春すぎて 

 私は蜘蛛だったんだよ、と男は言った。まるで五百旗頭のことが見えてなどいないかのような遠い瞳に、今更何を言うこともしない。こんなことには慣れきっている、いつものことだ。勝手に人を壁か穴かそんなようなものに見立てて仕立て上げて、そうして気分よくなっていくのだ。
「でも、もう駄目なんだ」
「何がですかい」
「蝶に食べられてしまったから」
「…それは」
これは、言葉を続けて良いところ、であるのだろうか。
 分からない。
「逆なんじゃないですかい」
「いや」
男はやっと此方を向いた。
「あっているよ」
 けれどもその目に五百旗頭は映っていない。
「君も気をつけると良い」
きっと食べられてしまえばそれはもう君ではないのだけれど―――今は、と男の手が伸びてくる。
「あの美しさの一欠片となってしまうのも悪くはないと思うから」
 花の、香り。
「イオキベさん」
声がする。
「記事にしましょう」
目の前には首を吊ったような男が、季節外れの蝶にたかられながら揺れていた。
 その頬に笑みが乗っているように見えたのはきっと、この暑さで見た白昼夢の所為なのだろう。



20221201