遊星の帰り途 

 僕は科学者であって医者ではないんですけどねえ、と皮肉の色なくほとほと困ったと言うように言ってみせた部下に、知ってらあ、と返すのさえ億劫だった。喉が痛いし頭も痛いし妙に目の辺りが腫れぼったいような気がする。鏡で確認してもそういうことはなかったから、これは単に感覚の問題なのだろうと思う。
「宇宙大元帥に診て貰えば良いじゃないですか」
「手を煩わせられるか」
「なるほど、それで職権濫用と」
「濫用じゃねえよ」
視察ついでだ、と途中で買ってきた食べ物を預ければ、男の部下はわあ! と子供のようにはしゃいでさっさと医者の真似事の用意をし始めた。いつも思うが、こんな反応をされているとまるで餌付けでもしているような気分になる。
「中原さんありがとうございます!」
「これで食費が浮く!」
「浮いた分の食費予算に回せ」
「誰か計算して」
「幹部殿最高」
「いつでも太宰さんとやらへ使う毒とか作りますからね!」
「毒と言えばとりあえず抗生剤だけ先に出しとけよ」
「前作ったのいつでしたっけ」
「今から作るかー」
「賞味期限切れてそうですもんね」
「ていうか風邪ですか? インフルとかじゃなく?」
「インフルでもどうせ全員此処に寝泊まりしてんだからアウトだよ。っていうか風邪の時点でもーアウト。全員いつも以上に殺菌滅菌健康チェックリストー」
「あはは、中也さん、冗談なので気にしないでくださいね」
「もうインフルの方が此処で隔離されることになるから実験捗るんじゃね?」
首領(ボス)、そういうところ厳しいよな…」
「まあ医者だし」
「この間残業手当見たらとんでもない額出てた」
「びっくりしてそのまま研究にブチ込んだんだろ?」
「お前もかよ」
「だって使いみちねえもんな〜」
「予算はあっても足りないもんは足りないし実験したいし」
「梶井室長〜、結局何なんですか」
「今診てるでしょ、カルテ書き終わるまで待ってなって」
「梶井さんてドイツ語書けるの?」
「最近のカルテ英語の方が多いよ」
「そもそもカルテ書く必要なくね? 梶井班長別に医者じゃねえんだから」
うるさい。
 学校というものに中原はとんと縁がなかった訳だが、こういうものだったのだろうな、と少し予想がついた。行かなくて正解だ。
 好き勝手に呼ばれている梶井は、一通り中原の喉の様子を診たり、熱やら脈拍やらを測ったりしていた。それから典型的な喉風邪ですね、と言う。
「熱結構あるんで点滴打って行きますか」
「点滴あんのか」
「まあ、………ええと、はい」
「なんで濁した」
「ちょっと倒れる人間が多すぎて医療班から皮肉と共にプレゼントされたものだったので…」
「医療班…ああ…あったな…」
「あれ、本気で忘れてたんですか」
「手前のところなら大体なんでもあるだろ」
「何でもはないですよ」
仮眠室掃除して、と言われて数人が走っていく。そこまでしてもらわなくても良い、と言おうとして、いや病人は黙ってされるがままになっててくださいよ、と注射針が出て来た。
「あれ、中也殿、注射器は刺さりますよね…?」
「俺のことなんだと思ってるんだよ」
「象が踏んでも壊れない幹部殿」
「………強ち否定しづらいところだな」
「刺さるんですよね?」
「先に言ってもらえればちゃんと刺さる」
「なんですかその、いつもは刺さらないみたいなの…」
摩訶不思議ですよね、と言いながらさくさくと点滴の用意が整った。血管を見つけるのが上手いのか、針が血管内に入った感覚もあまりなかった。
「痛みはありませんか?」
「特に」
「なら向こうも片付いたみたいですしちょっと寝ててください」
「いや、」
「氷枕もありますから」
「………なんで?」
「必要だからですかね!」
これは労働状況を一度抜き打ちで調査すべきだな、と思いながらここは大人しくしておくことにした。今は急な任務も何もないし、恐らくどうせこの後梶井が首領に連絡を入れてしまうだろう。ならば、緊急時以外呼び出されることはないだろう。此処で休んでいくだけの時間はある。
 ベッドに潜り込みながら梶井が点滴の調節をしているのを眺める。
「中也殿でも、」
扉をちゃんと閉めたのは、中原だった。
「風邪を引くんですね」
「手前…」
だからこの会話が二人だけのものだと分かっている。
「何処まで何を知っている」
「おやあ、僕に知られたくないことでもあるので」
「さあ、な」
「すみません、喉風邪でしたね」
げほ、と鳴った喉に梶井は珍しい真顔を晒してからこれで大丈夫ですから、と言った。
「一応緊急アラームだけはちゃんと鳴るので」
「おう」
「眠ってて大丈夫ですし、僕も外に出る予定はないですから」
「予定、出来たら背負っていけ」
「それは無理ですよ………」
だからちゃんと断りますよ、と言う梶井の、真意は正直なところ掴めていない。
 梶井は中原の部下で、恐らく恋人という存在で、けれどもそれ以上でもそれ以下でもないのに。
 普通、体調の悪い時は自室などでじっとしているのが当たり前なのだろう。中原だって買い置きの風邪薬くらいは持っている。だと言うのに、結局どうしてかこんなところに来てしまっている。仮住まい(セーフ・ハウス)は幾らかあったし、どれも安全だと言えるのだから何処で休んでも良かったはずだ、それだと言うのに足は勝手に研究室に向かったし口は勝手に薬、と用件らしい用件を紡ぐし、梶井も梶井で特に疑問を持った様子もなくこうして求めた仕事をやってのけるし。上司としてちゃんと使ってやれているのか、それとも甘やかされてしまっているのかの判別もつかない。
「………手前の所為だからな」
「ええ? この場合風邪を引くかもしれなかったのはいつもいつも布団を全部剥ぎ取られていた僕の方では…あ、そうそう、話は変わるんですが中也殿意外と寝相が悪いって知っていました? 僕は何度頬にその足の裏をぴたりとつけられたことか」
「はなし、かわってねえだろ…」
そういえばそういうこともあったな、と思いながらでもきっと、中原の仮住まいにも梶井のそれにも二人分の布団は置かないのだ、と思ったらなんだかよく眠れるような気がした。



こなぐすりぶちまけざまにほしのこえ こんな荒野に生みおとされて / 佐藤弓生

***

遊星の置き土産 

*「遊星の帰り途」続き

 その部屋に呼び出されることは少なくはない。中原は梶井直属の上司としてあれこれの橋渡し―――というよりかは商売の元締めと言った方が正しいのだろうか―――を担ってくれているけれども、それは所謂管理の話であって、実際に何をしているのだとかこういうものが出来ただとかこういうものを作りたいだとか、そういった予算の絡む話は直接に宇宙大元帥ことポートマフィア首領の森のところへと梶井が赴くことになっている。普通であればこれは予算会議などにかけられるべき案件であろうし、いや、一応そういうものもあるのだけれど大抵そういう場では梶井は置物に徹しているので、事実上此処での会話がそのまま予算に直結する。置物に徹しているのは中原にそうしていろ、と命じられたからだし、まあ確かにあそこで梶井が喋りだしてしまうと長引くのは目に見えているので中原の指示は適切であるとは思っている。
 しかし、今日の用件は分からなかった。
 こういった会話はこの間したはずだった。予算だって、まあ研究室の面々がそれなりに納得する額を出してもらうことが決定していた。では、それが覆ることにでもなったのだろうか。ポートマフィアが資金繰りに手間取るとは思えなかったが、もし敵対勢力などが新たに出現したのであれば一番最初に削られるのは自分のところの予算であることを梶井は分かっている。
「梶井くん」
梶井を呼んだその声は、ひどく呆れの色を伴っていた。何故、と思う。悲鳴を上げなかっただけ梶井は我慢を覚えたのだと思う。以前ならきっと上げていた。
「私は君の能力を買っているよ。だからこそ、研究室に予算を下ろしている。君と、君の部下がちゃんと生活をして研究を出来るようにね」
「ええ、ええ、分かっています! 宇宙大元帥殿!」
しかし何故そんな声を出されたのか分からずに、とりあえず今出来ることを、と大きな声で返事をした。良い返事だね、と森が笑う。しかし本当に笑っている訳ではない。
―――怒っている。
今まで何をやっても何をやらかしても怒らなかった彼の、その怒気に殆ど初めて触れて、梶井は動揺していた。今動揺せずに一体何処でするのだろうか。何か別のものに向けられる怒気を感じたことはあっても、こうして身を以て向けられることはなかったのに。何がいけなかったのだろう、このまま、梶井は彼に捨てられてしまうのだろうか。
 と、そんなふうに思っていた梶井に、森は笑みを湛えたまま続きを言った。
「分かっているなら予算の使い道に関して何か言えることがあるね?」
沈黙が落ちる、予算の使い道。何かまずいものを研究員が買った、とかだろうか。いや、そんなことで森が怒るはずがないのだ。最初何でも買ってあげるよ、と言われて人工衛星でもですか!? と言った時だって苦笑で済ませたくらいだったのだから。
「………ええと、その、………すみません、分かりません………」
何か監督不行き届きがあって、それを今梶井が理解していないのであったら、きっとこの人を失望させてしまうだろう。そう思いながらも嘘を吐くのはもっと良くないと思ったので、そのまま素直に分からないことを告げる。と、森はそう返すだろうと思ったよ、と言った。それから頭痛がする、という姿勢(ポーズ)を取った。
「中也くんから聞いてね」
「中也殿から?」
何をだろう。
「君のところに食べ物を差し入れに行ったら、これで食費が浮いたからその分の予算を研究に回せ、と言った研究員がいたそうだね」
確かに、いた。けれどもそれの何が―――と思っていると、ため息が落とされる。
「足りないなら足りないと言えば私だって増額を考えるのに」
「いえ! いいえ! ああ、いや…足りていないと言ったらそれはそうなのですが、それはいつどのような時にも付き纏う命題でありまして、言葉を選ばずに言えば予算などどれほどあっても足りないのです。ですので、ええと…頂いた予算の中で研究をするのは当然として、それを如何に上手く使うかというのは我々にとって死活問題でありまして…その………」
一応ちゃんと食事は摂っています、摂らせています、と蚊の鳴くような声になた梶井に、森は再びため息を吐いた。
「分かったよ」
 食事を摂っているならまあ、良いだろう、と言う。ついでに医療班からも苦情が上がってきてるからね、と言われてしまえば気をつけます! と返す以外になかった。
「君と君の部下の給料の使い道までには口を出さないことにするさ」
「そうしてくれると嬉しいです…」
なにせ、本当に研究しか頭にないような馬鹿ばかりが集まっているのだ。梶井もそのうちの一人である。一応恋人がいることを考えたら、研究しか≠ニいうのは嘘になってしまうが、頭の大半はどうしたって研究のことでいっぱいになってしまうのだからもう、そういう生き物として諦めてもらう他ない。
「だからちゃんとした生活をしなさい」
「せいかつ」
「そう、生活だよ」
出来るね? というそれは問いではなかった。出来るようにしなさい、という意味だった。だから梶井は努力します、とだけ言う。努力させます、とも。これを持ち帰って研究室で伝達する時が一番大変な気がする。何故なら梶井もいまいち納得をしていないので。
 何か褒美がもう少し必要だと思ったのか、森は片眉を器用につり上げてみせた。
「君がもう少しちゃんとしたら、中也くんとの休みをもっと合わせてあげよう」
「はい?」
「あれ、君たちはそういう関係じゃあなかったのかな」
「そうですが…休みを合わせなくても中也殿は好きな時に来ますし…」
「………梶井くん」
今度は真顔だった。
「悪いことは言わないから、時々は君の方から様子を見に行ってあげなさい」
「中也殿がそんなことを気にしますかね?」
「新しい発見があるかもしれないよ」
「うーん…分かりました。宇宙大元帥がそう言うのであれば」
「じゃあ、当面の間は努力期間として大目に見るけど、あまりに改善がなされないようだと見張りをつけるからね」
「それは…そうですね、邪魔ですね」
「そう思うなら努力をしなさい」
「分かりました」
頭を下げて、部屋から出る。
 そして、先程言われたことを思い出す。もし、これから梶井が中原のもとを訪れたら、中原は一体どんな顔をするのだろう。
「………確かに、面白そうかもしれない」
そんなことを呟きながら、エレベーターの降下ボタンを押すのだった。

***

闇は其処で待っている +梶モブ(女)

 真夜中だというのに携帯の音がした。何処かメロウなその曲に、覚えてしまった曲に、中原は目を開ける。
「起こしましたか」
「偶然だ」
「子守唄みたいなのにしたのに」
お呼び出しです、と画面を見せられる。会いたい、とただそれだけの文面。
「梶井」
「なんですか」
「行くのは別に良い。それが仕事の一環だってのは理解してる」
「はい」
「だからせめてキスしていけ」
 驚いたように、眼鏡も何もしていない瞳が見開かれて、何にも遮られないものだからそれは中原からよく、見えて。
「お望みのままに」
 この後、この男と接吻けをする女の中に、少しでも中原が紛れ込むことを考えたら、このまま二度寝することくらい簡単に思えた。



真夜中の着信音は迫り来て心のやみは手に負えなくて / いくすけ

***

君の夢(ぼくのゆめ) 

*アリスと蔵六雑感パロ

 この力がアリスの夢と呼ばれているのだと、そういうことを知った時、中原の唇からこぼれ出たのは自嘲だった。まあ、薄々勘付いてはいたけれども、こうして言葉にされると違う。何も知らない人間から言われるそれと、何もかも知っている人間から言われるそれと、大して差はないのだな、とそういうことが分かったのだけは良かったのかもしれないけれど。夢、夢、夢。そんな名前をつけた人間共のその感性に吐き気すらする。
「夢で何もかも潰しちまうって? ハハ、そんなの…」
これの何処が夢だ、誰の夢だ、そんなことを喚き散らしたくなる。
「ただの兵器じゃねえか」
 夢。
 辞書で引いたら出てくるそれに、きっと兵器、という説明はないはずだ。
 だと言うのに、ひょこり、と瓦礫の中から這い出した男はいやあ、と頭を掻いた。
「人間じゃないですか、中也殿」
「………梶井、生きてたのか」
「これでも頑丈なので」
「ほんとだな」
「あちこち痛いですけど骨折とかしてませんし、なんか瓦礫とか降ってくる直前に中也殿が引っ張った感じですか?」
「知るか」
「ありがとうございます〜」
おかげでパソコン無事でした、と見せてくる梶井は、一応は部下という形だが、そもそもなんでこれが寄越されてるのか分からない。
「………お前は」
「はい」
「なんで此処にいるんだ」
「エー。何度も言いましたけど中也殿の部下だからですね」
「なんで部下になった」
「あれ? 聞いてないんですか?」
 首を傾げられる。その仕草をしたいのは中原の方なのだが。
「僕、中也殿のファンなんですよ」
「………は?」
「だから、街中で戦う貴方の姿を見て、心を奪われまして、まあ追っかけをしてたんですよね。宇宙大元帥にはストーカーだって言われましたけど」
「ストーカー………」
「その途中で宇宙大元帥に出会いまして、まあこれは別の意味で運命的な出会いだったのですが今はそういう話ではないと思うので端折りまして」
「ああ、そうだな…関係がないな…」
「そんなに好きなら部下にしてやる、って言われたんですよね。そもそも僕の追っかけ行動が結構宇宙大元帥からしたら邪魔だったようで」
「そりゃあそうだろ」
「でも見ての通り僕は優秀なので」
「自分で言うかと言いたいところだが実際そうなんだよな…腹立つことに…」
「殺してしまうより安全圏に引き入れた方が良いと判断されて今此処にいます」
思っていたよりもとんでもない話だった。
「………ええと、何だ。つまり、手前は、」
「バカスカ暴れてた頃の中也殿からの追っかけですね」
「それでも?」
「それだからですよ。その―――そうですね、向こうに倣って夢と言っておきますが、エネルギーの法則くらいは中也殿でも知っていますよね? 雑に言うと無から有は出来ないんです。だから何にでも元がある。中也殿のその力だってどっかから引っ張って来てるものなんですよ。実際力使ったあとの中也殿っていつも空腹を訴えますし、食べる割には体重が異様に増えたりしないですし。仮説として、何処かから引っ張ってきてるエネルギーがあるとして、それを人間の身体に馴染ませるワンクッションがあって、空腹はそれを補うための措置、なんじゃないかと僕は思ってるんですけどね」
「人間」
「中也殿は人間ですよ」
 よいしょ、と立ち上がって梶井が笑う。
「血液採取させてくれたじゃないですか。まあ何本か注射針逝きましたけど」
アレには笑っちゃいましたね、と言われてそういえば最初会った時の健康診断で高笑いをしていたな、と思い出す。
「良いじゃないですか、象が踏んでも壊れない中也殿」
「逆だろ。象も潰しちまう俺だよ」
「それは加減によるでしょう」
 潰したくないなら潰さなければ良いし、潰したいならそうすれば良い、と梶井は何でもないことのように言う。
「気になるなら加減でも何でもしたら良いじゃないですか。そんなの中也殿の勝手ですよ」
僕はそれを追いかけて記録してそのうちに解明したいだけなんですから、と。
 この何処か螺子を置いてきたらしい男は、そんなことを底抜けに明るい声で言う。
「梶井、」
「はい」
「お前の夢は」
「そうですね―――」
一応敵の位置全部あぶり出せましたが必要ですか? と問われて、この馬鹿馬鹿しい会話の間にもそんなことをずっと進めていたことに、今度は中原が笑う番だった。
「とりあえず此処を無事脱出して、中也殿と帰ることですかね!」
わはは! 絶望的ですね! と言ってみせた馬鹿を一発殴ってから、何が絶望的だよ、と小脇に抱えて飛ぶ。
「梶井ィ!」
「はい、なんでしょう」
「ぜってえめちゃくちゃ腹減るから手前が料理しろよ!」
「ビーカーとか使って良いながら帰って直ぐ作りますよ」
「言質取ったかんな!」
―――夢。
 未だその言葉の緩やかさには慣れないけれど。
 どうせこの力を使う中原が人間であるのなら、どう受け取ったって構いはしないのだ。

***

一目で分かる所有権 R18

 息があがるようなことはしないが、それでも荒く汗ばんだ色の中で非難するような声が上がった。対面の梶井からである。中原と言えばその膝の上に陣取っており、更に付け加えるのであれば双方とも全裸であって、ベッドのシーツなんかは見るも無残なほどにぐちゃぐちゃで、この現場を見たら言い訳も何も必要ないくらいにセックスの最中だと理解させるに事足りる光景だった。まあ、別に此処に踏み込んでくる人間などいないのだろうが。
 そろそろ終わりが近いのを分かって、それがひどく名残惜しくなって、中原は回した腕を少しずらしたのがお気に召さなかったらしい。
「中也殿、ちゅうやどの、」
「ん、」
「お願いですから肩噛むのやめてください」
「んー」
「痛いの嫌なんです」
「でも、こっちのが、手前の反応が、良い」
「人を被虐趣味者(マゾヒスト)みたいに…」
実際その気(け)はあるだろうが、とは思ったものの、真っ向から指摘しても上手くはいかないことを中原は知っている。別に上手くいかなくたって良いのだろうけれども、この男はどうにもふらふらしているところがあるので。繋ぎ止めておかなければ死ぬ、という訳でもないが、だからと言って逃げられるのも気に食わない。梶井がそんなことをするようには思えなかったが、楔は打てる時に打っておくのに限る。
「なんで」
 再び肩に歯を立てながらも、それを無理に引き剥がそうとしないのは賢いな、と思った。単純な力の差で梶井は中原に敵わない。それに、無理に引き剥がそうとされれば逆に余計強く噛み付いてやろうと思っていたので、これは正しい判断だった。残念、と思いながら言葉を綴る。
「紡錘形じゃないとだめなのかよ」
俺じゃだめなのかよ、と拗ねたような音を出す。演技だとバレても良い、というか演技でこういうことを言える人間であることを知って欲しかった。そして、その後の対応で困らせてやりたい。勿論、そして以降が本音だ。
「………それを、」
ぐしゃ、と自分の髪をかき上げるようにしながら梶井が唸る。
「言われると反論出来なくなるの分かって言うの狡いですよ」
「使えるものは全部使う」
「セックスの時にも?」
「大事だろ」
「そもそも紡錘形に対する思いと貴方への感情というのは全く違うものでしてね、」
「御託は良い」
「いっ、…た………」
 随分痕になったな、と思う。前につけたものは既に消えている。性欲への割り振りが少ないのか、会ったところでセックスをする回数は少ない。それに文句がある訳ではないが、だからと言って、というふうに思考が同じ場所を巡り始める。
「僕にだって部下がいるんですよ」
「知ってる」
「その部下に肩の怪我の理由察されるのは流石にいたたまれないんですよ」
「手前にもそんな気持ちがあったとはな」
「僕のことなんだと思ってるんで?」
「俺の部下で恋人」
「その前に僕は宇宙大元帥の―――」
 あ、という声がした。誘導されたことに気付いたらしい。流石に普段あれほど破天荒を振る舞う梶井とて、その辺りのマナーはわきまえている。
「それ以上言うなら、」
すみません、と言われるよりも先に用意していた行動をなめらかに起こす。
「次は首を噛む」
ひた、と充てがわれたそれに、梶井の喉が鳴ったのが聞こえた。中原の体内に挿っているのは梶井だと言うのに、こうなってしまうのはまるで蟷螂だった。中原は自らのことを雌と称したいと思ったことはないし、梶井を給べてしまおうと思ったこともない。それでも傷を作ってやればやるほど、その翠の昆虫が浮かんでしまうのだから。
 何も遺すつもりもないくせに。
「―――ッ、う」
血の味がする。
「な、にも言ってない、のに…」
「良かったなあ、梶井」
つう、と自らの歯型をなぞる。
 その痛みに呼ばれるように中原のなかでそれが反応する。流石に一回じゃあ躾けは出来ないか、と思いながらもう一度口を開ける。
「ま、って、ちゅうやどの、変なこと考えてませんかっ?」
「セックスは変なことに含まれてるんだろ?」
「そうじゃなくて、そうじゃなくってです、ね…ッ」
「ほら、梶井」
―――だしちまえよ。
 今度はガリ、と音が聞こえたような気がした。
 引き攣ったような悲鳴にもなれない声がその喉から聞こえて、どくり、と吐精された感覚に引っ張られるように、精を吐き出す。
「ハハ、」
口の中に広がる血の味に笑いながら、とりあえず首輪みたいだな、と笑っておいた。

***

宇宙空間にさよならは要らない 

 手前にはこの上なく似合わねえ仕事だったな、と素直に感想を漏らせばそうですかあ? と気の抜けた声が返ってくる。
「だって神の話だぞ」
「まあ、神の話でしたね」
信じるだけで死ななくなるんだったら、それはとてもコスパの良いものですよねえ、と笑ってみせる男の信じる≠ニいう行為が、少なくともこの会話においては洗脳や電気実験に紐付いているだろうことは聞かなくても分かる。
 毒されたな、と思いながらもこの襟首を放すことをしないのは、それをしたくないと思っているからだ。
「ああ、痛」
「何してんだ。コケたか?」
「いえ、なんか落ちてたので拾ったんですが」
料理教室でも開くつもりだったんですかね? という軽口は流すことにした。本来は野菜の皮を剥くためのそれに奪われた少しの爪と、角度が悪かったのか滲み出た血。今が針の過ぎ去った時間でもそれくらいは見える。
 だから、手を取った。抵抗はない。
「…美味しいですか?」
「まったく」
「でしょうね。僕、この間の健康診断で呼び出しを食らいまして」
「それは自業自得だろ」
口の中には鉄の味すら真面に残らなかった。それを思うと、なんだが妙に空虚な心地になるのだ。



真夜中をすこし過ぎたころ、新興宗教の施設の跡地でピーラーで爪を削ってしまった話をしてください。
#さみしいなにかをかく
https://shindanmaker.com/595943

***

恋人たちの午睡 

 時間切れ(タイム・リミット)だ、と背後から迫ったその声から逃げることが出来ないことを梶井は身を持って知っている。知っているからこそ、その声は懇願のものになる。
「中也殿! あと少し! あと少しなんです!」
「手前のあと少しを待ってたら三日経つだろ」
「そんなことは流石に! 三時間です!」
「悪ィな、三分も待ってやれねえ」
その言葉を聞いた方が早かったのか、それとも後頭部を掴まれた方が早かったのか―――梶井には分かりはしないが力づくで振り向かされる。
「中也殿! 此処は研究室でしてね!?」
「知ってらあ」
「あのですね! 僕にだって部下がいまして、いつも中也殿がこうし…て無理に寝かせようとするので生暖かい目で見られるんですよ!」
「良いじゃねえか。見させとけ」
「中也殿に寝かせてもらいたくて徹夜する人間が出て来たらどうしてくれるんですかあ!」
「手前でもそんなおべっかが使えたとはな。安心しろ。此処の連中には言い聞かせてある」
「根回し済み!?」
「だから安心して―――」
―――寝ろ。
 その言葉と共に合わされた唇から、知らない味が入ってくる。
「う…何ですか、今度の…は、」
「コンビニの新商品」
「不味い…」
「美味い栄養剤があってたまるか」
「しかし、でも、ですね…飲む、こうばい…そう、が、いて、こその、しょうひ、ん…」
「もう立ってるのもつらいか。ソファ行くぞ」
「なんで…そん、な、たのし…」
「そりゃあ楽しいからだよ」
今までそんなものに頼って来なかったからか、栄養剤の類を飲まされるとどうしたって梶井の身体は睡眠へと向かってしまう。そういう効力はないはずだったが、どうしてなのか自分の身体を確かめてみたいのに。眠ってしまうのであればそれも出来ない。
 その間普通に仮眠室に放り投げてくれるのであればまだしも、残念なことにこの恋人兼上司はそんな可愛らしいことはしてくれない。
「手前が俺のモンだって自慢する機会少ねえからなあ」
「こ、のあい…だ…だざい、さん、というひと、から…でん、わが…」
「あ?」
「けい…たい…、なん、で…?」
「あーその話は起きたら聞く。今は寝ろ」
 研究室のソファに中原が座る。梶井は手を引かれるままに倒れ込む。その、倒れ込む先が問題なのだ。いつだって同じだから困る。やめてくれと言ってもじゃあ徹夜やめたら良いよな? と言われるだけで根本の解決には至らない。いや、中原の言う通り梶井が徹夜をやめたら良いのだろうと思うが。
「うー…」
「良い枕だろ。安眠保証つきだ」
「はら、たつ…ことに、きんに、く…が、ちょうど、よくて…」
「だろ」
「クソ…」
防護眼鏡を外されれば視界いっぱいに中原の顔が見えた。ひどく楽しそうなこの様をみていると、どうせ徹夜をやめたところで他のことを思いつくのだろうなあ、と思う。
 …別に、嫌ではないのだけれど。
 これでも一応人の視線というものを気にする機能が梶井にだって備わっている訳で。世間様からどのような目で見られようとも、部下からの生暖かい視線に匹敵するものはないだろう。…と、まあ、つべこべ言ったがつまり、恥ずかしいのだった。とんでもなく恥ずかしかった。
「…あー、うん…」
値段を聞きたくないような服に皺がよるんじゃないだろうか、と思ったけれどもその辺りは中原の自業自得だ。知ったことか。
「何か分かったのか?」
「んー…、ちゅ、うやどのの、こと、すきだなー…って」
「それ今度素面で言えよ」
「むり…」
「じゃあこれ次もやるからな」
「それは、………」
考え直してください、という言葉は睡魔に飲まれた。

 起きたら中原が膝枕をしたまま転寝をしており、予定より三時間ほど動けなかったのはまた別の話である。

***

it’s a small world!! 

 似ていますねえ、と何処となく気の抜けたような声が足元からしたと思ったら、本当に蹲み込んでいたから流石にビビった。並大抵のことでは驚かなくなったと思っていたけれども、何の因果か押し付けられたこどものような年上の男のその自由極まりない行動には驚かされっぱなしだった。驚かされているのにその行動に制限をかけないままでいるのだから、何を言うのも違うので黙ったままでいるのだが。
「何が、とは聞いてくれないんですか」
「聞いて欲しかったのかよ」
「聞かれると思ったので」
「じゃあ、何が。何に」「これが、貴方に」
 表面張力も美しいですよ、と続けられる。
「まあ、至上たる紡錘形には敵いませんが!」
「あー、うん。そうだな」
「…あしらい方雑になってませんか?」
「気付いてたようで何よりだ」
そこまで馬鹿じゃねえもんな、とその頭を撫でたら僕年上なんですけど、と文句を言われたのでそのままつむじを強く押しておいた。

***

カテリーナの廃墟 

 まるで実験室のようですね、と横で呟かれたそれが面白みのある色ではなく、単に事実を述べ、そしてそれに羨望のようなものを滲ませているのがそれこそ一瞬で、分かってしまったから何を言うことも出来なかった。ただ、余ってしまったから、と処分を命じられたチケットの示す先が植物園であっただけで他に意味はなかったし、これをくれた(くれた、ということにしておく)男だって別に何か難しいことを考えていた訳ではあるまい。
「…そうだな」
 だから此処は同意だけしておいて、次は自分でオペラのチケットでも取ってやろう、と思った。

***

いつか忘れることだけど(ねえ、そうでしょう?) 

 どうしてこの上司は勝手に人の仮住まい(セーフ・ハウス)に我が物顔で入り込んでいるのだろうなあ、と思う。あとついでに勝手にベッドの上に寝そべっているし。此処は紛れもなく梶井の家であってそれは梶井のベッドであるのだが、気付いたら布団が二段ほどグレードアップしていた。二段、ということにしておきたい。値札なんて見せられた日にはそれを研究室の予算に回したら一体どれくらいのことが出来るようになるか、という計算を脳が始めてしまいそうなので。
「おう、おかえり」
「只今戻りました…って、此処、一応僕の家なんですが」
「知ってる」
「そういうことを言っているのではなく」
「風呂溜めといたぞ」
「ありがとうございます…って中也殿、貴方一応上司ですよね? 部下の家で何やってんですか? 普通それって部下にやらせるようなことでしょう」
「ア? 俺が風呂溜めちゃ悪ィのかよ」
「そうは言ってませんが」
「早く入って来い」
「そうではなくてですね」
「お前の家なんだろ」
「ええ、ハイ、そうですが」
「あと仕事はもう終わってる」
「はい。だから家に帰って来たんですが」
「なら上司と部下は一旦休みだろ」
マフィアなんてものがどうして二十四時間三百六十五日営業ではないのだろう、と少しばかり思ったが、もう何を反論するのも馬鹿らしくなってしまって、ご厚意に甘えます…と言い残して風呂へと向かう。
 確かに、梶井と中原は恋人同士であって、マフィアにおいては部下と上司であっても就業時間というものが一応ある手前、それを過ぎて家に戻ってしまえばその関係も休み、というのは分かる。分からなくもない。これまでどんな弁舌でも敗けない自信があったし、そもそも研究の予算の話においては中原にだって弁舌で敗けたことはないのに、この有様である。これまで恋愛をしてこなかった訳ではないが、今までのどの論法に当てはめても、梶井自身ですらどうして中原と付き合うことになったのかよく分からないでいるのだ。別に、流されたとか真剣でないだとか、そういうものではないのだが。
 上から降ってくるシャワーの水滴を全部冷水にした方が良かったか、と思いながら、前に一度やって、戻ったところで身体が冷えていることに目を釣り上げられたことを思い出した。そのあと正座をさせられたことも。折角湯まではってくれたのだ、甘えておくべきだろう。それでなくても徹夜案件続きで疲れているのだから。
「………ああー、」
思ってからやっと気付く。
「だから、甘やかされてるんだ」
 そう思ったらやっていられなくなって、シャワーもそこそこに湯船に沈んだ。
 ぶくぶく、と自らの息が泡になっていくのを暫く眺めていた。

 ちゃんと身体があったまったのを確認してから出る。
「中也殿、栓どうしますか」
「もう入ったから抜いて良い」
「じゃあ掃除しちゃいますね」
「ああ」
この会話では本当にどちらが家主なのか分からないな、と思った。けれどもまあ、どうせ仮≠ネのだ。どちらが家主のような顔をしていても問題はないだろうし、そもそもどのセーフ・ハウスも中原には筒抜けなのだ。部下の管理は上司の仕事、それが分からない梶井ではないが。
 掃除を終えて、換気ボタンを押してから戻る。
「ちゃんとあったまったのか」
「はい」
「じゃあベッドに入ることを許す」
「僕の家なのに…」
「冷たいやつに横にいられたくねえんだよ」
「中也殿って結構体温低いですしね」
「でけえ湯たんぽだな」
「そこまで言ってませんが」
当たり前のように腕を伸ばしてきた中原の、その身体が梶井の身体の凹凸にぴたり、とはまるような気がしてしまった。見ようによっては縋られているようにも見えるのだろうな、と思う身体はいつも見ているよりも小さく、ああ、この人は年下なのだと思い出す。こんな時でなければ思い出せない、というのもどうだろう、とは思うが、それだけ普段は頼りになる人なのだ、と思うことにした。頼れる上司、というのは悪くない。
「んー…」
「なに」
「セックスしたいなって思って」
「するか?」
「いえ、眠気が増してきたので良いです」
「遠慮しなくていーのに」
「中也殿が遠慮してくださいよ…」
明日だって別に遅くて良い訳じゃないのに、と言うと起きれば良いだけだろ、と返される。
「体力馬鹿…」
「なんだよ研究馬鹿」
 そうは言っても動かない辺り、ちゃんとこちらの体力を考慮してくれているのだろう。
「研究馬鹿の方が都合良いんじゃないですか」
「じゃあ檸檬馬鹿」
「あ、今のそれ良いです。もう一回言ってもらっても良いですか」
「嫌だね」
しないなら早く寝ろ、と瞼に唇が落とされた。こういう細やかな仕草がモテるのだろうなあ、と思わせる。まあ、別にモテても、というのは本人談であるし、梶井も気にしている訳ではないけれど。
「ちゅうやどの」
「なに」
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 起きて一番にこの人の顔を見ることが出来るのはきっと特権中の特権なのだろうな、と思ったらとりあえず、良い夢が見られそうな気がした。

***


20190921
20191226