サテライト、街がさよならを云ってる 窓から見下ろす二人について、自分が何を思ったのかよく分からない。多分、これは言葉にしたらいけない感情だと思った。あの二人のような間柄のことをきっと幸せと言って、自分が出来るのはせめてもの賑やかしだけ。 「ッ、い〜っ!!」 考え事なんかしていたからだろう、木槌に指を巻き込んだ。 馬鹿だ、馬鹿だ。何が出来る訳もないのに、才能しかないのに、張り合おうだなんて。 ばんっ! とひどい音で扉が開く。 「あ、一期」 「…鶴丸殿」 ぜーはーした一期が青筋を立てていた。 「ピッチは持ち歩いてくださいと言ったでしょう!」 「あ、俺の」 「何のために私のカーナビと連動させたと思ってるんですか」 「一期のため」 「貴方のためでもあるんですよ」 渡されたピッチを受け取る。今更部屋に勝手に入られたことに文句は言わない。 「で、どうした?」 「………鶴丸殿」 一期が息を整える。 「お金、好きですかな?」 その瞬間、頭を駆け巡ったのは何だったのだろう。骨喰が振り返る瞬間だったような気がする。制作に没頭してこの世の何処でもないところを見ているような、でも其処には確かに自分がいるのだと、そう思ってしまうようなぼおっとした瞳。 「…うん」 立ち上がる。 「大好き」 卒業制作はいつだって出来る。でも一期に着いて行くことは今しか出来ないのだ。 *** ハニー、ハニー、内緒にしてね じゃあ俺は先に出るから、鍵をかけておいてくれ。そんなことを言って骨喰を抱えて出て行こうとする三日月に、流石の宗三も慌てた。蹴り飛ばされている鶴丸や鯰尾のことは知ったこっちゃない。 「先生、青江は」 「お前が送っていけばいいだろう」 でろん、と伸びている青江を一瞥して、三日月は言う。 「それで、もう、そんなふうに酔わんですむようにしてやれ」 それは、今の宗三にとってひどく難しいことのような気がした。 落ちるからちゃんとつかまりなさい、と言えば酔っている青江は素直にはあい、と返事をした。ぎゅう、と少し力が入りすぎたようにも感じるけれど、このくらいは許容範囲だ。 「…青江」 静かな夜。周りには誰もいない。 二人だけ。 「何で貴方は僕なんか好きになってしまったんですか」 ぽつり、言葉を絞り出す。 「僕は貴方が可愛いんですよ。だからいつか貴方が僕に告白してきたら、ちゃんと断らないといけないって思ってました。でも、断ったら貴方はきっと何処かに行ってしまうんだと思って…」 自分に向き合うのは嫌だった。それと同じように、青江に向き合うのも。 「―――だから、ずっと。貴方から逃げてた」 青江のことが嫌いな訳じゃない。好き嫌いで言ったら好きに決まっている。でもそれは。 青江の欲しい好き≠カゃない。 「でも貴方はずっと僕のことだけを見ててくれましたよね。貴方を見てると、自分のことを見ているみたいでした。…とても、痛かった。きっと、あの人から見えてる僕も貴方のようなのだろう、と思って」 宗三があの人からそれを貰えないように。 「格好悪くてしつこくて、正直何一つ誇れることなんてなくて。どうにか見栄えよくしようとしても何も変えられなくて、僕は変わらず格好悪いままで…あの人のことを、諦められなかった」 ぽたり、と。 そんな音はしないはずだった。 「宗三くん」 湿度を含んだ声が呼ぶ。顔は見えない。 「………すき」 背中にすべて落としてくれ、と思う。そうしたら、この言葉は余すことなく一生宗三が持っていけるから。最初で最後かもしれないこの格好悪い恋のことを、懐かしいと思って欲しいのかもしれなかった。 「すき」 「はい」 「だいすき」 「はい」 「すき…」 「はい」 「宗三くん、すき」 「はい」 「好き」 「はい」 「大好き」 「はい」 喉の奥で音が鳴る。 「………ありがとうございます」 終止符の代わりの言葉も、胸が破けそうなほどに甘かった。 *** 先生匿って、と青江がやってきたのは文化祭の当日のことだった。 「どうした?」 「…ちょっと、」 マイルドセンチメンタル 「ええっ!? 五人に同時にプロポーズされた!?」 叫んだのはその後その五人とやらをやり過ごしたあとにやってきた鯰尾である。骨喰も三日月もびっくりした顔をして、それから三日月があー…と頭を掻く。 「えーと…そうだなあ、青江はそれで逃げて来たのか」 「うん」 「青江的にはその中にちょっとでも良いな、と思う人は…」 「いませんね」 小さい頃からずっと一緒だったから考えられない、って方が正しいのかな、と青江は膝を抱える。 「それを言ったらいいんじゃないか?」 「…うん、僕もそう思ってる」 その様子にあれ、と思うものがあって、骨喰を鯰尾へと預けた。小遣いを渡して焼きそばを買ってきてくれと追い出す。 「僕、宗三くんのこと馬鹿だ馬鹿だって言ってきたけど、ホントは人のこと言えないんだよなあ〜…って」 「ええと、それはつまり…」 祭りの時に彼らのことは見ていたから、なんとなくは分かっている。周りに隠し立てすることのない好意。それを一切寄せ付けない青江は、それに気付いていないものと思っていたが。 「青江は、彼らの気持ちに気付いてたんだな」 「うん」 「それで、告白されないように細心の注意を払っていた?」 「…うん」 これはまた重症だ。 青江自身、分かっているからこその先ほどの発言だったのだろう。 「正直、なんで僕じゃだめなんだろう≠チて何回も思ったよ。こんなに好きなのに≠チてさ」 恋というものが上手くいくとは限らない。ただの情でも関係でも、上手くいくとは限らないのに。 「でも、それって僕もおんなじだ」 ―――自分が、宗三にされていたことと。 「僕は、そんなこと言われても彼らを選べない」 狭い自分の領域に、誰を踏み込ませるかは自分で決めなくてはいけない。 「彼らのことは本当に大事なんだよ、でも一緒に出来ない。宗三くんに抱いてたような、そんな気持ちは抱けない」 そう言ってから青江は笑った。 「先生、僕のことを責めてくれても良いんですよ」 「それをするのは彼らだろう」 「…僕は宗三くんを責めても良いんですかね」 「それは青江の決めることだが、お前は責めたところで自分を呪いそうだからなあ」 「どうしたらいいんだろう」 「努力するか諦めるか、どちらかしかないだろうなあ」 嘘だった。 「正直に自分の気持ちを話すつもりはあるんだろう」 「…うん」 「だから俺のところに休みに来たんだろう」 「うん。ごめんね、先生。骨喰くんと一緒にいたかっただろうに」 「なに、鯰尾が一緒なら大丈夫だ」 本当は三つ目の選択肢のことを三日月は知っていた。知っていて、口にしなかった。 「…みんな、ちゃんと自分で決めてくれるかな」 「そこは残酷だろうが信じてやるしかないさ」 青江は気付いている。狡い大人の嘘に。それでも三日月の嘘に乗ってくれた。 「努力するか、諦めるか。彼らは選べる、青江はそう信じているんだろう?」 「…うん」 許されたいのかもしれなかった。誰も彼も、自分ではない誰かに。 だから、三日月は三つ目を口にはしない。遠くから足音が聞こえて、鯰尾の元気な声もそれについてきた。 *** 自分の名前が貼ってある方を見て、そして上司たちの方を見て、それからなるほど焚き付けられた、と判断した。そして、それに乗ることにした。 「すみません、僕は…」 手を挙げて、自分の意見を言う。あとは、走るだけ。 メロウ ピンポン、と鳴らすと確かめないままに光忠が出てきた。 「…宗三くん?」 「失礼します」 何故、という雄弁な表情には答えないですり抜ける。勝手に机を出して場所を整えていく。 「…何?」 「大倶利伽羅に聞きました。手伝います」 「え、は?」 「最初はオープンデスク扱いで良いです。押しかけですし。役に立つと思ったらこのまま此処で使ってください」 「か、会社は? 源氏デザインは?」 「辞めました」 息を飲む音。 「辞め…そん、な」 「あ、コーヒー淹れて良いですか?」 「宗三くん!」 気にせずに勝手に淹れて、熱いうちにどうぞ、と渡す。 「宗三くん、どうして」 「此処を出るときに言ったでしょう」 本当は何を言ったらいいのかなんて分からなかった。 「待ってなくても戻ってきます、と」 でも今までだって嘘なんか一つも言っていないのだ、言えやしなかったのだ。 「病院でも言いましたけど、もう一度言いますね。僕を此処で使ってください。前よりずっと使い物になるはずですよ」 光忠の瞳に光が入って、それから影になる。まるで月に雲がかかるように、ぼんやりと。 「きっとまた、同じことになるよ」 遠い道、その先に自分がいるかもしれないと自惚れたかったから。 「また僕は、君のこと、」 「傷付けても良いんです」 許されたかった。 「傷付きませんから」 きっと今も光忠の中で鳴っている甘やかな香りメロディ、思い出のメロディ、宗三は知ることの出来ない意味を持つメロディ。それでも、宗三は光忠の耳を塞ぎたかった。それが誰かに許されないようなことでも、そのために帰ってきたのだ。 決して叶えられない約束を、それで良いのだと言うために。 *** 星屑の転居 実はね、と光忠は笑う。 「宗三くんといると、とても楽だったんだ」 その笑みは長らく見ていなかったものだ、と大倶利伽羅は思う。楽しいだとか嬉しいだとか、多分、そういう生きていると感じてしまうことを光忠は遠ざけてきた。それが、光忠が生きるためには必要だった。罪悪感などではない、生きてないと、獅子王と同じところに半身を置いてきたのだと自分に信じ込ませるために。 「だって彼は獅子王くんのことを知らないから。以前の僕を、知らない。僕がどんな人生を歩んで来たか知らないから、比べることをしない。…分かってるよ、当たり前のことだって。煩わしいなんて思ったこともない」 光忠は大倶利伽羅や三日月のことを遠ざけなかった。獅子王のことを知っている人間がどんな顔をしようと、うん、うん、と頷くだけで何も言わなかった。受け身のようでいてそれは事実諦観で、この先の展望など何もないような焼け野原。その寂しい心象風景に大倶利伽羅が付き合えたのはきっと、三日月よりも大倶利伽羅のいた立ち位置が遠いものだったからだろう。もっと獅子王のことを知っていたら。親戚の手伝い、なんていう名目ではなく、それこそ同級生やしっかりした助手であったら。 きっと、寄り添うことは出来なかった。三日月が少しずつ自分の壊れた部分を認識していったように。 「でも、宗三くんといる時は何も考えなくて良かった。立ち直ったフリをした方がいいんじゃないかとか、思わなくて良かった。なんにも考えずに仕事に集中出来た」 でも遠ざけたじゃないか、と言うことはしない。今まで自分から何もしなかった光忠の、あれから始めての自主的な行動。その理由に宗三は気付いているだろうか、大倶利伽羅はうまく説明が出来なかったし、口を開けば余計なことを言いそうで。誰に頼れば良いんだろう、歯車は回り始めている。時は止まってなんかいない。 光忠は、生きている。 「彼はその間ずっと黙って、ただ側にいてくれた。…そんな彼に、多分、僕はとても救われていたんだ」 きっと、大倶利伽羅は光忠のその笑みを残酷だと思わなければならなかったのだろう。けれどもあまりに緩やかな、冬の朝のあたたかなミルクのようなその笑みに、大倶利伽羅は誰かの心を、宗三の心を傷付けているという事実を、今だけはただ忘れたかった。 *** カンタレラ 花見の中、宗三くんが来る。会社の人たちと光忠さんの話をしながら。羨ましい訳じゃない、羨ましい訳じゃない、そう言い聞かせるのに、多分僕はいつもの顔が出来てない。 「僕、そろそろ帰るよ」 「あっ、青江」 安定くんが僕を引き止めて、力は強くないけれど僕はちょっと立ち止まる。 「もーほら宗三ー! 青江が帰ろうとしてるよー! しかも半ベソで」 「誰が半ベソなんだい」 それでもそんな言葉でも宗三くんは来てくれる。優しいから、言葉を見落としたりしない。 僕のこと、好きじゃあないくせに。 「一人で帰らないでください。終わったらみんなで帰れば良いでしょう」 「…宗三くんは?」 「…僕は会社に戻りますけど」 「なら早く帰ってあげなよ」 笑えたと思う。 「青江、酔ってますね?」 「酒屋の跡取りがこれくらいで酔う訳ないでしょ」 「いえ、酔って―――」 風に乗って、割り込む声。 「宗三。レッカー来そうだから俺は帰る。あとの奴は適当にタクシーにでも…」 ふと、目が合った。 「喧嘩か?」 「喧嘩じゃないですよ」 宗三くんの声が低くなる。なんで、どうして。 「青江」 チャリ、と音が大きく聞こえた。 「送っていくぞ。それとも、」 示された道。 「何処か行くか?」 踏み出したのは、多分、少しでも何かを変えたかったんだ。 「行く。連れて行って」 「青江!」 数歩の移動、宗三くんとは違う匂い。 「…だめですよ、長谷部」 「………分かった」 長谷部くんの声は何処か怒ったようなもので、当たり前だよな、と思った。 信号が変わる。走るぞ、と言われて頷いて駆け出す。逃避行、なんて陳腐な幕引きだろう。 「…気分悪いだろう」 「ああ、すごく」 「謝らないよ」 「謝られても困る」 人混みを抜けて車のところまで。この助手席に乗り込むのも二回目だ。 「何処が良い?」 「長谷部くんのセンス信じて良いかい?」 「流石に少し絞って欲しい」 「じゃあ賑やかだけど静かで綺麗なとこ」 「…お前とは気が合いそうだ」 長谷部くんは笑う。 「心配しないでよ、僕、今度は寝たりしないからさ」 「良い性格してるな」 「よく言われる」 発進音。 夜の光が、窓の外に溶けて行く。 *** メロディポーチ どうして青江が源氏デザインにいるのか流石に聞かない訳にはいかず、(だって何も聞いていなかった)打ち合わせのあとに逃げようとしていた長谷部を捕まえた。そのまま喫煙所に引っ張っていく。 「で?」 「それが先輩に対する態度か」 「で?」 「だから、週一で通ってもらってるんだ。陶器類のストック持つことにしたんだよ。会社の方針でな」 「聞いてませんよ」 「はあ? 青江のことは全部お前を通さなくてはいけない決まりでもあるのか」 息が詰まる。 「本命がいる奴は振った奴の世話なんか焼かずに本命にかまけてろ」 それは、その通りだ。だけれどもそのまま引き下がることも出来ない訳で。 「長谷部は青江のことをどう思っているんですか?」 「どうって?」 「どう思っているんですか?」 「…かわいいとは思っている」 「かわいいって? 犬や猫みたいに? 子供に思うみたいに? それとも、恋愛対象ないしはそれに準ずる範囲に入るものとして?」 「最後だな」 「本気でですか? それともただの興味?」 ずい、と自分が前に出たのが分かった。長谷部は若干引いている。 「…宗三、俺はそんなに悪党に見えるか?」 「見えますね。というか青江のことだって興味本位でとって食って飽きたらポイっとするように見えますね」 「知ってたがお前の中の俺像最悪だな」 「今更ですか」 「蕎麦食いに行ったことを根に持ってるのか?」 「あれもですよ、大体なんでいきなり長野なんですか」 「あれは…」 長谷部が少し考えるように上を向く。吐き出された煙が消えていく。 「遠くへ行きたくなったから…だろうな」 「眠り込んでる人間を隣にただ乗せて?」 「ああ」 「何処かに連れ込む訳でもなく?」 「ああ」 ふっと長谷部が笑う。 「お前にはないのか?」 それは初めて見るようなやわらかなもので。 「そういうこと」 騙されそうになる。 「青江がうどんって言っていたら?」 「羽田に向かっていた」 「そういうところが信用ならないんですよ」 今でも覚えている。スローモーション。今、仕事が忙しいから。確かに私と仕事、なんて面倒な内容だったと思う。声がこちらに聞こえるくらいの金切り声。切られても仕方ない、そうは思ったけれど。 落ちていく携帯。 それは物だけど物じゃない。思い出も含めて、長谷部は軽々と手放した。執着のなさ、それが長谷部から漂うどこか身軽そうなイメージを形作っているのだろうと思った。 「もっと本気見せてくださいよ」 何処か怖いと思ってしまったのを、認めたくはない。 「僕だって、邪魔とか格好悪いこと、したくないんですから」 *** 火に焚べる熱情 さて、と呟く。 「帰らなくて良いのか」 「…まあ、怒られるのは覚悟の上だよ」 今まで無断外泊なんてしなかったからね、と言う青江の表情は何処までも凪いでいる。 「良かったじゃないか」 「何が?」 「宗三。追い付けはしなかったが追って来てくれただろう」 「…長谷部くんって、意外と意地悪言うんだね」 「先に仕掛けて来たのはお前だろう」 「それもそっか」 まるで最低な当て馬に人を使ってくれたとは信じられない。静かな、横顔。 「諦めるのか、鬼ごっこ」 「追い付けないように車出しておいてよく言うよ」 というか長谷部くんすごく足が速いんだね、と青江は言う。知らなかった、今後学祭の借り物競争にうちの科で出てよ、なんて。 いつも通り、みたいに。 それが長谷部には腹立たしい。 「…光忠のことは知ってるだろう」 「うん」 「お前はこうやってゴネたり拗ねたりしながら、あっちがだめになるのを待っているのか?」 「だめにするはずないでしょ」 なる、ではなく、する。 「宗三くんだから」 その声が硬質なものだったらどんなに気分が晴れただろう。 「終わるにしてもだめにはしないし、それで僕を代わりにしてくれるほど、宗三くんは甘くないんだよねえ」 すきなひとのことを話すとき、人の声は何処までも柔らかくなれる。優しくなれる。あたたかく、なれる。 「その甘くなさにいつまで甘えるつもりだ?」 「…もうちょっと、かなあ」 分かってるつもりなんだよ、これでも、と青江は笑った。 「そろそろ潮時だってさ。でも踏ん切りつかなくてねえ」 「分からなくはないがな」 息を吸う。 「バレてる片思いほど不毛で楽なものはないからな。相手も罪悪感から優しくしてくれる」 「へえ? 経験がおありで?」 「まさか」 長谷部の言葉で傷付けば良いのに。 「泣かないのか」 「泣くように見える?」 「見えない。だから聞いた」 まだ車窓は流れる。 粉々に砕けた宝石みたいになって、価値なんかなくなってしまえば良いのに。そんなことを思っても青江は、ゆるり、と笑うだけ。 *** サイケデリック・レイニーデイ ドライブモードのことをこれほど恨んだことはない。繋がらない携帯を投げ捨てなかっただけ、宗三は自分が冷静なのだと自覚していた。 「お、宗三じゃないか。青江はどうしたんだ? さっき走ってたが」 「青江が、攫われたんですよ」 「え?」 「前の会社の怖い人に!」 「ええっ!?」 その瞬間鶴丸が立ち上がって宗三もまたええっ!? と悲鳴をあげた。鶴丸は包帯とギプス塗れで大怪我をしていると聞いていたのに。酔っ払った骨喰と鯰尾を抱えた三日月が、そろそろ帰るぞ、と遠くから呼ぶ。 「青江はどうした?」 「先生、実は、」 そんな宗三をぐい、と止めたのは鶴丸だった。 「せんせー、俺らカラオケ行くわー。来るか?」 「何だ、鶴丸、まだ歌い足りないのか―――待て、何故立っている!?」 「ちょっといろいろ」 「はあ…青江のことは頼んだぞ。飲みすぎるなよ」 「はーい」 鶴丸が手を振って、それから小さく、言いふらさない方が良い、と言った。 「そんな、だって、何かあったら…!」 自分で言って初めて、気付く。 ―――何か、あったら。 思わず顔を覆った。 「だろ? あとで青江が困るかもしれない」 まあそうそうそんなことはないだろうが、と言う鶴丸に宗三は思わず顔を上げる。 「そんなの分からないじゃないですか!」 「あのなあ、あの青江だぞ? 宗三、お前流石に過保護過ぎるんじゃないか?」 反論する術がない。 「さっきまでいた黒い上着の奴だろ?」 「…見てたんですか」 「そんな悪い人相じゃなかった。寧ろ良さげだな」 「人相!? 良さげ!? あの長谷部がですか!?」 「金が好きそうな顔というか、目的のためなら手段を選ばなそうというか」 「だめじゃないですか!」 安定があれ、青江は? と辺りを見回すのが見える。長谷部もいないね、と清光が返すのも。 「まさかまた二人で逃避行とか」 「今度は仙台とかかなー。お土産なんだろ。メール入れとこ」 宗三と鶴丸は顔を見合わせてから、頷きあって二人には事情を話すことにした。 *** メランコリーに染まる 観覧車に乗るんだって。 安定からその言葉を聞いた時、不思議と宗三は自分の中で何かが溶けていくのを感じた。それは憤りとか焦燥とか憧憬とか、多分言い方はたくさんあっただろうけれど。 一緒に仕事に行った時、じっと観覧車を眺めていた長谷部の横顔が蘇る。乗りますか、と宗三は言った。男二人で乗って何が楽しいのかとは思ったけれども、あんまりにも懐かしそうな顔をしていたから。それに、仕事はもう終わっていたし時間は余っていた。 「え?」 だと言うのに長谷部はとても驚いたような顔をしたから。 ずっと見ているから、と指摘しても何処か他人事のようにそうか? なんて。でも長谷部の仕事のフォルダにはいつだって観覧車が紛れ込んでいる。それに気付かないほど宗三は鈍くはなかった。なかったし、長谷部にとって観覧車が言葉には出来ないものなのだと分かっていた。だから、言ったのに。 「あれは外から眺めるものだろう」 まるで自分は輪の中に入らないと決めているような、そんな横顔。 そんなだった長谷部が観覧車に乗って帰ってくる。だから宗三はきっと、次に会ったら聞くのだろう。 「初めての観覧車はどうでしたか?」 それはきっと、何処までも嫌味のない色に染まっていくのだろう。 この朝焼けの空のように。 *** 20190328 |