確定する明日(あす) どっか行きます、と言っても別に良い、と言うその人は一体何がよくてこんなところにいるのだろう。それは場所という意味でもそうだったし、梶井基次郎という男を捕まえて恋人なんて地位に押し上げたことについてもそうだった。別に梶井は自分がそう価値のない人間だとは思わないが(なにせ天才であるので)、だからと言ってこの人の好みに合致するか? と問われてしまえば答えは否、としか出せないのだ。 勿論、恋愛というものはそういった理論が効かないことだってあると分かってはいるのだけれど、やはりでも≠ニ続いてしまうのが現状だ。 「中也殿は、」 「あん?」 「どうして、付き合うだとか言い出したんですか」 身体を重ねたからと言って、このモテにモテまくる男がいちいち責任だの何だのを言い出すことは有り得ない。し、文脈的に言えばそういうことを言い出すのは梶井の方であるはずだった。組み敷いた、とはどうしたって言えないものではあったが、同意の上であれ突っ込んだのは梶井の方なのでまあ、傷物にした、だとかの表現だって間違いではないだろう。 「なんだよ、理由でも欲しいのか」 「理由が欲しいというか、何か喉に小骨でも引っかかっているようで」 「―――俺が、」 するり、と伸びてきた手が頬を撫でてから眼鏡を取り去る。 「手前のことが好きだから、じゃあ足りねえのか」 だからその理由を聞いているのだったけれど、唇を塞がれてしまえばそれ以上は問えないのだった。 * image by「ぼくが死んでも」寺山修司 *** 二極化のためのミルク 今まで特定の人間が長く傍にいる、なんてことはなかった。それなりに社交性というものは見ていれば身につくもので、それをやるかどうかというのは別問題で、つまり何が言いたいかと言えば必要な時にはやることが出来るのだと、この人は知っていて、それをやらない梶井のことを煩わしく思っているのだと、そう、信じていたのに。 「………中也殿、」 「ん、なんだよ」 「此処は僕の部屋のはずですが」 「合鍵作った」 「理由を聞いても」 「部下の合鍵を持っておくことに理由があるか?」 あると思うが、どうやらこの人の中ではなさそうなのでもうこの件については触れない。が、他にも追求すべきことはある。 「何で人のベッドに潜り込んでるんですか」 「手前、俺が潜り込んで起きねえのやばくね」 「そういう問題ではなく」 「別に良いだろ。なんか困ることでもあンのか」 抱いたくせに、と言われてしまうとそれは勿論そうであって記憶もしっかり残っているし、半ばノセられたとは言え最終的に選択をしたのは自分であるのだし、その点については否定しないけれど。 「何ですか、たった一度でしょう」 「は? ヤリ逃げすんのかお前」 「ヤリ逃げて…中也殿の方がそういうの手慣れてると思ってたんですけど」 「手慣れてるからこそ先手を打ちに来たんだよ」 「何の」 「手前が逃げられないようにするための」 「は?」 「どーせ、気の迷いだとか気になるならやめますとか異動とか言い出すと思って首領に先に掛け合っておいたから安心しろ」 何一つ安心出来ないのだが。 どうやらこの人は、この上司は。梶井を手放すつもりがないらしい。それは研究者目線で言えばそれなりに好都合なはずだったが、この分だと恋人、最低でもセフレ程度にはこき使われそうで困る。 「………一度寝たくらいで彼女面ですか」 「手前が抱いた身体が女に感じたならそれは大問題だと思うが」 「いいえ何処からどう見ても男でしたがそういう問題ではなくでしてね!」 「まあ別に良いだろ、ちょうど良い首輪だと思えば」 人の拒絶などものともせずにくあ、と欠伸をするその人が、次に何を言うか、梶井はもう分かっている。 「梶井、珈琲」 「僕は珈琲じゃあないんですけど」 「手前がそういうこどもじみた言い返し方をするってことは俺の勝ちってことで良いんだな」 勝ち負けの問題ではないと思うのだけれど、結局のところ持ち出された問題については向こう方の思い通りになってしまいそうだったので、はいはいもうそれで良いですよ、と立ち上がる。 以前は角砂糖を二つ入れたけれど、今日は流石にささやかな抵抗として何も入れずに飲んでもらおう。 * むなしさを忘れるために用意した部屋で迎えた朝はむなしい / 朔夜ちる *** カリカチュアの聖杯 てんてん、とボールが転がっていく。この研究室で最近まで飼っていた犬のものだった。別に誰かが買ってきた訳ではなく、辺りに落ちていたものを拾ってきたものだと聞いている。しかし、こんな場所で動物を愛玩するために飼う、なんてことは当然ないはずである。だから、こうなることは分かりきっていた、はずだったのだけれど。 ―――思っていた表情と違うな。 中原の思ったことはそういうものだった。 手に余る、と言ってもそろそろ許されそうな部下、梶井がそんな犬のことをどう思っていようと関係がなかった。こいつならば笑いながら殺しても可笑しくはないな、とは思っていたけれど。想像よりもその横顔は静かで、防護眼鏡に覆われた先の瞳孔がどのように拡散しているのかも分からなくて。 てんてん、とボールが転がっていく。壁にぶつかって、止まる。 「実験動物に情を移す方がどうかしているでしょう」 誰か、と問うことはしなかった。梶井にとっては誰だって同じだっただろう。そういう反応を見せた時点でそれはもう、此処には相応しくない人間だ。もう、荷物をまとめただろう。仮にもマフィアの傘下であるので、そう簡単に外に出れる訳はないが、梶井の直属班でなくなるだけでもその彼だか彼女だか分からないが、気は紛れるに違いない。このまま研究から離れて事務職になるでも、吹っ切れて戻って来るでも、中原からしたらどちらでも良かったが。 「研究者として、僕たちはそうでなくてはならない」 梶井は、動物に名前をつけない。人間のことも、名前ではなかなか呼ばない。 「観察をしなければならないんですよ、そのために実験をしているんですから」 ラベルを貼るためには正しい名前を知ることは必要ない、正しい構成要素を知ることは重要視されても、他者からどのように観測されていたかの歴史を知る必要など、梶井の実験においては露ほども必要がないのだった。 「それが正常な思考です」 「ああ」 だから、首肯いてやる。中原は梶井が梶井であるために正しいことをしていると知っているから。 「梶井」 「はい」 「手前は手前の理論で、確り結果を出せば良い」 「…分かってますよ」 ―――なら、 そのボールは捨てちまえ、と。 言うべきを言わなかったことは屹度、いつか責められる事象になり得るのだろう。 *** 貴方に愛されなくては、いけない理由もない。 最適化のためのメソッド 幾ら梶井がポートマフィア所属のお尋ね者だろうと(というか、指名手配犯)だろうと、そればかりで人生の愉しみを奪われるというのは可笑しな話だ。趣味を愉しむためには確かに多少の面倒な手続きも必要ではあるが、その煩雑さを理由にして良い席を取りに行かない、ということにはならない。変装の仕方などそれこそ幾千もあるのだから、やれるだけのことはやっておくのが正しいのだろう。折角生きているのだから、愉しめるものがあるのだから、手段があるのだから。それを差し置く理由など何処にもない。 「あれ、」 と、そんなふうにして先程まで観ていた舞台の内容を反芻しながら戻ってきたセーフ・ハウスの前には影があった。顔を上げるその人は何処か気怠げではあったが、そう怒っている様子もない。まあ、梶井には怒られるだけの理由もないのだが。 「真逆とは思いますが待っていました?」 「真逆」 「でしょうね」 「合鍵持ってんのに中入ってねえんだ、察しろ」 「今来たところですか」 「さみい」 「はいはい、今開けますよ」 この、一応は梶井の上司にあたるらしい男が、一体如何やって此処まで来たのか、問うことはしない。それは梶井には知る必要のないことだから。 鍵の回る音。セキュリティが正常である音。中原が勝手に家に上がりこんでいることに慣れてしまっていたから、こうして今後ろにいられる方がなんだか落ち着かないような心地になる。 ―――今日、 梶井がいないことを中原は知っているはずだった。言ったことはなかったけれど、勝手に端末の履歴を覗き見でもしたのだろう、彼のスケジュールには今日この日に謎の印がついていた。 「梶井」 「なんです」 振り返ってみるけれど、特にいつもの表情に見えた。何か疑問のような音をさせたくせに、その実疑問など薄っすらとも浮かべてはいない。 「…いや」 「何か軽く食べますか」 「手前は」 「お腹は…ちょっとだけ空いてますから、そうですね、何か、食べようかと」 「なら食う」 荷物を置いて、手を洗ってうがいをして。同じことを中原がするのを横目で見ながら狭い台所に立つ。いつもであればエプロンでもなんでもするけれど(だって実験中に白衣を着ないということはないから!)、もうこんな時間だった、面倒だ。くあ、と欠伸が出る。今直ぐに眠りたいということはないけれど、愉しいことはそれ相応に体力を容赦なく持っていく。 「手前は、」 洗面所から戻ってきた中原からは、ガスのような匂いがした。少し考えれば屹度それが何の匂いか分かるだろうのに、梶井は考えない。 「俺のことに興味はねえだろう」 「…まあ、どちらかと言えばそうなのかもしれませんね」 「俺を抱いたくせに」 「今からでもセクハラとパワハラで訴えた方が良いですか?」 「誰に」 「宇宙大元帥に」 「首領の手をこれ以上煩わせるのはやめろ」 「今回に限っては中也殿の所為じゃあないんですかあ」 思考を止める。何か言われたら返して、何か言って返されて。それを繰り返すだけで会話にはなる、会話のかたちは成り立つ。其処に誰もが理解出来るような感情がなくとも、梶井はそれで良いと思っている。 「中也殿、」 「なんだ」 「ラーメンに卵入れますか」 「温玉」 「はいはい」 ―――そして恐らく、 中原も、また。 「中也殿が来てくれて良かったです」 「なんで」 「ラーメン一袋はこの時間には多いですから」 「…そうか」 出来ましたよ、と器から梶井の手が離れるのを待っていたかのようなタイミングで腕が伸びてくる。ぎゅう、と力加減のされないそれは恐らく、中原と触れ合うようなことがある人間であれば檻のようだと勘違いさえするだろうけれど。 「煙草臭え」 「人が集まればそんなものでしょう」 梶井にはどうしても、そう思えはしなかった。 「中也殿」 「ンだよ」 「ラーメン伸びます」 ずる、と腕が離れていく。乗っているのは温玉もどきだけれど、まあ、別に良いだろう。今に始まったことではないし、以前に許可は取っている。それを勝手に中原が温玉と呼び続けるだけだ。 この関係が一般的な何かしらのラベリングに匹敵する何をも持たないのだとしても、どうせ梶井も中原も此処にいるのだから。結果に変化はない。観測するほどのものを重ねるまでもなく、これからも飽きるまでは続いていくのだろう。互いのことを何も知らなくても、引いた一線を越えることはなくても。 「梶井」 「どうしました」 「ラーメン伸びるって言ったのは手前だろ」 「はいはい」 今行きます、というのは誰かまったくの他人が聞いたら、幸福の色をしていると言うのだろう、と思ったら笑えてしまって仕方なかった。 * image song「春ひさぎ」ヨルシカ *** 真夜中に歌ったキスの痕 眠れないんですか、と問う。それが意味のない問いだと知っていながら。いつから自分はこんな愚かな行為を自分に許すようになったのだろう、そう、思うこともあるけれど。 「別に、そうじゃねえよ」 仮眠取っただけの話だ、と言うその人が、ならどうしてこんな場所に来たのかも分からない。家帰って寝たら良かったじゃないですか、とまるでぬいぐるみかそれに類するものにするように、腕を回してくる理由も、分かるけれども聞いてはいない。いや、本当にぬいぐるみやら何やらの代わりだったら、とうに梶井の身体はぺしゃんこに潰れているだろうけれど。 この人の前では何もかもが跪く、そうせざるを得ない、だと言うのにそれをしないでも許される自分のことが、梶井にはよく分からない。遣りたくもないことを遣らないで済むことは楽ではあったし、保証された自由に則っているから良かったけれど、その法則から外れた特別扱いであれば少しは疑問を呈することくらいはするのだ。 「かーじい、」 眼鏡もしていない顔面を覆うのは屹度、容易いことだろう。 覆われた、そう大きくはない掌がつくる闇の中で、はやくねろ、と言われる。それは梶井の台詞だと思ったが、うまく返す言葉も持たずに、ただ、はい、と頷くしか出来なかった。 * お題箱スロット *** 宇宙を探す微睡み 貴方は何処までも飛べるのに、そうしようと思ったことはないんですか? 一応は部下という部類の頓珍漢な男が本当の本当に不思議そうな顔をして中原を覗き込んできたのは、ある日の午後のことだった。首領へと研究室の活動報告をするのに、その予定をすっかり忘れていた梶井の身支度をさせるところから始まって、大した距離ではないはずの研究室と首領の部屋との往復がやけに長く感じた日のこと。大きな硝子張りからは昼の陽が射し込んで、そう暗くはないはずなのに。明るいからこそ、その硝子の嵌め込みの影が色濃く見えでもしているのだろうか。 「…梶井、」 「はい」 「手前は飛びたいのか?」 「ええ、まあ………よく、この空に飛び立って行けたなら、と思うことがありますね。特に―――夜などは」 「夜」 「満月の夜など格別です、あれに手を伸ばすことこそ僕の存在の証明のような気がするのですよ」 滔々と喋る梶井の言葉は何処か夢想的ですらあるのに、発しているのが梶井であるからか、どうにも地に足のついたものに聞こえてしまう。…否、中原がそう思っていたいだけなのかもしれなかった。 梶井基次郎という男が。 中原が捕まえておらずとも、此処にいることを選んでいるのだと、中原は屡々確認してみせたいのかもしれなかった。それを―――こんな異能を持った中原が思うのだから、世の中は分からない。 「最初の質問の答えだが、」 「ええと、何を言いましたっけ」 「何処までも飛ぼうと思ったことがないのか、ってやつだ」 「ああ…」 「生憎、拠点を探すのに手一杯だったから思ったことはない。眠る場所の確保をしなけりゃ、生き物は当然生きていくのに苦労するだろ」 「―――確かに、それはそうかもしれませんね」 「だろ?」 「でも、そういうものであるのなら、今はもう、飛べるのでは?」 「…手前は俺に、飛んで欲しいのか?」 「そう…問われますと………」 ううん、と梶井が唸る。そのゴーグルの下でいつもは濁っている瞳がやけに輝いているように思えるのは屹度気の所為だった。 「梶井、質問を変えてやる」 「はい」 「俺に、運んで欲しいのか」 ―――月まで、 触れ合うようなことはしない。梶井は二歩ほど開けたまま、中原の後ろに立っている。いつの間にか、足は止まっていた。歩いていたはずなのに。 「………もし、そんなことが叶うのなら」 へら、とその口角が歪んで。 「僕は途轍もない、幸福を享受出来るということでしょうね」 どう考えてもいつもは口にされないであろう言葉を聞いたら、ため息を吐くのも馬鹿らしくなって。 早く戻って手前は仮眠をちゃんと取れ、と言うしか出来なかった。かつかつ、とまた歩き出す。後ろから、たたらを踏むような何処か頼りない足取りがついてくる。 ―――いつか、 そうは思ったけれど、それは今言うべき言葉ではないことくらい、誰に云われずとも分かっていた。 * https://slot-maker.com/slot/5483/ 作業BGM「イドラのサーカス」鏡音リン(Neru) *** 夜のことば どうしようもないものだとは思いませんか。 梶井の手の中にあるのはゴミ捨て場で見つけた模型だった。興味のない中原はそれを何と呼ぶのか思い出そうともしなかったけれど、瓶の中に帆船が鎮座しているものである。中のそれも瓶の強度もなかなかのものには見えていたから、そのままゴミ捨て場に置かれているのは可笑しかった。が、言うまでもなく中原も梶井も善人である訳ではない。だから梶井がそれに手を伸ばした時、好きなのか、そういうの、と聞いたくらいでそれ以外はなかった。 「好き、という訳ではないんですけどね」 結構な大きさのそれを抱えるようにして、呟かれたのが冒頭の言葉だった。 ―――どうしようもないもの、 それは梶井とあまりにも縁がない言葉のようにも聞こえたが。 「如何してそう思う」 「だって、船をこんな場所に閉じ込めておくんですよ」 「そういう置物だからだろ」 「中也殿は置物にされることに抵抗はないんですか?」 「………何で俺と其れを同列に置いたんだ。手前は俺のことを置物か何かだと思っているのか」 「………あれ、」 確かに如何してでしょう、とやっとその首が傾げられた。 「だって置物は真夜中にお腹が空いたとは言いませんし」 「悪かったな」 「またまた中也殿、思ってもいないことを言わずとも」 「ちったあ思ってる」 でもな、とどうせなら、と思って続けた。どうせ、この置物は捨てられないのだろうし、このまま持って帰られるのだろう。ゴミ捨て場にあったからと言って拾って帰ったら当然窃盗にはなるのだけれど、今更其れがどうした。ポートマフィアの幹部が気にするようなことではない。 「―――梶井」 「なんですか、中也殿」 「俺はこれからも真夜中だろうが早朝だろうが、腹が減ったら腹が減ったと言う」 「僕を起こしてでも?」 「ああ、手前を起こしてでも」 「ちゃんと寝ろと言うのは中也殿なのに」 「其れと此れとは話が別だ」 梶井、とその名を呼ぶ度に、跳ねるこの男の踵を地面につかせられるような気がする。 「手前の価値観が如何であろうと、首領が認めている限り俺は何も言わない。だから―――」 伸ばした手は、さらり、と埃の降り積もった模型の表面を撫でるだけだった。 「せめて俺の手の届く範囲にいる間は、その星みてえな話を少しずつ人間の言葉にしてみせろよ」 * 透明な原子模型を腕に抱き車窓を替える夜の教員 / 山崎有理 *** 此処は美しき無法地帯 中原統括が何やらまた梶井室長に言っているのが聞こえてきて、この方向は仮眠室の方だな、と眠い頭で判断して、それからやっと、ああ、いつものか、と思った。ちなみにこの統括だとか室長だとかは俺が勝手に呼んでいるものであって、別にそういうちゃんとした地位があるとかそういうことはない。でも中原統括はこの研究室を統括する立場にあるし、梶井室長はこの研究室の持ち主で責任者だし、そうやって考えるとこの呼び方だって別に間違ってはいないのではないだろうか。いや、今の本題はそこじゃあない。まあもっと言うと今中原統括が大きな声を出していることに本題なんて多分、ないのだろう、とは思うが。俺は眠い訳で、これから仮眠室を使いたい訳で、だから早いところ切り上げてくれると嬉しい、というのはあるけれど。誰かが常に爆発を起こしているような研究室に詰めているのだ、中原統括の声くらいだったら眠れるだろう、と言われてしまえばそれはそうなので言いづらいなあ、とは思う。言うつもりがあったか、と問われると答えはいいえになってしまうのだろうが。 そんなふうにくあ、と欠伸をしながらずるずると身体を引きずっていく。 仮眠室とは言っても倉庫に廃棄予定のベッドを詰め込んで、一応のプライバシーを確保出来るように医療用の衝立を持ち込んで。それもまあ、カーテン部分が破けたりなんだりしているので各々で縫ってあったり何処で買ってきたんだと思うようなアップリケが貼ってあったり、まあ、様々だ。ベッドはそれでも何処が誰の、というルールが勝手に出来上がっていたので、その辺は自由だ。誰が何をしていようと文句を言われることはない。そういう俺もカーテンに元素の配置を作ってこまけえ〜! と笑われたことがあるのだし。ナノプシャンポリマーのことが嫌いなやつは…いるかもしれないが…少なくとも此処では好評だった。ちなみに刺繍だ。科学者なんて大抵手先が器用なのだ。俺の他にはマイトトキシンを刺繍しているやつもいる。そいつはシガテラに当たったことで傾倒したらしいのだが、それはそれでどうなのだろう。ああ、うん、これも脱線と言えば脱線だな。会話が近くなってきたので若干の現実逃避をしたくなっているのは仕方のないことなのだ。逃避するほどの現実か、というとそうでもないだろうが、まあ、ここは流れとして。逃避したい現実なんて、研究棟を本当に一つふっ飛ばしてしまったあとに全員で首領に呼び出された時とかのことを言うのだ。だから、これは逃避なんてしなくても、良い。 そう、頭では分かっていても。 「俺は五分って言ったよなあ!?」 「言いましたね」 「時計が壊れてんじゃなきゃ五時間経ってるんだが」 「五時間なら寝ていても大丈夫かと思いまして。あ、宇宙大元帥に確認した方が良かったですか?」 「こんな莫迦らしいことに首領を巻き込もうとするな!」 「しかしですね、中也殿、最近眠っていなかったでしょう」 「だから此処に仮眠取りにきたんだよ!」 「そうですよね、ところで中也殿が眠る前に言っていた書類ですが」 「出来たのか」 「あとこれとこれも」 「梶井、お前、やれば出来るんだな…」 「まさか中也殿にそんなふうに言われるとは夢にも思っていませんでした」 「これなら五時間の件は不問に処してやっても良い」 「やったあ〜」 「話は変わるんだが、梶井」 「はい」 「手前は寝てるのか」 「寝ました。三分」 「今直ぐ仮眠取りやがれ莫迦野郎!!」 うーん、仲良きことは良いことかな。まあこの遣り取りは数えるのも億劫になるほど聞いているものだし、中原統括は中原統括で自分でアラームをかけたりしないのだから、分かっていて来ているんだろうなあ、と思う。 あと、やっぱり痴話喧嘩の類だろうな、と思う会話を現実逃避しないで聞いていられるほど俺は今元気ではないので、ベッドに倒れ込みながら現実逃避くらい許されるよな、とだけ思って眠りに落ちていった。 * 作業BGM「邪道」可不(Peg) *** うさぎ穴での出来事 夢を見た。 なんて出だしであればきっと、彼方此方に転がっていることだろう。大して珍しくもないに違いない。そしてまた―――この出だしの後ろへと続けようとした出来事も困ったことに、大して珍しいものでもなかった。いや、こんなことが日常的に起こっているのかと問われるとそれはまったくもってそんなことはないと言えてしまうのではあったが、それはそれとして物語として≠ヘまったくもって独創性も何もない出来事であることだって確かであるのだ! 「中也殿」 夢である、夢である、夢である。だからその上司の妙ちきりんな姿を笑ってはいけない、そう思えば思うほどにどうして人間というのは笑ってしまいそうになるのだろう。カリギュラ効果というのだったか、あれは正式な名称ではなかったように記憶しているのだったけれど、正しい知識が導き出せない。心理的な分野はそこまで範疇ではなく、だから聞きかじったような点と点ばかりが脳内を浮遊するばかりだ。 「………中也殿?」 彼は返事をしない。では、上司のかたちをしてはいるものの特に上司というわけではないのかもしれなかった。なにせ、此処は夢の中なので。記憶の整理に使われている物事の中に、上司の姿があっても可笑しくはない。それに、こうして見るとそれなりに似合っている―――ような気がするのだし。 こほん、と咳をする。ええと、こういうときの科白は何だったか。エリス嬢に付き合ってさまざまの本を読んだ記憶が、こんなふうに役立つとは思っていなかった。 「うさぎさん、うさぎさん、今は何時なのですか」 違ったような気がする。しかし此処はきっとうさぎの穴の中なのだろう、追いかけた記憶はないけれど、目の前の上司は確かにうさぎの耳を生やしているように見えるのだし。 「遅刻だ」 どうやら大体合っていたらしい。 「そうですかあ」 「遅刻だから、急がねえとな」 「頑張ってください」 「手前も来るんだよ」 「いえ、僕は遠慮しておきます」 ぴくり、とその耳が揺れる。人間が常から備えている耳はどうなっているのだろう。本当は手を伸ばして調べてみたかったが、きっとそれでは時間の無駄だろう。 「僕には、女王よりも恐ろしい上司が待っていますので」 上司の顔をしたうさぎは暫く考えたあと、そうか、と一言呟いて走り出した。 その背中を見送りながら、身体や耳の割合からは考えられないほど尻尾が大きいんだな、なんて思った。 は、と目を開けた。 視界には反対側から見下ろしている上司がいっぱいに映っている。普段であれば此処でぎゃあだの何だの声を上げているところだったが、今回はこうなるだろうことが予想出来たからか、悲鳴を上げずに済んだ。 「………耳は捨てたんですね」 「あ?」 とうとう頭が可笑しくなったのか、と言いながら髪をかけて人間の耳を見せてくれる上司はそれなりに甘いのだと思う。 「手前、覚えてねえのか」 「何がです?」 「あのうさぎはひどく美味だと聞きました!≠ニかなんとか言って、巣穴に頭から突っ込んでいった大馬鹿野郎のことだよ」 「覚えていませんね」 「………何かヤクでもやってんのか」 「やってませんて! でも、そうですねえ…」 危険薬物を常用しているような勘違いをされてしまえば、研究は止められてしまうに違いない。それは避けたかった。しかし、上手く説明する術もない。 「ええと、」 説明してみろ、と疑わしい視線に苦笑しながら本当のことだけを言う。 「うさぎだったので」 これだけじゃあ足りないと思って、もう一言付け足した。 「仕方ないんじゃあないですか」 「………ハア?」 「それに、遅刻ですし」 完璧とは言えなかった、けれども上司はこれ以上聞いても無駄だと悟ったのか、退いてくれる。 青空が見えた。こんな場所で昼寝なんてしたらすぐに風邪でも引きそうだ。 「中也殿」 「なんだ」 「白い薔薇と赤い薔薇だったらどちらがお好みですか」 「赤」 「では、もしも、もしもですよ。僕が白い薔薇の花束を貴方にプレゼントしたら、どうしますか」 「………貰うが」 上司が立ち上がる。それに置いていかれないように、同じように立ち上がった。 「手前はそんなふうに気が利くような奴じゃあねえだろ。くだらねえ質問すんな」 「はい、はい! そうですね」 「必死で気を利かせても檸檬の菓子を作ってくるくらいだろ」 「ああ、それは悪くないですねえ。何か食べたいものはありますか」 「タルトクッキーってやつ」 「レシピを送っておいてください」 一度、振り返ってみたけれど。 何処にうさぎの巣穴なんてものがあったのかはもう分からなかった。 もしかしたら、もう役目を終えたので消えてしまったのかもしれなかった。 * 1番星にくちづけを @firststarxxx 作業BGM「オキナグサ」ゼロイチ *** 数式で君は何を描くの 実のところその男を理解しているのか、と問われると恐らくその応えは否だろう、と思う。首領に任されることがなかったら、言葉すら交わさない相手だったことだろう。それが何の因果かこんな、自身のベッドに招き入れる―――というか、力づくで引き込むような関係になっているのだから、可笑しなものだ、と思う。 別に、誰が居らずとも良かった。 此処には確かに中原の居場所があって、それを確認してしまったらあとはもう感傷的にすらなれない、そういうものだった。高い位置にいるとどうしても誰かの何かの興味を引いてしまうことが往々にしてある、その引きずり落とそうとす千千の手を払い除けて時には切り落として。 「………梶井」 眼鏡のないその横顔は幾らか幼く見える。年齢や外見と言ったものがどう、という話ではなく、これはきっと単なる感覚の起こす錯覚であった。すべてにそぐうことのない奇想天外奇天烈な行動の数々が、何処かやわらかな幼年時代というものを思い起こさせる。これも人の肚から生まれたのだ、というようなことを思わせるのには充分だった。 気まぐれに掴み上げたような、そんな関係であったのなら。 良かったのかもしれない、とその頬に手を伸ばす。そう長くはない睫毛でも、ここまで近付けば陰影を見るには適していた。死んだような呼吸が睡眠時のものであり、飛び起きるようなことがないのは横にいるのが中原であるからだと。そんなことは屹度天地がひっくり返ったとしても言わないだろう、と一人、笑う。 梶井、から。 手を伸ばされたことはない。しかし、それはこの感情が一方通行ということにはならない。いつだか感情というのは同じ音に環状というのがあるでしょう、と言ったのは梶井だった。ですから中也殿の与えてくだすったものは慥かに中也殿へと還っているのです、そうでなくては儘なりません。言葉遊びなんて柄でもないのに、ゆるりとその頭脳を回すさまを思えば小憎たらしくてたまらなかった。 「かじい、」 掌をぺたり、と頬に当てる。その冷たさにか、それとも名を二度も呼ばれたからか、んん、と喉が震える音がして。 「ちゅー…や、どの…?」 おはよう、と言う代わりに唇を奪ったら、貴方は本当に悪いひとですね、と掠れた声で笑われた。 * 眼福 @ganpuku_odaibot 作業BGM「カノン」可不(柊マグネタイト) *** 20221202 |