いつかきっと私は貴方を自分の手でかえすのでしょうね。
 そう言ったおんなが一体どんな顔をしていたのか、鶴丸国永には分からなかった。


君のいない世界がこれからやってくるから つるさに

 鶴丸国永がこの世界で目を開けてから、そう長い時間が経った訳ではないのだと思う。だと言うのに随分過ごしたような気がしてしまうのは、その一日一日が濃密だと感じたからだろうか。そもそもこの身体になる前の記憶、なんてものは歴史書をなぞるようなもので、自分自身のものかと問われれば少々首を傾げてしまうようなこともあったが。それでも鶴丸国永≠フ記憶には違いない、とは思っていた。其処から知識を引き出すことも当然のようにやってのけたし、それを何か他のものの記憶、と感じたことはなかった。上手く説明は出来ないが、鶴丸国永にとってこの身体での生は、その記憶の上に透明な何かをかけて、うっすらと覗き見ながら進めていくもの、のように感じられていたのかもしれない。透明な何かの上にある鶴丸国永はこの鶴丸国永だけであって、他の鶴丸国永とは一切を共有してはいない。同じ本を読んでも胸に残る一文が変わるように、まったくもって同じものなど何処にもいないのだろう。
―――だから、という訳ではないけれど。
鶴丸国永は、恋なんてものをしたのだと思う。
 己の、主に。自分を顕現させた審神者に。
 穏やかな陽の光が窓から射し込んで、一輪挿しを照らしている。今日の花は誰が決めたんだろうな、と少し思考を紛らわせてから、自分の喉に明るいものがちゃんとあることを確認して、それから口を開いた。
「なんだ、今日はやけに悲観的なことを言うんだな」
鶴丸国永の主であるおんなは、布団の上に身体を横たえていた。ここのところ調子が悪かったのを、やっと休ませてやれた、というのが実のところだった。仕事はある、というおんなに必要最低限、審神者の承認が必要なものだけをやらせて、あとはこっちに回せ、と取り上げたのが昨晩のことだった。今日一日くらいは大人しく寝ていてくれるだろう。
「悲観的?」
「違うのか? 君の声を聞いていたらそうなのかと思ったんだが」
「せめて内容を聞いてちょうだい」
「聞いてるさ。聞いた上で声もちゃんと聞いてる」
この、気持ちが。
 例え正しく伝わっているのだとしても、そして、同じ気持ちを返してもらっているのだとしても。
 隣にいられることはきっと嫌がられるだろうので、ちゃんと距離を取っている。というのにおんなはそれでも気に入らないらしく、鶴丸国永が部屋に来てから一度だって体勢を変えなかった。
「人間の始めたことだから、」
おんなは、鶴丸国永の方を見ない。
「直ぐに終わるのでしょう…それが、例え、人間にとってはひどく長いものであっても」
「…それは、俺たちにとっては短いものってことか?」
「さあ。鶴、貴方はどう思う?」
「どうだろうなあ…君がこんな伏せがちになってしまって、俺は結構………そうだな、心配しているのだと思う」
「退屈、の間違いではなくて?」
「おいおい、主には俺がそんな冷たいやつに見えてたのか? 悲しいな」
こんな遣り取り、初めてでも何でもなかった。だから不満を持つことはないけれど。
 少しずつ変わってきたものに不安を抱くことくらいはするのだ。
「伏せがち、なんて」
馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりの声が返ってきて安心する。いつか、この遣り取りを他の刀剣男士に聞かれたときには悪趣味だ、と言われたこともあったけれど。どうあっても真面目でしか在れない主と鶴丸国永では、この程度がちょうどいいのだ。
 言葉だけでは足りない、けれども触れ合うことを多くする訳にもいかない。禁欲している訳ではなかったけれど、審神者の仕事というのは忙しいことを鶴丸国永だって知っている。…当然、他の本丸より仕事が多く回されていることは分かっていたが、それは主が承諾していることだ。主の刀剣男士もそれを把握している。当然、鶴丸国永も。だから健康について憂慮することはあれど、上に文句を言うようなことはしない。
「そんなことはないのよ」
「何処がだ、君が新人だった頃は大型任務のあとであっても寝込むことはなかった」
「歳をとったとでも言いたいの」
「そうじゃあ、ないが………」
そこまで言えるほど、おんなが年齢を重ねていないことを鶴丸国永は知っていた。語尾が消えていくのは、それ以上続く言葉がなかったからだ。言うべき言葉がなかったからだった。
「………それだけ、力を使うようなものになってきた、というだけの話よ」
「…分かっているさ」
おんなが審神者になった頃と、状況は変わっている。おんなはもう新人とは言えなかったし、中堅かそれ以上として扱われているからこそ、多くの仕事が回される。多く仕事をしているからこそ、この本丸の地位はそこそこ高いものになったし、おんなも審神者として優遇されている、のだと思う。
 でも、分かっているからと言ってすべて飲み込める訳でもないのに。
「人間だもの」
鶴丸国永の思ったことを察したのか、静かな声がする。
「緩やかに朽ちていくことが許されるだけ、幸せだと思わないと」
「その言い分じゃあまるで君、現状を幸せだと思っていないみたいじゃないか」
「そうね。…貴方がいるもの」
「………その言い方じゃあ、俺が嫌われているみたいだ」
 沈黙は、なかった。
「まさか」
少し笑うような気配がする。可笑しなことを言った、そんな様子で。それでも空気が緩むようなことはなかった。
「貴方は私の刀剣男士なのに」
「そう言うわりには俺の方を見ないじゃないか」
「こんな弱っているところを見られるのが好きじゃないの」
「君が弱りきっているからこそ、俺は此処にいるのに?」
「余計なお世話、とでも言えば良いの?」
どうせ―――此処には鶴丸国永しかいないのに。
「なあ、君、」
 いつもこうだった、こういうものだと分かっている。それに文句はない、けれどもこんな状態のときくらい、と思うことは仕方ないとも思うのだ。
「別に、俺と駆け落ちしてくれと言っている訳じゃあないんだぜ」
「そんなことを言っていたら刀解していたわ」
「おお、怖。………君の、その苛烈なまでの真っ直ぐさを、愛しているから…弱いところも見ていたいし、支えたいんだ」
「言い分は分かってるわよ」
「言い分って、君、なあ…」
流石に言い方が悪かった、と思ったのか、やっと肩が気まずそうに揺れた。別に気まずくなって欲しかった訳ではないけれど、変化があるのは正直、嬉しい。
「………貴方を、疑ったことなんて、一度もない」
「俺だって、疑われてるなんて思ったことは一度もないさ」
「貴方の言葉だって、ちゃんと、受け取っているつもりよ」
「分かってる」
「私は………ひどく、そういうことが下手だけれど、貴方に甘えないように、これでも努力…しているつもりなの」
「伝わっているよ」
だから、振り向いてくれたって良いのに。
 その背中は動かない。
 動かないことを、きっと鶴丸国永は知っていた。
「私は、」
知っていたけれど、何か変わるのではないか、と口にしてみたのだろう。失意のようなものはない、ただ、そうとしか在れない姿をずっと見てきたのだから、今更それに何かを言うことは出来なかった。
「貴方をちゃんと、かえしたい」
「君に出来るのか」
「出来なくちゃ、私は審神者だもの」
「…ああ、そうだな」
審神者という生き物ではないのに、そうであろうとするおんなの姿を、その灼きつくような生き様を。鶴丸国永は見て、胸を打たれたのだから。
「許されないだとか、そういうことじゃあないの」
「ああ」
「貴方をただの刀に戻して、依代だけの存在にして落ち延びることは、確かに禁止事項でしょうけれど、そうじゃあない」
「ああ」
「私が、そうしたくないの」
 横になっているのに、その声は鐘を撞くようにはっきりしていた。
「貴方に出逢えたのが私が審神者だったから、なら」
それだけ、おんなの中で、鶴丸国永の存在がはっきりと刻まれているのだと、その証明だろうのに。
「私はさいごまで審神者でいたい」
やはりせめて、振り返ってはくれないかと、思ってしまう。
「そう思うのはいけないこと?」
「―――いいや、」
 でも、首を振ることは出来た。
「そういう君だからこそ、俺は君が好きになったんだ」
「…そう」
「…なあ、君、」
「なに」
「好きだから、せめて、手だけでも俺の方に貸してはくれないか」
君があたたかいのを確かめておきたい。
 そう言ったらやっと折れてくれたようで、後ろを向いたままだったけれど手が伸ばされた。
 力のあまりない手首が、光の道へと晒される。
 その手首に一つの傷もないことを、本当は後悔すべきなような気がしたけれど、結局この£゚丸国永はそんなこと出来ないのだから、これで良かった。



ゆるやかに滅んでいくよ木もれ陽の中で手首を乾かしながら / 黒木うめ



20210512