![]() 誰も知らない、二人だけの秘密。 世界が終わっても響く美しい声 雨が降る。雨が降る。すべてをかき消すほどに、雨が降る。 主からお遣いを頼まれやってきた万屋で、まさかこんな雨に見まわれるとは。へし切長谷部はため息を吐いた。これがただ単に単独の遠征だった、とかそういうものだったのであれば、走ってでも帰ったのだが。 手の中には主から頼まれた品々を風呂敷に一纏めにしたものが抱えられていた。幾らへし切長谷部の足が早いと言っても、これらを濡らさずに帰る、という芸当は無理そうだ。それくらいに激しく雨が降っている。ついていなかったな、と思った。このまま少し雨脚が遠退くまで此処で待つしかないか、と思いながらふと、その雨の向こうに目を向けると、 「あ、いたいた」 最初に目についたのはその紅だった。抜けるような、紅。 「…何故」 「何故って、雨が降っているから」 「それはそうだが」 「美しいお姉さま方が教えてくれただけさ」 それはいつものように笑った。雨の中、くゆる視界にそれが本物なのかどうかへし切長谷部には区別する目はない。 愛だの、そういうものが原因ではないのだ。それは分かっているが、どうにもそういうものを否定されたような気がして心もとなかった。 へし切長谷部はにっかり青江が好きだった。刀剣の付喪神が恋愛など、と以前の自分ならば嗤っただろうが、それは紛れもなく恋情だった。恋焦がれる、それが手に入る。その優越というものを知ってしまっていたし、同じ分だけ返されるものに浸る安心感というものも知ってしまっていた。 「君が出て行ったあとすぐにね。君がこの雨の中、自慢の機動を駆使して帰って来るような馬鹿じゃなくて良かった」 「…そんなことをしたらお遣いの品が濡れるだろう」 「そうだよね、君はそういうばか真面目なところがあったよね」 ふふ、と笑うそれに、その中で揺らされる髪に、艶が見えなくてああ、と思った。 「…お前は、」 「………君は、」 それは、笑う。 「もう少し、だから」 何が、とは問わなかった。 「彼、今、この雨の中転んだ子供を助けているんだ」 「お前は、」 「彼が好きなものの一つだよ」 彼は愛されているからね、とそれは続ける。そんなことは知っている、知っている、知っている。人間を初めてとして、へし切長谷部の視えないものからまで。彼はいろいろなものに愛される。 愛されるような、来歴を持っている。 「知らない方が良いこともある」 静かな声。 「君は、それを彼から教わっただろう?」 ふいに、呼ばれた気がした。目の前のそれから視線を外して向こうを見遣る。 紅だ、と思った。まるでいつも隠されている眸のように、ゆったりとした優しい紅。よくそれが雨の中に溶けて消えてしまわなかったと、少し安堵が駆け巡る。そうだった、いつも彼はそういうもので、だからこそへし切長谷部は彼の名を呼ぶことをしない。 呼んでしまえば。 その言葉の中に溶けていってしまいそう、だから。 「長谷部くん」 子供のように駆けて来る傘に入る。先ほどの抜けるような紅はもう消えていた。あんなに目立つ色だったのに、視線を離した一瞬の隙に消えていた。 「君が待っていてくれてよかった」 「お前が来るような気がしていた」 「なにそれ」 傘の中央に、彼の手の辺りに風呂敷を持っていってやれば、それ、ちゃんと抱えててね、と笑われた。 「でも、君が待っていてくれて良かった。君がこの雨の中、自慢の機動を駆使して帰って来るような馬鹿じゃなくて良かった」 同じことを言われた、とは言わない。 「………そんなことをしたらお遣いの品が濡れるだろう」 「そうだよね、君は真面目だもんね」 でも良かった、と笑う。少しだけ、傘がこちらに傾く。 「こういうのをね、相合傘って言うんだって」 「そうか」 「雨の中の傘の中ってね、一種の結界として考えられていたこと、あるみたいだよ」 「そうか」 「この世界では誰にも邪魔されない、って」 「…そう、か」 何もねだられているのか分からないほど朴念仁ではなかった。 「青江」 「なぁに、長谷部くん」 「傘をしっかり持っていろよ」 「君こそ、風呂敷落とさないようにね」 触れるだけ。 傘の縁が世界を切り取る。 「―――愛してる」 「僕もだよ、愛してる」 きっとこの響きを、この身がなくなったあとも憶えているのだろうと、そんなことを思った。 * 人間の声が一番綺麗に聞こえるのは雨天時の傘の中 人間の声(音波)が雨粒に反射し傘の中で共鳴するため 特に雨量がやや多く囁くような声の時が最も美しく聞こえる つまり相合傘はお互いにとって最も美しい声を聞いていることになるのでは? https://twitter.com/sousakubott/status/612540123192823808 *** 循環祈請 じゅんかんうけい 水ってさ、とその唇がまた唐突な物語を紡ぎ始めたものだからへし切長谷部はそのペンを置いた。 すべての業務―――というと何か違うような気がするが、戦闘も当番もその他すべきことも終わって、与えられた部屋で座り込むのはもう風呂だって済ませたからだった。この城は不思議な力に守られている。敵であるものが入って来られないように、政府管理の最高術者が尽力しているのだと聞いていた。それ以上のことは聞かなかった。 絶対は、ない。 それがへし切長谷部の、とりあえずはこの≠ヨし切長谷部の考えだった。 「ぐるっと回って来るのに八十年、掛かるんだって」 「…へえ」 初耳だった。初耳だったがそう信じ込むことはしない。 この男。 にっかり青江のことを長谷部は好いているが、愛しているが、だからと言ってそれは彼を鵜呑みにすることには繋がらない。 「たとえば人間は生まれた時に大きな声で泣くだろう?」 「ああ」 「それでね、その時に零れる涙ってものがあるだろう」 「そうだな」 「それが蒸発して、雲になって、また地上に戻ってくるまでが八十年、って言うことが出来るんだよ」 まぁ一つの説、だけれどね、とにっかり青江は一度そこで話を切った。 ぼすり、と背中に感覚。どうやら人の背中を座椅子のように扱うつもりらしい。へし切長谷部はそれを避けない。避けないし、退けることもしない。 「ねえ、聞いたことがあるかい?」 「何をだ」 「人間の涙と血は殆ど同じようなものらしいよ」 つまりさあ、とゴン、と頭が逸らされたのだろう、へし切長谷部の後頭部にその髪が被さる。 首筋を、艶のある木賊が伝っていく。それが目線だけずらしたへし切長谷部の視界を擽っていく。 ねえ、とにっかり青江は声を潜めた。 「君が初めて斬った人間の血は、もう既に君の中を通り抜けてしまったね」 初めて、斬った、人間。 どんな人間だったのだろう、それはもう意識にはないけれど。 「雨になって戻ってきた血が、それからどれくらいかけてまた飲水や冷却水になるのか、分からないけれど。それでも、もう、きっと、もしかしたら二回目、三回目、なんて、」 「青江」 遮った。 「まだこの肉の器を得て何十年も経った訳じゃないんだぞ」 今、降っている雨が。 誰の血でもない保証なんて、ないけれど。 「そもそもお前が斬ったのは幽霊だろう。幽霊は血が出るのか」 「さぁ、僕らみたいな存在でも血は出るんだから、出るんじゃない? っていうか、」 一呼吸。 ああ生きている、なんて思う。付喪神なのに、人間ではないのに、誰かの―――願い、かもしれないのに。 「僕が斬ったのは石灯籠だよ」 「………ああ」 頷く。目を閉じる。 「そうだったな」 「そうだよ」 雨の音が耳の底まで響いていった。それもなんだか、生きたいという祈りに聞こえた。 * 水が蒸発して雲になってまた雨になって地上に戻ってくるまで約80年 人間は80歳になったら自分の生まれた時の涙にもう一度出逢えるってことだ https://twitter.com/sousakubott/status/614653946456485888 *** いつか来るおわりを夢魅て 石切丸という刀剣は意外と懶だ。 否、実際は懶というよりかはもっと的確な言葉があるのだが―――今は本題に関係がないのでその話は置いておく。 「だからー…僕が斬ったらあちらさん、死んでしまうだろう」 このお願い事≠煢ス度目になるだろうか、とにっかり青江は思う。対する石切丸は渋面のままだ。分からない訳ではないだろうに、なかなか彼は了承をしない。 「それで良いんじゃないのかい。死んでしまえば二度と来ないだろう」 「あのねえ、そういう問題じゃないもの分かっているでしょう」 にっかり青江はその来歴故か、他のにっかり青江≠フことなど知らなかったけれど―――とりあえず此処にいるにっかり青江にはそういうものが視えて、そして祓うことも出来た。しかしそれは強制的なものであり、所謂お引き取り願う≠ニいうことは出来ない訳で。 「あれは生きているものだよ」 「人間なんてそんなものだろう」 「君がちょっと酒を散らして言葉をくれればそれで片が付くのに」 「私はそのちょっと≠ェ嫌だ」 「石切丸…」 毎度毎度この有様だ。にっかり青江とて、石切丸がただのぐうたらでこんな問答をしている訳ではないことを分かっているから、強く出ることは出来ない。 けれどもまあ、結局のところ御神刀らしくなくぐずぐずうだうだとしていても最後にはちゃんとにっかり青江の依頼を引き受けてくれるのだから、もしかしたら彼も何かしら愚痴を言いたい、それだけだったのかもしれない。その気持ちも分からなくもないからにっかり青江は石切丸のところに出向くことを嫌とは言わなかったし、ただ少し、自分の時間が削られてしまうのはなあ、と思い浮かべるのは馴染んだ紫だった。 という話をしたことはなかったから、もしかしたら偶然居合わせたのかもしれないし、誰かに聞いたのかもしれなかった。 いつの頃からだろうか、にっかり青江が石切丸のところへとお願い事≠しにいく時、へし切長谷部がついてくるようになったのだ。この本丸でも古株であり、戦闘力もなかなかのへし切長谷部が後ろに控えているとなれば、面倒ごとを避けたがる石切丸が早々に決断を下すのは分かりきったことで。 「…ありがとうね」 「なんのことだ」 部屋へと戻る道でそう言うと、すぐに返事が返って来る。 「石切丸がすぐ引き受けてくれるように付いてきてくれるようになったんでしょう」 「すぐ=c?」 時間の短縮はきっと、愚痴を聞くものが増えたから、というのもあるのだろうが。 「…馬鹿だな」 は、とへし切長谷部は笑う。鼻で笑う。 「他の男の元に通われて、いい気分な奴がいるものか」 だからぱちり、とにっかり青江は目を瞬(しばたた)かせるしかなかった。 「俺の理由はそういう…ものだ。そうだな、人間らしいだろう」 「そうだね、まったく」 「人間らしい俺は嫌か?」 「全然。一粒で二度美味しい気分」 足音の立たない廊下を、二人歩いて行く。 この魑魅魍魎の跋扈する城で、一体いつまでこうして人間ごっこをしていられるのだろう。 *** 水の中で雨宿りをした 時間はあるだろう、と言われてしまえばそれもそうだが、と返すしか出来ない。へし切長谷部というのは別段せっかちな性質を兼ね備えている訳ではない。もしかしたら別の本丸の別のへし切長谷部はそういうものだったかもしれないが、今此処にいるへし切長谷部はどうあがいてもこの隣のものに毒されてしまったあとで、彼がそう言い、主からは時間をもらっている今、さっさとどうにかしろ、と言うような無粋な真似はしないのである。勿論、今が切羽詰まっているのだとかそういう場合であればまた違った行動をとるだろうとは思うが。 「しかし…」 呆れたように辺りを見回す。 このような事象に慣れてしまうのもどうなのだろう、と思うが、この男と恋仲なんてものになった時点で諦めるべきだったのかもしれない。 「荷物は濡れないんだろうな」 「ああ、うん、大丈夫だと思う。怒らせなければ」 「怒るのか」 「あまりに失礼な態度を取ればそりゃあね」 向こうにだって心があるんだから、と言われればそれもそうだと頷くしか出来ない。 心というものが明確になって、へし切長谷部は何度も戸惑いを感じた。人の身に落とし込むことで鮮明に浮き彫りにされたそれを邪魔だと思ったことはないが、煩わしく感じることもあった。ままならない。自分のコントロール下に絶対あるとも言えない。人の身を持たぬ時点でもしもこんなに心が増幅していたら、と思うと少し恐ろしく感じるほどに。 「君は、どうしてと聞かないんだね」 「うん?」 「だから、どうして、って」 「何をだ」 「こんなところにいることだよ」 時折、このにっかり青江という刀剣男士はひどく遣る瀬ない表情をする。道が分からなくなった子供のように、そうなることが当たり前だったように。 「お前が慌てているなら聞いて落ち着かせただろうが、別にお前は慌てていないだろう」 「余裕を取り繕っているだけかもよ?」 「そういう時は分かる」 「………なんでかなあ」 わかりにくいっていうのが売りだったのに、なんて馬鹿なことを言うからそんな売りは捨ててしまえ、と返す。 「そのうち帰れるんだろう」 「うん」 「で、俺に何か頼むことはないのか」 「あ、あー………」 なんでそこまで分かるかな、と呟かれるがそれにへし切長谷部が答えてやることはない。 「ええとね、よく、池からよくないものが入ってくるだろう」 「そうなのか」 「そうなんだけど、それをどうにかしようと、石切丸と霊水の循環する装置を作ったんだよね」 「そんなことをしていたのか」 「これも主のためだから。で、それで池からよくないものが入ってくるのは減ったし、結果的に結界の強化も出来たんだけど、霊水だからね、力が足りなくなるとちょっと力貸して、って言ってくるんだよね」 「回りくどい」 「…今、どうもそのよくないものを追い払ってて、力が足りなくて僕らをこうして呼び込んでいるから、いやまあ、雨宿りの代金程度なんだけど、」 「だから回りくどい」 「………多分、此処から出たらすぐに僕は眠くなっちゃうから部屋まで運んで」 「分かった」 おつかいの品を抱え直す。 「荷物が少なくてよかったな」 「…怒らないの」 「怒る必要がない」 主のためなのだろう、と付け足せばそうだけどさ、と拗ねたように唇が歪む。外の世界は雨が降っていた。 城の前の水たまりの中から見上げるいつもの城は、少しだけいつもと違って見えて、ああもしかしたらこれがにっかり青江の視ている世界なのかもしれない、と思った。 * ramie @mtreho *** 君がいるから 「ねえちょっと抜け出さない?」 にっかり青江が真夜中にへし切長谷部の部屋まで忍んできて言ったのは、そんな悪戯を思いついた子供のような言葉だった。言われた相手は何を言うでもなく、彼の日課なのだろう日記をすぐに閉じて、それから何処へだ、と問う。今までだってにっかり青江の特性とでも言えば良いのか、厄介事に巻き込まれることだってあっただろうに、それでも誘えばのってくれることを考えると愛されていると喜ぶべきなのか。 「君さあ、それって立ち上がる前に聞くべきことじゃないの」 「立つ前に聞いただろう」 「僕が答えてないのに歩き出してるんだから変わらないと思うけど」 「そう思うなら早く答えろ」 「そんな遠くじゃないよ。中庭」 「中庭?」 「主がこの間景趣を春に設定していただろう」 「ああ、朝会で変えると言っていたな」 「それで、桜が咲いたから」 「………そうか」 何かしら言いたいことがあるようだったが、飲み込んでくれたらしい。そういう気遣いの出来るところがにっかり青江はとても好きだと思う。 中庭は月に照らされていた。ほぼ満月に近いそれに照らされた夜の桜は、いっそう美しかった。ただただそれは凍て付くように、時間を止める、ように。美しいな、とへし切長谷部は呟いた。そうだね、とにっかり青江は返した。 「君が、」 口にしてはいけないと、そう思ったのは。 「なんでもないよ」 この身にはびこるたくさんの手の所為ではないと、それだけは言えた。 * 夜桜の下で寒くて鼻水が出そうで 君を大好きだった / 佐藤真由美 *** 前へ進め、今は進め ずい、と差し出されたのは緑色をした六角柱のパッケージだった。コアラが書いてある。 「おやつ?」 「………前に、コアラが抱きたいと言っていただろう」 一瞬何の話だろうと思ったにっかり青江は決して悪くない、と思う。すぐに思い出したがかなり前にした会話だ。しかもぽろっと零した程度の。まさか相手が覚えているとは夢にも思わなかった。 「君って本当に、物覚えが良いよね」 「悪いか」 「まさか。褒めているんじゃないか」 しかし、何をどうしたら生き物がお菓子に変わるのだろう。 にっかり青江の疑問を察したのか、へし切長谷部はべりべりとパッケージを剥ぎながら続けた。 「地球の反対側の生物は流石に無理だと言われた」 「まさかと思うけど主にねだったの?」 「お伺いを立てただけだ」 「それねだったのと同じだよね?」 最初から無理だと思っていた身にとっては、それを聞くのは少しばかり恥ずかしい。 「それで、代わりになるか分からないがこれを貰った」 「………石切丸怒らなかった?」 「あいつとてそこまで心が狭くはないだろう。少し顰め面をしていたようにも思えなくもないが、何も言われていない」 「君って本当に豪胆だねえ!?」 分かっていない訳ではないだろうに真っ向から喧嘩を売りにいったのと同義であるその行動は、流石のにっかり青江でも真似は出来ない。 けれども貰ったものは貰ったもの。無駄にする意味はない。再度差し出された開け口から一粒つまむ。 「あ、コアラがかいてある」 「そうらしいな」 「かわいいねえ」 「そうだな」 「このコアラ笹持ってるよ。何かお願いごとするのかな」 「食べないのか」 「食べるよ」 いただきます、と口に入れるとビスケットの風味のあとにチョコレートの味が広がった。 「美味しいよ」 「そうか」 「長谷部くんも食べなよ」 「ああ」 へし切長谷部が同じように一粒口に入れるのを見てから、にっかり青江は二粒目を取る。さっきとは絵柄が違う。 「あ、絵描きになったのかな」 「そういうふうに食べるものなのか」 「知らないけど、かいてあるのを見ないものもったいないでしょう」 言われてみればそうかもしれない、と二粒目を取ったへし切長谷部にただひたすらこの素直さがいつまでも失われることがないように、と願うのだった。 *** 循環する願いはいつか君へと降り注ぎますか 人の身を得て一番に有用で一番にこまるところはいつだって好きな時に会話が出来ることだと思う。勿論此処へ来る前だってそういったことは出来なくもなかったけれど、現し世に形があればそれを起点にあちこち自由に動き回れる。この城を現し世と断言して良いかはさておき。 「以前水が循環するには時間がかかるという話をしていただろう」 最早夜の自由時間にこうして部屋に来ることを何と言われることもなくなったなと思う。別段口にすることが憚れるようなことをしている訳でもないのだし、そもそも性行為をしていたとしてもそれは恥ずべきものではないのだし。 確かにそんなことを言った記憶はあった。 「でも君、信じてなかったじゃないか」 「俺が信じていなくともお前が信じているだろう」 へし切長谷部の言葉は一つひとつが甘やかである、とにっかり青江は思う。他に言えば何を言っているんだとばかりの顔をされかねないから言いはしないが、基本的にへし切長谷部は内にいれてしまったものへは甘いのだと思う。 「俺にはそれで充分だ」 だから、こんなことを簡単に言ってのけてしまう。それがにっかり青江にとって、いや恐らくこれがにっかり青江でなくとも毒にすらなり得る甘さを、無償で差し出すのだ。と、そんなことを考えていたら、ふと浮かんできたものがあった。 「………僕は、百年も待てないなあ」 「水の循環は八十年じゃなかったのか」 「有名な物語の話だよ。女が今際の際に百年経ったら会いに来るって言うんだ、それで男は女の言う通り、貝で墓を掘ったり星の墓標を置いたりする。それで、百年待つんだ」 綺麗な話だと思う。主の蔵書であるそれはあまり読まれた跡がなかったけれど、一度主に言ってみたら綺麗な話だよね、と同意をもらった。 「その男は、会えたのか」 「男としては会えただろうけれど、どうだかね」 まあ夢の話だしね―――にっかり青江は否定のような語を吐きながら、視線を落とす。でもね、でも。 「僕は、そんなのいやだから」 へし切長谷部は何も言わない。 「僕らにとって百年なんてあっという間で、だからこそ、僕らはそんな短い期間のことをすぐ忘れちゃうよ。時間が経つことを忘れるんだ、君が来たって分からないよ」 どんな姿になっても会いに来る。 それは、人間が覚えていられる生き物だからこその、夢だ。 「僕は、」 「青江」 引き寄せられて言葉を止められた。一見乱暴なようなそれにも甘さが見てとれてまた、ああ、と思う。 「悪かった」 「…何で、君が謝るの」 「そうしたいからだ。…待たなくていい、俺もお前を待たない。だからお前は俺を、俺はお前を守れ」 喉の擦れる音が聞こえそうだ。 「はは、主第一の君からそんな言葉を貰えるなんて、」 大人しく身体から力を抜けば、頭ごと抱えられる。 「僕はシアワセモノだな」 *** 未来なんてもののはなしについて にっかり青江の背はしゃんとしている。美しく、伸びている。 へし切長谷部はそれを好ましいと思っていたが、いつもいつもそれは戰場でのことであり、どうにも彼の中の何かと関連しているのか、にっかり青江は座るときはその背を丸めてしまう。それをいつも勿体ないと思っていたから、その時はあ、と思った。 「青江」 呼ぶ。 「なあに」 しゃんと伸びたまま座っている彼が、振り向く。それだけで、へし切長谷部には言葉にされなくても理解出来てしまった。何故彼が言葉にしなかったのかも含めて、理解出来てしまった。 ―――また厄介なことを。 もしもこの原因が主でなければ盛大にため息を吐いてやっていただろう。 へし切長谷部を喚び出した人間は、本人には自覚がないがそういったもの≠ノ大層好かれる。らしい。らしいというのはへし切長谷部自身がそういったもの≠視ることが出来ないから、にっかり青江や石切丸、その他そういうものが視える性質を持ったものを見ていて感じ取る事実だからである。人間ではないのだからそういったもの≠ェ視えるものだと思われがちだが、付喪神というのは非常に曖昧な存在らしく、こうして人の身に下りてきていることにより視えるチャンネルが基本的には人間の方に寄っているのではないか、というのがにっかり青江の推測だった。 そういう訳でへし切長谷部にはそれ≠ヘ視えなかったが、また何かしらにっかり青江が抱えていることは分かった。何かしら困った時には手を貸してくれている平野藤四郎は今は遠くにいた。ということは、にっかり青江が自身一振りでどうにか出来ると踏んだ案件なのだろう。それならばへし切長谷部が手を出す意味はない。そもそもへし切長谷部には何も視えはしないのだから。 ―――けれど。 へし切長谷部にはそういったものが視えない分、にっかり青江の姿がくっきりと見えるのだ。 翌日もにっかり青江の姿勢は変わらなかった。 「幼子の世話は楽しいか」 変わらなかったので、へし切長谷部はその横に腰を下ろした。前日と同じように縁側に、少し他のものから離れたところに座っているにっかり青江は、一振りであるのに淋しげには見えなかったが、仮にも恋人だと言うのに放っておかれるのも面白くない。 「………君は、ほんとうに視えていないのかい?」 「視えなくても、分かることはある」 自覚があるだろうから今の発言は墓穴だと指摘してやることはしない。 「青江、お前はいつも身体を丸める癖がある」 「うん?」 「座るときはいつでも膝を抱えるだろう。あぐらは苦手なんじゃないのか? …なのに今日一日、ずっとお前は身体を丸めなかった。あぐらもやめなかった。何処か痛めたのかと思ったがそうでもないようだ。何か抱えているようにも見えるし、時折手が動いている。見覚えのある動きだと思ったら、時折一期一振や江雪左文字がやっている仕草だ」 「………へえ、よく見ているね。というか江雪殿もそういうことするんだ?」 「勿論それだけでは分からなかったから、お前にカマを掛けた訳だが」 すべての答え合わせのようににっかり青江はふふ、と笑ってみせた。 「僕がそこまですべて計算して君を騙していたのかもしれないよ?」 「そこまで手の込んだことをされているのなら、それはそれで嬉しいことだな?」 にやり、口角を吊り上げる。 「それほどに俺を愛していると、言ったも同然だろう」 「ほんっとに………きみ、は………」 言葉を失った両腕が抱き締めるような仕草をした。それを横目で見ながら続ける。 「悪いものじゃないんだろう」 「とり方はそれぞれだと思うけど、まあ、今のところ害はないよ。………迎えを、待っているだけなんだ」 「迎え」 「うん。此処はほら、言うなれば結界だから。出陣から帰って来た時に見つけてしまってね。こういう子は、何についていけば良いのか分からなくて、すぐに取り込まれてしまうから。取り込まれてしまえばきっと、主の体質を考えれば、ね」 「悪い芽を摘んだということか」 「まあ、そうとも言えるかも」 「青江」 「なあに」 「にっかり青江」 「うん」 そうだ、元々これを言おうと思っていたのだった。 「手が空いたらで良いから、俺にも膝を貸せ」 *** 上野駅 にっかり青江の主である人間は自覚がないのも勿論あるが、この本丸が基本的には外界から遮断された空間であり動物が紛れ込むことは殆どと言って良いほどないことなのだと知らない。知らないので裏庭に猫がいたよ、と今日もにっかり青江にそれはそれは嬉しそうに教えてくれた。彼は頭は良いはずなのに彼が見舞われる心霊現象その他諸々についてはまったくもって信じておらず、故に紛れ込んで来る動物にも何の警戒心も抱かないのだ。 「それは良いねえ。僕も見てこようかな」 「あまり人に慣れていないみたいだったから、引っかかれないようにね」 その忠告に頷いてから、にっかり青江は裏庭に向かう。 主の言った通り、そこには猫がいた。白く薄汚れた猫が何処の時代から入り込んだのかは分からないが、あとで土を検査に掛ければすぐ分かるだろう。それまでは平野藤四郎に保護してもらうのが良い。呪詛の気配もないから、来た場所が分かればそのまま放してやれば良い。 と、そこまで考えて伸ばした手は、忠告までもらっていたのに引っかかれた。つう、と一線、赤。 「やっぱり嫌われてしまうなあ…」 言葉にしたのは後ろに気配を感じたからだった。 「…苦痛か」 「そうでも、ないかな」 主に会ったの、と問えばへし切長谷部はそうだ、と返す。 「主には、お前が動物に避けられるが動物が好きなのだと言っておいた」 「また、何で」 「どっちにしろその猫は何処ぞへ返すのだろう。あまり話を広げれば猫がいなくなったことを悲しがるものが出るかもしれない。お前はしょげるだろうから秘密にしておいてくれ、と言っておいたからそういう顔の練習をしておけ」 「なにそれ」 思わずと言ったようにふき出せば、それくらいしか出来ることはないからな、と顔を伏せられる。 「長谷部くん」 「何だ」 「ありがとう」 「………別に」 「ついでに、僕の代わりにその子、捕まえてくれると嬉しいなあ」 「捕まえたらどうすれば良い」 「平野くんに預かって貰おうかなって思ってるけど、これから交渉に行くよ」 「分かった」 そうしてしゃがみ込む背中を見て。 「………僕には君がいるものね」 「なんの話だ」 「ん? きっと君に知られたら怒られる話」 「なんだそれは…」 *** 処女の祷り おとめのいのり 初めて会った時、似てるなあ、と思ったんだよね。 自分の口からそんな言葉が漏れてしまったものだから、にっかり青江は飲み過ぎたな、と思って持っていたお猪口を手放した。手放してから思っていたよりも身体中を回るアルコールに気付く。これは、口が滑っても仕方がない。 「誰にだ」 「うーん…内緒」 そう笑ったにっかり青江にへし切長谷部は少しだけ目を細めたが、それだけだった。それ以上追求されることはない。彼のこういった、相手の領域に必要以上に踏み込んでこない優しさを、にっかり青江はとても愛おしく思っていた。例えそれが人間の間では冷たいと言われるようなものであったとしても。 片付けておくから、とその言葉に甘えて畳に転がると、布団を出せ、と言われる。 「いやあほんとびっくりだよ。僕らの信仰心もちゃんと神様ってやつは見ていてくれるんだねえ。というか、あちらにしたら僕らって一体どんな存在なんだろう? 神社暮らしにでもなってみれば分かるのかなあ…今度聞いてみようか。怒られるかなあ」 「だから何の話だ」 「酔っ払いの戯れ言だよ」 君が信じているものは、君を見守っているんだよ―――とは、にっかり青江にはあまりに過ぎた言葉のように感じた。酒類を端に寄せたへし切長谷部は、先に布団を敷くことにしたようだった。にっかり青江を転がして退けてから、用意してあった布団をてきぱきと出していく。以前から思っていたが彼は酒に強いらしい。刀剣男士としての顕現してからの日数はそう変わりがないはずなのに、これはにっかり青江≠ニへし切長谷部≠フ違いなのだろうか。決して埋まることのない差なのだろうか。 そう思ったらやけに寂しく感じて、ほら、と伸ばされたその手を握る。 「…長谷部くん」 「何だ、俺は何処にも行かないぞ」 「………なんで君って、僕の欲しい言葉が分かるんだろうね」 * 「はじめて会った時、似てるなって思った」 http://shindanmaker.com/531520 *** 20161202 |