あとのまつり The bird has flown . 食事と言うのは性行為になぞらえられることがあるそうですよ、と梶井が言ったのを耳だけで聞いて、それで中原はまだまだ時間が掛かるのだと察した。否、もともと知ってはいたけれども(だって言ったのがついさっきなのだ)(中原とてそんな無茶ぶりはしない)(しないし、いつ来ても良いように菓子くらい用意しておけ、なんて職権乱用のようなことを言うつもりもない)それを直接に言葉にしない辺りが煙たがられる仕草なのだと、この男は理解しているのだろうか。多分理解していないのだろう、それか、理解していてもそれ以上の興味を持たずもしくは持てず、そのまま離れていくならそれで良いと思っているのだろう。この男を仮にも部下という形で扱うにあたって、それくらいの心得はもう出来ていた。勿論、部下以外としても扱っている部分があることは中原とて自認しているのだが。 「それは一緒に食事をする時の話だろう」 「おやァ、ご存知でしたか」 「酒飲んでりゃあらかたのネタには通じるさ」 「そういうものですか?」 「気が大きくなって自慢話をし始めるんだ。なあ、知ってるか? ってな」 「ほう。それで中也殿は情報収集をするんですね」 「そんな簡単な仕事があってたまるか」 ただの趣味だ、と言えばそれは嫌な趣味ですね、と返される。 いつもの会話、何も特別ではない会話。 休みの日だからと隠れ家の一つである部屋のチャイムを鳴らして、起き抜けの梶井に菓子が食いたい、とだけ言う。梶井は眠そうに欠伸をしてから仕方ないですね、と言って半身を引いて、どうぞ、と言う。顔洗って用意するので好きに待っていてください、と。いつもの会話、何も特別ではない会話。この部屋にある専門書の数々を読むつもりはいつだってなかった。板の間が剥き出しの床に脚を投げ出して、さっきまで梶井が寝ていたベッドに寄りかかる。生活感のあるようでない部屋、造られたモデルルーム。寝起きは時々するけれども梶井の大切なものは此処にはない。それを中原は知っている。知っているけれども此処にも他の隠れ家にも行くし、多分把握していない場所なんてないのだろう。あっても困らないけれど(だって梶井が首領を裏切ることなんてないだろうから)、想像しただけで少々腹が立った。何処の隠れ家にも菓子を作る道具とオーブンは中原が買って入れてやって、梶井もそれを拒まない。オーブンの調整だけ先にやって、もう覚えてしまった器具を用意して。あとはお前がやるだけだ、なんて御膳立てをしたら逃げられないのを知っていて、抑々梶井が逃げることなんてしないと、知っていて。 「まあ、食事を一緒にするということは、それなりに信頼の証として世間に浸透しているのでしょうねえ」 「手前が言うとまるで悲劇の台詞だな」 「喜劇ではなく?」 信頼のないテーブルなど幾らついたことか分からない。目の前にある食べ物に毒物が仕込まれていない確証だって何処にもない。毒見役で何人失ったのか、数えたくもない場所にいることは重々承知だった。いつそれが自分の口に入るかも分からないのだし、それは明日だったかもしれない。 檸檬の香りがする。以前どうしてそんな西洋菓子を作るのが得意なのか、と聞いたら別に西洋菓子だけではないと答えられたのを思い出す。 ―――料理は科学ですから。 錬金術は台所から生まれたとはよく言うでしょう、と呟いたその言葉は何処か、いつものような整然さは見て取れず、物語のような影を落としていたのをよく覚えている。 ―――科学である限り、それらは完璧に近付くことは出来るのでしょう。 人間の手の届かない神とやらがいるとしても、人間は走り続けるのでしょう。 科学の真髄は疑い続けることで、それであるのならば梶井の安寧の地など何処にもないのだろう、と思ったのだった。そして、本人はそれを気にもしていないのだろうと。安寧の地でぬくぬくと疑問を抱くことをやめるより、絶対に手の届かない真理を追い求めて死ぬ方がずっとずっとその人生に彩りを与えるのだと。それを理解した時に、ああ、だからこの男の仕草は何処か煙に巻くようなものが多いのだ、と思った。何処までも走るために、様々なものを軽くしてきたのだ、と。 顔を上げる。一人暮らしの部屋に備え付けられた狭い台所で料理をする後ろ姿はただの一般人と言われても判別がつかなかった。完璧な料理はこの世にはない、でも完璧に近付くことの出来る料理はある。それはテーブルに乗る際に目に入る部分だとか、そういうものすべてに通じる言葉だった。それから中原は完璧からは程遠い、と感じたものは毒味すらさせなくなった。食べる回数が減れば当然のように毒見役が死ぬことも減る。ただそれだけの話で、梶井の話は関係ないと言えるのかもしれなかった。 「中也殿」 梶井が振り返る。エプロンの裾がふわり、と揺れる。そんな急いで振り返らなくても良いのに、何処かうきうきとした様子で、いつもはゴーグルに遮られている目が見える。 「スポンジケーキ、焼き上がりましたよ」 「飾り付けは」 「一旦冷まさないと。どんなのが良いですか」 「お前の、」 どろどろに濁った、もう後戻りの出来ない瞳。 「好きなように」 それが中原は好きだった。その泥濘の中に映る西洋菓子の器用な飾り付けのことも好きだった。 飾り付けが済んだら出来たてのそれを食べよう。そうして夜まで、まるでマフィアなんてやっていない一般人のように過ごそう。携帯の電源は切れないけれど、夜には暗喩なんて馬鹿らしいと笑ってやろう。 「梶井」 「なんですか、中也殿。手伝いますか?」 「いや、良い。見てる」 「其処から?」 「此処から」 「よく見えなくないですか?」 「見たくなったらそっちに行く」 「そうですか。まあ、お好きにどうぞ」 そうしてまた作業に戻る梶井の、背中で結ばれたエプロンの紐は左右きっちり均等だった。はなうたでも歌いだしそうに揺れる背中の、自由さについて少し思いを馳せて、それからこの男が自分の毒見で死なないことに少し、笑った。 自分の存在が重く枷になれるだなんて、微塵も考えられなかった。 *** 紫の死 からん、と音がする。氷の動いた音。汗の落ちる音はしない、ただいつもよりも少しばかり機嫌の良い上司が其処にいるだけ。飲まない代わりに彼の空けたボトルを積み重ねて遊んでいる自分のことを彼は責めない。俺の酒が飲めないのか、とは言わない。 「お前から見て俺は紫色に錆びちゃあいないか」 ただ少し、いつものよりも歌うような彼を見ているのが好きなので、結局飲めなくてもやることがなくても誘われたら来てしまう。 「貴方が錆びてるっていうなら、破落戸連中はみんな腐食しきって使い物になりませんよ」 「違いない」 カラカラと笑うその笑い声がどうにも夏の日の太陽のようなのに、やはり彼から漂うのは秋の空気で、ああ、これが錆びゆく岐路にある男の宿命なのだ、と思った。 * 出典「冷たい夜」中原中也 *** 知らないワイシャツ 梶中+梶モブ(女) *モブ女との絡みがある *モブ女視点 その人の部屋には行ったことがない。何処に住んでいるのかも知らない。ただ時々家から少し離れたカフェで待っていては私を見つけると大型犬かなにかのように寄ってくる人。歳も知らない、名前も知らない。怪しいのは勿論分かっているが私も住んでいる場所が住んでいる場所で、幾度かカフェで言葉を交わすうちについでに情交まで、と言ったような形だった。彼は金銭などを要求したことはなかったが人肌と温かい寝床を求めた。ついでに雑な手料理も。誰かに作ってもらうことに意味があるんだ、と言っていた彼が本当は凝った料理も出来ることを私は身を以て知っている。いつだか私が彼を泊めた時に丁度体調を崩してしまって、その時に世話をしてくれたのは彼だった。ついでに快復祝いだと言っておしゃれな料理も作ってくれた。驚いて礼を言って褒めると彼はこんなの実験みたいなものだと言って、それ以上は何も言わなかった。 実験、という言葉のその堅苦しさと自由さの入り混じった空気が、彼にはとても似合っていると思った。名前も知らない彼だけれども、私に幾つか贈り物もしてくれたし、いつだって優しかった。乱暴にされたことだって一度もなかった。私が気が乗らないと言えばただ頷いて、同衾だけを求める、何処か子供のような人だった。 それ以上は求めないつもりだった。私にはそれが分かっていると思っていた。 朝起きて、彼の脱ぎ捨てた服を回収する。彼が起きるまでにその辺で買った服を着せておいて、洗濯をする。と、その日は何かが違うことに気付いた。彼の服からはワインの香りがした。彼は下戸だと言っていたから飲まないはずなのに。 「―――」 そうして私は唐突に理解した。このワインの主が彼の本当≠ネのだと。私は偽物だった、それは知っていた。けれども真逆本当とこうして交わる時が来るとは思わなかった。 「ねえ、」 私はまだ夢現の彼に話し掛ける。 「これ、洗って良いの?」 「…だめです」 「だよね、そうだと思った」 「前にワイン詳しいって言ってましたよね」 「うん。一緒に選ぼうか」 「助かります」 好きですよ、と彼は言わなかった。嘘を吐かない彼のことが、私は本当に好きなのだとそう思ったらなんだか無性にマニキュアの色を変えたくなった。 * @ODAIbot_K *** 夏のある町 *過去捏造 嘘みたいな話だと言われればそうかもしれなかった。中原中也に生まれ故郷はない。家族はいない。裏の世界にいる人間、大抵がそうであった。甘ったるいことを言うつもりはなかったが中原にとっては此処が家族だと、言えなくもないことは分かっていた。仕事場で、けれどもそこ以外を知らないのなら。きっと一般人にとってはそういうものなのだろうと。 中原にとってそんなことを言うべき一般人は存在しなかったのだけれど。 だから油断していたという訳でもない。自分の酒癖の悪さは知っているし、その程度で情報を―――中原にとってはそれは情報だった―――漏らすなんて真似をするはずがないのだ。だから聞いている梶井も恐らく話半分で聞いているはずだ。そういうふうに育てた、否、躾けた。拾った犬のような梶井を前に、酒を一滴も飲まない梶井を前に、中原は口元を緩ませる。 「小せえ頃さ、あれ夏だったと思うんだけど。とんでもなく暑い日でさ、遠くの景色がぼうっとしてて。そん時思ったんだよな、ああ世界が終わるって」 「世界の終わりですか、なかなかロマンチックなことを考えますね」 「ただでも世界が終わる訳ねえってのも分かってて、それで俺は失望したんだよな」 「へえ」 「でもさ、あん時ほど―――生きてる、って思ったこともねえんだよ」 「それはそれは」 「だからこんなとこに来ちまったのかな」 そう語る中原のことを梶井はジッと見つめていた。何だよ、と言えばいえ、今日はよく喋るのだな、と思って、と返される。何処か慇懃無礼なこの部下のことを咎めるのはもう止めていた。元々中原はそういうものを求めていた訳ではないから。 「何でだろうな」 笑ってみせる。薬でも盛ったか、と冗談を言えば貴方に毒をやれる人間などそういないでしょう、と返された。 いや、これなら分からねえぜ、と唇を合わせたら、燃えるような夏の香りがした。 * 出典「少年時代」中原中也 *** 枷の枷の枷 梶中+広鴎 黒蜥蜴の百人長、広津柳浪に息子がおり、その息子が同じくポートマフィアで構成員をしていることは実のところあまり知られていない。裏方であるし鉄砲玉にも成り得ない、広津が言うのも何だがどうしてポートマフィアなんかに残っているのかと思うほどだった。別にポートマフィアは辞めることの出来ない組織ではない。勿論難しくないとは言わないが。 「君の息子は君ほど役には立たないね」 ある日、広津は首領である森にそう言われた。その通りだったのではい、と答える。 「けれどもあれは裏切らない。そういうふうに育てました」 「へえ。でも広津さんのことだから組織に対する忠誠を説いた訳じゃないよね」 だって広津さんは組織に忠誠を誓ってくれているけれども、それを誰かに強要するようなことはしないものね、とまるでお見通しの顔をして森は言う。 「その通りです」 「ふふ、やっぱり。何て教えたの?」 「―――友人は大切にするものだと」 それだけで森は解答に辿り着いたようだった。 「梶井くんが彼の枷になると?」 科学班の男は広津の息子の友人だった。ええ、と広津は頷く。 「あいつは此処から出られない」 もしも科学班の彼がただの構成員であれば、広津の息子は彼と手を取り合って逃げることも出来たかもしれない。けれども、森も彼がなるほどそういう信念なのであれば仕方がない、と思っているようだった。 「彼の明るさが何の上に成り立っているものなのか知っているあいつは、此処を気に入っている彼を此処に残しては何処にも行けませんよ」 その言葉に親子だね、と言われたので、そうかもしれませんね、と曖昧な答えと笑みを返すしかなかった。 *** 行き先のない八つ当たり *梶井くんのポートマフィア入社時期捏造 自分が拾われる前にこの組織がどういうものだったのか、実のところ梶井は気にしたことがなかった。此処は梶井のやりたいことをそれなりにやりたいようにさせてくれるし、最初はそれだけで良かったし、本当のことを言うのであれば今もそれだけで良いのだが。 それでも、と一緒に行ってきなさい、と送り出された少年を見遣る。乾いた咳をする彼は梶井から見ればいつだって死の淵を歩いているような影を背負っており、そこそこに興味を唆る存在であった。自分とはまったく正反対の存在、何と言うのかは知らないが彼には信仰する神がおり、それはどうやら実在し、梶井の上司の話の中にも時折出てくるのだ! 無論、上司の方は彼を神だとは思っていないようであったけれども。並んだ少年に梶井は無駄に話し掛けることはしない。話が合わないのが目に見えいているからである。ただ今後の作戦とも呼べない作戦を口にして、コミュニケーションを取ったような気になるだけで。 「君は頑張るね」 その胸は大変だろう、と言っても特に言葉は返ってこない。 「…太宰さんに、見てもらえるのであれば、この程度」 ああ、また、と思う。太宰、というのが彼の神の名前で、時折上司が口にして苦々しい顔をする名前でもある。それが梶井には分からない、何せ、その太宰さん≠ニやらは最早このポートマフィアを抜けてしまったそうなのだから。 少年が歩いて行く。梶井もまた、進んでいく。もうすぐ作戦の時刻だ。 「…僕は、」 その先の言葉は言わない。それは誰に言ったところで何にもならないことを梶井は知っている。 ―――太宰さんって人が、羨ましいなあ。 *** 黒板消しについたチョークの粉 +国太 *学スト 理科準備室から、と同僚の梶井が口にしたのがいつもの世間話だと国木田は疑わなかった。 「二年生の教室ってよく見えるんですよね」 「そうですか」 言われてからこの学校の構造を思い出す。なるほど、確かに梶井の言う通り、理科準備室からは二年生の教室がよく見えるだろう。丁度遮るものが何もない。 梶井が名簿のチェックを済ます間に国木田は黒板を消していく。こんなのは生徒にでもやらせたら良いと思うけれども、やはり自分がやった方がきれいになるのを知っているし、既に放課後だ、その辺をうろついている生徒を捕まえるのも悪い。しかも今汚れているこの黒板も授業の跡ではなく、二人の間での話し合いのために使われたものであるので、それに生徒を巻き込むのも忍びない。 「だからいろいろなものが見えるんですけれど」 「真逆梶井先生まで太宰のように人の秘密や弱みを握るなんてことはしませんよね」 「ああ、その太宰くんなんですけれども」 「先生、先に答えてもらえますか」 「いや僕は人の秘密や弱みなど! そもそも科学以外にあまり興味はないのものですから」 「そうですか。では続きをどうぞ。太宰がどうしましたか。また問題でも?」 「いえ、問題と言うほどでもないのですが」 これはどう言ったら良いですかねえ、と梶井は少し言葉を考えていたようだったが、暫くして口を開いた。 「太宰くんに手、出さないんですか?」 がらがらがっしゃん! 大きな音がして国木田は自分が黒板消しを落として、更にはチョーク入れやら定規やらが置いてあるスペースに突っ込んだのを知った。 「な、な…」 「何を見たか、でしょうか。特にこれと言って決定的な場面は見ていないのですが、そうですね、太宰くんの動きはあまりに芝居がかったように分かりやすく表現をするので、更にはそれがどうやら演技ではないようなので、国木田先生はどうお考えなのかと疑問になりまして。というか、此処で言葉に詰まるということはもしかして既に手を出したあとでしたか? そうだったら僕は重大な秘密を知ってしまったことになりますねえ。どうしましょう、僕秘密にするの苦手でして、最悪教頭にはバレるかもしれないですははは」 「笑っている場合ではないですしそもそも俺は生徒に手を出したりはしません!」 「では卒業したあとは?」 「はいっ?」 思わず上擦った声が出てしまった。 「ですから、卒業したら生徒は生徒ではなくなるではありませんか。僕たちは先生のままですけれども」 「それは…」 「難しいですよねえ、相手が生徒だからと言って何が変わる訳でもないのに」 その言い方に何か引っかかるものを感じたものの、はい! これでチェック終わり! と梶井が声を上げたので聞くことは叶わなかった。 「うわっ。国木田先生黒板消し全然きれいになってないじゃないですか」 誰の所為だと、と思ったが癪なので言わないでおく。チョーク入れと定規を直している間に梶井が黒板消しを持っていき、黒板消しクリーナーに掛ける。 「僕これ苦手なんですよね」 どうせなら丸洗いしたら良いのに、と続けられて、本当に話題を逸らされてしまったような心持ちになった。 その後二年の教室を見回った時に太宰に出くわして、先生何ですかその顔は、まるで梶井先生に私との逢瀬を指摘されたような顔じゃあないですか! と言われるのはまた別の話である。 * 感情のすみに微笑むようにいるその人の名をなつかしく呼ぶ / 東直子 *** 真の死に至れり 人間というものは死に対して不可逆で、そしてそれ故に死というものに対して一定の恐怖心というものを抱いている。それは死というものを研究として扱っている梶井基次郎にとっても同じことであったし、あれこれ実験はするものの漠然と死というものは本当に分からないなあ、と思うことばかりであった。しかしながら理解の出来ないものだから恐怖する、という方程式は成り立たず、梶井は理解の出来ないものだからこそ興味を持つ方向へと転がったのだ。 「手前はまるで死ににいくみてえだ」 そんなことを上司である中原中也に言われたのは作戦から帰還した時のことだった。 「ええ?」 梶井はこの上なくすっとぼけたような声が出てしまったのをよく覚えている。それが気に食わなかったのか上司はひどく恐ろしい顔で睨め付けて来たけれども、その反応はこの上なく素直なものだったので勘弁してほしい。 「まるで中原さんは僕を自殺志願者のように言うのですね」 そんなことはないと言いたくてそう返せば、中原は何か嫌なことでも思い出したかのように更に苦虫を噛み潰した顔になった。人の知らないところで勝手に怒るのはやめてほしい。こちらは好きで部下をやっているのではないので。 「けれども僕は別に、そういう訳ではないのですよ」 「そうであってたまるか」 「おや、中原さんも生き延びればこそ、のような思考の持ち主で?」 「別にそういう訳じゃねえが」 会話はそれで終わりだった。その時は彼の過去の話もまだ何も知らなく、強く小さな上司のことを少々目障りだと思うことさえあった。梶井が勝手に外出すればリードを忘れたとばかりに連れ戻しに来るし、研究所で三日三晩寝ずに作業に没頭すれば酒瓶で殴られそうになる。それでも中原は梶井の上司であって、梶井の部下たちにとっては上司の上司であるので誰も梶井を庇ってくれるような人間はいなかった。時たま報告をするついでに所属を変えられないかと呟いてみても、首領は何か不都合があるかね、と言うだけであって、そう考えてみると不都合らしい不都合がある訳でもなく、結局梶井の自由が若干制限されているくらいのもので、それも今後のことを考えてのものと思えなくはないのだ。なので結局梶井は黙ることしか出来ず、首領に仲良くね、なんて微笑まれる羽目になるのだ。 仕方なく、梶井は中原を観察してみることにした。どのような状況で彼がどのような行動を取るのか、梶井の分かる範囲はすべて。中原も分かっていたはずだがやめろとは言わなかった。もしかしたら彼もまた、首領に何か言われていたのかもしれない。 そして、梶井は。 一つの解に至った。 至ってしまった時に、思わず笑ってしまったくらいだった。それほどに単純明快なもの。唐突に笑い出した梶井にその時研究室で読書をしていた中原は一瞬驚いた顔をして、とうとうイカれたか、と問うてきた。それにいえ、と返してから向き直る。 「貴方の像(かたち)はまるで宗教のようだ、僕とは永遠に相容れない、しかしその行き先にどうしたって貴方は横たわっている!」 自分で言うのも何だが大仰で芝居がかったものだった。それでも中原は何でもなかったかのように煙草を出し、火を付け、吸い込んだ。 「………まるで、」 中原が言葉を吐いたのは暫く経ってからのことで、それはまるで煙草の煙を吐き出すようなものだった。自身の身体の中に要らなくなったものを吐き出すような、呼吸と似通うほど当たり前な行為。その自然さが余計に梶井の背筋をなぞっていく。 「手前は神を信じているような言い草じゃねえか」 確かに、その通りだった。 「ええ、そうですね、神はどのみち居るのでしょう、だって僕は人間の心や心を作り出す脳の構造までもを否定することは出来ない! ですから神は居るのです、ただ僕がその神とやらに対してもまず疑うことをするだけで!」 「疑うことが出来るのならば信じているも同義だと?」 「ええ、ええ! その通りです!」 一方を信じる限りもう一方とは離れることが出来ない、まるで神と悪魔のように。 中原がどちらであるのか梶井には分からなかったし、どちらでもないのかもしれなく、どちらでもあるのかもしれなかった。 「俺が手前の行く先に横たわっていると言うなら、俺の死を観測するのは手前か?」 「さあて、どうでしょう! 貴方が引き換えして来て僕の死を観測するのかもしれません」 「生憎とそういう趣味はねえ」 「ならば、僕は進まねばなりませんね」 停滞は科学の敵だ、例えそれが完璧という名を冠していたとしても。 「手前は死が怖くねえのか」 「そうですね、正しく言えば感覚が麻痺しているのでしょう」 「何故」 「死にかけたことがあるからではありませんか」 「そんなこと俺なんかしょっちゅうだ」 「幹部殿がそんなヘマをされるとは考えにくい。つまり、冗句ですね?」 「………手前は本当に、可愛げのねえ奴だな」 喫みかけの煙草を梶井の口に突っ込んで、梶井が咽ている間に中原は部屋を出ていった。 口の中はこれでもかと言うほど不味くて重くて、よくもまあこんなものを好き好んで吸っているものだと呆れることしか出来なかった。 *** 愛に名前をつけましょう *学スト 中原くん、と呼ばれる。机の上に座った中原ははい、とまるで優等生のように答える。 「それ、楽しいですか?」 聞かれて少し首を傾げそうになった。眼鏡の向こうの目は黒く濁っていて、こんな変人塗れの学園にいなければ屹度彼は犯罪者予備軍として扱われていたに違いないと思うような目だった。中原も人のことは言えない目をしているとは思うし、そもそも世間の評判としては不良なのであったが。 「帽子を取り返したいんですよね」 「はあ」 返ってくるのは生返事。 「それとこの体勢に何の関係が?」 中原は机の上に座っていた。その両足はその机で本を読んでいる化学教師を捕まえるように挟んでいる。唐突に化学準備室へやって来ての中原の行動に、彼は問いかけることしかしなかった。 「梶井先生」 「なんでしょう」 「その本面白いですか」 「まあそれなりに」 「何の本ですか」 「シェイクスピアです」 「シェイクスピア」 「名前くらいは知っているでしょう」 「そういうのが好きなんですか」 「好きですね」 「化学教師なのに?」 「趣味と専攻は必ずしも一致するものではないでしょう」 「そういうもんですか」 「そういうもんですよ」 へえ、と中原はぞんざいに頷いてから、その頭に手をやった。石鹸ででも洗ってそうなざわざわした髪質が指に馴染まない。 「…なに?」 「俺は何になろうかと思って」 「そういうのは森教頭が相談に乗ってくれると思いますよ、進路指導も受け持ってるから」 「そういうのじゃ、ない気がして」 「モラトリアムですか? 羨ましいなあ!」 「そんなこと思ってもいないくせに」 「あれれ、バレましたか」 隠す気もなかったくせに、と思う。脚で背中を引き寄せるようにして近付くと、あの、ととどめるように脚に触れられた。 「で、帽子の件なんですが」 「そういうのは国木田先生に直截言えば良いでしょうに」 「この体勢、あまり外から見られて良いものではないですよね」 「基本的に化学準備室に人は来ないので大丈夫じゃないですか」 「じゃあもういっそ既成事実でも作りますか」 「何がじゃあだったのかまったく分からないんですが、そもそも君、未成年でしょう」 未成年に手を出すのはちょっと、と言ういろいろなものがスレスレの化学教師に、思わずお前がそれを言うのかと髪で遊んでいた手をぎゅっと握ってしまった中原は何も、何も悪くはないのだ。 * (ハゲたら中原くんの所為ですよ!?) *** 確殺 +国太 *学スト そういえば昨年は大人気でしたよね、と梶井が言い出すのがあまりにも唐突だったため、国木田はそれが一体何についてのことなのかすぐに判断を下すことが出来なかった。釦の話です、と付け足されて初めて、ああ卒業式でのことだと思い出す。 「今年は第二釦を大量に用意しておかないといけないのではないですか」 「大量に用意したらすでにそれは第二釦ではないだろう。それに、まだ新年度になったばかりだ」 「今年も大人気になるだろうことは否定しないんですね!」 言われてしまった、と思ったがここで否定を付け足すのも何だかおかしな話だ。 「まあそうなんですよね、第二釦というのは一つしかないのです」 国木田先生のそれが誰に渡るのか、とても楽しみですねと笑う梶井の白衣に釦は一つもついていなかった。 *** 20190111 20191225 |