sheep 仏ジャン

 あの瞬間。
 俺が何も出来なかったあの瞬間のことを、俺はきっと、俺という存在が終わるまで、忘れない。

 その村に寄ったのはただの偶然だった。ただ人の目から逃れたくて、静かな教会へと足を踏み入れた。何処もかしこも戦ばかり。勝ち負けに関わらず、そうなっていれば国が本体である俺への影響は少し、ではない訳で。
 少し、休みたかった。神の形をした像を見上げる。
「―――かみさま?」
澄んだ、声がした。
 振り返る。そこまで疲れていたのだろうか、人の気配に気付けないなんて。そう思いながらだるく振り返る。其処にいたのは一人の少女だった。そこで、はた、と思い出す。今、俺は姿を消していたはずだ。
 国の化身という存在故か、俺はその姿を消すことが出来る。その理由を俺たちは詳しくは知らなかったけれども、戦なんてものが始まってしまえば化身を血祭りに、なんて考えはどの国の人間でも持つもので。これまでの歴史の中でも、表の歴史に出ないだけで捕らえられたり、火炙りにされたり食べられそうになったり、まぁ、いろいろあった。そういうものを避けるためにも、こうした自分の時間は、殆ど姿を隠していた、のだが。
「…俺が、見えるのか」
「はい」
真っ直ぐな瞳が向けられる。
 こんなひどい世界で。きらきらとまるで希望の光だ。そんなものを宿す少女がいたことに、俺は正直言えば驚いた。
「神様なのですか?」
「いや。残念ながら違うよ」
俺は笑う。神、だなんて。きっと、そいつは俺とは正反対なのだろう。嘲笑にならなかったのは、その少女の清らかさのおかげだった。彼女の夢や希望を、嘲笑うなんてことはしたくなかったから。
「けれど…」
 彼女は口ごもる。真っ直ぐな視線は変わらない。笑わないよ、言ってみて、とやさしく促せば、天使が、と返された。
 天使。
「貴方様には、天使がついておられます」
「…そう、なんだ」
そういう奴を知っていた。だから彼女の言うことに驚くことはなかった。
 彼女の言葉の中に驚いたことがあるとすれば、天使なんてものが俺についていたということで。そんなものがついていてくれるほど、俺はきれいなものではないと、そう思っていたから。
「…あの?」
不安そうに、少女は俺を見つめる。
「うん、そうか。天使か」
「その、すみません。変なことを」
「どうして? 本当のことなんだろう?」
 そう返せば、少女がほっと頬を染めたのが分かった。立ち上がって、近付いていく。
「俺は神様じゃないけれど、人間でもない」
そっと、秘密を打ち明ける。
「俺はフランス―――この国、そのものだ」
 恐らく久しぶりに、とても久しぶりに。やわらかい笑みが頬に乗った。

***

I'm not GOD 仏ジャン

 嘘だって言ってくれよ。
 そんな言葉も喉から出ないまま、俺は走っていた。あの子が、裁判にかけられる。しかも、異端審問だって? そんなの、死刑確定と言われたようなものじゃあないか。
 あんなに、あんなに。神を信じているあの子が、そんなはずがないのに。
「騙す気なんだ」
あの子の元へと差し出された文書を読んで、俺は憤った。
「私が無知だからですね」
「そんな訳…ッ!」
あの、戦いぶりを。
 祖国を守ったあの戦いぶりを間近で見ていた俺に、そんなことは言えなかった。しかし、彼女は首を振る。
「文字も読めないような小娘………馬鹿にされて当然です」
笑ってみせる彼女に、笑っている場合じゃないと怒鳴りたい気分だった。泣いて良い、君は今、馬鹿にされていることに憤って良いんだと。
 でもきっと、彼女はしない。
「嘘を吐いて良い」
助けたい。馬鹿な俺の頭にはその考えしかなかった。
「君が、君の誇りを曲げても良いと、そう思ってくれるなら。俺は、君に嘘を吐いて欲しい。異端だと認めるこの文書に、署名をして欲しい」
 きっと、神ならそんなことは言わない。俺は神なんてものがどんな奴か知らないけれど、きっと彼女の頭を撫でて、よくやったね、もうかえっておいで、そんなことを言うんだろう。奴らは薄情なやつだから。
 でも、俺は神じゃない。かえっておいで、なんて薄情なことは言わない。
「…貴方も、我が侭な方ですね」
彼女は笑った。それは彼女が俺と顔を合わせてから初めてする、泣きそうな顔でもあった。
「かえろう」
その手を取る。
「かえろう。一緒に帰ろう。君の故郷へ、俺たちの国へ」
「泣かないでください、私の神様」
 俺の目の下を拭った彼女の手は、さらさらと署名をした。きっと、明日にでも彼女は戻れる。あの、俺たちが出会った小さな村へと。
「髪も伸ばそう」
「短い方が落ち着くのですが…」
「せっかく綺麗なんだから。一度伸ばしてみて?」
「貴方がそういうのなら」
「そしたら俺が、君にいっとう似合うドレスをつくるから」
 そんな子供のような未来の約束が、この上なく幸福だった。

***

 現実というのは残酷だ。

kiss me , my GOD 仏ジャン

 言葉を失うしか出来なかった。偉そうな男がにやにやと彼女の反応を心待ちにしている。そうですか、と彼女は言った。その表情はひどく凪いでいて、男の癪に障ったようだった。ぱん、と乾いた音と共に彼女が床に倒れる。急いで駆け寄って男を睨みつけるしか出来ないのが、ただ悔しかった。
 此処で国の化身が姿を現してみろ、僅かに残った理性が、国民を思う気持ちが歯止めを駆ける。すべてが台無しだ―――そう思う傍らで、彼女だって国民なのに、と思った。こんな小さな身体で、矢面に立って、この国を救うため奔走した―――大事な、国民なのに。
「間違っていると、言ったじゃないか」
 男は汚いものでも見るように立ち去っていった。
「そうですね」
「あいつらの望み通りに、認めてやったじゃないか」
「そうですね」
戦争がそういうものだと分かっていたはずだ。彼女は今や国の主要人物だ。その尊厳を根こそぎ奪い、異端だとし、穢し…そうして彼女を殺すのだ。もう二度と、白百合に光が灯らないように。
「泣かないで」
細い指が、傷だらけの指が頬を拭っていく。
「貴方に泣かれることが、私は何よりも辛いのです」
 たった、十九年生きただけなのに。
 二日後に死を宣告された少女は、気丈に笑って見せた。
「私が間違っていないことは、貴方が知っています」
「でも、」
「貴方が知っているということは、貴方の国民も…私の愛した彼らも、知っているということです」
「でも…ッ」
どちらが子供なのか分からない。ただ、涙が止まらない。何も、出来ない。今誰よりも彼女の傍にいるのは自分なのに、こんな霞のような姿を隠して、彼女を困らせるだけで。
「私だけの神様、」
 顔を上げれば、彼女の瞳は最初に会った時と同じように輝いていた。
「貴方に、接吻けすることは許されますか?」
 頷くことしか出来なかった。かさついた唇の感触が、ずっと額に残っていた。

***

弱い私を赦して 仏ジャン

 広場には多くの人が集まっていた。彼女の死に様を見るために。魔女の死に様を、敵国の異教徒を辱めるために。
 遠くに彼女の姿が見えた。これは重要な儀式なのだろう。イギリスまで姿を現して彼女と言葉を交わしている。周りの兵士は国の化身に魔女が話し掛けるなど、といきり立っていたがイギリスがそれをとどめたらしい。それでも、彼女は救われない。例えイギリスと何を話そうと、彼女に待つのは死、だけだ。
 そうして広場の真ん中に連れて来られた彼女は凛としていた。誰よりも美しかった。兵士が彼女の罪を読み上げる間、彼女が始終辺りを見回していた。その表情が徐々に強張っていく。
―――やっぱり、怖いんじゃないか。
そう思いながらもぎゅっと唇を噛み締めるしか出来なかった。此処で走り出してもきっとイギリスはこちらを捕らえるような真似はしないだろう。国の化身、それぞれが戦に干渉することは基本的にはあってはならない。それは俺たちの身体に意識に刻まれた何かだった。
「神様!」
 甲高い、声がした。兵士の声を遮って彼女が叫んでいる。
「神様! 神様!!」
兵士が黙らせようと殴っても、彼女は叫ぶことを止めなかった。泣きながら叫ぶ少女に観衆は下卑た笑いを漏らし、石を投げ早く死ねと騒ぐ。
 俺は行くことが出来なかった。
 だって、彼女が求めているのは神≠セ。俺じゃない。
「神…さ、ま…!!」
悲痛な声が突き刺さる。どうして、俺を求めてくれないのだろう。
 助けられないから?
 ならば神ならば彼女を助けられるのか?
 兵士たちは面倒だと感じたのか叫び続ける彼女を木にくくりつけ始めた。彼女は抵抗こそしなかったが、それでも尚叫び続ける。神様、神様、神様、煙を吸いながら、咳き込みながら、涙を流しながら、それでも叫ぶ彼女は。
「来てくださらないのですか…? 私の、神様…!! 私だけの神様!!」
 思わず走り出す。
 彼女が呼んでいたのは神≠カゃない。
 神≠裏切れと言った、彼女一人救えない、俺だ。
「ジャンヌ」
「…ああ、私だけの神様。来てくださったのですね」
火は熱くなかった。頬に手を伸ばすと彼女は幸せそうに笑った。こんなことが幸せだなんて、もっと、他にあっただろうに。
「もう、何も望みません。すべてを委ねます」
 つきものが落ちたように静かになる彼女に兵士たちがほっと息を吐いたのが見えた。諦めたのだろうと思っているのだろう。違う、彼女は最初から諦めていた。死ぬことが怖いくせに、怖くないなんて言っていたのだ。もう、それから逃げられないから。
「最後まで見ないでくれますか」
「ああ」
「私は私の死体が辱められるところを貴方に見て欲しくはないのです」
「分かった」
「ああ、神様、そんな顔をなさらないで」
どんなひどい顔をしているのだろう。
「私は幸せでした。だから、出来れば、何も恨まないで。そして、どうか、私たちの国を―――お願いします。私だけの神様」
「…努力はするよ」
「ありがとうございます。………神様、愛しています」
それが、最後の会話だった。
 観衆から抜けていく俺を追う者はいない。背後からまた歓声があがって、彼女が死んだのだろうと分かった。どれだけの仕打ちを受けても、きっと彼女は赦すのだろう。とても、優しい子だったから。
 けれど。
「なあ、俺は赦さなくても良いよな、イギリス」
 瞼の裏には、あの子の笑顔が灼き付いていた。



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20150308
20170306