ダブルベッド・シーツ、遥か遠くのような話 また寝てねえな、と声がして背骨のちょうど真ん中を指先でとととん、と叩かれた。 パブロフの犬、という実験がある。条件反射の実験だ、何かをしたら何かが起こる。元々人間の身体に備わっている反射という機能に条件を付けてやるというもの。梶井の場合はこの、中原による指遊びのような行為がそれに該当するのだった。勿論、この上司は分かってやっている。くらり、と数日振りに呼び起こされた眠気が身体を支配しようとする。その中で、必死に抗いながら梶井はいやです、と言った。後付けの反射であればその紐付けを切れば良いだけのはずだ、出来ない訳じゃない、論理上は出来るはずだ。なのに、眠気はずりずりと這い回り、梶井を手放そうとしない。 「手前が寝てねえのが悪いんだろ」 「寝てます」 「五分間直立不動で目を閉じてるってのは寝たうちに入んねえんだよ」 「まるで見てきたように言うんですねっていうか見てたんですね」 「ああ」 「誰ですか」 監視カメラがあれば梶井は気付いたはずだ。この部屋の配線はすべて梶井の管理下にある。それでも気付けなかったということは、誰か部下にカメラを忍ばせたに違いない。中原の方が梶井より地位が上であるので部下は当然のことをしたまでだが、それにしても梶井には文句の一つくらい言う権利があるはずだ。 「言うはずがねえだろ?」 「教えて欲しいなあ〜すっごく知りたいなあ〜」 「まずちゃんと寝たら考えなくもない」 「中也さんがそういうふうに言う時は本当に考えるだけなので嫌です…」 身体を支えていられなくなってぐら、と傾いたのを、この小柄な上司は何事もなく支える。そのままひょい、と抱え上げられてしまえばもう逃げ場はない。それでも尚、梶井はいやです、と駄々をこねる。もうちょっとで面白い仮説が立ちそうだったのだ、仮説を立たせるにも膨大な計算が必要で、今からそれをするはずだったのに。自分にしか分からないように入力して、さて、と息を吐いたところで中原に声を掛けられたのだった。冒頭である。 「何をそんなに嫌がるんだよ」 「シーツ洗濯してないんで」 「そう言うと思ってやっておいた」 「真逆、中也さんが?」 「手前の部下にやらせたに決まってんだろ」 「ですよね…」 梶井の自室には鍵を付けていたはずなのに勝手は合鍵を作られるし、けれども恐らく唯一の合鍵を持っていたのは宇宙大元帥であるのでこの鍵の譲渡は彼の意志な訳で、それを考えると梶井とて強く言えやしない。 「そもそも、中也さん、洗濯機の使い方知ってるんですか」 「手前、俺のことなんだと思ってんだ?」 「ボンボンかそれに類するもの、ですかね」 「手前にだけは言われたくねえな」 ベッドに降ろされ眼鏡を取られる。履物も白衣も剥ぎ取られていく、これでは完全に介護だ。 「シャワーも浴びてないのに…」 「手前はいつも檸檬の香りがするだろ」 くあ、と欠伸が一つ。 「おかげで手前の傍に来ると、眠りたくなっちまう」 「それ、任務に支障出るでしょう」 「冗談だよ、支障出てたらとっくに変えてる」 ほら、おやすみの時間だ、駄々っ子。そう言ってキスをされて、付けられた条件の最後のピースが揃った。いつの間にかダブルベッドに買い換えられていた梶井のベッドに、中原が入り込んで来る。帽子は何処に置いたのだろうか、靴は、外套は。眼鏡がないと、何も見えない。眠りに、落ちていく。おやすみなさいとも返せない。 ちゃんと梶井が保存をし終わったのを見計らって犬にされたのは分かったけれども、今更そんな配慮に言うべき言葉も梶井は持っていなかった。 * https://slot-maker.com/slot/5483/ *** 心臓の音がした どすん、と音がした。 背後で、ではなく自分の背中で、である。 これが暗殺者の類だったらもう自分は死んでいるだろうなあ、と思いながら回された腕の、見慣れたグローブを外してやることにした。とりあえず、用件は分かるがどうするにしろ外しておいた方が良いだろう。 梶井がそんなことをしていても背中にべたり、と張り付いた上司兼恋人は特に何も言わない。このまま落ちているのであれば別に、仮眠室まで運んでいくだけなのだが。 「ちゅうやどの〜?」 「………ん、」 「起きてます?」 「ん」 「寝てますね」 「おきてる…」 「何しに来たんですか」 「ヤりたくなったから…」 「眠気に性欲勝たせないでくださいよ。身体壊しますよ」 「手前にいわれたく…ねえ…」 「自覚はありますけどねえ」 もうちょっと上司らしくしてみてくださいよ、と言ってみてもハア? と返されるだけだ。手前は俺の恋人なんじゃねえのかよ、と言う中原は確かに可愛らしいというか愛おしいというか、梶井にだって一応そういう気持ちはあるのだけれど。 仕方ないなあ、とよいしょ、となんとか自分の身体を椅子ごと回した。回る椅子で良かった。その反動を利用して、中原を膝の上に乗せる。 「なに」 梶井の行動が分かって合わせてくれたのに、問うのだなあ、と思った。 「これも一応『抱く』かなあ、と思いまして」 「はったおす…」 「ええー」 「あしたいこう…」 「じゃあとりあえず今晩は許してくれる訳ですか」 「………ん」 「部下に見られたら示しつきませんよ」 「かぎ」 「閉めました?」 「しめてねえ」 「閉めてきますね」 椅子にキャスターがついてて良かった、と思いながらそのまま滑っていって鍵を閉める。二人分の重さでキャスターが壊れないかとも考えたが、どうやら中原が微量に異能力を使ってるらしかった。そんなふうに気を遣うくらいなら、最初から素直に寝てくれれば良いものを。 「ちゅうやどの」 「ん」 「鍵閉めましたよ」 「ん」 「僕これから研究室内にメール送りますから」 「ん」 「どうぞ僕の膝で良かったら朝まで寝てください」 「ん、おやすみ」 「おやすみなさい」 梶井の首に手を回した、その仕草はなんとなく年相応、と言ったふうなんだよなあ、と思いながら、斜めの角度でタブレットを操作して、重要案件につき梶井の部屋には近寄らないように、と通達した。 これ絶対バレてるんだよなあ、と思いながらも別に、それでこの小さな上司が困ることもないだろうので、そして研究員たちは予算のためには口を噤むことも心得ているので、恐らく心配は無用なのだ。 *** 本日は晴天なり。 なんでいつもこうなるんでしょうねえ、と首根っこを掴まれた男はそんなことを呟いて、それがあまりにも訳が分からないと言ったふうであったから思い切り殴りたくなって、でもやめて。 「猫だったら首輪でもつけるんだがな」 「化粧にご興味でも?」 「ねえよ」 お前の奇行には慣れて来たが、それでもやっぱり首領にビミョーな顔をさせるのはやめろ、なんて。 ただの言い訳にしか聞こえないのが本当に嫌だった。 * オーロラが見えた夜、大理石の床のロビーで食虫植物を育てていた件の話をしてください。 #さみしいなにかをかく https://shindanmaker.com/595943 *** 貴方のいるせかい 手前といると季節ばかり感じているような気がする、と真っ赤に色付いた葉を振ってみせながら云う中原にはあ、そうですか、としか梶井は返せない。去年の紅葉狩りのお土産だと思い出せたが、それが何を示すのかが分からない。戻るところなんかねえのにな、と呟きが落ちる。 「一般人なんて、やったこともねえのに」 見上げた夏の空は鮮やかな雲を湛えていて、だから梶井は今年も行きましょうよ、と言うだけに留めたのだ。 * 文字書きワードパレット 10 紅葉/戻る/雲 *** 憎き理論を殲滅せよ 困ったことにこの男には目の前のことを優先させる、なんていう機能はついていない。それを知っている中原は盛大にため息を吐いてみせた。 それに、猫をかまっていた梶井が顔を上げる。 「どうしたんですか、中也さん」 ため息なんか吐いて幸せが逃げますよ。科学の信徒だと言って憚らない男にそんな迷信を突きつけられてしまえば、もう放り出す言葉を選ぶのも面倒になった。そのまま頭を預ける。 いつか、いつか科学がこの男を裏切る時が来たら。その時は便利な機能もこの男の中で、目を覚ましたりはしないだろうか。 * 神威 http://nanos.jp/kamuy2/ *** 酒場にて 酒に酔うとこの人は途端に面倒臭くなるなあ、と梶井は思う。いや入っていなくても面倒臭いし、そもそも酒が入って面倒臭くならない人間なんていないのかもしれなかったけれども。 「手前は間違うなよ」 酒瓶が何本も空いていた。既にこの巻き立つような香りだけでむせ返るなあ、と梶井は瓶を机の端に寄せながら思う。良心である広津は暴れ始めた部下たちを黙らせるため席を立っていた。故に、その面倒な人の面倒を見るのは梶井しか残らないのであって。 「間違うって、何をですか」 「何をって、ほら、こう…いろいろあるだろ」 「いろいろって。漠然としすぎですよー」 ほら面倒臭いことを言い出した、と彼の手からグラスを取り上げた。何すんだよ、と言うその人にもうそろそろやめましょ、とだけ言う。 「それだよ、それ」 「だから何ですか」 「お前のそれだよ、きっちりしやがって」 「はい?」 きっちり、とは。 あまりに梶井とかけ離れた言葉のように思えた。とりあえず此処に来てからは初めて言われた言葉だった。 「定規みたいな朗らかさなんざ捨てちまえ」 「なんですかそれー」 「手前の、」 ぐっと。 距離、が。 鼻と鼻が触れ合うように。 「そのスカした面が気に入らねえって、それだけの話だ」 * 出典「酒場にて」中原中也 *** 生命の海 この手から零れ落ちた煙草が、未だ火の消えていなかった煙草が燻ってそのまま何処か紙に引火し、あれよあれよという間にぼうぼうと手の付けられないほどの炎になって街だったものを飲み込んでいく。炎の舌が舐めるように近くまで伸びて来て、それが自らを産んだ親なのだと分かるとすごすごと退散していき、別の人間の生命を食らうように逆方向にぼうぼうと、まさか煙草から産まれたものとは思えないほど強大になって更に街だったものを飲み込み、 「―――い」 一度は躊躇した産みの親にも手を伸ばし、 「梶井!!」 其処で妄想は打ち切られた。 「撤収すんぞ」 「あれ、もうですか」 「オメーの爆弾でコロッと終わった。見えてんだろ」 「あー、見えてます見えてます。もうちょっと強くしても良かったですかねえ、火力」 「それは阿呆な部下がヘマやらかした時が怖いからやめとけ」 「中原さんて割りと部下思いですよね」 「面倒事増やしたくねーだけだ」 眼下は火の海には程遠かった。けれどもその中で妄想と同じように人が死んでいるのは確かで。 「僕もいつか死ぬんですよねえ」 「そりゃあそうだろう、不死なんて人間はこの世にはいねえよ」 「不思議なことですねえ」 今、自分の捨てた煙草で街が燃える妄想をしてたんです、と言うとふうん、と彼は興味なさそうに頷いた。 「手前、煙草は吸えんのか」 「いいえ」 「嫌いなのか」 「いえ、好き嫌いじゃなくて吸えないんですよね」 肺が弱くて、と言うそれが本当のことか、きっと彼にも分からないだろう。もとより梶井のことなど信じていないのかもしれなかった。胡散臭いとはよく言われる言葉だったし、それを気にしたこともなかった。 「―――いつか、」 「はい?」 「いつか吸いさしでよければ手前にやってやらあ」 それで炎の海でも作ればいいだろ、と歩き始めてしまった背中を慌てて追い掛ける。 「待ってくださいよ!」 「待たねえ」 「中原さんのいけずー」 背中では街が燃えていた。火の海には程遠かったが、それでも誰かの死にゆく匂いがしていた。 * 梶井基次郎「泥濘」より *** トランプの王国 「俺の幸福は今長期休暇中なんだよ」 唐突にその人がそんなことを言うものだから思わず建設中のトランプタワーを崩してしまった。あーあ、と残念な声が隠せない。もう一度組み立てようと手を動かしたところで、ばんっとトランプごと机を叩かれた。何枚かが机の下へと落ちていく。 「俺の、幸福は、今、長期休暇中なんだよ」 ポエムを聞き流そうとしたのに繰り返してくるとは一体何がしたいのだろう。 「そうなんですか、はやく帰って来ると良いですね」 「本当にそう思ってんのか」 「思ってますよ?」 中原さんが幸せな方が良いでしょう、と言えば手前がそんなこと言うとはな、と少し不満気だった。どんな答えを期待していたのやら。 「手前なら幸福なんてものは根拠がないとか脳の快楽物質がうんたらとじゃ言うんだと思ってた」 「ああ、そういうものかもしれませんね」 でも別に、幸せの存在を否定はしませんよ、とトランプを拾えば、もう飽きたのか他のトランプを抑えていた手は退けられた。 * 出典「無題」中原中也 *** 人間になる練習 梶井の住み着いている研究室とは名ばかりの家屋に上司がやってくるのは今に始まったことではない。何を作っているのか、ちゃんと首領の命令通りにしているか―――扱いづらいだろう科学者としての梶井を生かすために、この首輪が存在することを梶井はようく知っている。だからこそ上司に時たま言われる人間関係≠ノついて練習もする。実験が落ち着いた日には街へ出て、その辺の女を引っ掛けては様々なことを教えてもらう。 この猫もまた、そうだった。梶井にとってはその辺をうろついている誰の所有でもない猫なんて、腹の中身を見るくらいの意味しかなさそうであるのに、昨晩会った女にどうしてもとせがまれて連れ帰ってきたものだった。 「猫なんて飼い始めたのか」 「押し付けられたんですよ」 首輪もしていませんし、とは言うものの猫は図太いのかそれともこの家屋を早々に住処と改めたのか、梶井が暇そうな時を狙って擦り寄ることもすれば、今だってやってきた上司に向かって爪を見せることだって忘れない。 「爪、伸びてんな」 「あれ、ああ、本当ですね」 猫を抱き上げる際に自分の手も目に入った。上司が今、どちらについて言ったのか、もう、梶井には分からない。分からないけれども会話というのは途切れさせてはいけないと教わった。だから猫の方だとアタリをつけて、その手を差し出し微笑む。 「この手を切り取って差し上げたら、貴方は喜んでくれますか?」 梶井は練習をする。 予測では喜びなどしないだろう、己の上司を練習台にして。 *** ライトオンサンデー 梶中 にゃあと声がして何処から這入り込んだのか猫がそこにいた。よく見ている猫だった。猫がやってきたところで―――例えその身体に何か仕掛けられていたとしても、何も起こらないのが梶井の部屋だった。研究室とは名ばかりの、ただのねぐら。犬のようだと誰かが言ったそれを、梶井はどちらかと言うと猫だろうなあ、と思っていた。 暗がりで、猫の目だけがらんらんと輝いていた。その光の加減でああ夜だ、と思う。思った瞬間にその感覚がどっと梶井に襲いかかり、そのまま身体を弛緩させた。ベッドに倒れ込むと猫が慰めるように擦り寄ってくる。抱き上げても拒絶しない。 夜だった、どうしようもなく夜だった、なのに何かが違うのだ。腕の中の猫は嫌がりもせずに抱き締められる。このまま眠ってしまえる、朝にはいなくなっているかもしれないが。黒い猫だった、首輪もしていない、でも此処から去ることもしない。それはどうしてこんなにもどうしようもない気持ちにさせる。 窓から見える月はひしゃげているように見えた。何処かの重力使いが潰してしまったのかもしれなかった。 * 猫抱きねむる今夜の月だけどひどくおかしな形をしていた / 森まとり *** |