糸を編む 梶中 静かな夜だった。月も出ていない。こんな夜にもきっと基次郎の友人―――まあ、友人、でいいだろう―――は悪戯を覚えたばかりの童のような表情でやって来るのだ。それを基次郎は知っているし、そうであれば良いと願っているのかもしれない。 「…中也さん」 「手前、やっぱり背中に目でもついてんじゃねえのか」 「真逆。中也さんほどではありませんよ」 「………」 中也はどうしてそんなことが言えるとばかりの微妙な表情をしたが、それ以上は何も問うてこなかった。基次郎もただの言葉遊びの体で言ったので、何を続けることもなかったのだが。 この関係に名前をつけたことはない。周りのものは友人、というがそれにしては中也の、基次郎の中に占める割合はひどく多いような気がしていた。まるで薄氷(うすらい)のように纏わりつく。重い、と思ったことはない。恐らく重いものだろうに。普段はあることすら忘れるほどの中也は当たり前のような顔で、基次郎に言う。 ―――此処にいろ、と。 此処が、お前の糸の先だと。 基次郎は風船のようなものに彼には見えていたのだろう、月に帰れないかと呟いた際に今は無理だと言ってのけた彼の言葉に強制するようなものはなかった。そう信じているだけの言葉、それは基次郎の中になかったもの。隙がなさそうな男が、遊んで回っているような男が、一心に糸を童のように握っている。それだけが正しいことのように、握っている。それはまるで降り止んだばかりの雪原に、凍るような冬の空気に、突如放り出されて、動いてもいいものかと思案してしまうような心地。 しかしながら基次郎が思案するために黙っていると、中也はそんなことはお見通しとばかりに手を差し出してくる。最初はそういった戦術が身に付いているだけかと思ったが、どうやら身に付いているとかではなくただただ自然体らしい。中也にとって基次郎に手を差し出すことは呼吸をするように当たり前のことで、彼の言葉を借りるのであれば決まりきったものだったのだ。 運命。 陳腐な物言いをするのであればそうなのだろう。けれども屹度基次郎も、はたまた中也もそんなことは言わなかった。これは運命などではない。決して基次郎と中也は運命などではない。 心が震えることはあった。人間のように、繋ぎ止めるように、月の光ではなく基次郎を惹きつけるものがある。それでもこれは運命ではない。基次郎は笑って、中也の袖の露を払う。 「最近また何処ぞの姫のところに通っていますね」 「悪いかよ」 「いえ。ただ、中也さんの趣味ではないんだろうなあ、と思いまして」 「そうとも言ってられない世の中だろうよ」 「そうですねえ」 基次郎が考えるよりも中原の家が複雑であるのを基次郎は知っている。無論知識として、でしかないのだが。そういったこととは一線を画している梶井の家と違い、中原の家はどうやったって中枢に関わらざるを得ない。それが出来なくなったら彼らは没落したと言われてしまう。それは中也の矜持が許さないだろう。基次郎は既にそれを知っている、分かっている。 その中也の在り方が、基次郎は嫌いではない。嫌いではないというのは、基次郎の中ではなかなかの高さの好感度を保っているということだった。基次郎は自分が捻くれているように見えることは自覚している。自分が、周りが、そうは思っていなくとも、更にその外に広がっている世界はそうではないのだと知っている。 ふむ、と基次郎が頷いたことで中也は次の言葉を待っているようだった。 「中也さん、年上は好みですか?」 「あ?」 「一度家を出た姫は」 「…教養によるな」 なら、と笑う。 「今無理せずとも機会は巡ってきます」 「まるで占星術師のようなことを言うんだな」 「はは! これでも僕は梶井の次男ですよ? 教養としてこれくらいは出来ます」 「どうせ星に聞いた訳でもないくせに」 「どちらでも同じことでしょう」 そうか? と言いたげな瞳に見上げられる。この暗がりでも、基次郎の目にはそれが映る。中也はそうではないだろうに、基次郎の目に付き合ってくれる。 「月が僕に教えてくれるのも何かが僕に教えてくれるのも、僕が経路を明かさねば中也さんには同じことでしょう」 「…ああ、そうだな」 仕返しとばかりに中也は笑う。 「俺は手前を信用している訳でもねえし」 「ええ、そうだったんですかあ」 「手前もそうだろう」 「どうでしょうねえ」 言葉遊びだった。言葉遊びということにしていた。どちらにせよ――― 「どちらにせよ、貴方が居る限り僕は月には帰れませんからねえ」 「それと信用の話は別だろ」 「別ですが、切って離せるものでもないでしょう」 そうか、と中也が呟いて、笛は吹かないのか、と問うてきた。中也にとってこの話はその程度のものだったらしい。基次郎にとってもそうだった。そう重要な話題ではない。 「…本当に中也さんは僕の笛が好きなんですね」 「ああ、悪いか?」 「いえ。………嬉しいですよ」 「なんで手前はこういう暗がりでしかそういうことを言わねえんだろうな」 「さあ。どうしてでしょうね」 笑ってから笛を手に取る。 今晩は何を吹こうと思った。彼にとても似合う、そんな曲を基次郎は既に教えてもらっていた。 * 運命のひとに出会う日近づいて交換日記書く気起きない 森まとり *** 20171010 |