代わりに貴方の幸せを祈ります 

 長谷部くんの言葉はもっともっと刺さっても良かったはずだった。僕のことを的確に捉えてしまうひと。だから僕は彼を巻き込んだのに、結局彼の言葉は僕の何をも傷付けてはいかなかった。
 長谷部くんの言葉はどれも正しい。僕は狡くて重たくていやらしい。自分の幸せを願うことがどれほどに、自分じゃない誰かの不幸を願うこととセットになっていると分かっているとしても、それをやめることは出来ない。テレビや小説の中の恋はもっときらきらしていて、どうしようもないほどうつくしいのに。
 僕は、それに、なれない。
 そんな思考を遮るように、ぐに、と額を押される。
「…鶴丸くん」
「ヘンな顔してるぞ」
「こういう顔だよ。っていうか君、あの怪我コスプレだったんだって? こっちは真剣に心配したのに…そういうことやめなよ」
「それはこっちの台詞なんだけどな」
鶴丸くんの言葉に僕はその先に用意していた言葉を止められた。
「俺も、宗三も、」
「鶴丸くん、もしかして、」
「お前気付いてないから言うけどな、お前スゲー幸せなやつなんだからな」
否、失った。
「ずっとお前のことばっか考えてたんだよ。大の男が二人、雁首そろえて。しかも一晩中。…ずっと、源氏デザインの人らが付き合っててくれたけど、それがなかったら多分、一晩中お前の携帯鳴りっぱなしで今より罪悪感倍増しだったはずだからな」
お前携帯なんか持ってないけどさ、と続けられてもその内容は全然頭に入ってこない。
 鶴丸くんの表情は今まで見たどんな表情よりも真剣で、だから僕は彼らが本当に僕を心配してくれていたんだと理解せざるを得ない。
「だから、投げやりなことはしてくれるなよ」
「…してないよ」
「でもちょっと反省はしてるだろ」
「…うん」
「次からはああいう逃走の仕方はするな」
「鶴丸くんに言われたくないんだけど」
「…すまん」
「一年も連絡一つ寄越さなかったくせに、」
「本当にすまん」
 今度何処かに行く時はテレビ電話を置いていくから、と約束してくれた鶴丸くんの、その約束だって多分、僕のものじゃあなかったはずなのに。

***

大人のなり方 

 なんで先生は先生になったんですか、なんて久しぶりに聞かれたなあ、と思う。
「そうさなあ…」
思い出すのはいつだって獅子王と光忠のことだった。三日月よりもずっと美術に愛されていたのに、基本が何もなってなかった二人の天才。結局光忠にそれはやっとこじゃあないと言うことは出来なかったし、獅子王のデッサンを上回ることが出来る訳でもなかった。
 それでも拙い説明だろうに目をきらきらさせて三日月の話に聞き入る二人に、昨日の話の続きをしてくれと幼子のようにねだる二人に、邪魔をするなと突き放すことも出来なくて。それどころか、
―――楽しい。
なんて。
 目の前がひらけた、なんて大層なものではない。ああ、と何かがすとん、落ちてきたような。
「頼りにされていたんですね」
鯰尾の言葉は何処までも真っ直ぐだ。
「そう言ってもらえると嬉しいなあ」
「そうなんですか」
「俺は最初、何故美大なぞ選んだのだろう…と自問自答して悩んだクチだからな」
「先生が?」
鯰尾は羨ましいとは口にしない。その頬を色付かせて、そう思っているのは丸わかりなのに。三日月を傷付けるかもしれないと、言葉にすることは避けるのだ。
「先生、俺、骨喰に聞いたんですよ。卒業したらどうするのかって」
「…なんと、言っていた?」
「田舎に帰るって」
鯰尾の口を通してでも、骨喰の表情がありありと浮かぶ。
 毎日絵を描いて、それを時々知り合いの画廊に置いて貰って、収入は食料と画材を買う分があれば良い、ずっと描いていられればそれで良い。
―――三日月に、迷惑は掛けたくないんだ。
焦りをその口の端に浮かばせた鯰尾は、きっとそれを違うように受け取った。
「そうか」
でも多分、今はまだそういうことを言うべき時ではないのだ。
「骨喰はそう言っていたか…」
 だから三日月はそう言うだけに留めた。
 この手のひらの先、どんな未来が広がっているか分からないのだから。

***

ホーリーナイトシンデレラ 

 分かったのはあまりにもそれに自由さがなかったからだ。縛られて何処へも行けない、そんな苦悩を売りにする画家なんて吐いて捨てるほどいるだろう、それでも骨喰はそうじゃあないはずだった。何用かの絵かが分かってしまうなんて、そんな、世界を閉ざすようなこと。
「あれは何だ」
だから、彼の保護者のところへと走る。ただ走る。息を切らせて、問う。
 本人には問えなかった言葉を。
「なんであいつはあんな絵を描いている?」
思うところがあるのだろう、三日月はこちらから目を逸らした。悪くはないだろう、と言葉が吐き出される。ずっと、鶴丸よりたくさんのものを見てきている目はあの絵の本質を一番に見抜いたはずだ。なのに。
「なんでやめさせない」
「…本人が決めることさ」
「お前、分かってんだろ。あいつはもっとでかいことが出来るんだって。世界中の誰もがあいつの絵に会いたがって、それは百年先二百年先もそうで、あいつが死んでも世界はあいつを愛し続けて、ずっとあいつは人の心の中に生き続けて! あいつはそういうものが作れる! お前が一番分かってんだろ!!」
声を荒げても、三日月の表情は変わらない。かもしれんな、とポケットを探った手は何も握らずにぶらん、と垂れ下がった。煙草がなかったのだろう、と思う。同時に、この人にも煙草を吸いたくなることがあるのだ、と。
「だが、それ以外何も残らん人生になるだろう。お前こそ、分かっているだろう」
美術史に載るような人間の中に、幸せな人生を送れた人間がどれほどいるのか。
「どれだけ描いても報われないかもしれん、それでも手を休めることは出来ないんだ。一生心が休まらなくなる。それを果たして、幸せと呼べるのだろうか」
三日月がそれを幸せと思っていないことは明確だった。それでも、と思う。
 それでも。
「それをっ! ケアすんのがお前の役目だろう!!」
叫んだ言葉は、どこまで目の前の人に通じたのだろう。

***

目を凝らしても見えない世界 

 自分には見ることの出来なかった世界があることを知っていた。見たかった世界だった。未練はないと思っていたけれど、今となってはもう、言い切れない。
「そうさなあ」
ずるずると座り込んだ屋上に風が吹く。もう自分以外の影はない。
「俺の役目だ≠ニは、言ってくれるタイプではないか、お前の王子様は」
拙い恋のことをどう思っているのかも分からない。ただ手を加えてはいけないと思って、でも遠回しに背中を押すことはしてやりたくて。自分は邪魔だと、そんなことすら思うのに。
―――三日月といる。
幼い約束に囚われているのは一体どちらなのか。
「俺だって連れて行きたいさ。何処までも」
 けれどもそれは、本当に骨喰にとって幸せなのか。本当に骨喰の幸せを考えて、思っていることなのか。
 手の届かなかった夢、ずっと燻り続ける憧れ。それを骨喰に押し付けようとしているのではないのか、代わりに見てきてくれと、そんな身勝手な代償行為。
 三日月は、本当に違うとは言い切れない。
 学生の頃の自分が顔を出したような気がした。未だその目線の先には獅子王と光忠がいるのだ。

***

半年コース 

 ごめんね、弟よ! 僕たちはやっぱり兄弟のようだ!
 なんて言葉だけで半分に割れた事務所が元どおりになるのは多分この事務所だけだろう、と誰もが思っているだろう。しかしながら鳥取で任された仕事をほっぽり出してくるのはどうなのか。
「鳥取って何だ? らっきょうとか梨か?」
「イカにズワイガニもあるよ。仕方ないから僕行ってあげる」
「ズワイ冬なんだが…今六月だぞ」
「食える季節までかかるんじゃないの?」
安定のそっけない返しに長谷部は、ワーイウレシーと棒読みを返すしかなかった。
「で、長谷部はどうすんの」
「…行く」
「ズワイを食いに?」
「ズワイを食いに」
一瞬瞼の裏に青江の姿が過ったけれども、どうせ長谷部に出来ることなどないのだから。
 長谷部を自分の完成系だと言った宗三。
 そんな不完全な宗三が好きで好きで仕方ない青江。
 見苦しいほどの青春が其処にはあって、長谷部には少々息がしづらい。

 という訳で、と自分の部屋の鍵は清光に預けた。
「新聞と郵便は止めたから大丈夫だと思うが…万一なんか届いてたら連絡くれ」
「色気なーい。留守を預かってくれる子とかいないワケ?」
「それは、」
「まあ、いすぎて鍵の争奪戦されてた頃よりマシかあ」
「はやく忘れてくれ」
「一生からかい続ける」
嫌な宣言をされたが、それは地味にこれからも仕事で関わり続けるということでもあって、そういう意味だけであれば長谷部としては少し、嬉しい。これでも清光のことは尊敬しているので。
「青江に預かってもらえば良いのに」
にっと笑った清光の台詞は予想出来ていたので、元から用意していた言葉を返す。
「部屋、奈良漬けくさくされると困る」
してもらえば良いのに、と笑う清光に、他人事だと思って、とだけ言っておいた。

***

月の砂漠 

 清光さん、メールですよ、と言ったのに理由はなかった。ただ携帯が光っていたから、仕事の話だったら早い方が良いと思って。
 だから。
「あ、長谷部だ」
その名前に一瞬身体が固まったような気がしたのは気の所為なのだ。
―――砂丘まだ見てない
―――髭切あんまりすぎる
―――仕事丸投げ
見せてもらっただけのその画面は確かに長谷部くんが打ってるのが想像出来た。
「かなりテンパってるねえ」
清光がからからと笑う。
「青江も励ましのメールでも送ってやったら?」
「あ、えっと、僕、携帯…」
「そっか、持ってないんだっけね。じゃあ代わりに打ってあげる」
はいドーゾ、と言われて慌てて定型文を引っ張り出す。大変だと思うけれど鳥取でよ身体に気を付けて、お仕事頑張ってください。まあ良い方じゃないんだろうか。本当はもっと言いたいことがたくさんあるけど。
「味気ないなあ。はい、それで?」
「えっ、それで?」
だから清光さんの言葉に少し、動揺してしまった。
「何か言ってやりたいこととかないの? ぶっちゃけ青江に何も言わないで行くなんて、俺だって思ってなかったし。びっくりしたんじゃないの?」
「そりゃあ…しました、けど…」
プードルケーキがいるぞ、なんていつも通りに。まるで半年も鳥取に行くなんて嘘みたいに。
「なんていうか…流石に半年も鳥取に行くなら、言ってくれたら良かったのに、とは思いましたよ。だって、僕、直前に会ってるのに」
それこそ会ってないならまだしも、と続ける。
「いつも通りだったんです」
「いつも通り」
「プードルケーキがいるって」
「ああ、美味しかったよね」
「でも普通、出張のことの方が重要じゃあないですか。そもそもだいたい長谷部くんて前から…」
そこで清光の手がずっと動いていたことにやっと気付いた。
「あーッ!? 清光さん全部打たなくて良いんですよ!?」
「全部打たなくて良いんですよ、送信っと」
「あああー!!」
悲鳴が夜のビルに響き渡る。
 こんな子供みたいに大騒ぎをしているところをまた見られたら馬鹿にされてしまうと思ったけれど、彼は今、そんなことが出来ないくらい遠くにいるのだ。

***

もしもしカニは食べたくないですか 

 気になんないの? とそれはこぼれるような言葉で、面白半分でも結局心配が其処にあることを長谷部は知っている。
「青江のこと」
「…気にはなる」
「じゃあ連絡取れば?」
「携帯持ってないやつとどうやって取れと…」
「夜八時に電話の前で」
「お前もそのクチか」
「そのクチじゃなかったやついないんじゃないの」
気にはなる、と繰り返す。その先に続くのは逆説の言葉。
「でも、億劫でもある」
「億劫?」
ああ、と言って立ち上がる。砂丘に雪なんて、青江が見たらどんなふうに思うだろう、考えないわけじゃない。この風景を見て、青江は一体どんなことを思って、どんなふうに作品を作るんだろう。そんな、ことを。
「俺はまだ、子供を傷付けたことはないんだ。だから考えただけでも気が遠くなる」
「長谷部」
安定も立ち上がってついてくる。だから長谷部は砂丘へと足を踏み出す。
「青江はもう立派な大人でしょう」
「中身の話」
「…言いたいことは分かるけどお」
 裸足になった足の裏に砂の感触が冷たい。んー、と安定は唸ったままついてくる。良い眺めだな、と言っても返ってくるのは唸りだけ。
「お前はさっきから何を唸っているんだ」
「分かんないなって思って」
海の近くの人間が、豆粒のよう。
「なんでお前の恋愛って傷付けることが前提なの?」
海風とも丘の風ともつかないものが、びゅう、と吹き抜ける。ばさばさと音を立てるのは服の裾。誰かがひっぱっているみたいに。
「僕は好きなやつが出来たらめちゃくちゃ大事にしようって思うし、今までずっとそう思ってきたよ?」
 言葉が、出ないとは。
 このことを言うのだ。
 二つの風がぶつかり合って砂を巻き上げるり目に入った砂を取り除こうと擦るのを、擦っちゃうだめだよ、と安定が止める。
「目に砂?」
「いや…」
がらんどうの胸が、埋まるような心地。
「目から、鱗…」
は? と言った安定のその反応は、多分正しかった。

***

さよなら、私、悲しみと生きます。 

 はい、獅子王デザインです、というのにも慣れてしまったな、と思いながら出た電話の向こうにいたのは長谷部だった。
『…本当にいた』
「清光さんから何か聞いたかい?」
『ああ。久しぶりだな。元気だったか?』
「うん、勿論。長谷部くんは?」
『元気だが…流石に寝ても覚めても安定と一緒なのはこたえる』
「部屋、一緒なのかい?」
『一緒じゃないが夜な夜な来る。暇なんだと』
 光忠が誘ってくれたこと、大ものの器を結構やらせてもらったこと、よくしてもらっていること、宗三が相変わらずなこと。視界にいやでも映る二人の後ろ姿がどれほど幸せそうに見えるのかなんて、青江は言ってはやらない。
『大丈夫か?』
「結構いろいろ順調だよ」
清光にも光忠にも世話になりっぱなしだ、だからもっと頑張りたい。その言葉に嘘はない。嘘はないけれど、本当だけでもない。
 どうか、どうか。
―――気付かないで。
これからの予定、新しく出来た目標、楽しいことだけ明るい声で。何も言わずに発った人に言う言葉なんか用意していない。
「こっちは元気でやってるから、長谷部くんも身体に気を付けて。無理しちゃだめだよ?」
『ああ、大丈夫だ。ありがとう』
じゃあ、という切り出しが重く聞こえたなんて気の所為だ。
『うん。安定さんにもよろしくって伝えてね』
「分かった。それじゃあ」
『おやすみなさい』
電話を切る。
 最後まで涙の気配なんて、させていなかったはずだった。

***

 鍵を掴む。車の鍵。いらっしゃいませ、というガソリンスタンドの店員の声。
「ハイオク満タンで」
夜でも看板は光っている。
「何が無理しちゃだめだよ≠セ」
最早悪態だった。その怒りはそのままハンドルに込める。
「するに決まってるだろう。明るい声で取り繕って………っ信じ、られるか!」
景色が流れていく。
「九時間掛かるんだぞ!!」

盲目になれたのならば良かったのに 

 実際九時間以内でたどり着いた東京だったが、現実は長谷部には優しくはなかった。
「鳥取へ…向か…った…?」
流石に罪悪感があるのか清光が手を合わせて頭を下げている。このままだと土下座まで行きそうだ。
「なんか様子が可笑しいっていうか、落ち込んでるっていうかだったから…もういっそお前に喝入れて貰うかぺろりと食べられちゃう方が良いんじゃないかって思って…」
「お前流石にそれは」
「ごめんって! でもまさか長谷部がこっち来るなんて思わないし、お前との電話が原因とか思わないし〜! また光忠か宗三の何かしらでショック受けてんのかなとか思うじゃん!」
「………そうだな」
「いつからそんないい感じになってたの!?」
「いい感じになんかなってない」
「なってなくてこれなの!?」
「なってたら電話で全部済んでたような気がする…」
「あー…まあ、それは、そうかもね…」
携帯持ってないから途中で引き換えして来いっていうのもな、と困った顔をする清光に、安定に連絡入れといてくれ、と言う。
「え、寝ないで走って来たんでしょ。事故るよ」
「行ける行ける大丈夫」
「それ仕事詰まって徹夜してる時のスローガンじゃん!? マジで事故るよ!?」
「どっかサービスエリアで仮眠取る…」
「あーもー、連絡はしといてやるから! ホットアイマスクとか持ってきなよ!」
「ありがとう。ありがたく受け取る」
「長谷部」
 背中に声が掛かる。
「飛行機待てないで車飛ばしてくるお前、男前だよ。取り澄ましてるよかずっとかっこいい」
「はいはい、ドーモ」
「折角褒めたのに!」

***

まだカニ食べてませんよね? 

 安定に鳥取観光に連れて行ってもらいながらも、考えるのは長谷部のことだった。そもそも荷物を届けに来たのだから気になるのも仕方ないのかもしれない。でも、いないのならいないで、別にそのまま顔を合わせずに帰っても良かったのだけれど。
 ばんっ! と音がして乱暴に扉が開けられる。
「あ! 長谷部! 良かった!」
「ええーと…お久しぶりです。お邪魔してます」
言うことが見つからなくて、そんなことを言った。流石にそろそろ帰らないとまずい気がする。別に泊まるつもりで来た訳じゃあないし、だから着替えもないし連絡も済ませていないし。
 なのに。
 ぎゅっ、と。
 手が握られた。
「………長谷部くん?」
「帰るな」
「えっ?」
「あーもう無理だ、眠い、起きてから話す、此処にいろ」
そのまま横にあったソファに倒れ込む。手は離されない。
 それを見た安定はよし、とだけ言って拳を握った。何か知っているなら教えて欲しい。けれども安定は特に説明をすることはなく、エアマットベッドと布団一式を部屋に投げ込むと、長谷部をよろしくねー! と叫んで姿を消した。本当に姿を消した。長谷部にがっちり手を握られているので、それを追い掛けることも出来ない。
「よろしくね…って…」
一体何がどうなっているのか分からなかったけれど、泥のように眠る長谷部を見ていたら、なんだか青江も眠くなってしまった。

***


20190922