あなぐまさいた 

 消えそうな音がしていた。何もかもが吸い込まれてしまうような、そんな音。
「怖いのかい?」
乱歩のそんな強がりに、エドガーは乗るしかなくて。
「―――そんなことがあるものか」
「そうだね」
君は名探偵だものね、とその横顔を、額縁に入れて保存したいだなんて思ったのは、絶対に気の所為なのだ。

***

レリーフと飴玉 

 雪に一番最初に足跡をつけたい気持ちって分かる?と問われたところで、それが疑問の形をしているのだから、正しい返答を返すのも躊躇われる。
「なんで何も返さないの」
「正しい解えが欲しいだけならまず、聞いてきたりなどしないだろう」
「そういうもの?」
「違うのであるか?」
じゃあ何を返すつもりだったの、と呆れた声へと変遷するその間がなんだかひどく愛おしくて、思わず笑ったら頬をつねられた。

***

どうしようもないよ 

 手土産を持参するのはそうしろとせがまれたからではなく、エドガーがそうしたいからだった。なにせ名探偵というのは頭脳労働であるので、糖分なんかは瞬く間に消えていくものなのだ。勿論偏った食生活は良くはないと思うが、足りないものを補給することだって重要であるとエドガーは考える。食事は食事でちゃんと摂れば良い―――そう思いながら箱を冷蔵庫へとしまった。通りがかりににぎやかな香りをさせていた洋菓子店の箱である。中には色とりどりのケーキが鎮座しているが、開けるのは今ではなさそうだ。
 と、いうのも家主が眠っているからである。
 呼びつけておいて、とは思うが眠っている理由くらい推理出来るので文句は言わない。エドガーとて、名探偵である。これくらいのことは造作もない。名探偵が面倒な案件を抱えることは珍しくないことだし、エドガーも先日まで似たような状況だったのだ。合鍵だって持っているのだし、今更盛大に眠りこけられていたところで気にすることも出来ない、というのが実情だった。きぃ、と肩でカールが鳴いてみせる。慰めるようにも聞こえたその声に、静かにしていよう、とだけ呟いておいた。

 ん、とその喉が息を飲むように上下したのはそれから小一時間ほどあとのことだった。執筆途中の書付(ノート)を閉じる。
「………あれ、」
「おはよう、乱歩くん」
「おはよう。…寝るつもりはなかった、っていう言い訳は必要?」
「必要ではないが、言ってくれるなら受け取るのであるよ」
「君には蒐集(コレクション)の趣味でもあるの?」
「乱歩くんのくれた言葉が物体になるのであれば、それは蒐集しがいがあるのであろうなあ」
「そういうもの?」
軽く頷いてから手を伸ばす。指で目元に触れようとして、それからインクがついていることに気付いてやめた。気にしなくて良いのに、と言われるが気になってしまったものは仕方ない。
「何かついてる?」
「…分かっていて聞くのは趣味が悪いのではないか?」
「君が言う?」
僕ら似たもの同士でしょ、と言われてしまえばまあ、否定はしない。完全に似ている訳ではないが(そもそも同じ人間など世界には存在しない)、似通ったところがなければ出逢わなかっただろう。
「悪夢でも見たような顔であるよ」
 エドガーのその言葉に、乱歩は静かに首を振った。
「悪夢じゃあ、なかったよ」
「なのにそんな顔をするのであるか」
暗く、目元に影を落とすような。起き抜けにそんな表情をさせるもののことを、悪夢と呼ぶのではないだろうか。少なくともエドガーはそう思う。だと言うのに否定するということは、乱歩自身がどうしたってそうは思いたくない、ということなのだろう。一体、何を見たのか。
 指先のインクを拭き取って、今度はちゃんと触れる。触れたところで影が払拭される訳でもないと知りながら、こういうことをしてしまう。もしかしたら無駄かもしれない行為、何にもなれないかもしれない仕草、それでもエドガーは、現実ではないものに心を砕いて欲しくはなかった。目の前にエドガーがいるのだから、ちゃんと、見て欲しかった。
「君と、」
乱歩の唇がひび割れたようにざわめく。荒れている訳ではないけれど、水分が足りていないのだろう。紅茶ではなくて水の方が良いかもしれない、と思う。冷蔵庫には檸檬が入っていたから、薄く切って浮かべたらきっとすっきりする。
「出逢った時の夢を見ていた」
「米国での?」
「うん」
 首がこっくり、と肯定を示して、エドガーもまた、同じように記憶を手繰る。冷たい部屋、殺人の痕跡は今も尚この脳の中に残っている。血も何もかも綺麗に片付けられていたのに、蘇るように沸き立つように、その残り香が主張していた、部屋。でも、それは乱歩にはよく見る光景のはずだった。エドガーがそうであるように。ならば、記憶そのものが原因ではないのだろう。思い出して、何か考えることをして、それがこの表情の原因なのだろう、ということまでは容易に推測出来るが、その先は少し、困ってしまう。この先はやろうと思えば出来ないことはないが、それは推測というより想像だ。
「あの時―――」
だから、乱歩の解えを待つことにした。人差し指が視界の下で蠢いているのは落ち着かないだろうに、乱歩は振り払わないでいてくれる。
「君がどんな表情であの部屋を去ったのか、僕は知らない」
 ぱちり、と。
 瞬きの音が聞こえた気がした。勿論自分の、である。
「知らないんだよ、」
知らないんだ、と乱歩は繰り返した。それは己に言い聞かせているようでもあった。それもそうだろう、別に、乱歩は本当に気にしている訳ではないのだ。でも、気にしたいと思っている…願っている。エドガーも乱歩も、此処に至るまでに放り投げたものを、乱歩は丁寧に拾い上げようとしてくれている。…他でもない、エドガーのために。
「…推理は出来るのに?」
「推理が出来ることと知っていることは違うだろう」
「まあ、そうであるな」
屁理屈だ、と思った。あの、名探偵が! どうしようもない屁理屈を言っている。事件解決のためでもなく、況してや組織を守るためでもなく、ただ、一人の人間のためだけに! この優越を、一体誰に伝えれば良いのだろう。誰かに伝えたいのに、誰にも知って欲しくない。磁力のように反発する感情が胸の中を駆け抜ける。
「あの時、我輩がどんな顔をしていたのか、それは我輩も分からないことであるよ。だって、完全なる敗北を喫したあとに、人間は自分の顔を鏡でなんて確認しないであろう?」
「どうかな。君なら確認したかもしれない」
「流石の我輩でもそんな度量はないのであるよ」
「そう。………そう、なんだ」
「見込み違いであったか?」
「ううん。…知ってる」
 知っているのに問うたのだな、というのはもう、言葉にはしなかった。一度演れば充分だ。乱歩くん、と呼ぶ。うん、と拙い返事がある。
「当時我輩はただ、乱歩くんに敗けて悔しかった。ただそれだけしか考えられなくて…もしかしたら、絶望したような顔をしていたかもしれない。我輩は敗けることなんて一切考えていなかったのだから、それは当然のことであろう」
「…うん」
「でも、今振り返ってみると、決してそれだけではないと思うのである」
 名探偵が、二人いて。
 其処で推理勝負がおこなわれたのであれば、それは当然、どちらかが敗けるということだ。そんなことは確認するまでもない。あの時は、エドガーが敗けた。それは事実だ。自身の力不足を他人に押し付けるほど、エドガーは落ちぶれてはいない。
 乱歩くん、と再び呼ぶ。その声がどういうものになっているか、エドガーには分からない。けれど、やわらかいものであれば良いと思う。
「我輩は、朝が来たのだと思ったのであるよ」
これは、やわらかい気持ちで、出した解えだから。
 指が、目元を離れた。ただの反動のようなものだったのだけれど、逃がすものか、とでも言いたげに、はし、と掴まれる。
「朝、なんて」
あたたかい指先だった。未だ眠気が残っているのかもしれない。
「いつだって来るんだよ」
「知っているのである」
「それでも君は嘘を言うの」
「嘘でなくて願望であるよ」
比喩も、何もかも。分かっているのに乱歩はそんなことを言う。恐らくそれはエドガーに対してのみおこなわれる仕草だ。
 この、世界で。
 エドガーだけが理解出来る我が儘だ。
「乱歩くん」
掴まれていたままの指を解いて、絡ませ直す。何にもならなくても、屹度此方の方が良い。
「名探偵が定義を間違えてはいけないのである」
そうであろう? と首を傾げてみせれば、やっと、その肩から力が抜けた。
「…おなかすいた」
「そうであるな」
「君も?」
「ちょうど三時であるし」
「もう三時なんだ」
甘いものが食べたいよね、と乱歩は言った。だからエドガーは、笑って冷蔵庫を指差した。



image song「メランコリーキッチン」米津玄師

***

深淵を覗く時 

 恋愛という概念を理解していなかった訳ではない、だって殺人が起こる時それは愛憎入り乱れるものであることが多く、自然とそのうちの一つである恋愛というものに関してもエドガーはそれなりに理解をしている、はずだった。そうだ、理論だった。確かにエドガーはそれを習得してはいるが、自身において振らせてみせたことはないのだ。そもそもそれは必要のないものだった、名探偵に必要なのは謎と、その謎を解くための頭脳。それだけあればエドガーは生きていけて、何も必要がなかった。
 これは机上の空論だとかそういうものと同じ、話。しかしながら机上のものであろうとそれがエドガーのものであるということに変わりはなく、名探偵をするのに困ることもない。なぜなら必要のないものなのだから、理解だけしていれば良かったのだ。その境界線(ボーダーライン)を捨てて諸人と同じように堕ちていくなどと、甚だ可笑しな話だ。
―――そう、
だからこれはただ正気ではないだけなのだ。
「乱歩くん」
エドガーは呼ぶ、誰よりも自分を越えていくその人の名前を。
 「吾輩が君に恋をするなんて、あり得ないのである。そうであろう?」



長く耐え難い正気の合間に、私は常軌を逸した。
エドガー・アラン・ポー
***

二兎を追うためには各自一兎ずつ配分にしたら良い! / ふたりならなんだってできるよ。


いきものの定義 

 彼にかかればこの世界の乱雑なところはすうっと音も立てずに勝手に整理整頓されるのだろうと思うことがある。まあ、当然事象らには自意識はないのであって、そんなことが起こり得るはずもないのだけれど。いつものように珈琲を啜りながら朝の雑踏を眺めている。異能者として生きてきたことよりも名探偵として生きてきた時間の方が長いからか、この街がどうにも異能者について他の街よりかは若干の程度ではあるが暮らしやすくあることについて、エドガーが何を思うことも出来ない。それを望む者はいるのだろう、と思うことは当然するが―――推理ですらない思考の産物であったが―――それが自身の恩恵へと降って来ることはどうにもなさそうだった。否、異能者であることはこの世界が変わらない限り当然の事象としてつきまとう事柄なのではあったが、幸か不幸かエドガーには異能を制御出来なくなったことがなかったためにやはり、そういった弱者に寄り添うような発想が出来ないのだった。以前そういう話を乱歩とした際には流石に少しくらい興味を持った方が良いんじゃないの、と言われてしまったが。乱歩に言われるのはどうなのだろう、とは思ったが彼は彼で探偵社の背負っているので言うまでもなく弱き者に手を差し伸べたことはあるだろうて、特に何も口にはしなかったのは別の話だ。その話から逸れて結局エドガーの出した答えが該当団体への寄付というものであって、これだから、という顔をされたのは記憶に新しい。いや、話はずっと逸れているのだが。
 乱歩の手にかかれば、この世界の乱雑なところはすべて勝手に自分から頭を垂れるようにして整理整頓されるのではないか、と思うことはある。それは敗北感であったり、そういうものから生まれた感傷ではないはずだった。ぼた、と万年筆の先からインクがじみていく。
「あっ………」
慌てて横にあった紙束で抑えると、珈琲のカップがぐらついて。カールが抑えてくれなかったら屹度ひっくり返っていたことだろう。はあ、とため息を吐く。カールがきゅう、と叱るように鳴いて、それに応えるようにすまないのである、と呟く。
―――この世界の、
乱雑なところを憎んだことはない。名探偵というのは多かれ少なかれ、そういう乱雑さを喰って生きているところのある生き物なのだ。今更そんなことを言う心算はない。が、どうにもその乱雑さが表層に出てくることが多くなれば名探偵の仕事も増える訳で。それを喜んで良いのかどうかも分からないのに、表層に出てくるものが多くなかったからと言って謎の質が薄まる訳でもなく、仕事は増えるからまあ、喰い扶持に困ることはなかったが。…口座の残高のことを思えば利子だけで一生食っていけるとは思うが、そういう話ではなく、名探偵としての生命維持であるとか、そういう意味の喰い扶持なのかもしれなかった。改めて言葉にしてみるととんと歓迎されるべき生き物ではないのだろう、ということくらいは分かる。
「はあ、」
そう思って机を拭き終わって、店員に大丈夫であることを伝えて下がってもらって。
 息を吐いて原稿用紙をぐしゃぐしゃにしようとしたところでずい、と視界がいっぱいになった。
「うわあ!?」
「えっ、ひどくない!? それが仮にも僕の顔を見て発する科白かい!?」
「ら、乱歩くん!?」
「そうだよ! 君のよく知る名探偵、江戸川乱歩さ!」
ええと、と息をなんとか吸う。そして吐く。落ち着いた、ような錯覚を自らに与えて珈琲を啜る。先程まで味がしていたはずなのにもう何の味も分からなかった。珈琲を飲んでいたはずなのだけれど。
「カール、元気だったかい?」
飼い主を差し置いて乱歩と触れ合うカールに、一体どんな感情を抱くのが正解なのか、エドガーにはまだ分からないでいるのに。
「何、お茶でもしてたの」
「…人間観察である」
「ふうん。良いもの書けた?」
「推理すれば分かることを聞かないで欲しいのであるが!?」
先程丸めようとした原稿用紙が奪われていく。エドガーの悲鳴に周りの客が振り返って、それからなんでもないです! と言う羽目になった。
「乱歩くん」
「なんだ、君、こういうのも書けるんだ」
「べ、つに…! 吾輩が何を書いたって乱歩くんには関係がないであろう!?」
「関係あるよ。僕、君の新作を待っているんだし」
「へ、」
「これの続きって書かないの?」
「そ、れは………」
 押し黙る。
 名前も知らぬ人々の後頭部をぼんやり見つめながら書き連ねた散文、詩の方が近かったかもしれない。雑じりものしかないその海が突如ざあ、と割れて、人々は天を見上げるようにして道を造る。その先にはたった一人の燿くものが立っている。
「ただの、手慰みであるから」
「そっかあ」
残念、と返してもらった原稿用紙を、もう丸める気力は残っていなかった。
 ペン先を押しつけて出来たインク染みが、やけに目立って見えて。
「ねえ、君」
静かに、乱歩が呟く。
「誰かに運命を決められるなんて大層滑稽なことだとは思わないかい」
目を、見開いたような気がした。自分の行動であろうのにそれをエドガーが正しく感知することはない。自分の行動も仕草も本来であれば誰かが観測して完成するものだから、それが正しく感知されるのであればエドガー自身以外であろう。
「…乱歩くんでも、そういうことを考えるのであるか」
「君の手慰みを見ていたら唐突にそんなことを思ってね」
唐突でもなんでもないことは推理するまでもない、これは茶番だ、何もかも分かっているのに。言葉を配置しては逃げ道を塞いでいくだけの盤上遊戯(ゲエム)
「………誰もが、」
 勝ちも、敗けも。
「そういった大いなる力に抗えるかと言うと、そういう訳ではないのであろう」
「そうかな?」
「少なくとも吾輩は…名探偵が好きなことをしていて良いとは思えないのである」
最初から決まっているようなものなのに。
 名探偵である限り、その自覚をしてしまったら最後、謎からは逃げられない。謎は世界の何処にでもあってそれは整理されていない乱雑さで人間の作ったそれでもあって、表層に出ては名前をつけられるのを待っているような、そういうもので。
 エドガーはそれに名前をつけて回りたかった。
 だから、この遣り取りにくらいは勝った方が良かっただろうに。言葉が怯む。盤面が霞む。天秤が揺れてはその向こうで乱歩が笑っている。
―――選ぶ方は分かっている、
とでも言うように。
「僕はこうして好きなことをしているけれど?」
君は、違うの?
 零距離。
 そんな間合いで問われてしまえばもう矜持も何もかもが飛び跳ねて掻っ攫われて何処にも隠れる場所など失くなって! まるでそれをずっと望んでいたかのような心地になる、心象把握、それを行われている訳でもないのに、追い詰められている訳ではないのに! 手を伸ばされてただてのひら同士を合わせただけでこんなにも世界が変わるなんてこと! 物語の中以外で起こり得るはずもないと、最初から見向きもしなかったけれど、現実でだって雨は上がるし空は虹だって架かるのだ!
「―――乱歩くんは、」
「うん」
「良いのであるか」
「何が」
「吾輩で」
「まったく、そんな莫迦なことをまだ言うのかい!? 君はもっと僕に関しては自信満々だったと記憶しているのだけれど!?」
「そりゃあ…君のことは誰より知っていると自負はあるのであるが………あっ、いや、あの探偵社の社長殿には到底敵いはしないであろうが、そういうことではなくて、君の推理力についていける唯一の人間という自負くらいは当然、という話であって…その…福沢殿をどうこう言う心算は決してなく…」
「ねえ、今社長の話必要だった?」
「ひ、必要であろう!?」
この世界には乱雑なところがあって、それは彼やエドガーの一吠えで整理整頓されるようなものではなく、頭だけが出ているものを見つけては名前をつけて整頓して、そんな細かなことをしてやらねばならないひどく、手のかかるものだったけれど。
―――エドガーは謎を、愛しているから。
 そして、聞くまでもなく乱歩も。
「…乱歩くん」
「なに」
「人の流れが変わったのである」
「じゃあ屹度何か事件だね!」
もうお会計は済ませているんだろう!? と乱歩が立ち上がる。この手は当然のように彼に取られている。
 それを振り払うこともせずに頷いて走り出す。それのどれだけ奇跡的なことか、今は考えないでただ目の前に呼ばれるように出で湧いた謎に全力になろう。
 未だ乱歩の頭の上にいたカールが必死に帽子に縋っているのを見て、もう少し我慢してくれ、と心の中でだけ謝った。



物差しによればお前は僕の手をとるべきじゃない くだらないよな / 卵塔

***

午前十時に廻る海岸 

 免許持ってるならもっと早く言ってくれれれば良かったのに! と乱歩は言うけれど、そもそもエドガーの持っている免許は当然米国で取得したものであって、そのまま日本の法律に適応されるかと言うと―――まあされるようにはしてあるのではあるが―――規定的には問題はなくともまずもって車線が逆であったりするのであって、そうやって考えると日常生活においてはただの身分証明証として考えた方が良いのではないか、というのがエドガーの見解だった。だから黙っていたのだけれど、非常時において出来ることは殆どすべて白状してしまったようなものだし、こうなることは分かりきっていたようには思うが。
「だからと言って…まだ早朝であるよ、乱歩くん」
「君にとっては深夜なんじゃないの?」
また寝ないで書いてたんでしょ? と問われるが、そもそもそれは推理であるので、エドガーには頷く以外の選択肢はないのだから。
 というより、そんな推理が出来ているにも関わらず、当然のように助手席に乗り込む乱歩の気の方がしれなかったが。エドガーはこれでもそれなりに自分の身を大事に思っているところがあるので、乱歩の自分を囮にしたような手法のことをあまり認められはしなかった。まあ、それが自分との推理対決で使われることがないなら、これからも何を言うこともないのだろうが。
「それで、」
くあ、と欠伸を噛み殺しながら問う。
「もうすぐ着くのであるが、海に何の用なのであるか」
「えっ、推理してよ」
「………乱歩くんの鞄から硝子の音がする。大きさは恐らく高さ十二センチほど、直径は…七センチほどであろうか。そういうものを持っているということは、何か集めに来た、というところであろう。浜の砂に特徴があるようなことは聞かないし、此処へ来るまでにもそういった看板は見なかったことから…目的物は貝殻か漂着物であろう」
「まあ及第点かな。与謝野さんから聞いたんだ! 此処ではきれいなシーグラスが取れるって」
「ああ…海流的には確かにそうであろうな」
「でしょ! だから来たの」
「我輩の運転で?」
「僕じゃあ運転出来ないからね」
「いや、乱歩くんだって出来るであろう!? 我輩知ってるのであるよ!?」
「何の話かなあ〜」
どうやらすっとぼけるつもりらしい。まあ、乱歩がそうしたいのであればそれでも良かったが。
「それで、乱歩くんはシーグラスを集めてどうするつもりなのであるか」
「聞くくらいなら推理してよ」
「………推理するのが恥ずかしい時もあるであろう」
「じゃあ、多分正解だよ」
 駐車場を見つける。冬だからか、あまり人は居なかった。
「君の―――あの家の、大きな窓の、下の、一番陽が当たるところに」
車が停まったのを待たずにシートベルトをさっさと外して乱歩が飛び出す。危ないのに、と呟いたがああやって暴れまわったあとだ、これくらいの動作はもう見慣れるべきなのかもしれなかった。
「何かきらきらしたものがあれば良いなって思っただけだよ!」
だから今日は気合い入れて集めてね!! と叫んだ乱歩に、エドガーは静かに笑ってから了解である、と頷いた。



お題箱スロット

***

これは誰にも言わないこと 

 その日の物語は余りに陳腐なものだった。謎謎小説でもなければ悪意を張り巡らせた怪奇小説ですらない。だだっ広い空間に乱歩とその作者はたった二人、向き合って坐っていた。
「今日の話は、」
作者が何か言う前に乱歩は口を開く、それが名探偵の作法だから。
「屹度この上なく詰まらないのだろうね」
 そうかもしれない、と作者は笑った。自分の作品を貶されても笑っていられるようになったのは作者の若しかしたら成長なんてものなのかもしれなかったけれども乱歩にはそれは関係ない。乱歩には彼の次の言葉が分かっている。だから、同じ言葉を重ねてやる。
 ―――一度君に、そう言って貰いたかったんだ。

***

お好きに奏でてください 

*黒猫が中から操作可能という都合の良い前提

 何か音楽が聞きたい、なんて。我が愛しの好敵手(ライバル)殿は難しいことを言う。これは我輩の物語の中であるので、それを実現させてやるのは可能である。我輩の好きなものを好きになってくれたら、なんて思いながら古いレコードを脇役が出す描写を書き足す。
 と、ぽんっとレコードが出てきた。いそいそとかけようとすると、そうじゃないの、と好敵手殿は声を濁らせた。
「君、さあ」
「なんだい?」
「どんな楽器を演奏出来る?」
「………ハイ?」
今、彼は何と言っただろうか。どんな楽器を、演奏、出来る?まるでそれは我輩に何か演奏してみろと言おうとする前フリのようではないか―――と、思って首を振る。ようではないか、ではなく、そうなのだろう。この好敵手殿は未だ我輩の力量を測っている最中―――であったらどんなに良かったか。
「ねえ、」
思考は遮られる。
「君の自己満足にもならない考え事はいいからさ、僕の質問に答えてくれない?まあ別に、答えなんかきなかくても分かるけど」
じゃあ何故、とは聞かない。聞けない。探偵としての矜持(プライド)に反する。
「…我輩は、………」
弾ける楽器などない。ならば。
「歌、くらいなら」
合格、と名探偵殿は笑った。
 それが何より嬉しかった。



ask

***

十四の分岐点 

 君もまた可愛らしい質問をするものだね、と子供のような声を張り上げて莫迦莫迦しそうに君は言った。
「まるで人間みたいだ!」
一体人のことをなんだと思っていたのだろう、とその旨を伝えると変人、と返って来る。それは人と付いている故に人間という括りであるのではないかと言えば、君は本当に重箱の隅をつつくのが好きだね、と言われた。
 名探偵ではない彼は、名探偵をしていない時の彼は、とてもとても可愛らしい。そのまま子供のようで、加減を知らないまま、そして恐らくその意味を知らないままに、人間らしい感情や欲求を伝えてくる。
これはきっと、唯一ではないのだろうが、それでも彼のこういった一面を見られる限られた一握りに入れたということは、この上なく幸福なことなのである。
「そうだねえ」
君はぐてん、とその細い首が折れるかと思うほど勢いよく背もたれから逆さになってこちらを見遣る。
「君=B…って言ったら君は喜ぶのかな」
「さてね、どうだろうか」
「だよね。僕は君に特に早く出会いたかったとは思わないけど、もし、君が、もっと早く、この国に来ていたら…」
語尾が消えていく。
 どうして、彼が泥水を啜るような生活を強いられるようなことがなかったのか、聞いたことはなかった。もしかしたらこちらに判断材料を与えていないだけで、彼自身も泥水を啜ったことがあるのかもしれない。ただの探偵は名探偵に敵わない。それが嫌というほど分かっているのに何度でも挑戦するのは、許されたからか。
「………僕は、今出会えて良かったという人たち、全員に出会えてなかっただろうな」
もしかしたら、死んでいたかも。
 そう続ける様がやはりとても幼い子供のようで、何となく手を伸ばした。
 ら、その逆の手をカールに噛まれてぎゃっと悲鳴を上げた。



ask

***

二階から目薬 

 人間、瞬きが出来なければ何も見えはしない。そんな当たり前のことが分かったのは君に出会ってからで、それまでの常識なんてすべてをひっくりかえすくらいの勢いで世界が目まぐるしく変わっていくのを感じていた。
「君は莫迦ではないのに莫迦なんだね」
 自分より年下の人間にそんなふうに言われるのを許すのは、ただ一つ、君が名探偵であるから、それに他ならないのだ。



きっときみがぼくのまぶたであったのだ 海岸線に降りだす小雨 / 正岡豊

***


20221202