境界のブルー 旅行にいってみようか、と言ったのは乱歩の方だった。それをエドガーはぼんやりと聞きながら自分もそんなことを思った時分があったなあ、と思う。エドガーは、自分で言うのも何だが、結構精神年齢は確りと年相応であると思っている。乱歩に相対している時にそれが保てているかはさておき、そうでなければ組合においてこの地位を獲得することは出来なかっただろう。それに乱歩と違って電車だって一人で乗れるしやれと言われれば車だって運転出来る。免許を持っているか―――という話になるとそれはまた話が長くなるので割愛しておくとして。 「乱歩くんには何処か行きたいところでもあるのであるか?」 無知を装って訊ねる。こういうことが出来るようになってしまったな、と思う。乱歩とは何もかも弾んで打ち返されるような会話をする時もあれば(それは他人には理解されない流れらしいが、まあ別に理解されなくても通じているのだから会話の意味は為している)、こうして生来の頭脳など何処かへと放り投げてしまったような会話をする時だってあった。あった、というか徐々に増えてきた。乱歩は胡乱な目線を此方へと寄越してから、何処でも、と言った。言ってから、海、と付け足した。海なら横浜にもあるとは思うのだが、そういう話ではないことはこの頭脳が既に弾き出している。 探偵社の社長にメールを打つと、直ぐ様返された。元々休暇中であるので別に何処に行っても良いらしい。貴殿がついていてくれるのであれば安心だ、という文言には何処かくすぐったいものを覚えなくもないが、本当に自分だけで大丈夫なのだろうか、と思いながらそのまま行き先を模索し始める。国外は駄目だ、時間が足りない。本土から出るのも同じ理由で望ましくはない。横浜では意味がないだろうかから、大体片道三時間程度、と計算を始めたエドガーの傍に乱歩がふらふらと寄ってきて、それからぼすり、と膝に頭を埋(うず)めた。 「………かたい」 「知っていることであろう」 文句は受け付けない、とばかりに言えば、乱歩の代わりにカールが面白い鳴き方をした。初めて聞いた鳴き声だった。 そうして片道三時間程度の海を見つけてそのまま宿を取る。高級スイートを取ろうとしたら止められたのが何故なのかエドガーにはよく分からないが、まあ旅程に口出しを出来る程度であるのならば其処まで心配することもないのだろう。その思考も推理されたらしく、もっと僕のこと心配してよ! と言われた。心配することが分からない、と言えば君だって名探偵だろう! と返される。とんだ我が侭だったが、それは同時にエドガーへの最大の称賛でもあるので儘ならないな、と思う。電車の中でひと目も憚らずにそんなやり取りをする二人を、他人は妙になまあたたかい目で見ていた。以前であればこのような視線も苦痛でならなかったが、横に乱歩がいるというだけでどうにかなりそうな気がする。実際、日本に来てから外出時間は増えたように思う。此処では謎にもよく行き当たることだし、仕事にもそう困ってはいないし、一度はすべてをエドガーからすべてを奪ったのは乱歩だと言うのに、乱歩に再会してからこの方、妙に社会に適合出来始めているような気すらするのだから。妙な気分になるしかない。此処で人生とは小説より奇なり、とでも言えたら良かったのだろうが―――なにせエドガーは小説家であるので―――しかしどう考えてもこうなるのは必定であったとも思えてしまうので、それが言えないのであった。紙の上で嘘を吐くことは大仰に出来たとしても、なかなかそれを現実にまで引っ張ってくるのは至難の業だった。 それに。 エドガーは乱歩に、嘘を吐きたくはなかった。 それは嘘を吐いても乱歩に看破されるから、という訳ではない。ただ、恋人という関係になった上で、乱歩に向き合う上で、嘘を吐くのはあまり好ましくないな、と思った次第である。それを言えば乱歩は吐かれても分かると言うのだろうから言ったことはなかったし、乱歩もそうつついてくる訳ではなかったけれど。 そういう訳でやってきた海の、観光客が少ない場所を選んで二人、ただ座っている。間に落ちるのは沈黙ではあったが、苦ではなかった。カールがカモメにちょっかいを出さないかぼんやりと眺めている横で、乱歩はちゃんと海を見ているようだった。目を瞠るような青だった。それがくっきりと海と空と二分して。自分たちのようだな、と思った。どれだけものを覚えて演技をすることが出来ても、何処までもまじることのできないもの。 同じことを乱歩も思ったのか、あれ、と指差す。 「決してまじらないね」 「そうであるな」 「違うものだからだね」 「そうであるな」 「僕らはなにものにもまじれない、あれと同じものだよ」 「そうであるな」 「君、」 乱歩がエドガーを見つめる…見据える。 「どうして、僕の言葉を否定しないの」 「否定して欲しいのであるか」 「そうじゃないけど」 「否定するだけのものが見つからないだけなのである」 「肯定してる訳でもないんだ」 「そんなこと、乱歩くんなら聞かずとも分かるであろう?」 「聞きたいんだよ」 ぽすり、と肩に頭が預けられる。カールが肩を空けている時にしかやらなくなったこの行為は、乱歩が社会に適応している証拠なのだろうか。それとも、最初から出来たことを今までしていなかっただけで、するだけの価値を見つけただけなのか。その辺りは本当は言葉にしなくてはいけないのだろう。 でも。 エドガーは名探偵だから。 乱歩と同じように、名探偵だから。 「………エドガー」 「なんであるか」 「君は、さみしくなかったの」 「分からないのである。そうかもしれなかった、と少年期に思いを馳せることは出来ても、過去の…しかも感情なんて流動的なものに確かな解えを見つけることは難しい」 「それが名探偵の台詞?」 「我輩の横で勝手に一人で沈んでいる名探偵にだけは言われたくないのである…」 「………君、結構言うよね」 それでも今日はただの恋人として横にいるのだろう、と思う。少なくとも乱歩はそれを望んでいる。エドガーにはそれが分かるから、少しだけ名探偵は休業だ。本当に、本当の、少しだけだけれども。エドガーだってそういう生き物だから、結局どうしたって名探偵の部分は失くならない。それこそ死んでしまわない限り、もしかしたら異能なんてものよりもずっと厄介であるものなのかもしれなかった。この世界から異能が失くなっても、この頭脳は決して失われないから。 「乱歩くん」 「なに」 「我輩は乱歩くんのことが好きであるよ」 「…知ってる」 「探偵社の面々も、我輩のそれとは違うけれども、乱歩くんのことが好きであろう」 「知ってるよ」 「乱歩くんが蹲っている場所はとてつもなく馬鹿馬鹿しい賑やかな場所なのであるよ」 「知ってるってば」 ぐずぐずと煮詰まったような声を心配してか、カールが戻ってくる。カモメにちょっかいは出さなかったらしい。やはり賢いのだろう。ちょっかいを出すように手を伸ばしたカールを乱歩はひょい、と抱き上げて、それと同時にエドガーの肩にぐりぐりと側頭部を押し付ける。 「あのさあ、」 乱歩の腕の中でもカールは満足そうだった。もしかしたらエドガーの腕の中にいる時より楽しげであるように見えるのは流石に思い違いだと思いたい。 乱歩は俯いている。ぐりぐり、と力が更にこもる。 「こういう時は黙ってキスでもするもんじゃないの」 「生憎と愛の国出身ではないのでな」 「君に恋愛小説を書かせたらひどい惨劇になりそうだ」 「小説を一文字も書かない乱歩くんにだけは言われたくないのである」 以前小説ってどうやって書くの、という素朴な疑問に単純明快な答えを返したら信じられないような目を向けられたのをエドガーは未だ忘れてはいなかった。机に原稿用紙を置く、ペンを持つ、出来上がる。たったそれだけのことなのに何がそんなに信じられないのだろうか。 「エドガー」 乱歩がようやっと、顔を上げた。 その顔は少し、赤く染まっているようにも思える。もうそんな時間なのだな、と気付いて随分長いこと此処にいたことに気付いた。 「キスして」 ぎゅう、とエドガーの袖口を握った乱歩があまりにも愛おしくて、だからエドガーは確りと一つ、頷く。 「仰せのままに」 水平線に、夕陽が傾いて。 青と赤と黒がきれいな階調になって一つになった影を呑み込んでいった。 * https://slot-maker.com/slot/5483/ 20190921 |