君はほら彼方の人 どうしていつも都合が悪くなると逃げるんだい? と聞いたのは意地悪だった。意趣返しというか、多分彼の恋が実って欲しいの半分、ぐちゃぐちゃに壊れちゃえというの半分。どっちがどっちかなんて恐らくその時々で天秤に掛かる重さが変わるしいつまでたってもシーソーゲームになっていて落ち着くことなんてない。落ち着く時が来たならきっとそれは青江が彼を好きじゃあなくなった時なんだろう。それは正直いつになるのか分からない。青江に分からないならこの世界中誰に聞いても分からないだろうから。 「貴方が追いかけてくるからですよ」 寝そべったまま煙草を咥える彼はとても絵になる。青江は陶芸科であって彼を器に見立てて作ることはなかなかに難しそうだと思うけれど、絵を描く人や他の分野なら、彼で描きたい・作りたいと思う人は少なくはないとまで思う。 「君が逃げるからだよ」 「そんなことありません」 「そうやっていつもはぐらかすんだから」 狡いよね、と言うと貴方に言われたくありません、と返される。可愛くない、と言えばそのまま返しますよ、と。 「でも本当にどうするんだい? このままあの人の事務所に居つくのも、外野から見ると悪くないと思うけれど」 「貴方外野じゃあないでしょう」 「それは嬉しいことを言ってくれるね。じゃあ外野じゃないついでに余計なことも聞いていいかい? どうして―――」 一瞬、冷たい風が吹き抜けた気がした。 「どうして、あの人にちゃんと、好きだって言わないんだい?」 よいしょ、と起き上がる彼を眺めながらもそのまま言葉を続ける。 「そうやって何も答えを出さないまま、なんとなーくでふらふら流れていくの、まあ、宗三くんに似合ってると言ったら似合ってるとは思うけど」 「青江」 いつもの顔がこちらを向く。明確に越えられないラインを引いたような顔。青江はこの顔も好きだ。 本当に、どうしようもないくらい。 「なんで僕なんですか」 「なんでだろうねえ」 「貴方がいくら僕に腹を立てても僕は変わらないというのに」 「だろうねえ」 「他の人を探した方が早いでしょうに」 「確かに。正直モテない訳じゃないからね」 「もう僕を見るのをやめろと言ってるんですけど」 「それは時間が解決するのを待つしかないさ」 今更傷付くことなんて出来ない。最初から終わりの見えていた恋。叶うことなんてない、青江に誰かの不幸せは願えないし、幸せにしてやるという気概も持てない。 沈黙を破るムーンリバー。 二言三言で立ち上がった彼は仕事が入ったので、と言う。その先に誰がいるのか青江はとっくに知っている。 「馬鹿」 だから青江はそう呟くしかないのだ。 「宗三くんの、ばーーーか」 *** 恐竜の見たゆめ 煙草が人生に必要不可欠になったのはいつからだろう。三日月はそんな、既に答えが出ているのも同然なことを考えてみる。少し遠くの賑わいから一人の生徒が外れて来て、だから三日月は座ったらどうだ、と言った。 「で、何だ?」 聞かれることは怖くない、と思う。いつもは澄ました顔をしている彼は昨日からずっとそわそわと落ち着かない。まさかこんなことになるとは思っていなかった。 本当に、本当に。 「聞きたいことがあるんだろう?」 「…一緒に仕事をした、他の事務所の人に聞いたんです」 「ああ」 「光忠さん、事故のあと暫く一緒に暮らしてた方がいたって」 彼は既にその答えを手にしている。 「先生、ですよね?」 「はは、なんだ。そうやって言われると何だか色っぽく聞こえるものだな」 改めて言葉にしてみると、なんとその箱詰めにしたような。 「俺は…そうだな、恐らく見張っていたんだ。光忠が獅子王の後を追ったりしないように」 獅子王のことを説明しろと言われると難しい。今でも上手い言葉が何一つ見つからないのだ。同じ大学の同級生、隣にいた男がやたらと上手い絵を描くので見入ってしまったのが最初。それから話が弾んで、一緒に広いアパートを借りた。オンボロだけれども庭付きの、創作には充分なスペース。獅子王は心の広い男で何にでも甘くて、いろいろなものを庭に招いてはその度に三日月をハッとさせた。 小鳥、野良猫、迷い犬、そして―――光忠もまた、そのうちの一人だったのかもしれない。 彼らが独立して事務所を立ち上げるまで、そのアパートで三人で暮らした。何かもが楽しくて、嬉しくて、満ち足りていた。 「…光忠の身体を見たことがあるか」 問いかけでなかったのは見たことがあるのだと知っていたからだった。以前光忠から、風呂で倒れていたところを助けられたのだと、その時に身体を見せてしまったと。その時は宗三はそこまで踏み込まないだろうと思っていたけれど。 彼は何を思ったのだろう。握り潰した果物のようだとか、そんなことを思ったのかもしれない。純真な学生には刺激が強かったことだろう。 「ひどい事故だったなあ。後続のトラックの運転手が引っ張り出していなければ光忠も一緒に燃えていた。トラブル続きで、二人とも疲れていた。運転していたのは光忠で、雪がひどかったから周りは止めたんだが、獅子王を家で休ませてやりたいって言ってな。いつもの光忠だ。何も間違ってはいない」 そう、間違ってなどいない。 「―――そして、積載量オーバーのトラックのスリップに巻き込まれた」 目を覚まして現実を認識した光忠は取り返しのないもしもを繰り返した。三日月はその横で、真面な言葉もかけられずにいた。光忠は不自由な身体で仕事にのめり込んで、三日月にそれを一人にしておく理由などなかった。 このまま、光忠まで失うのではないか。 あの事務所から仕事に通い、夜は仕事を手伝って。ただ、遺ってくれた光忠を失うのだけは耐えられないと思った。 「なのに、何故」 宗三の目は冷たい。彼はこういう時にこういう目の出来る生徒だった。そこを見込んだのだったが。 「離れたんですか」 「…獅子王の不在と向き合うことが、結局出来なかったから、だろうな」 笑う。 「二人でいるとどうしても三人でいた時のこと。思い出すだろう? 俺にとっても光忠にとっても獅子王の存在は大きすぎたんだ」 そのうちに三日月の中には渦巻く感情が形を作るようになって。 「アイツの後を追わせてやった方が光忠のためなんじゃないか、なんて思い始めてしまってなあ」 そう思ってしまったらもうだめだった。一度離れて冷静になって、体制を立て直さなければ、と思った。 「それで僕ですか? にしても、判断基準がよく分かりません」 「他人の煩わしい部分に深入りしないよう、上手く立ち回れる人間だと思ったからだろうなあ」 「…それ、褒めてます?」 「あまり」 それがまさか、本当にまさかだ。人の心なんて読めない。 最後に宗三に聞かれた。 「先生は、光忠さんのことは…」 「上手い言葉が見つからないな」 友達とも恋人とも違う、ただただ大事で、それだけだった。 「一生のうちの一番大事な時間を一緒に過ごして、同じ空間で同じものを食べて、同じ空気を吸って同じものを見て笑ったり泣いたりして、それは、もう、自分の…一部、みたいに思っていたのだろうな」 その答えに宗三が何を思ったのかまでは三日月が察するようなものではなかった。 観覧車に乗りたい、と向こうから呼ばれる。それに返事をして、三日月は歩き出した。 *** さよならの合図 バスルームで倒れている光忠を発見してベッドに運んで、やることがなくてただ何時間も空を見上げていた気がする。あの事務所から見る空は綺麗で、けれどもそれが獅子王の設計だと知っているから多分今はそう思えないのだろうけれど。我ながら最悪な思考回路だ。 呻き始めた光忠に、薬が切れたのかと思って大丈夫ですか、と声を掛ける。彼が無理に振り返って腕に縋り付いて。 「よかった」 言葉を零す。 「こわいゆめ、みてたんだ」 涙を零す。 「獅子王くん」 息も時も、多分止まった。 「よかった、そばに、いてくれ…て…」 目が合う。夢から覚める彼の瞳がみるみる透き通っていく様を見ながらどうして接吻けなんてしてしまったのか。 その時は 宗三は、生まれて初めてひとの心が潰れる音を聴いた。 自分が潰した音を聴いた。 *** 鈴虫と月 今、青江の目の前には宗三の忘れて言ったコートがある。 「夜、結構寒いのに…」 片手に掴んで窓を開けてみるが、当たり前だが姿は見えない。どうしてだろう、どうして彼はこう迂闊なんだろう。突然やってきて、また嵐のように青江の心を乱して行く。 「すまない、ライターを忘れたんだが」 そう言って入ってきたのはさっき宗三と一緒に来た同僚だという男だった。確か名前は長谷部。 「ライター…、ああ、これかな」 「それだ。ありがとう」 ついでにこのコートも届けてもらえば良いだろうか、と顔を上げて。 一瞬。 何故か言葉が出てこなかった。 「青江さん。…性に合わんから青江でいいか」 「まあ、ええと、別に。好きにどうぞ」 「腹減ってないか」 「え?」 コートのことを切り出し損ねる。 「俺は今腹が減っている。よかったら付き合わないか」 「でも…」 「ギャラの話もしたいしな。それともまだ出られないか?」 「いや、それは大丈夫だけれど…ええと、はい。そういう話なら、じゃあ」 「なら行くぞ」 話がトントン、と進んでしまう。主導権が全く見えない。 「上着取ってこないと、」 「もう持ってるだろう?」 そばとうどんどっちがいい、と聞かれながらそのコートを着せられる。宗三のコート。…宗三の、匂いがする。混乱のままにそば、と答える。 「美味いところを知っている。少し遠いから高速使うな。シートベルトしろ」 「え、あ、うん」 乗り込んだ車の助手席は知らない場所のはずなのに、宗三のコートを着ている所為で懐かしい匂いに包まれているようで。こくり、こくりと眠気がやってくる。安心が、寄せてくる。 そうして眠ってしまった青江が起きると、そこは長野県という事態に陥っているのだが、この時はそんなことになるなんて知る術はなかった。 *** 僕らの理想郷 長谷部が最低な鎌掛けをして来て流石に動揺を隠しきれずにコーヒーカップを落として割った。靴にコーヒーが飛び散り、破片が足元に散らばる。 「なら余計に分からんな。お前はほかに好きな奴がいるのに、何故俺たちを頑なにブロックしたがるんだ」 鎌掛けをしてきた張本人は煙草に火を付けた。宗三はあの煙草の香りが嫌いだ。 「青江さんの気持ちなんて俺たちにだって丸わかりなんだから、当のお前が気付いてない訳ないだろう?」 答えられない。 だって、ずっと、知っている。知っていて、断って、傷付けて、それでも大切にしたいなんて我が侭を言っている。 「それを突き放す訳でもなく生殺しのような真似をしておいて、他人にやるのは惜しいとなると…そういうふうにキープでもしてるのか? 本命がだめだった時に慰めてもらって、あわよくば、なんて魂胆なんじゃないのか?」 しん、と温度が下がる。他の職員ははらはらとこちらを見守っている。 「…なんですか、それ」 「もし光忠がだめだったら、その時は大事に大事にとっておいた手付かずの青江を頂こう―――とか、考えてないのか?」 「考えてるわけないじゃないですか」 「本当に?」 「ないです」 「言ったな?」 にやり、と長谷部が笑って立ち上がる。 「外出します。で、今日はそのまま直帰」 「ふざけないでください、何処行くんですか」 宗三もそれについて行く。 「言わずとも分かるだろう」 「分かりますがしかし敢えて問います」 後ろから仕事は!? という悲鳴が聞こえてきたが、終わっているので無視してよかったはずだった。 *** ホイップクリームといちごのミルク 散々物理的に絞められたあと、よろよろと宗三は三日月のもとへと避難して来た。 「いいんじゃないか? 紹介するくらい。見たところ好青年ではないか」 「好青年っていうか腹立たしいくらい顔が良いのが困るんですよね…」 長谷部はするりと輪に溶け込み、射的屋台の人を泣かせている。 「自称恋人のメモリー満載の携帯を海に投げ捨てるような男なんですよ」 「…大物だな」 「でしょう!?」 長谷部が青江の隣に立っているのを見るだけでざわつく。一応長谷部の名誉のために言っておくが、ヤリ捨てするような人間ではない、と思う。私生活ではぼーっとしているからすぐに捕まるのだというのは上司の言だ。 「いきなりそんな大物、青江には荷が重すぎると思いませんか。あっという間にぺろりと頭から丸のみですよ」 「…一応同僚なのではないのか」 「それとこれは別です」 そりゃあ、と宗三は声を落とす。 「僕はこんなこと言う資格ないのは重々承知で言いますが、青江には幸せになってほしいんですよ。軽い気持ちで寄って来るような奴に、ひっかかって欲しくないんです」 「ちょっと何を言ってるか分からんな。軽いかどうかはお前にどうやって測れる」 三日月のデコピンが宗三を襲う。 「なあ、宗三よ。お前が青江が大事で可愛くて、さっきのようにぬいぐるみを取ってやりたいというのも分かるが、これから毎年一生ずっと、全部の祭りで一緒にいてやれないのだったら、やはりお前には何も口出しする権利はないと俺は思うがなあ」 そんなことは分かっていた。分かっていて、それでも絶対タブーのもしもなんていう話を考えてしまうのだ。だから考えない代わりに、せめて、なんて。それだって、ただの自己満足なのに。 「…でもやっぱり長谷部はだめだと思います」 「宗三は厳しいなあ」 年頃の娘を持った親か、と言われてそうなれたらよかったのに、とすら思った。 *** 夏の残り香を焚べる 浴衣を着たのはただ宣伝やら何やら、お祭りアピールがあった方が捗るからというだけだった。仲間には好評だったし、骨喰の分も見繕ったりして楽しかったけれど。宗三さんはもうすぐで着くらしいですよ、と鯰尾が言う。三日月が流石仲間はずれが嫌いなだけあるな、と続ける。でも多分、花火には間に合わない。 ひゅる、と上がった花火の合間を縫うように、走ってくる影。 「麻雀どうしたんですか」 「そんなものバックれてきましたよ」 花火の音がする。 「青江」 久しぶりですね、と近付いて来た宗三がそっと、笑う。 「浴衣似合いますね」 耳に残る、大きな音。 多分きっと、この一言が聞きたかった。浴衣なんて特別じゃない、そんなふうに思っていてもきっと彼が来るお祭りの日に着るという行為は特別だった。何を着るのか選んで着付けをして、下駄も選んで髪も整えてもらって。店のためだけじゃない、宗三が何か一言でも、言ってくれたらと願って。 ほんのすこしだけでも、彼の心が、傾いて来てはくれないか、なんて。 どうして夢なんて見てしまうんだろう。 「青江?」 骨喰が手を伸ばして来る。 「大丈夫か?」 「大丈夫」 「…花火、綺麗だな」 「うん」 繰り返し、繰り返し、飽きもせず。これじゃあ馬鹿のひとつ覚えだ。 シソの茎が折れた時のことを思い出す。折れたところは千切ってやればそこからまた新しい葉が顔を出す、植物はそうして生きている。それを知っているのに青江はもしかしたら上手くいくのではないかと、添え木をしたのだった。数日後、シソは自分の重さに耐えかねてだめになっていた。 同じだ、と思った。 折れたところで千切って、そこでちゃんと区切りをつけて新しく枝を伸ばせば良かったのに。それでも青江はまだ迷うのだ。どうしようもなく、心の中に彼を住まわせたまま。 *** 犬 寄ってきた犬を抱き上げて、青江は可愛いねえ、と笑う。それから宗三の方を振り返った。 「宗三くん。この子は人間でしょう?」 「…よく覚えてますね」 「インパクトあったからね」 二年生だった頃、宗三が言ったことだ。犬には二種類しかいない、前世人間だった犬と、前世も犬だった犬。見分けるポイントは顔。 正直、青江に言った時のことよりもずっと、光忠に言った時の彼の表情の方が焼き付いて離れなかった。素直でいてくれ、と思う。悲しみに潰れそうに、何かを期待するように、もういない人間を探すような目をして欲しくない。 「あれ、嘘ですよ」 「分かってるよ。でも面白いよ」 「そうですか?」 「うん、それに、結構当たってると思うし」 この子なんは人間だね、と青江は言う。 「…そう、でしょうか」 「そうだよ」 「それ、哀しくないですか」 「哀しいかもね」 でも僕は好きだよ、と続ける青江にどうして、救われたような気分になってしまうのだろう。 *** 天秤の憂鬱 骨喰が寝込んでから数日が経った。三日月によれば昔からこういうことはよくあったようで、知恵熱みたいなものらしい。 「この前、骨喰は鶴丸と二人で買い物に行っただろう」 「ああ、ありましたね」 誰も手が離せなくて、でも骨喰には欲しい画材があって。でも一人じゃあ持てない量で。なら一緒に行くと言い出したのは鶴丸だった。鯰尾はそれを横で見ていて、何も言わなかった。 「あの日、帰ってきて俺に言うんだ。楽しくなかった、と。今まで見たことのないような顔で、ずっと早く帰りたかった、と。トイレに行きたいことも言えなくて、目の前だと食事すら真面に出来なかった、と。だから嫌だった、と」 目に浮かぶようだ。 「………馬鹿だよなあ、そんなの、好きだからに決まっているのに」 思い出すのは、出会ってからの骨喰の自由な行動の数々だった。骨喰が自分の前では自由にしてくれるのか嬉しくて、密かな誇りでもあった。目の前でプリンを美味しそうに頬張る姿がとても、愛おしくて。 一緒にいて何も出来なくなるような、胸の詰まる苦しい気持ちを恋と呼ぶなら、ああ、と思う。 ―――俺ばかりが、恋をしていた。 *** くじらの墓 船酔いに苦しむ宗三を見て青江は笑う。あれで自分はしっかりしてると思ってるところが手に負えないよねえ、と。それを見て思うのだ。 「…やっぱ分かんねーな…」 こんなことは当人の自由で、それこそ鶴丸が口を出すようなことではないのだけれど。 「なんだってあんなやつをまだ好きなんだ?」 「だめだって言われたからって、ハイそうですかってそんなあっさり嫌いになれたら苦労はしないよ」 「…まあ、それもそうか」 「うん。こういう気持ちって付き合う対象になれないって分かってもさ、しゅるんって消えてなくなってくれるほどヤワじゃないみたいなんだよねえ」 青江は黙っていた鯰尾の視線に気付いたらしかった。 「僕って格好悪いね」 「…いえ、そんなこと、ないと思いますよ」 顔を逸らした青江にじっと俯いた鯰尾。鶴丸に掛けられる言葉はひとつとしてなかった。 *** 20181108 |