絶望とその先へ 青い薔薇は難しいという話をご存知ですか、とその男はのっそりとした動作でそんなことを云って、それから足元の花を指さした。 「…それは薔薇じゃねぇだろ」 「そうですね」 ですが、こんなに世界は青に溢れているのに尚も人間は青を欲するのですよ。 「貴方はどうですか?」 問うその首がこどものように傾げられたものだから、手前みたいなモンだからだよ、というのは噤んで、ただ唇を重ね合わせるだけにした。 *** 君とならネオンのブルーも目に痛くない! 嗚呼、愛しのフライデーナイト! 梶井基次郎はその肩書こそ単なる研究員ではあるが、その研究室を保有しているのはこの街の影の支配者ことポート・マフィアの首領、梶井の言葉で表すのであれば宇宙大元帥であって、つまるところ、世のため人のためになるようなものを作っている訳ではなかった。以前勤めていた研究所では本業の傍らに甘美なる生命の囁きを聞いていたりしたものだが、此処ではそれをメインに据えても怒られはしないので本当に楽しくてたまらない。それは本当なのだ。宇宙大元帥は梶井に研究室をくれたし、優秀な部下はつけてくれたし、意味不明な過干渉をしてこない上司を充てがってくれたし、何よりも梶井の愛する美しき紡錘形に関する考察とその副産物を幾ら作っても怒られないどころか褒められるし給料も上がるのだから、良いこと尽くしと言って良いだろう。まあ、その上がった給料は殆ど研究につぎ込んでしまっているのではあるが、それが梶井の考える尤も自分が楽しい使い道であるのだからその辺りは勘弁してもらいたい。 と。 こんなことをつらつらと並べ立てたのは現実逃避がしたいからだった。隣からそれを咎めるようにボケっとしてっと舌噛むぞ、と頭を抑えられる。 「………ハンドルから手、離すの危ないですよ………」 「今そんなこと言ってる場合か」 「まあそんな場合ではないのは分かっていますけどね…」 何をしているのかと言うと、取引現場から戻る最中だった。梶井だけでは心許ないからと、いつだってお目付け役のようにこの上司、中原がついてくるのが常になっているのだが、いや、こういう言い方をするのは良くない。まるで梶井がそれを煩わしく思っているように聞こえてしまう。断じてそれはない、梶井より長くマフィアに在籍しているからか、中原はそういう場でのそれらしい遣り方を知っている。これは単に金が絡むだけの取引ではないのだ。 マフィアとして、どういう取引をすべきか。 そういうことが必要になってくる。まあつまり、梶井のうまいこと理解の出来ないメンツとやらを、この上司ならばしっかりと組み立ててしまうのだった。その手法は鮮やかですらあるので、梶井はそれなりにこの上司のことを尊敬している、のだと思う。本人に口に出して言ったことはないが。まあ、そういうことを伝えるより先に何故か恋人という枠にすっぽりと収まってしまったのも一因だとは思うが。…そういうことなので、煩わしく思うことは断じてない、の、だけれど。 「何でこうなっちゃうかなあ」 「相手が馬鹿だから」 「そう言いたいのは分かりますが、その馬鹿にも分かりやすく煽ったのは中也殿ですよ」 確かに、今日の商談相手は何がどうしてこうなったのか、あまりにもお粗末な相手だった。それはそれは梶井にだって分かる程度の。しかしまあ、梶井は別段武闘派という訳ではないため穏便に済まそうとしたのだ。確かにお目付け役のように中原は一緒に来ていたけれども、別に上司だと相手方に知らせてはいないし、恐らくあの場にいた誰一人として『重力使いの中原中也』として認識はしていなかったことだろう。中原もそれが分かっているからこそ、いつもは持たない銃を携帯していたのだろうし。あまり見られない光景だなあ、と現実逃避をする。結構さまになる。先程とんでもない煽り方をして絶賛蜂の巣にされそうになっているこの状況を作り出した張本人とは思えない。 そうかもな、と絶対に悪いと思っていない声で中原が立ち上がった。ん? と隣を見る。先程ハンドルと言ったので察しているとは思うが、此処は車内である。それなりの速度で道路上を走行する、中原の運転する車である。ちなみに後方から追ってきている車は此方に追いつきたいので、此方以上に速度が出ているだろうことは考えないことにした。彼方にどれだけ損害が出ようと梶井の知ったことではない。 「え、ええ―――ッ!?」 「うるせえな」 中原の指が引き金にかかるのが見えたので口を引き結ぶ。それくらいの学習は梶井とてしている。しかし、珍しい光景だな、と思った。この人はやろうと思えば後ろの車などその異能力で潰してしまえるだろうに。宇宙大元帥から何か指示でも出ているのだろうか。いや、こんなカメラの多い主要道路で銃撃戦とカーチェイスに加え異能力まで使ったら、諸々の処理が面倒だろうのは分かるのだが。だから今日は妙に顔の隠れる服装なのだろう。 「って中也殿、前! 前!」 「この道真っ直ぐだから多少ハンドルから手を離しても大丈夫だ」 「多少!? 中也殿多少の意味知ってます!?」 「知ってるが」 「完全に手を離して窓から身を乗り出してるのは多少とは言わないと思いますが!?」 「………マフィアでは多少の範囲内だ」 「今の間何だったんですか!? やっぱり中也殿もこれが多少とは言いづらいと思っているのでは!?」 「うるせえな…。首領もなんでこんなん拾ったんだか」 「あっ聞きます聞きます? 僕が宇宙大元帥に出会ったのはとある晴れた日のこと―――」 「聞いてねえがまあ、手前がそうやってくっちゃべってりゃあ道路交通法でうるさくはならねえだろうし…うん、良いだろう。聞いてやる」 「この銃撃の中でですか!? ていうかこれ、道路交通法の話ではなく僕の身の安全の話ですが!? どうして中也殿こういう時だけそういうことを言うんです!? って、ああっ、前! 前! 対向車から多分銃身!」 「お、よく見つけたな」 「良い眼鏡をしているもので!!」 「そうだな…オレは後ろで手一杯だから手前が何とかしろ」 「何とか!?」 「手前の愛すべき檸檬でも投げ込んでやれ」 「嫌ですよお!! 届きませんし!! それに、実験結果見れないじゃないですか」 「あ? …ああ、お前そういえばビルの時も現場に自分で行ってたよな…」 「はい。この目で見てこその実験結果ですから」 「だからって鉛玉ブチ込まれたら終わりだろ」 「―――………」 言われなくても思い出せる。あの時梶井を回収に来たのも中原だった。軍警に囲まれて、銃を向けられて。あの瞬間に自分が何を思っていたのか、梶井にもよく分かってはいないが、どうにも中原がこうして幾度も話題に出すところを見るに、何かが引っかかっているのだろう。言葉で説明されても分からないだろうので、梶井自身が気付くのを待っている中原は正しいのかもしれなかった。 「でも、ブチ込まれてませんし」 「そうだな」 「中也殿のおかげですね」 「思ってもねえことを」 「思ってはいますよ、たぶん」 「多分か。手前にしたら進歩か」 「はい」 そんな会話の間に後方の車も前方の車も片付いていた。前方の車が横転して高架に引っかかっているのを通り過ぎると、それを待っていたかのように車は炎上した。あそこまで派手に燃えてしまうと何も残らないに違いない。どうせ粗悪品の爆薬でも積んでいたのだろう。梶井のものならばちゃんと死体は残っただろうに。 よし、と呟いて中原が運転席に戻ってくる。やっと主人不在のハンドルが握られた。こころなしかハンドルも喜んでいるように見える。いや、ハンドルは喜ばないのだが。 「ていうかそんなに言うなら手前がハンドルに手ェ伸ばしたら良かっただろ」 「嫌ですよ。僕ペーパーですし」 「俺は無免だが」 「おまわりさーん! 此処です此処!」 「指名手配犯が警察呼ぶなよ…」 ハァ、とため息が吐かれるが、この場合それをするのは梶井なような気がした。 「…梶井」 「何ですか」 「このまま少し遠くまで行くか」 「遠く?」 「県外」 「え、何でですか」 「折角主要道路に乗ってるから?」 「つまり、理由はあまりない、と」 「そうとも言えるかもな」 「…宇宙大元帥には」 「手前から連絡入れろ」 「こういう時は上司の中也殿がするべきでは?」 「ハンドルから手、離して良いのか?」 「アッ、僕がします」 死ぬことは別に怖くはないが、だからと言って無闇矢鱈に寿命を縮める趣味もないので、そのまま素直に携帯を取り出す。 電話の向こうの宇宙大元帥は、お土産よろしくね、と言っただけだった。 *** 贅沢な午後を 茶、と言われたから豆ならありますけど、と返した。茶葉は残念なことに今は切れていたし、まあ、別にこの人が今から買ってこいと言うならきっとこの研究室の誰かが買いに走るだろうけれど。無駄に人を走らせることにそう興味がないらしいこの上司はそれで良い、と言った。だから梶井は、でしょうね、と思いながらテキパキと用意をする。 「…ていうか手前何やってンだ」 「何って、もてなし? じゃないですか? 中也殿が言ったんでしょう」 「言ったけどな」 じい、と中原の視線が梶井の手元に注がれている。別に、何も可笑しいことはしていないと思うのだけれど。言われた通り、珈琲を入れているだけで。 「…ビーカーで?」 「珈琲を淹れています」 「ビーカーで?」 「ビーカーで」 「………綺麗なんだろうな」 「そりゃあ勿論」 一体この上司は梶井のことをなんだと思っているのだろう。確かにこの研究室では毒物も扱っているが、それはこんな部外者の入ることの出来るような場所ではおこなっていないことを中原は誰よりもよく知っているだろうに。 「はい。入りましたよ」 「…ああ」 「美味しいですか」 ちらり、と視線が投げられる。なんで見られたのだろう。梶井はただ立って、味の感想を待っているだけだと言うのに。 「好みではなかったですか?」 「…知るか」 「なるほど。幹部様の舌にはその辺で安売りしているパックではだめでしたかー」 「そうは言ってねえよ」 「じゃあなんなんですか」 困ったことに梶井は人間の感情の機微には疎い。それをこの上司はよく分かっているはずであったけれど。 「味なんか分かるかよ」 「やっぱりビーカーで淹れたのだめでしたか?」 「…そーかもな」 「普通のカップでなら味分かるんですかねえ。これでも練習してたんですけど」 「…なら良いカップ買ってやるよ」 お前の努力に免じてな、と言うのにやはり味の評価は貰えなかった。 後日梶井の仮住まいに中原から高級そうな食器が届いたのは別の話である。 *** 白線の内側までお下がりください 秋だ、と言われたのでとりあえず何処か行きたいところでも? と問う。分かってきたじゃねえか、と掴まれる頭が撫でられているのだとかそういうものだったら良かったのか。梶井にそういうことはよく、分からない。 「お誘いいただければ二つ返事なのに」 「本当か?」 「…たぶん」 「ほら、たぶんだろ」 それなら最初から手前に言わせた方が良い、と。 その手間を惜しまれていないことを喜んだ方が良いのは、なんとなく分かっていた。 *** 不可能を可能にするひと ちゃんと寝ているのか、と問われてはい? と返してしまったことは別に可笑しなことではないのだろうと思う。ただまあ、失敗だったのだろうな、というのはなんとなく分かった。何も失敗していなかったのならば首筋を掴まれて引きずられるようなことはなかったはずなのだから。 しかし、と思う。別に異能を使っている訳でもないのに、しっかり成人している男を引きずっていくこの上司は、単純に力があるのだろうな、と思う。移動するのにこうしていつも運んでくれるのなら、本を読んだり出来そうなものだが、きっとそんなことを言ったら今以上に怒られるだろうので言わないけれど。 「…あの、」 「なんだ。反省したか」 「その、すみません。なんで中也殿が怒っているのか分かりません」 「手前そういうところだけは素直だよな…」 はあ、という大仰なため息と共にベッドに放られる。真逆この上司に限って職場で盛るようなことはないと思うので、本来の目的のために連れてこられたと見るべきだろう。つまり、逆算すれば中原が梶井に望んでいることはそういうことであって。 「その、中也殿」 「何だ」 「眠くはないんですが」 「以前手前からそれらしく言われたことの中に、人間が効率よく活動するための睡眠時間というのもあったはずだが」 「………記憶力が良いんですね」 「おう」 そんなことはとっくの昔に忘れていると思ったのに。 「だから、ほら、寝るぞ」 「寝るぞ、と言われても。その言い方だと中也殿も寝るみたいじゃないですか」 「寝るが」 「こんな場所で?」 「俺だって仮眠室を使うことくらいあるんだが」 「ええ…中也殿はえんどう豆があると眠れないタイプかと」 「何処の国の姫にするつもりだよ」 どうでもいい話は起きたら聞いてやる、と巻き込むようにして倒れられたらもう何も言えなかった。 * 「簡単に言うね」「難しく言ったって簡単になんかならないからね」 / 高島津 *** 冬のひだまりにて 冬の香りがした。 別に本当に香りがした訳ではない、ただつん、と鼻の管が痛んだから、防衛反応として脳が勝手に香りだ、と判断しただけの話。 「手前みたいだな」 今にも消えそうなのに、ちゃんと其処にある、触れられる。 冷たい指先が、梶井の喉を捕らえる。 「…さむい、ですよ」 「此処は命乞いだろ、普通」 「中也殿が僕を殺すと?」 そんなこと、ある訳ないじゃないですか―――とは言えなかったが、だからと言って彼が梶井を殺す訳もない。 「…貴方はしないでしょう、そんな、無意味なこと」 「俺がただ暴れたいだけのモノには見えねえのか」 「見えませんね、残念ながら」 そもそも暴れたい人間はそんな上品なものに馴染まないものですよ、と言ってみたら案外この言い訳はお気に召したらしく、勘弁してやらあ、と額をつつかれた。 *** 花を喰む馬 班長―――正しくは此処に班などないので彼は班長でも何でもないのだが、特に呼び方が定まっている訳でもないので好き勝手呼んで良いことになっているため、とりあえず班長とする―――が見慣れない酒瓶を持っていたところで何か言うべきだったのだ。よくよく思い出せばそれはやけに高級そうなラベルだった気がするし、あまりそういったものに詳しくなくても、見慣れないものがこんなところにある時点で、それは如何にして手に入れたものなのか、というのを問うべきだったのだ。確かに此処には、少し口にするのも憚られるような値段の機械などはあるけれど、それは機械だからであって、嗜好品の類で目玉が飛び出て戻ってこないようなものはなかなか置かれない。と、言うのも此処にいるような人間は大概が研究に諸々をつぎ込みすぎて研究所を追い出されたりした過去があるからだった。つまり、一番金をかけるべき、と思っているのが研究なのである。中には研究のためにえげつない額の横領をした者もいる。それをえげつない、と感じているかはさておき。研究成果を出すための犠牲と思えば些細なことだろう。 話を戻す。 別に、此処にいる研究者が嗜好品を嗜まない訳ではない。酒や煙草、その他好きなものがある人間は多くいる。けれども彼らの多くがこの研究室では研究をすることを第一としているのだ。仮眠室にそれらを散らばらせているのならまだしも、研究スペースに持ち込むというのは考えにくい。そういう前提が容易く考えられるからこそ、班長が見慣れない上品なラベルをまとわせた酒瓶を持っていたところで、何か言うべきだった。 「………」 ちらり、と隣の班長を見遣る。流石に少しは反省しているだろう、と思っていたのにこの班長、いつもと同じ表情をしていた。せめて結果をまとめている最中でなければゴーグルをしていただろうに、今はもう眼鏡になっているのもあってどう足掻いても誤魔化せない。いや、ゴーグルをしていたところで誤魔化せるかどうかは知らないのだが。 だって、きっとこの人はこの研究室にいる誰よりも、班長のことを分かっているだろうから。 「中也殿、何を怒っているんです?」 空になった酒瓶をお手玉でもするように弄んでいる上司に、よくもそんなことが言えたな、というのが正直な感想だった。そもそも彼が怒っているのは班長が彼のとっておいた酒を勝手に使ったからだと思うのだが。アルコールが足りない! という騒ぎにダイジョーブダイジョーブ、と言って班長が持ってきた時にやはり、止めるべきだった。もっと遡って言うのであれば、備品が足りなくなるような事態に陥らないようにして欲しいのだけれど、そもそも備品管理も班長の仕事だった。だめだった。こんなどうしようもない人だったけれど、研究面においては本当に失うのが惜しい。いや、この上司がこう私的なことでそういった制裁を下すことはないだろうとは思っているが、それはそれで怒られて欲しい気持ちはあるので思っておいた。此処できっちり怒っておいてもらえないと今隣で上司の怒気にふるえている自分が可哀想だ。 「ほう、怒ってるってのは分かってンのか」 「分かってるというか、隣の彼がほら、こうも可哀想にふるえているので」 人を指針にするな、と言いたいところだが、何も言わない方が良いに決まっているので口はつぐんだままにしておく。 「梶井、手前はオレを怒らせた自覚がねえのか」 「中也殿の秘蔵の酒を勝手に使ったことは謝りますよ。でも、僕に場所を知られているのを知っていて移動しなかったんですから、つまり、それは、迂遠な許可では?」 目の前の人間が怒っていることが分からないのに、そんな迂遠な許可だけを受け取る人間がいてたまるか。そう思ったけれども何も言わない方が良いに決まっているので以下略だ。 「オレの不手際だと」 「いいえ? 中也殿の心遣いをありがたく頂戴した、という話です」 何が心遣いだ以下略だったし、そろそろ本当にやめて欲しい。どうせ分かっていてやっているのだ、自分たちに分かっていることがこの上司に分からないはずはない。というか上司が研究室に入ってきた瞬間に蜘蛛の子を散らすように逃げた同僚たち、絶対に許さないからな。 にこにこ、という表情を崩さない班長と、眼光を緩めない上司。班長はなんだかんだで前線に出たりすることもあるから殺気慣れしているのかもしれないけれど、別に研究員までそうでないことを思い出して欲しい。 と、そんな胸中が上司には伝わったのか、彼はゆっくりとため息を吐いた。 「管理に穴でもあったのか」 「穴があったというか、先日大量に消費したので。発注が間に合わなかったんですよね」 「………第三部隊のやつか」 「はい」 「…仕方ねえな」 「そうですね、仕方のないことです」 どうして不必要な返答をするのだろう、と思ったがもう、怒ることはしないようだった。再びため息が吐かれる。上司の幸福の妖精さんが死んでしまう。 「代わり用意してんだろ」 「中也殿の部下はそんなに気が利くんですか? 羨ましいなあ」 「ああ、羨ましいだろ」 「ちょっと、勝手にポケット探さないでください」 「何処の店だ?」 「それ僕の端末なんですけど…」 「オレの指紋が何故か登録されているから仕方ないんじゃないのか?」 静まり返っていた研究室内に人の気配が戻ってくる。どうやら話は終わったと見て同僚たちが戻ってきたらしい。畜生覚えてろよ、お前らが同じ目にあった時は絶対に助けない。 何やら楽しそうに店の話をする二人に、そろそろと退却するのが本来なら正しいのだろう。しかし、自分にはどうしたって一言、言っておくべきことがあった。 「中也殿」 上司の上司であるこの人もまた、呼び方など定まっていないが、此処では上司である班長に倣っておくことにする。呼ばれた上司は何だ、と顔を上げる。いつ見ても男前である。そんな男前がどうしてこんな奇妙奇天烈な班長に引っかかってしまったのか甚だ疑問ではあるが、好みなど口を出すことではないのでそれには言及しない。 今夜二人で食事に行くのは良い。 その後どうしようが就業時間後のことには関わりはない。ついでに言うとプライベートの方もどうでも良いから好きに付き合ったりなんだりしていて欲しい。 が、研究室内のことには口を出さねばならなかった。 「班長を甘やかさないでください」 先程、もし同僚が同じ目にあったら助けないとは思ったものの、そもそも出来ればこんな茶番に付き合わされたくはなかった。比喩ではなく、寿命が縮むので。此処で一つ、きっちり上司が班長を叱ってくれれば、班長だって学習するだろうし、今後このようなことは起こらないだろう、と推測出来る。だから、上司にはしっかりと、手綱を握っていて欲しかった。手放すな、とは言わないが、戯れに離してみるようなことはしないで欲しかった。 口角が、つり上げられる。 そういう悪辣な表情もよく似合う。腹立たしい、と言ったらそうかもしれないが、あまりにも似合うのでうまいこと感情になりきらない。 「ああ、分かった。任せておけ」 ほら行くぞ、と引きずられて班長が出て行く。 その背中を見送りながら、世界一信用ならない任せておけ≠セと思った。 *** 君の手帳にまるをつける 二月十四日である。 世間では嫌に浮かれた日であり中原とて贈呈品を多く貰う日である。毎年そこそこ貰ってはいたものの、今年は桁が違った。倍と言っても差し支えないレベルである。あまりの多さに大抵はいつも周りにいる黒服(部下とも言う)に持たせて中原は研究室の方へと足を向けた。 いつだって贈呈品を黒服たちに押し付け、自分では片付けない中原が周囲から甘味が嫌いなのだと思われていることは知っている。本当はそういう訳ではないのだが、訂正するようなことでもないのでそのままにしているのが現状だった。どちらにせよ、こういった地位を持っていると安易な贈呈品などおいそれを口に出来はしないのだし。煩わしさや不便さを感じないことがないとは言わないが、今更気にしても仕方がない。 カードキーと指紋認証、虹彩認証を越えてその扉を開く。 「あれ、中原さん。今日予定入ってましたっけ」 「いや、予定はない。緊急でもない。ただ寄っただけだ」 「そうでしたか。お茶くらいなら出せますけど」 「貰う。梶井いるか」 「班長なら向こうの棟ですよ。連絡入れておきますね」 「頼む」 待つ間に、と茶が出される。誰が言ったのか、なんて一人しかいないだろうが、此処で出される茶はいつだってスムーズに毒味がされる。形式的には彼らも中原の部下に入るのではあるが、直接のものではないし、そもそも毒味というのは単なる部下の仕事ではない。此処では毒殺など起こらない、という彼らの潔白証明でもあるのかもしれないが、他の来客の際にはされていないのを見るに、これは中原だけへの対応なのだろう。手間だろうに、とは思うものの、好きでやっているのだと言われてしまえば中原に口を出す権利はなかった。やれて、茶葉を差し入れするくらいである。差し入れはする度に大仰に喜ばれるので、それでよしとするしかなかった。彼らが相手を慮って演技をするということが、殆どないことを知っているので余計に。 「遅くなりましたー」 飲み干されたカップに、おかわり入りますか? という気遣いを断っていると、やっと梶井が戻ってきた。 「中也殿すみません、お待たせしました」 「いや。急用じゃねえし、アポも取ってねえから良い」 「それはどうも」 「おかえりなさい、班長」 「ただいま。あ、これあっちの山に追加しておいて」 「はい。数個爆弾検知に引っかかってましたよ」 「あとで確認するよ」 「そうしてください」 荷物を受け取った背中を視線で追っていくと、先にあったのは積まれた段ボール箱だった。色とりどりの包装から見るに贈呈品であることは疑いようもない。それが所狭しと犇めいている。中原も貰う方だとは言え、こんなふうに集めたことはないので壮観とすら思えた。 「………結構貰ってるのな」 「まあ、中也殿とはまた違ったものでしょうが」 おや、と思う。大抵梶井はこういう時、思ってもいなくても有難いことに、などと言うものだと思っていたが、それすらないとは。 「違ったもの?」 「ええ、違ったものだと思います」 じゃあ、何だと言うのだろう。疑問が顔に出るよりも先に、嘆願書ですよ、と答えが差し出される。 「嘆願書?」 また、なんでそんなものが。持ってきた依頼書を渡すと、今見ちゃいますね、と返された。 紙のめくれる音がやけにしっかりと聞こえたような気がした。此処は隔たりのない来客スペースで、だから少し向こうには他の研究員もいるのが見えるのに。此処は基本的には静かな場所だけれど、そんな細かな音まで拾えるような環境ではないだろうに。 「僕はまあ、これでもええと…サイバー系で良いかあ…もちょっとだけかじっているので、そうですね、趣味の一つです。その趣味を大いに楽しむ過程で人の弱みを握ってしまうことが多々あるんですよね。流石に程度にも依りますけど、そんなすべて逐一宇宙大元帥に報告する訳にもいかないじゃないですか。元々そういうのが本旨な訳ではないですし…。ただ、だからと言って放っておく訳にもいかない時もある訳で。迷った結果、本人に勧告するだけにしている場合もあるんですよね。そうすると、こう、贈り物をする日には大抵かこつけて嘆願書が」 「いろいろ言いたいことはあるが、何やってんだ手前」 「お中元とかお歳暮とかも大変ですよ。最近だと母の日父の日も送られて来るし、クリスマスもホワイトデーもですし、お返しは沈黙になってしまうので何も出来ないですし」 読み終わりました、予定調整しておきます、と言って梶井が他の研究員を呼ぶ。依頼書がそのまま他人に渡っていった。アナログ信仰が悪いとは言いませんが、ああいった依頼書は別にそんな信仰要らないのではないんですかねえ…としみじみした呟きは、年末の研究所大掃除がまだ響いているのだろう。中原も手伝った(というか機密保持など諸々の観点から監視に出された)のでその気持ちは分からなくもない。 「ところで中也殿」 梶井が段ボールの山に目を向けた。同じようにして見遣るが、先程の話を聞いたあとだと名前も知らぬ誰かの悲嘆にしか見えなくなる。そもそも握られるような弱みをそんな場所に作る方が悪いとでも言えば良いのか。 「別に今日は嘆願書を貰う日ではないのだと流石の僕でも知っているので、冷蔵庫に洋菓子を作っておきました」 「ほう」 「簡単なものですが」 それは本当に言葉の通り簡単なものなのだろうか、とは思ったけれど、別に手間がかかっていてもいなくても、梶井が作ったものには変わりない。 梶井は決して余計なものは入れない。 余計なものを入れたら、実験がうまく行かないことを知っているから。 「それとも、―――」 何も返さなかったからか、梶井が言葉を重ねる。 「敵からも味方からもモテモテの中也殿には材料の買い出しからご一緒した方が良かったですか?」 何処か機嫌を窺うような言葉に、よくもまあ、思ってもいないことを、と笑って。 「来年はそれにしろ」 「買い出しから?」 「そうしたらオレも作れんだろ」 「ええ、僕が教えるんですか」 「手前、そういうの得意だろ」 「得意ではないですよ」 その先に、でも、と続くことを中原は知っている。 頑張ってみますよ、という言葉は楽しみですね、と同義であることは、ポケットから出された赤いペンで証明されていた。 *** 貴方を攫います 春だなァ、と間の抜けた声がする。これを間の抜けた、だなんて胸中でだって思えてしまうのはきっとこの世界にただ一人、梶井基次郎だけであろう―――と言えてしまえたら良かったのか。そういう訳ではないことを、梶井はもう知ってしまっている。その背中の大きさに不似合いなほど、彼(か)の人の影響力はひどく大きく、ああ、だからこそ梶井は彼の人をそう小さいと感じたことがないのだなあ、というようなことを思った。ぼんやり、と。春だからかもしれない。春眠暁を覚えず。暖かさに生命(せいめい)の危険を問われなくなったいきものは、うつらうつらと隙きを見せる。一瞬、世界がじらり、とざわついたような気がした。勿論気の所為であって、それは視界を横切った桜吹雪であったのだけれど。 ―――嗚呼、 妙な心地に陥る。ずっと最初からそうであったような、納得してしまったような。此処には論理など何もないのに、梶井はそういういきものであったかのように理解する。 「ねえ、中也殿」 回ってみせる、視線を定める。その先には彼の人、上司がいる。 「僕が死んだら桜の樹にしてくださいね」 * 桃色の湿った塊 ああ春の残骸 あれが春の残骸 / ロボもうふ *** 水平線を捕まえろ この道結構好きなんだよ、という中原に、梶井ははあ、と気のない返事を返した。でも、それで怒られることがないのはもう分かっている。だからそうやって返したのか、と問われると別に、そうではないのだけれど。正直なところ、この人がどの道をどういう理由で好きだろうと、あまり興味が抱けない、というのが事実ではあったのだし。そういう梶井のことを、この人はそれなりに理解して―――と言うと何か、違うような気がするが、巧い言葉も見つからないのでそのままにするとして―――いるのだと、思ってはいたし。 どうして、自分なのだろう。 そう、思うようになったのは最近のことだった。告白なんてものをされて、はあそうですか、と返して。あれが怒られなかったのが未だによく分からない、と思う。梶井の中にそういった遣り取りの学習はそう、なかったけれど、よく見に行くオペラの中にも恋情というものを扱ったものは多かったし、そんな返し方をされれば大抵の人間は怒るように出来ているんじゃあないのか、くらいには思っていた。共感、という分野が伸びるからこそ、こんにちまで大衆に愛される作品として息づいているところもあるだろうし。 「中也殿は」 「うん?」 ハンドルを握り直しながら、声をかけてしまって、それから何を言えば良いのか、と思う。どうして、なんていうのを今更言葉にするのは、何か自分の中で変化があったことを認めるようで嫌だった。 「道、がお好きなのですか」 「手前のその言い方だと、道自体に何か特別な思い入れがあるのか、って聞こえるが」 「そう聞きました」 「あー…そういう訳じゃあねえよ。見晴らしが良いとか、風が気持ちいいとか、そういうやつだ」 「道自体ではなく、副次的なものを好んでいるという話ですか」 「まあ、そういうことになるな」 走りやすいっていうのも勿論あるが、と言われて確かに、と思う。舗装がちゃんとなされているのか、さっきからタイヤが何かに引っかかるような心地もない。 「…そういえば」 「ンだよ」 「どうして今日は僕が運転を?」 「そういう気分だったから」 「どういう気分です、それ」 「………」 そう、いつもだったらこの席に座っているのはこの人であって、梶井はただ、助手席に座っているだけで良かったのに。別に運転がそこまで嫌な訳ではないが、梶井の目から見ても―――この人はそれなりに運転することを好んでいるのだと、それくらいは分かっていたから。 それを、何故。 今日は梶井に譲ったのだろう。 「偶には悪くねえだろ」 「まあ、そうでしょうが」 「俺にだって、手前にハンドル任せたいこともあるんだよ」 「はあ…」 そう言われて、ああ、と思い出す。どうして今まで、こんな簡単なことを問わなかったのだろう。最初に聞いて然るべきだったろうに。 「中也殿」 「何だ」 「何処へ向かえば良いんでしょう」 運転席に押し込まれて、はあ分かりました、と車を走らせていたが、特に行き先を聞いてはいない。まあ、これは仕事ではないから何処に向かったって一緒なのかもしれなかったが。 同じようなことを思ったのか、中原が此方を見て笑った。 「手前の好きな場所でいい」 「………はあ」 「行きたいところ…でも何でも良いが、今、手前の中に浮かんでる風景を俺にも見せてみろ」 「難しいことを仰る」 そう言いながらも、ふいにわきあがった風景がない訳でもなく。 とりあえずこれで良いか、とハンドルを握る手に力を込めた。 * 片腕に頽れそうな君を抱くよろこび夜明けまでの一マイル/永久記憶装置 / 松野志保 作業BGM「終焉:補遺」可不(有部遼) *** |