それが君との縁(えにし)でしょう 歌さに 歌仙兼定には一つ、刀剣男士としての身体を持つより前につよく、心というものに刻み付けられた記憶があった。 道具は百年経てば精霊を宿す。その姿形は最初こそは不定形であるものの、九十九年を経て得た心というものはどんな道具にとってもひどく大切で美しいものだった。最初こそは剥き出しとも言えるそれに戸惑い呻いたものの、御することが出来るようになってからはそのつぶさな動き一つひとつが愛おしく感じたものだった。しかしそれも道具であるからか、多く向けられる先は人間であり、人間の目に映ろうと試行錯誤している間に人間の生命というものは終わっていくのだった。 通じ合えないことを悲しいと思ったことはない。人間とはそういうものだと歌仙兼定は理解していた。短い生命だからこそ脈々と、例えばそこに自分たちのような道具を介して続いていく、それを美しいと思った。美しいと受け取った。通じ合えないからこそ得た心で受け取るすべてを歌仙兼定は愛でようと決めたのかもしれなかった。 「相変わらず雨男なのね」 その時代、既に刀剣は武器というよりも美術品や文化財としての側面が強くなっていた。その中で何がどう動いたのかは知れないが、日本刀というものの人気がやけに上がった時があった。今までも特別展という形で人の目に触れることは勿論あったが、今こそ乗るべきだと何処もこぞって日本刀を全面に押し出したのは久しぶりだったと思う。人間が作る流行というものはものである歌仙兼定には分からなかったが、それでも再びまた人の目に触れ、溢れんばかりの愛を注がれるのはものとしてこれ以上ない喜びだった。 その中の、一人だ。 まるでずっと前から歌仙兼定のことを知っているように、呟いた人間がいた。 「私はまだ貴方に出会っていないけれど」 ならば何故そんなことを言うのだろう。 人間の目はとてもやさしい色をしていた。こんな戦いの道具であるものを見に来るような人間には思えなかった。そもそもその時代は太平の世であったし、戦いというものも歌仙兼定が刀として振るわれていた頃とは大分様変わりしていることを話だけではあるが知っていた。 だからこそ、その目をよく覚えていた。忘れることが出来なかった。既に明確な形を持った心に強く、何故、と灼き付いた感情は決して悪いものではなかったけれど。 人波に流されてその人間はすぐに歌仙兼定の前から消えてしまった。 それ以来、その人間を見ることも、その人間と同じような目をする人間に会うことも、なかった。 人の世は流れるのがはやい。 人のする戦いがその時分よりも更に形を変え、過去なんてものに干渉するようになった頃。歌仙兼定を始めとする多くの刀剣の付喪神が審神者なる者によって励起され、刀剣男士として身体を持ち、時間遡行軍なるものと戦うようになった。戦いであるからして日々を安閑と過ごすという訳にもいかなかったが、元々が武具である故に多くは戦いの場に出られて嬉しく思っているようだった。歌仙兼定とてそのうちの一振りである。 痛みも悲しみも、時には怒りさえあった。渦巻く心に翻弄されることもあった。それでも人の身に下りたことによって出来るようになった細やかなものが、それらを凪がせていった。呼吸、食事、畑仕事、季節の移ろい―――目に映る一つひとつがきらめいて心を潤わせていく。 そんな満ち足りた日々の中でも、いつか見た忘れられない目は歌仙兼定の心に色褪せることなく宿っていた。本体の記憶だと、此処にいる歌仙兼定は本体ではないのだと言われてしまえばそれまでだろうが、宿っていたからこそ自らを一番初めの刀として選んだ彼女に思ったのかもしれない。 ―――嗚呼、 ―――似ている。 あの人間の目には到底及ばないけれども、彼女が将来的には同じような目をするのではないかという期待を抱いた。とても淡いものだった。淡いものだったからこそ歌仙兼定は彼女に自身の思い出を語ることはしなかったし、将として立つその小さな背中を支える一振りであろうとした。 そして一つ、約束をした。 彼女が審神者でいる間は決して違えないと、かたく誓ったものだった。戦いには関係のない、重要性もない、ただの日常の延長線上で。 視界の端で傘が揺れる。 「…待った?」 万屋の軒先でおつかいの品を抱えながら、歌仙兼定はため息を吐いてみせた。 審神者である彼女と約束した、ただ一つのこと。 おつかい先で雨が降ったら、彼女が迎えに行くまで待っていること。 いい加減効率が悪いとは思っているし、例え万屋までの距離であろうとも護衛も付けずに主を一人歩かせるなんて真似はさせたくないのだが、彼女がそう言った理由も原因も分かっているから何を言うこともしない。しないけれども彼女には歌仙兼定の不満が伝わったらしく、くすくすと抑えた笑い声が聞こえた。 「雨が降るからこうして迎えに来れるのでしょう」 「…一緒に出るのではいけないのかい」 「一緒に出たら雨は降らないでしょう?」 「別に、僕は、雨男な訳じゃない」 彼女に言われたことはなかったが、あの人間の言葉が未だ残っている歌仙兼定には何ら不思議ではない言葉の選択だった。が、それを知らない彼女にとっては違ったらしい。自覚があったのね、と言われてこれではまるで墓穴を掘ったようだ、と少しばかり眉間に皺を寄せた。 歌仙兼定が一振りで万屋へと出掛けると、雨が降る。 それは同じ本丸の刀剣男士ならば知っていることだった。勿論、それを望んで指示を出す彼女も、また。 彼女が傾ける傘に入る。傘を持つことを譲らない彼女の肩は、いつだって帰り着くまでには濡れている。おつかいの品は片手で持てるものだと言うのに、妙なところで狷介な彼女に任せる以外にはない。 「ねえ、」 ゆっくりと歩き出した彼女は雨の音に紛れそうに呼びかける。 「なんだい」 「傘は結界だと聞いたことがあるわ」 「………結界だからと言って何をしても良い訳じゃあないよ」 「そうね。貴方はそう言うと思っていたわ」 でもね、と彼女は笑う。 「触れるくらいは許されるのではなくて」 恋をすることを禁じていた訳ではない。禁じられていた訳でもない。 ただ、彼女にはそれが重荷になるのではないかと歌仙兼定は案じていた。例え、この審神者という仕事が期間限定のものであり、人間が道を踏み外さぬよう配慮されているのだとしても。任期が終われば審神者をやっていた期間の記憶は消えてしまうのだと、そう知らされていても。 歌仙兼定は過ぎゆくものだった。今まで人間が歌仙兼定にとってそうだったように。 「君が、そう望むのなら」 傘の柄を握る手は冷えていた。 「そこでいつものように主、でもなく、だからと言って名前で呼ぶ訳でもない貴方だから良いのでしょうね」 明日の東京の天気は曇りのち晴れです 審神者という職業は戦争をしているということが公になっているからか、一般公募がかかっている。にも関わらずその内容を知る者は少ない。何故なら政府関係者でもない限りその内容についての記憶は任期が終わり次第消去されるものであるからだ。故に審神者になるに当たって最初の説明されるのは、これから機密を話すことになる、ということであり、その次には記憶修正同意書にサインをすることになる。これを拒否すれば説明すらしてもらえないという徹底ぶりだ。そうして幾つかの審査をクリアして審神者になり、任期を終えれば今度はその任期の間中の記憶も消去される。 何故此処まで徹底しているかと言えばそもそもその戦争をしているのが未来だから、らしい。未来の戦争にどうして過去の人間を起用するのかと問えば、単純に才能の問題なのだと返された。勿論、未だ審神者としての契約を結ぶ前の質疑応答であるからして、所謂勧誘係であるらしいその人が何処まで真実を話したのかは分からないが。 というのを何故知っているかというと、つい先日まで審神者をしていたからだった。最初期の、ほぼ試運転のような契約をした私の任期はたった一年で終わった。望めば任期の延長も出来ただろうし、政府もそれを望んでいただろうが私にはそれをすることは出来なかった。 戦いがだめだった訳ではない。刀剣男士たちとうまくやれなかった訳ではない。体調も良好であるし、家庭の事情もないし、敵方に目を付けられて…なんていう理由も存在しない。それでも、私は任期を延長することは出来なかった。 本来ならばこの記憶はすべて消去され、記憶消去がどのようなものかは分からないがもしかしたら消えた一年分の記憶に私は戸惑ったり、訝しんだりするのかもしれなかった。それが正しい姿なのだとは分かっていても、現実は違う。 私には、一年間審神者をした記憶が、そっくりそのまま残っていた。 平たく細かい階段を登る。昨日調べた時点では晴れると聞いていたのに、辺りはバケツをひっくり返したような土砂降りだった。駅で下りてすぐのコンビニで買った傘は透明で、何の繊細さも見て取れない。こんなもので会いに行けば怒られるかもしれないな、なんていう夢見がちな考えを振り払ってまた一歩、踏みしめる。雨の入り込んだ靴がぐちゅり、と音を立てた。まったく、ちっとも雅じゃない。 そうしてやっとのことで辿り着いた場所はとても静かだった。 きっと二百年後まで、彼は此処にいるのだろうと思ったら涙が出そうになった。 「相変わらず雨男なのね」 話し掛けても刀剣はものを言わない。これは確かに歌仙兼定だけれども、此処に共に過ごした歌仙兼定はいない。 分かっていた。 分かっていた。 それでも一目、見ておきたかった。 「私はまだ貴方に出会っていないけれど」 それ以上は、もう、言えなかった。 人間というのは歌仙兼定にとっては過ぎ去るだけのものだ。歌仙兼定がこれから残っていくだろう年月を、人間は共に生きることは出来ない。 ―――それでも。 それでも、あれは、きっと恋だった。 暫く人波に揉まれながら眺める。何処でブームが起こったのか知らないが、大雨だと言うのに大盛況だった。きっと人に愛されることを大切にしている彼ならば、これを喜ぶのだろう。 未来の記憶を過去の人間が持っている訳にはいかない。私のこの記憶は、必ず消されなければならない。だからその前に一度だけ、記憶の残る私のままで彼ではない彼を見ておきたかった。これで、もう、未練はない。 担当に連絡をして、記憶が消えていない旨を伝える決心はついた。一度でも彼の主として立った身として。 「さようなら、歌仙兼定」 この言葉は有象無象の人間の一でしかないだろうけれど。 「愛していたよ、愛しているよ」 願わくば、彼の心の一になれるように。 20170131 |