吐いた言葉を数秒後には忘れているような奴だぞ。息をするように優しい≠ェ、それはあいつにとって息をするのと同等なのだからそう意味のあるものじゃあないんだ」
「そういうこと。だから、お帰り」
にっかり青江の指先が門へと向く。
 帰ったよ、と言われたそれが一体何だったのか聞くつもりはなかったけれど、あいつは困ったものだな、と言うのは忘れなかった。



野に捨てた黒い手袋も起きあがり指指に黄な花咲かせだす / 斎藤史

***

僕等だけが欠けた世界 

 忘れちゃうかもね、とそう言った彼にへし切長谷部は応えることはしなかった。青漆に透けるその瞳の色を見ずとも分かるようになってしまったのだから、ああ、と思う。その一つひとつがにっかり青江を構成することをへし切長谷部は知っている。知ることが出来ている。これをきっと人間は幸せと呼ぶのだろうな、と思ってただ黙って待つ。同じ顔をしたものが唇を尖らす。
「別に、だんまりを決め込まなくたって。取って食ったりしないのに」
 ならばその顔をやめろと思った。



(きっとそんなものは存在しない、出来ない)



@kisasigu

***

ねえうつくしいでしょう 

 にっかり青江が泣いているのをへし切長谷部は見たことがない。別段見たいとも思わなかったが、だからと言って耐えて欲しいと思っている訳でもない。
 手が、触れる。
 たどたどしく、まるで初めて人の身を持って食事をした時のように。へし切長谷部はうまくやれているだろうか、にっかり青江はそういったことに長けているように見えていた。人の身に降りた日数は、さして変わらないはずなのだが。
「…はは」
乾いた笑みが漏れる。
「まさか、君にそんなによくしてもらえるなんて」
 それでもその瞳から涙が落ちることはなかった。
 なかったけれどもそれがにっかり青江の泣き方なのだと、へし切長谷部はこの時知ったのだ。



泣いてゐるものは青かり この星もきつとおほきな涙であらう / 筒井宏之

***

物語の続きを 

 出撃した第一部隊が半壊滅状態。
 そんな報告が舞い込んで来たのは、にっかり青江が遠征から帰って来てすぐのことだった。短刀たちの装備を外すのを手伝ってやっている最中に、その報はこの城に舞い込んで来て、にっかり青江の手を柄にもなく揺らせた。
 第一部隊には、へし切長谷部がいる。
『まだ油断は出来ない状態です』
通信用の式神が言う。話しているのは隊長である秋田藤四郎だ。
『幸い今のところ誰一人として破壊状態には陥っていませんが、重傷四名、予断は許されない状況です』
「撤退の状況は」
『徐々に戻って来てはいますが追ってくる影もあります。このままですと本陣を突き止められる可能性も』
「じゃあ第二部隊、万一に備えて遊撃準備を。第一部隊には引きつけてでも良いから帰還するよう命を下します」
『了解いたしました、主君』
 会話はそれで終わりのようだった。第二部隊が準備を始め、城は緊張に包まれる。
 この城はそもそもが前線なのだ。普段は結界やら何やらで防御を固め、場所を特定出来ないようにしてはいるが、追って来られてしまえばそれも関係ない。
―――一振り残らず。
「第二部隊、準備は良いですか」
返事がある。戦装束の音がする。
 息を止めるような真似はしない。何故なら、にっかり青江たちは刀剣男士なのだから。第二部隊が門を出て行ってから、城に残ったものは万一の時のための避難経路の準備、通報の準備、戻ってきた第一部隊を運ぶ準備、主の警護など、各々に出来ることをした。
 そうして、雪崩れ込むように第一部隊が一振り、また一振りと帰って来る。第二部隊につけた式神から聞こえてくる戦の音、それはこちらの優勢を伝えてくるもののようだった。一振りたりとも逃さぬように、と主が言うのが聞こえる。歌仙兼定を小夜左文字が受け止めたその向こうで、最後の一振りが、ぜえ、と荒い息を吐いた。
「長谷部くん!」
 思わず高い声が出た。ぐったりと倒れこんできた身体を受け止める。べたり、と感じたものはきっと、血だ。
「………青江」
「うん、僕だよ、にっかり青江だよ」
「…道中何度かお前のことを思い出した」
「そう、なの」
手入れ部屋へ! という主の声が遠く聞こえる。自分の足で立つこともままならないのだろう。動く気配のないへし切長谷部を抱え直して、にっかり青江は立ち上がる。傍にいた平野藤四郎が手伝いましょうか、と声を掛けてくるのに応えようとして―――
「昨日、」
「うん?」
へし切長谷部の唇が小さく動いたのが分かった。
「寝る前に縁側で会っただろう」
「うん…」
 突然何の話だろう。はやく、彼を手入れ部屋に連れて行かなければならないのに。
「お前は庭を見ながら、いつもの話をしてみせた」
指の話だ、と言われて頷く。確かににっかり青江はそんな話をした。そして、
「続きは今度、と言って、それきりだっただろう」
そう、途中で切り上げた。へし切長谷部が翌日第一部隊として出陣することを知っていたし、何よりにっかり青江が遠征でそれよりも早く起きる予定だったからだ。
「お前の、その馬鹿馬鹿しい夢物語みたいな話の続きが知りたくて仕方なかった。だから帰ってきたんだ」
「………うん、おかえり」
手入れ部屋に行こう、と言えばああ、と返って来る。へし切長谷部の身体に力は入らないらしく、平野藤四郎が手を貸してくれた。
 そうして手入れ部屋に彼を放り込んで。
「君がね、その馬鹿馬鹿しい夢物語みたいな話を笑ってきいてくれるから、僕だって………それだけで、おかえりなんて言葉が言えるんだ」
 障子の向こう側の彼に、それは聞こえていなかっただろう。



夏目漱石が『月がきれいですね』、二葉亭四迷が『しんでもいい』と訳した「I love you」。----- 乾シリーズの長谷部さんは『あなたの言葉で頑張れた。』と訳しました。
----- 乾シリーズの青江ちゃんは『笑ってくれてるだけで良いから。』と訳しました。
http://shindanmaker.com/321025

***

椿 

 ぱちん、と音がした。
 ような気がした。から顔を上げたらにっかり青江も同じように顔を上げていたので、きっと空耳ではなかったのだろう。
「ああ、聞こえちゃった?」
「普通は聞こえないものなのか」
「多分君はね。僕の部屋、すぐ異変に気付けるようにしてあるから、それでかなあ」
「………そうか」
聞きたいことがないわけではなかったが、今は優先させるべきことが別にある。
「何があったんだ?」
「ん、主が爪を切ってしまったようだね」
「………爪を? それは普通のこと何じゃないのか」
「うーん、まあ、そうだね…長谷部くんの言いたいのは、主は人間なんだから爪は勿論伸びるし、切るのも当たり前、ってことでしょう?」
「ああ」
「そうなんだけどね、僕が言いたいのはそういうことじゃないんだよ」
「どういうことだ?」
 にっかり青江はそれに答えるより先に立ち上がる。
「時間がないから、説明は移動しながらで良い?」
「ああ。というか俺がついていって良いのか」
「別に、大丈夫だよ」
城の中だと言うのににっかり青江は本体を手に取った。自分はどうしようかとも思ったが、本体が置いてある部屋とは別方向ににっかり青江が歩き出したのでそのままにした。必要ならば走って取ってこいと言うのを、へし切長谷部は知っている。
「うーんとね、人間にはいくつか語り継がれることがあって、夜中に口笛を吹くなとか、夜新しい靴を下ろすな、とか。夜に爪を切るな、っていうのもその一つでね。あ、長谷部くん、そこに飾ってある薔薇、一本取って」
言われた通りに取る。これは先日主と万屋に行ったにっかり青江が、いろいろな事情で城のあちこちに配り回ったものだ。
 赤い、薔薇。
 時の流れの遅いこの空間では日数が経ったにも関わらずまるでたった今摘んできたかのようなみずみずしさを保っている。
「まあ、迷信ってやつだよ。よくわからないけどだめって言われているものたち」
「…禁止されるには、理由があるんだな」
「そういうこと」
さてそろそろ近いかな、とにっかり青江が言って、廊下を曲がった瞬間。
 ずる、と音がした。
 廊下の先の暗闇に、主の部屋があるはずの方向に、何か≠「る。
 視えなくても存在感がある、とでも言えば良いのか。これは今にっかり青江と共にいるから感じるのか、それともへし切長谷部のように視えないものでも感じるようなものなのか。
「主のことは石切丸が隠しているみたいだね。だからアレは主が見つけられなくて困っているみたいだ」
「………なんなんだ、アレは」
「さあ、そこまでは…人間の間に語り継がれてきた何か=Aとしか」
僕は人間じゃないし、と言われてしまえばそれもそうだな、としか返せない。
「まあ見ての通り、爪を切ることによって寄って来てしまうもの、ではあるみたいだねえ」
「………じゃあ、迷信、というのは」
「アレから運良く逃げおおせた人間がなんとか危険を伝えようと作ったもの、かな?」
流石にそこまでは分からないけれど、とにっかり青江は付け足す。
 さて、とその呟きは気合いを入れるためのように聞こえた。
「僕の後ろにちゃんといてね」
「斬れるのか」
「ううーん…無理じゃあないかな。あ、その花貸してね」
奪い取られる薔薇。それが、虚空に差し出される。

 ぱちん。

 一瞬にして切り取られる、薔薇の花。まるで、それは―――
「椿じゃなくて申し訳ないけれど、納得してくれるかな?」
 人の首の、落ちるよう。
 ごろり、と花が転がって、それでその存在感は嘘のように消えた。
「…ッ、は…」
「はああ…緊張した…」
「お前…っ、まさか勝算がなかった訳じゃあないだろうな!?」
「えっ、いやまさか、代替品で満足するっていうのは知ってたし…まあ、薔薇でやったことはなかったけど」
普通は椿だよね、とにっかり青江は笑う。でも椿は今此処にないし、と言われてそれはそうだが、と言いかけて言葉では足りないような気がして、そのまま抱き締めた。それをにっかり青江は拒まなかった。茶化すような真似もしなかった。
「主を守るなとは言わない」
「君からそんな台詞が出てきたらまず偽物と疑うよ」
「主にはお前のような助けが必要なのも、一応は、理解している」
「長谷部くんって本当に律儀だよね。そこ、一応≠ニか言わなくても良いのに」
 いつもの遣り取りだ。
「だからと言って、勝算のないことをするな」
「…勝算がなかった訳じゃないってば」
「ではそう見えるようなことはするな」
「難しいことを言うよね」
それからおずおずと手が回される。
「…でも、善処はするよ」
 僕は君が好きだからね。

***




換骨奪胎 

 そんなに緊急の用向きでもなかったが、聞きたいことがあったのでへし切長谷部はその日、非番であったにっかり青江の部屋へと向かっていた。襖を開けるも姿が見えない。気配はするのに、と耳を澄ますと、おしいれから音がする。
「青江、何をやっているんだ」
「待っ―――」
にっかり青江の制止の声は間に合わず、襖が空いた瞬間ぐらりと世界が傾いたような気がした。

 次に目を開けた時には真っ暗な空間にいた。真っ暗、と言っても闇、ではない。目の前にいる、眉を顰めているにっかり青江の姿も、自分の姿も見える。
「厄介なことになった、ねえ…君も大概運が悪いというか。………僕の所為かな?」
「いや、今回は流石に俺の所為だろう」
お前は待てと言った、と言えばでも遅かったし、と返って来る。
「ちなみに何か用だったの?」
「ああ、内番のことで聞きたいことがあったんだ。急ぎではないが」
帰ってからでも問題ない、と言えば、僅かにわざとらしく膨らませられる頬。
「帰って来れないかもしれないのに」
 それには、ため息一つをおまけして返した。
「お前といるから大丈夫だ」
「…その台詞、どういうふうに受け取ったら良いの?」
「好きなふうに取れ」
「もー…」
呆れた! と言うのが本音でないことを知っているのでへし切長谷部は会話を進める。
「そもそもお前、一人でこれを片付けるつもりだったのか」
「だって君、役に立たないでしょう」
「そういう問題じゃない」
「うわぁ、僕今、すごく珍しい言葉聞いてない? 長谷部くんがそういう問題じゃない、とか言うなんて」
くすくすと笑うそれが演技でないこともまた、知っているので気にせず更に進める。
「大方、石切丸だろう」
「うん。っていうか彼しかいないよね、こんなの」
僕を顎で使えるのもさ、とにっかり青江は言う。
「顎で使われていた自覚はあったのか」
「一応ね」
「…嫌じゃ、ないのか」
「ん?」
「相手が御神刀だから、遠慮でもしているのか」
 数秒、間が空いた。
「あ、え、今までそんなふうに思ってたの?」
心底驚いた、というように丸くなる瞳。あまりにっかり青江は感情をはっきり出す方ではないから、この表情は少し、珍しい。
「違うよ。僕が石切丸の頼みを断らないのは、彼がそうしたい理由をちゃんと分かっているからだよ」
―――彼が、そうしたい理由。
「別に、彼に強制されている訳じゃない。彼が、どうしてそうしたいのかちゃんと見た上で―――力を貸したいな、って。そう思っただけだよ」
それについてはへし切長谷部は分からなかったし、これから分かるつもりもなかったけれども、まずは息を吐いた。言葉にはしないが(勿論した方が良いことは分かっているが)、実のところずっと心配していたのだ。石切丸は懶だがあれでいて無理な仕事は頼まない質であるから、にっかり青江に出来ないようなことを押し付けるとは思っていなかった。それでもにっかり青江がそれを厭と感じるのなら、それがにっかり青江にしか出来ないことであろうと、へし切長谷部は何かしら出来ないものかと思っていたのだ。
 それが今すべて杞憂だったと分かって、心底安堵したのである。
 もしかしたらにっかり青江もそれを察したのかもしれない。
「さ、此処が飲み込んだこれらをさっさと片付けて、はやく帰ろうか」
「飲み…。まさかとは思うが、この闇のように見えるものは、闇ではないのか」
「うーん、そうだね、闇ではないと思う」
「…主関係なのか」
「うん」
それ以上は踏み込まない方が良いのだと分かっていた。視える視えないに関わらず。
 それを察知したのだろう、にっかり青江は笑う。
「帰ったらふっかふかの布団敷いといてって頼んであるからね」
今度眉を顰めたのはへし切長谷部の方だった。
「………俺の分はないだろう」
「一緒に寝れば良いじゃないか」
今更だろう、と言われてしまえば確かにそうだが、と言うしかない。
 同じ、布団で眠る。
 何処までも恐らく刀剣でしか在れないへし切長谷部とにっかり青江が、恋仲としてあるにあたってやってみたうちの、一つである。これが案外心地が好くて、時折同衾することはあった。
「どっちにせよ寝ないとか無理だと思うよ」
此処絶対疲れるもん、とにっかり青江が言うのだからそうなのだろう。

 刀の音が響いている。
「そもそもね、この城ってお下がりなんだよ。誰のかは知らないけど」
主の師匠が頑張って集めた資料は石切丸に渡ってるんだけどね、それでも分からないんだ、とにっかり青江は言う。
「…前の、審神者は」
「行方知れずだって」
「刀剣男士たちは何をしていた」
「それがね、行方知れずになる前に大半を折ってしまっていたんだって。残っていたのは長期遠征で城を開けていた者だけ。だから、審神者が何を思って刀剣男士を折ったのか、失踪したのか、まったく誰も分からないんだって」
それは事故物件というやつではないのだろうか、とは思ったが言葉にするのは止めた。
 先導するのはにっかり青江だ。へし切長谷部は丸腰であるし、そもそも非番であれば城内では帯刀しないのが常だ。それに、へし切長谷部にはそういったもの≠斬ることが出来ない。へし切長谷部が斬れるのは、恐らく―――
「そもそもこの本丸という空間、どうやって創られているのか長谷部くん、君、知っているかい?」
「いや」
思考は途切れさせられる。
「お前は知っているのか」
「まさか」
知っていたらまずこんなところにはいないね、とにっかり青江が自身を振る。あまり同じ部隊に配属されることはないので、こうして彼の姿を眺めることはあまりない。
 闇のようなものが蠢く空間を彼自身が過ぎっていけば、まるでそれが霧散するようだった。息がしやすくなる。この身は、一体何処まで人間に似せてあるのだろう。
 心は。
「長谷部くん」
あと少しだから、とにっかり青江は言う。
「あまり、その先を考えないでいて」
最後の一閃、とばかりににっかり青江がくるりと回ると、辺りは光に包まれた。

 次に目を開けた時には見慣れた天井だった。
「…帰って来たね」
「ああ」
「ねえ、長谷部くん。君も同じ気持ちだと思うけれど―――」
「…何だ」
「とっても、ねむい…んだ…」
 そのまま二振り、崩れ落ちるように布団に雪崩込み、石切丸に呆れた顔で起こされるまで泥のように眠ったのであった。

***




欲張りなもので 

 敢えて周りと比べることはしないが、にっかり青江は刀剣であるという意識が高いように思える。それはへし切長谷部の極めて部分的な思考であって、誰かと答え合わせをしたり、ましてや彼にそれを告げたりなどとは考えもしなかったのだが。
 ああ、と彼は呟く。へし切長谷部の腕の中で、まるで其処にいるのが落ち着かない、自分には不似合いだとばかりに泣き出しそうな表情で。
「こんなにも人間の愛でいっぱいなのに、まだ君からも愛されたいなんて。ほんと、心って貪欲だねえ」
それが人間らしいということではないのかと、へし切長谷部は言わなかった。
 言えなかった。

***

記憶の海 

 人のような身体を持つようになってから、覚えていることが増えた。それだけ感受性の幅や行動の範囲が広がったのだろう、と言われればそうなのだろうが、その中でへし切長谷部は胸の辺りが疼くような感覚を覚えていた。
「人間は忘れる生き物なんだな」
毎日がめまぐるしいものだった。今まではぼんやりとした心のまま揺蕩うようにして居たからなのかもしれない。
 息をして、動いて、食事をして、考えて、戦って。
 そんなことを繰り返していたらそのぼんやりした頃の記憶が更にぼんやりとしていくことに気付いたのだ。
「忘れないために会話をしたり思い出を語ったりするんだよ」
そう返したにっかり青江には忘れたくない記憶はないのだろうか。いや、そんなことはないだろう。あれだけ人間に愛されていた刀剣なのだ。
「けれどもそれも本物かどうか分からない」
「それでも良いと思うのが人間なのかもね、偽物でも美しいと思えるということが大事なのかもねぇ」
「怖くは、ないのか」
「怖いよ」
 即答だった。
「僕は僕を大切に思ってくれた人間を、ものを、忘れてしまうかもしれないのが、とても、怖いよ」
「………とても=v
「ああ、そうさ。だから話してくれないかな」
にっかり青江の指が空を動く。まるで、水の中をかき回すようにゆっくりと。
「君が、こうして顕現されるまで、どんな歴史を歩んできたのか。へし切長谷部という刀は、どんな来歴を持っているのか」
「…知っている話ではないのか」
「知っていても、何度も聞きたいと思うんじゃないかな」
「そうか」
 なら、と口を開いたへし切長谷部の中の、妙な疼きはもう収まっていた。



『自分の中に残ってる声や、表情や、思い出が、日に日に薄れていく事に怯えている』へしにかを幸せにしてあげてください。
http://shindanmaker.com/474708

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同じこと 

 縁側に座って中庭を眺めることは最早へし切長谷部とにっかり青江の間では定番の過ごし方となっていたし、それはこの城に集う他の刀剣男士にとってもそうであるようだった。自分たちの非番の日に何か用事を思い出したら、縁側に行けば大体会える、という認識で広まっているらしい。別に邪魔をされる訳でもないし、二振りで座っていればどうぞと差し入れをもらうこともあるのだから、どちらかと言えば得なことの方が多いのかもしれなかった。
 その日は珍しく石切丸が差し入れに来て、まだ日も高い内から酒を飲んでいた。強いから無理はしないようにね、と言われたそれは確かに強かったが、妙に身体に馴染む気がして心地好い。それを言ったらきっと、主のお師匠様からの差し入れだろうね、とにっかり青江は笑った。なんとなくそれで意味が分かる。なるほど気分が良いはずだ。
「あのね、長谷部くん。僕は…君と過ごすこの時間が日々の癒やしになりつつあるんだよ」
同じものを見たり、同じものを食べたり、飲んだり、話をして触れ合って、人間の真似事をして―――想い、合って。
「ねえ、君は?」
 その答えは、とっくの昔に決まっていた。



「この時間が日々の癒しになりつつある」
https://shindanmaker.com/531520

***



20161202